活動の歩み:画像でたどる黒龍江・牡丹江流域の文化的景観

「古代日本と渤海中期王権の交流と流域遺産に関する歴史環境学的研究」

藤井 一二

News Letter No.1

2010.08.01

 

[筆者撮影]

東アジアの交流と文化遺産

古代日本の国際外交は、対岸アジア諸国(特に唐・新羅・渤海等)との交流回廊を通じて「東アジア大交流時代」の一翼を担いました。本研究は7~10世紀、中国東北・朝鮮半島北部・ロシア沿海州を中心に栄えた渤海国と日本の交流について、近年新発見の渤海王城遺産・王族墓(墓誌・壁画)、北陸道の津・駅遺跡資料を駆使し、(1)渤海使・遣渤海使の発着と渤海王城の関連、(2)北陸の拠点港と渤海王城を結ぶ行路、(3)平城京・北陸地域発見の渤海関係資料と渤海遺跡発見の和同開珎などをめぐる交流実態、(4)渤海壁画(貞孝公主墓・三陵2号墓)と正倉院絵画の関連比較、(5)対渤海交渉に占める北陸道「加賀郡安置所」(金沢港周縁遺跡群)の構造と役割を歴史的に解明します。

私は、かつて『和同開珎』(中公新書、1991年)を執筆した際、渤海国上京龍泉府址発見の和同開珎銭をめぐって日本・渤海国交渉の緊密性を論究して以来、海と陸が結ぶ「渤海路」「日本道」が経由した王城=上京龍泉府(寧安市)・中京顕徳府(和龍市)・東京龍原府(琿春市)と渤海世紀の歴史文化遺産に関心を寄せてきました。

近年、「古代北陸道地域の交通・社会システムに関する歴史的・考古学的研究」(平成16・17年度科研費基盤C)ならびに「北東アジアと北陸地域の経済・文化交流に関する学術資料の集積と学際的研究」(平成17年~20年度文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業[北東アジア交流研究プロジェクト])を通じて、古代北陸道の津・駅・沿海村落が日本海地域の交通ネットワーク形成に重要な役割を果たした内実を北陸在地の視点から描出しましたが、これらの成果を基礎に当該地域と渤海国の双方向の交流関係や歴史的環境を実態的に解明することを意図し、以下の目標をめざします。

  1. 遣渤海使・渤海使の往来と発着拠点となる渤海王城の関係を、王城(東牟山城・中京・上京・東京城など)の段階ごとに整理し、交流実態を把握します。
  2. 渤海王城址出土の壁画資料・文物と日本の正倉院宝物等との比較によって、「北の交流回廊」が果たした歴史的役割を明らかにします。
  3. 日本から渤海へ派遣された使節団(遣渤海使)について、「送客使」と「単独使」の場合に区別し、各時期の日本と渤海王権の関わりを東アジア政治情勢の中で描出します。
  4. 近著『天平の渤海交流』をふまえ、日本と渤海を結ぶ回廊が「もう一つの遣唐使」として機能した側面を明らかにし、日本ならびに北陸地域が果たした歴史的環境を解析します。
  5. 中国の田広林(遼寧師範大学)、王禹浪(中国大連大学)、魏国忠(黒龍江省社会科学院)、都永浩(黒龍江省民族委員会)諸氏との協同研究を進め、図書『渤海交流の世紀と文化遺産』(仮題)の発刊を目指します。

News Letter No.2

2010.10.01

7世紀から10世紀に至る古代東北アジアは、唐・渤海・高句麗・新羅などと日本との間で、知識・技術・情報・文物が伝播し、現在の中国東北地区と日本列島沿海部に当時の文化的証跡が数多く残存する。往時の歴史的遺産は、現代における学術資料の豊かな集積空間として、東北アジアの「交流」テーマは、歴史・経済・文化を含め旅遊(観光)分野とも緊密に連動する。

平成22年度科研費による本研究は、中国東北地域にみる歴史・文化遺産のうち日本と東北アジアにおいて「地域間交流」「異文化連接」を具現するものを「交流遺産」と位置づけ、文化遺産と旅遊資源を資料学的に把握することを目標としている。

