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Occasional Thoughts Around Books

by MORI Hiroshi
Aug. 1999


数学的ボスキャラとの再会


 世の中には、算数が嫌いな人や、数学ができない人が沢山いる。どうして多いのか。

 きいてみると、「私は数字を見ると蕁麻疹が出る」とか、「数学で挫折した」などとおっしゃる。なんだか自慢している口調にも聞こえる。「できない」と思い込もうとしているようだ。つまり「数学なんて人間のすることじゃない」といったニュアンスが感じられる。その象徴が「文系」という魔術的な言葉で、この呪文で結界を張り、その中に逃げ込もうとする姿が見えるのだ。

 さて、算数や数学をするのは、人間だけであって、地球上の他の動物はしない。自然を見て美しいと感じたり、絵を描いてみよう、歌ってみよう、詩を詠んでみよう、などと思ったりするのと同様に、数学への志向もまた、とても人間的な動機に根差している。道理を究め、無駄なものを取り除いた思考の「洗練」過程には、芸術的な「美」の追及あるいは、詩的な感動を求める「情」への憧れに極めて近いシステムが存在するだろう。

 などと、御託を並べたところで、しかたがないのだ。第一このように、餃子の皮を作るかのごとく力づくで理屈をこねること自体が、「数学的な美しさ」を放棄しているといっても過言ではない。数学には、少年・少女だけが知っていた「透明な思慕」があるのみ。どうも香水とか整髪料といった大人のいやらしい匂いが似つかわしくない。

 だから、たまに熱いシャワーを浴びて、純真無垢になって数学に接しよう。シャワーでは洗えない「心」が洗浄される。毎朝、数学することを「アサスウ」といい、わりと気持ちが良かったりする。一日中、心が超さらさらだ。近い将来流行るかもしれない(確率は限りなくゼロに近いが)。変な宗教に傾倒するよりは、なんぼかましだ(比較が最低!)。

 どうして算数が嫌いになるのか、少し考えてみよう。幼稚園や小学校では、運動会や体育で「かけっこ」をする。競争である。すると、足の遅い子は「自分は人よりも足が遅い」と知って、走るのが嫌になる。算数だってこれと同じだ。走ることの楽しさ、考えることの楽しさは、「自分はこれが嫌いなのだ」と思い込むことで、失われる。

 ゆっくり走ったって良い。ゆっくり考えたって良いのである。ジョギングのように、自分に適した快適な速度があるわけで、もともと目的もなく、何の役にも立たない算数なのだから、時間制限など気にせず、好きなだけ考えたら良いではないか。

 もちろん、そういった誰でもが考えられる領域の「算数」ではなく、さらにもっと高いところにある「憧れの数学」も素敵だ。

 「高校・大学のときの数学の授業は頭が痛かった。宿題は友人に写させてもらったし、テストはカンニングでなんとか単位だけは拾った。しかし今になって、自分が恐れていた実体は何だったのか振り返ってみたい」なんていう謙虚な探求心(あるいは古傷)が、もしも万が一貴方にあるのなら、この「数学的経験」をお読みになると良いだろう。

 凄まじい一冊だ。

 ここに見出されるのは、途中で諦めてしまったゲームのボスキャラたちの華麗なる大行進。かつて垣間見るだけで撃破されてしまった貴方は、今こそ彼らにゆっくりと再会できるだろう。もう彼らは貴方を襲ったりしないからご安心を・・。

 突然だが、もう一冊の「百頭女」も是非手にとってもらいたい。これは、数学にまったく関係のない本である。ところが、ここでも、同じボスキャラたちのおぞましくも不思議に魅力的な姿が見られる。貴方は、ついついミサイルを打ち込みたくなるだろうか。

 同じだ。数学もコラージュも同じなのだ。

 貴方は、「わからない!」と叫んで、徹底的に打ちのめされるに違いない。  それで、良い。それが、正解である。

「わからない!」なんて叫ぶのは人間だけ。これほど知的な鳴き声は、他にない。



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