中国東北地域は、1932年から1945年までの旧「満州国」域と重なり、本年度のフィールドにあげる吉林省延辺朝鮮族自治州もその中に含まれる。当地域には日本の奈良・平安時代に、中国の唐国、朝鮮半島の新羅国と活発な外交を展開した渤海国の歴史文化遺産が数多く分布しており、それらは東北辺疆地区の豊かな文化資源として地域振興に結びつく期待も大きく、ここ半世紀に蓄積された文化遺産情報の集成を急務としている。過去、中国東北地区に集中する渤海遺産の調査・研究は、1930年代の鳥山喜一氏らによる渤海遺跡調査(『渤海史上の諸問題』風間書房)に始まり、田村晃一編『東アジアの都城と渤海』東洋文庫・2005年、中国社会科学院考古研究所編『六頂山与渤海鎮』1997年、朱国忱『渤海遺跡』(文物出版社・2002年)や吉林省文物考古研究所等編『西古城―渤海国中京顕徳府址―』2007年、魏存成『渤海考古』(文物出版社・2008年)等の公刊により、延辺地区の文化遺産・文物の分布と概要を知る資料的環境が整ってきている。

本年8月下旬、協力研究者の王禹浪大連大学教授とともに、延吉市の延辺自治州図書館で金勇進館長、安美蘭・崔哲両副館長から東北亜蔵書・資料の説明を受け、延辺大学では社会科学処長・中外文化交流史学会会長の朴灿奎教授、渤海史研究所の李東輝副教授から、公開に向けて整備の進む渤海文化遺産の状況と最新成果を収録する『渤海史研究』10・11輯の提供を受けた。次いでハルビン市の黒龍江省図書館では、高文華館長の案内で古籍閲覧室等の収集資料を実見し、地方文献室で同じく来館中の北海道大学・小樽商科大学の「満州国」研究チームと行き合った。一方、9月中旬に遼寧師範大学歴史文化旅遊学院で開催された「中日東北アジア地域歴史・文化学術交流会」セミナーでは、藤井報告「遣唐使と渤海使―正倉院の世紀―」を含む研究交流が実現し、学術研究会の開催に尽力された同大学の李慶偉副学長・田広林学院長・謝春山副院長との間で共同研究の課題と今後のスケジュールについて協議した。(上掲写真:遼寧師範大学歴史文化旅遊学院会場前)

News Letter No.3

2010.12.20

中国延辺大学国際会議場前

日本海沿岸の中央部に位置する日本の北陸地域は、7世紀、「高志国」「越国」(KOSHI)の地名を付けられた。北東アジアの歴史的世界を舞台にして、対外的交流、地域間の交通・民族の移動・地域支配の具体的な関連を考察する作業は、多くの課題と展望を含む。とくに北陸地域は、対岸アジアから頻繁に往来した渤海使に対する人的、物的な対処を必要としたので、宮都と現地の間は、人・物資の移動や情報の伝達を手段として緊密な関係が必要であった。

7世紀末、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて成立した渤海は、全盛期には、現在の中国の吉林省・黒龍江省・遼寧省・ロシア沿海地方・朝鮮半島北部を領域に含んだとされる。渤海国は、建国(698年)から滅亡(926)までの約230年間に、周辺国と活発な交渉をもち、唐国へ100回余、日本国へ33回余の使節を送った。一方、日本は渤海へ計13回の使節を送った。一般に渤海使が日本に到着すると、迎えの使者が現地へ行き、一行は新年の正月までに都に入る。日本に到着後、直ちに平城京へ向けて移動することはなく北陸の港の周辺に滞在する場合が一般的であった。近年、金沢港の周辺で多数の古代の大型建物群と、「津」「津司」「天平2年(730)」の文字を墨書した土器が発見された。この遺跡は渤海・日本間の主要な交流拠点であり、同時に渤海客が滞在した迎賓館を含む遺跡として注目される。渤海使は、日本の天皇に王の書簡・渤海の土産(みやげ)を与えた。

日本では、天皇主催の多くの行事を体験して、答礼(感謝)のため渤海の音楽を演奏して帰国した。渤海の王城は、黒龍江省寧安市渤海鎮にある上京龍泉府 (DONGJINGCHENG)が著名であるが、実際には、何度も王城の移転が行われた過程を注意する必要がある。今後の課題は、
1、渤海早期の王城・王族墓・古城址などに関する研究資料(参考文献・遺跡分布)を集成する、
2、渤海早期における王城の変遷状況に関する学説を整理し各王城と渤海使・遣渤海使の交流を検討する、
3、渤海使・遣渤海使の出発・到着において、主要な交流拠点である越前国加賀郡「津」(金沢港)と周辺地域の歴史的役割を明らかにすることである。

News Letter No.4

2011.04.25

渤海王国 上京龍泉府址(第2宮殿横)
「八宝瑠璃井」(黒龍江省寧安市渤海鎮)

[筆者撮影]

平成22年度は、中国東北を中心に栄えた渤海国と日本の交流回廊に関する歴史的環境を考証するため、研究目的に基づき、現地調査と資料収集を進めました。現地調査のうち、海外は中国吉林省延辺自治州地区(延吉市・和龍市)の渤海遺産、国内は渤海客使の来着・経由地となった北陸・山陰・北九州(大宰府・福岡)各地の古代遺跡や博物館等を巡見し、資料の調査・収集を図りました。

このうち中国延辺地区では、延吉市の延辺自治州博物館を始めとして、龍井市を経て渤海早期王城=中京顕徳府址の位置する和龍市西古城周辺にかけて巡見することができ、海蘭河や龍頭山を中心とする地勢・環境の理解に資するところが大きかったと思います。また、渤海国第3代王大欽茂の第4王女貞孝公主の墓がある龍頭山を山麓から望見できたことは、初年度の成果となりました。龍頭山は、宮城址の確認されている中京顕徳府址から地理的に近距離にあって、数多くの王族墓を造築できる長大な山脈であることが確認でき、近くを流れる海蘭(かいらん)河は、布尓哈通(ぷるはとん)河・図們江(ともんこう)を経て日本海に通じており、中京顕徳府の交通・物流環境に重要な役割を担ったことが推察できます。(中国東北の交流機関―牡丹江師範学院と黒龍江省図書館)

牡丹江師範学院
黒龍江省図書館

News Letter No.6

2011.08.08

渤海上京城遺址への玄関口(黒龍江省寧安市渤海鎮)

[筆者撮影]

2011年、7月13日を中心に黒龍江省最北の鶴崗市で第二回黒龍江流域文明鶴崗論壇学術報告会が開催された。鶴崗市はロシアとの境界を流れる黒龍江の畔に位置する緑野と森林景観の印象的な人口約110万人の辺境都市。「黒龍江的山水画廊」と讃えられる《龍江三峡》の景勝地で知られる。

12日、同市夢北県の特設会場で合唱・歌舞等の演出が加わり賑やかに開幕し、午後、中国AAA級旅遊景区として風光明媚な名山島の黒龍江流域博物館を参観した。

2009年夏に開館の同博物館は、黒龍江流域の自然・歴史・民俗の展示館から成る中国唯一の界江流域博物館で、峡谷・植物・恐竜など古生物・動物・魚類や北方の遊牧・遊撈・漁撈民族、流域に活動した諸民族の特色ある生産・生活習俗が文化財・標本・実物など4000余件の展示があるとの説明をうける。鶴崗市は1200~1300年前、黒龍江流域にまで展開した渤海国の最北域に立地したことから、歴史館で夫余・渤海・金国の解説コーナーに注目した。13日の黒龍江流域文明論壇報告会は、黒龍江省社会科学院の魏国忠研究員、大連大学中国東北史研究中心主任の王禹浪教授(本科研費協力研究員)や清華大学・日本側研究者による報告会は、ハルビン・鶴崗からの報道取材も加わり活況を呈した。私は、科研費研究の一端を「古代日本和中国东北交流」として報告した。

7月14日、鶴岡から中・日合同研究班は510キロ離れた牡丹江市へ車で移動し、共同研究を予定する牡丹江師範学院・牡丹江流域文明研究中心や同国際教育学院の教授らと合流した。

7月15~17日、牡丹江市と寧安市鏡泊湖畔の宿舎を拠点に、渤海国上京龍泉府遺址・同遺址博物館・興隆寺、そして鏡泊湖中部の半島へ船で移動し渤海時代の城牆古山城に登った。三面が湖に面する曾ての湖州城は契丹民族等の攻撃を防御する屯兵の要地で、今も 門址・古井・石塁等が残り、山頂から湖を一望できた。寧安市渤海鎮の上京龍泉府遺址は、南門台基の西側から城内に入ると、宮城第一・二殿の東・西廊廡(廊下)址が復原整備され、北の第六宮殿址に向けて歩道と木製階段が整備され宮城内の観覧が可能であった。雨の中、牡丹江師範学院スタッフの案内で、整備の進んだ宮城北門址から真っ直ぐ北に向けて外城壁址まで歩いたのは、3回目にして初めてのこと。辿り着いた箇所は、緩やかな曲線を描く東西路で、西に向かえばまもなく大河、牡丹江へと通じる。

同行の魏国忠研究員・王禹浪教授や牡丹江師範学院歴史系教授陣との共同で始まる牡丹江流域文明の考察に向けて、あらたな夢が膨らむ。

17日、王・藤井・服部・鍵主の4名は、陸路で牡丹江からハルビンへと移動し、黒龍江省民族研究所の都永浩所長・同省政府発展研究中心崇偉新副主任らと懇話会をもち、今回の旅の成果を祝った。(2011年8月8日)

2011年7月12日 鶴崗市・第二回黒龍江流域文明論壇

2011年7月13日を中心に黒龍江省最北の鶴崗市で第二回黒龍江流域文明鶴崗論壇学術報告会が開催された。鶴崗市はロシアとの境界を流れる黒龍江の畔に位置する緑野と森林景観の印象的な人口約110万人の辺境都市。「黒龍江的山水画廊」と讃えられる《龍江三峡》の景勝地で知られる。12日、同市夢北県の特設会場で合唱・歌舞等の演出が加わり賑やかに開幕し、午後、中国AAA級旅遊景区として風光明媚な名山島の黒龍江流域博物館を参観した。2009年夏に開館の同博物館は、黒龍江流域の自然・歴史・民俗の展示館から成る中国唯一の界江流域博物館で、峡谷・植物・恐竜など古生物・動物・魚類や北方の遊牧・遊撈・漁撈民族、流域に活動した諸民族の特色ある生産・生活習俗が文化財・標本・実物など4000余件の展示があるとの説明をうける。

鶴崗市は1200~1300年前、黒龍江流域にまで展開した渤海国の最北域に立地したことから、歴史館で夫余・渤海・金国の解説コーナーに注目した。13日の黒龍江流域文明論壇報告会は、黒龍江省社会科学院の魏国忠研究員、大連大学中国東北史研究中心主任の王禹浪教授(本科研費協力研究員)や清華大学・日本側研究者による報告会は、ハルビン・鶴崗からの報道取材も加わり活況を呈した。

私は、科研費研究の一端を「古代日本和中国东北交流」として報告した。7月14日、鶴岡から中・日合同研究班は510キロ離れた牡丹江市へ車で移動し、共同研究を予定する牡丹江師範学院・牡丹江流域文明研究中心や同国際教育学院の教授らと合流した。

7月15~17日、牡丹江市と寧安市鏡泊湖畔の宿舎を拠点に、渤海国上京龍泉府遺址・同遺址博物館・興隆寺、そして鏡泊湖中部の半島へ船で移動し渤海時代の城牆古山城に登った。三面が湖に面する曾ての湖州城は契丹民族等の攻撃を防御する屯兵の要地で、今も 門址・古井・石塁等が残り、山頂から湖を一望できた。寧安市渤海鎮の上京龍泉府遺址は、南門台基の西側から城内に入ると、宮城第一・二殿の東・西廊廡(廊下)址が復原整備され、北の第六宮殿址に向けて歩道と木製階段が整備され宮城内の観覧が可能であった。雨の中、牡丹江師範学院スタッフで、整備の進んだ宮城北門址から真っ直ぐ北に向けて外城壁址まで歩いたのは、3回目にして初めてのこと。辿り着いた箇所は、緩やかな曲線を描く東西路で、西に向かえばまもなく大河、牡丹江へと通じる。同行の魏国忠研究員・王禹浪教授や牡丹江師範学院歴史系教授陣との共同で始まる牡丹江流域文明の考察に向けて、あらたな夢が膨らむ。17日、王・藤井・服部・鍵主の4名は、陸路で牡丹江からハルビンへと移動し、黒龍江省民族研究所の都永浩所長・同省政府発展研究中心崇偉新副主任らと懇話会をもち、今回の旅の成果を祝った。

News Letter No.7

2011.10.10

中・日・韓・朝・露の研究者が討議した図們江学術論壇2011
(中国吉林省延吉市白山大厦国際会議場)

2011年夏―8月21・22日を中心に吉林省東部の延吉市で図們江学術論壇2011が開催された。

延吉市は 延辺朝鮮族自治州の州政府の所在地で、省境の東部にあって人口42万、そのうち朝鮮族が6割をしめるという。周囲を小高い山並みに囲まれ、市内を流れる布尓哈通河(プルハトン)に近代的な高層建築の色彩を帯びた影が水面に投影している。

白山大厦国際会議場で開催の学術論壇は、8月21日全体会、22・23日の分科会は論壇Ⅰが「辺縁からみた多元文化―辺界・流動・融合―」をテーマに歴史文化組・語言文学組、論壇Ⅱの経済組は「図們江区域の合作開発―協調・治理・対応―」をテーマとし、図們江区域の開発・開放と合作開発や中・日・韓の金融合作、投資対策、都市建設・物流計画など当該地域の内包する多岐の課題について、計50本に及ぶ報告があった。このうち歴史文化組では、鄭永振延辺大学教授の「富居里一帯の渤海遺跡」、王禹浪大連大学教授の「図們江流域の古代歴史と文化」、藤井の「渤海早期と古代日本の交流特性」など、13本の報告が行われた。私の報告要旨は本ニューズレターに再録し、本論は延辺大学編『図們江学術論壇2011・論文集』に収載されている。

天候が急変した8月22日午後、王協力研究員の手配により清華大学・牡丹江師範学院の教授陣と共に、図們江口に近い防川を目指した。

延吉から、長春・吉林・琿春を結ぶ新たな高速公路で、図們市を経て琿春市に到着した。途中、琿春の密江郷や英安鎮辺り、また、高速路が終わり省道(201号)・県道で防川に向かう道筋は、敬信鎮を過ぎると車窓右側に図們江の流れ、川向こうに北朝鮮の山河や集落が目に映った。遠くの山道をバスがゆく光景も再三、目にした。図們江沿いの道は、河口に向けて次第に狭くなるが、今から一千年以上もの昔、このルートは、渤海国の中京顕徳府や東京龍原府から日本へ使節団が移動するときに重要な役割をはたした。防川風景名勝区の展望塔に登ると、左にロシア、右に北朝鮮の風景がひろがり、すぐ前方に見えるロシアと北朝鮮をつなぐ鉄橋・鉄路は、北朝鮮の良港、羅津へも通じている。鉄橋の向こうには、図們江口に向けて蛇行する川筋を遠望でき、図們江口の右側には入江に富む造山湾も近いであろう。

8月24日、延辺自治州図書館を訪問し、金勇進館長・金秀頴対外連絡部長から完成間近の新館と現在館の日本・中文資料室資料の説明を受けた。翌25日北京へ移る。滞在中、王府井書店で図書を探索し、夕刻、曾て東京の中国大使館に勤務し、任終えて北京に戻った孫永剛・喬倫の両氏と再会し、東京・学士会館フォーラム参加や福光・松村記念館訪問の際の思い出に話が弾んだ。

9月28日、王禹浪教授らをゲストに迎えて、公開講座「東アジアの交流と中国東北」(富山市)を開催した。王教授は「神秘の中国東北―黒龍江流域の民族と文明―」、藤井は「画像で語る中国東北の文化的景観」を発表し、滞在期間中に大野湊神社・金沢港・大野川河口周辺の調査、日本文献中の対外交流史関係事項の検索作業を行い、今後の共同作業に備えた。

News Letter No.8

2012.02.28

旅順博物館主館 大連市旅順口区列寧街42号

[筆者撮影]

2011年12月15日~18日、大連大学(中国東北史研究中心)での公開講座の折に旅順博物館・大連漢墓博物館を参観し、旅順の市街地を訪ねる機会をえました。

滞在中、中国黒龍江省鶴崗市で今夏開催の黒龍江流域文明論壇について、鶴崗師範高等専科学校(辺校長)・同市社会科学界李主席・同市学術顧問王教授らと協議し、16日午後、2005年より交流の続く大連大学中国東北史研究中心(院)で大藪「日本における観光産業の現状と将来」、藤井「中国発見の日本古代貨幣と歴史的環境」の講義を行い、また文献収集を行いました。

17日、鶴崗市代表団や北野孝一富山国際大学教授・佐藤悦夫同准教授らとともに遼東半島の旅順口区を廻り、旅順博物館・漢慕博物館を参観し、劉述昕同館員の案内で近年、全面開放(軍港周辺・軍事施設以外)された旅順市街地(大連市旅順口区)に入りました。

旅順博物館は、日本植民地(関東都督府)時代の1917年に「満蒙物産館」として開館し、その後「関東庁博物館」(1919年)、「旅順博物館」(1934年)、「旅順東方文化博物館」(1945年ソ連赤軍旅順駐屯、1951年中国へ移管)、「旅順歴史文化博物館」(1952年)、「旅順博物館」(1954年)へと館名改称、2001年に分館が落成開館しました。主館の展示は、古代青銅・仏教造像芸術・鼻咽壺芸術・玉器・漆器工芸・陶瓷・貨幣・銅鏡・古印度仏像石刻・日本書画芸術、朝鮮・日本陶瓷芸術・竹木牙雕工芸、新彊文物の各展庁(コーナー)からなり、膨大な蔵品の内には、20世紀初頭の大谷光瑞(1876―1948)探検隊(第1~3次)の収集した新彊・甘粛などシルクロード文物「6566件」を含むとされます(1929年移管、旅順博物館編『旅順博物館90年』2007年)。旅順は1898年にロシアが旅順・大連を租借、1905年のポーツマス条約により日本が旅順・大連並びに付近の領土・領水を租借、1932年に傀儡国家「満州国」領内、1945年にソ連軍が旅順を占領、1955年に中華人民共和国に返還された歴史を刻み、現在も市内にロシア・日本各租借・領有時代の多くの建造物が形状を留めています。

隋・唐代の旅順は「都里鎮」と呼ばれ、口区内の黄金山北麓に「開元二年(714)」「靺鞨使鴻臚卿崔忻」銘の鴻臚井石碑遺址が知られます。また甘井子区に新たに開館した大連漢墓博物館は、日本でも著名な営城子漢墓の資料を中心に、大連地区の墓葬(貝墓・磚墓)・出土文物と歴史資料を展示しており、遼東半島が原始・古代から近現代に至る東アジアの深刻な歴史舞台であったことを、今日に伝えています。

隋・唐代の旅順は「都里鎮」と呼ばれ、口区内の黄金山北麓に「開元二年(714)」「靺鞨使鴻臚卿崔忻」銘の鴻臚井石碑遺址が知られます。また甘井子区に新たに開館した大連漢墓博物館は、日本でも著名な営城子漢墓の資料を中心に、大連地区の墓葬(貝墓・磚墓)・出土文物と歴史資料を展示しており、遼東半島が原始・古代から近現代に至る東アジアの深刻な歴史舞台であったことを、今日に伝えています。

大連市営城子街道沙崗村営沙路にオープンした漢代墓博物館。敷地4600平方メートル。地下墓葬を実見できる。

 

[筆者撮影]

News Letter No.10

2012.11.1

海を渡った和同開珎―天平の渤海交流―

中国洛陽市発見の和同開珎銀銭(『中国銭幣』63期)
安徽省池州市発見の和同開珎銀銭(『安徽銭幣』第71期)
江蘇省揚州市発見の和同開珎銀銭(『江蘇銭幣』第58期)
黒龍江省寧安市・渤海上京城発見の和同開珎銅銭(『東京城』)

七世紀末から十世紀初めにかけて中国東北部を中心に栄えた渤海国は、旧高句麗領の大半を領土とし「海東盛国」(新唐書)と讃えられました。渤海は東牟(とうむ)山城に始まり遷都を繰り返しますが、長く王城として栄えたのは上京龍泉府(黒龍江省寧安市渤海鎮)でした。そこは東西六二○メートル×南北七二○メートルにおよぶ宮城(南門・第一~五宮殿)を中心に付属区、皇城、外郭城の城壁・城門、街道の遺址が明らかとなり、中国国家文物保護単位として整備されています。

かつて日本の東亜考古学会による調査によって第四宮殿址から一枚の和同開珎(銅銭)が発見され、王城中枢への伝播として脚光を浴びました。発見された宮殿母屋は、暖房用のオンドルを施した王宮の生活空間であったのです。

渤海王城が中京顕徳府(吉林省和龍市)から上京龍泉府へ遷る七五五年頃より新銭の万年通宝を発行した七六○年にかけて、渤海へ渡った使人に小野田守(七五八年春出発・九月帰還)と内蔵全成(七五九年二月出発・十月帰国)がいますが、一方で来日した渤海使として揚承慶ら二三人(七五八年九月到着、翌年二月帰国)と高南申(七五九年十月到着、翌年二月帰還)ら一行の滞在が知られます。ここでは渤海上京城に初めて入った日本使節団として小野田守に注目するのですが、揚承慶一行も平城京に二か月以上も滞在しており、役所や市人らと交易する機会は多かったはずです。

一九七○年に陝西省西安市で発見の和同開珎銀銭五枚、一九九一年に河南省洛陽市で発見の銀銭五枚(現存一枚)に加え、近年、安徽省池州市や江蘇省揚州市でも和同開珎銀銭の発見が相次いでおり、それらは唐都の長安へ通じる行路に沿っています。

中国各地の和同銭発見は、日本の「貢献」に限らず、市場での「交易」を目的とする視点を含めて、伝播の意味を再考することが必要となります。

(続)中国洛陽・池州の和同開珎―「長安への道」発見相次ぐ―

一九七○年に中国陝西省西安市何家(かか)村で、唐代の穴蔵から発見された和同開珎の銀銭五枚が大きなニュースになってから四〇年余の歳月を経た。二〇一二年秋、陝西歴史博物館(西安市)で開催の「大唐遺宝展」において、和同開珎とともに一〇〇〇点余の文物をおさめていた陶製大甕が展示された。七五五年冬、節度使安禄山が反乱し十五万の大軍で都へ迫ったとき、皇帝玄宗の従兄弟である李守礼の子孫が都を脱出する際、地中に隠した財宝に日本の銀銭が混じっていたのである。

遣唐使が目ざした長安は東ローマ・イスラムなど西域の文物が集まる国際都市であり、そこでの発見は、和同銀銭を鋳造した七〇八(和銅元)年から安禄山の乱が起きる七五五年までの間に日本を出発した遣唐使に関心が集まることとなった。近年、この遣唐使ルートに沿う洛陽・揚州・池州などで和同開珎の新たな発見が相次いでいる。

洛陽と遣唐使

一九九一年、旧洛陽城遺址北郊の河南省洛陽市馬坡(ばは)村で銀銭五枚が発見された。現存する一枚の法量は径二四ミリ、厚さ一・九ミリ、重さ六・三五グラム(「洛陽出土日本和同開珎銀弊」『中国銭幣』一九九八年四期)。六グラム以上の銀銭は西安出土のうちにも含まれ、日本国内では一九八六年に橿原市高殿町字テンヤク(旧藤原宮)で出土した銀銭三枚の個々の重さに匹敵する。銀含有量の多い初期の銀貨であったとみられる。

報告者の霍宏偉・董留根氏は、洛陽に来着した日本の遣唐使として三回をあげ、そのうち七三二(天平四)年任命の第九次遣唐使が「朝貢品」として唐に持ち込んだと推論する。それは七一七(養老元)年三月に日本を出発し、十月長安に到着した第八次遣唐使の場合にも共通している。蘇州・揚州を経て洛陽・長安へ至る行路周縁に、日本の遣使が銀銭を伝える機会は確実に存在していたのである。

揚州・池州の銀銭

二〇〇八年刊行の『江蘇銭幣』第五八期は、江蘇省揚州市紅園の「収蔵品市場」で発見された和同銀銭一枚を紹介した(「唐代中日友好交流的見証―揚州首現“和同開珎”銀幣」)。その径は二六ミリと広く重さ五・四グラムは小治田安万呂墓(奈良県山辺郡都祁村)から出土した銀銭一〇枚の平均値に相当する。

揚州は長江口の蘇州などとともに、遣唐使の主要な上陸地であり、唐僧鑑真が住職をつとめた大明寺の所在地でもある。さらに江蘇省の南、安徽省池州市でも和同開珎銀銭の発見があった。『安徽銭幣』二〇一〇年第一期の「池州発現日本《和同開珎》銀幣」によると、出土した道路口は唐代池州北門の近辺。銀銭の径二四・一ミリ、重さ五・〇グラム、厚さ一・五ミリで、「和」字「禾」偏の一画目が長く太い特徴をもつ。江南西道の池州は、揚州のある淮南道の南側に位置し長江でつながる。地蔵菩薩の霊場で有名な九華山は管内の青陽県にある。

池州における和同開珎の発見について王祥進・王幸福氏は、仏教名山の九華山を目ざす日本の留学僧らによる仏道の交流に着目している。池州は揚州から西の方向ではないが、長江を溯り武昌(現武漢)に上陸すれば、長安へ通じる交通路とも結びつく。

これら西安・洛陽や揚州・池州で出土した和同開珎銀銭は、形状・重量・銭文などが不揃いで、とくに貢献用に鋳造したものとは見なし難い。中国各地で発見の和同開珎をみると、南は遣唐使、北の場合は遣渤海使や渤海使によって伝わったに違いなく、日本からの「貢献」とともに市場での「交易」を目的とする視点も今後浮上してこよう。

遣唐使ルートや一九三〇年代に渤海王城址(黒龍江省寧安市)で発見された和同開珎は、渤海国から長安へ渡った日本の「舞女」の記録(「旧唐書」大暦十二年条)とともに、遣唐使や渤海使が往来した古代東アジアの交流回廊の証跡を今に伝えている。

News Letter No.12

2013.05.20

敦煌壁画・双飛天 第321窟(初唐)
(敦煌研究院主編『敦煌石窟全集』15、商務印書館、2002年)

2013年5月、平成22年―24年度科学研究費補助金 基盤研究(C)課題 「古代日本と渤海中期王権の交流と流域遺産に関する歴史環境学的研究」による成果報告書が完成し日本学術振興会に提出しました。いま あらためて本研究の目的・方法・成果をふまえ、今後とも東アジア多文化交流ネットワークを中心に研究成果の公開と協同研究課題の展開をはかる予定です。

1.目的

  1. 渤海使・遣渤海使の往来と発着拠点となる渤海王城の関係について、王城 (東牟山城・中京・上京・東京城など)の段階ごとに整理し、交流の実態を把握する。②日本・渤海を結ぶ回廊が「もう一つの遣唐使」として機能した側面を明らかにし、その行程に北陸道地域が果たした歴史的環境を実証的に解明する。

2.方法

  1. 図們(ともん)江・琿春(こんしゅん)河・布尓哈通(ふるはとん)河・牡丹江など主要河川流域と龍頭山・六頂山麓、図們江口と渤海王城を結ぶ陸路沿いに分布する文化遺産の把握につとめ、王城址・王族墓・山城の時代背景、王城・王権の変遷と日本の交流関係を検証する。
  2. 中国東北地域の渤海遺跡の資料調査と景観画像の収録をすすめ、日本・渤海の交流回廊と周縁文化遺産を包括的に把握し、資料整理と画像データを収録する。

3.成果

  1. 渤海早期王城=中京顕徳府址の位置する吉林省和龍市西古城周辺の海蘭河や龍頭山を中心とする地勢・環境を実見し、渤海第3代王大欽茂の第4王女貞孝公主墓のある龍頭山は宮城址が確認されている中京顕徳府址から地理的に近く、多くの王族墓を造築できる長大な山丘であることを確認した。
  2. 中京城と龍頭山の近くを流れる海蘭河は、布尓哈通河・図們江を経て日本海に通じ、渤海時代における中京顕徳府の交通・物流環境に重要な役割を担ったことを、遺跡分布と地勢面から明らかにした。
  3. 延辺地区の王城(中京・東京城)・王族墓は 中国東北部の図們江流域に分布し渤海建国段階の「旧国」の中枢部に位置すること、同河川の水路と河川沿いの道路が日本海に連接する「日本道」「渤海路」に相当する様態を把握した。
  4. 資料調査では、中国黒龍江省寧安市の渤海上京城址・同遺址博物館、鏡泊湖畔の渤海山城、吉林省延辺自治州琿春市の図們江流域、黒龍江省鶴崗市にある黒龍江流域博物館の巡見によって 渤海遺産の現地景観と歴史環境の画像を収録した。
  5. 拙論「渤海早期王城と古代日本の対渤海交渉」(『東アジア地域の歴史文化と現代社会』所収)において ○渤海の建国・王城と交流環境 ○旧国と日本・渤海間交流 ○中京顕徳府と日本・渤海間交流に焦点を当て、渤海・渤海靺鞨・高麗の表示を主体領域・主体種族・黒水靺鞨との関係から解釈を試みた。
  6. 3年間の調査・研究活動に参画した研究協力者を含む 同ネットワークによって 論集『東アジアの交流と地域連動』の刊行を企画した。( 藤井一二『古代日本と渤海中期王権の交流と流域遺産に関する歴史環境学的研究』所収、2013年3月刊)