中・日・韓・朝・露の研究者が討議した図們江学術論壇2011
(中国吉林省延吉市白山大厦国際会議場)
2011年夏―8月21・22日を中心に吉林省東部の延吉市で図們江学術論壇2011が開催された。
延吉市は 延辺朝鮮族自治州の州政府の所在地で、省境の東部にあって人口42万、そのうち朝鮮族が6割をしめるという。周囲を小高い山並みに囲まれ、市内を流れる布尓哈通河(プルハトン)に近代的な高層建築の色彩を帯びた影が水面に投影している。
白山大厦国際会議場で開催の学術論壇は、8月21日全体会、22・23日の分科会は論壇Ⅰが「辺縁からみた多元文化―辺界・流動・融合―」をテーマに歴史文化組・語言文学組、論壇Ⅱの経済組は「図們江区域の合作開発―協調・治理・対応―」をテーマとし、図們江区域の開発・開放と合作開発や中・日・韓の金融合作、投資対策、都市建設・物流計画など当該地域の内包する多岐の課題について、計50本に及ぶ報告があった。このうち歴史文化組では、鄭永振延辺大学教授の「富居里一帯の渤海遺跡」、王禹浪大連大学教授の「図們江流域の古代歴史と文化」、藤井の「渤海早期と古代日本の交流特性」など、13本の報告が行われた。私の報告要旨は本ニューズレターに再録し、本論は延辺大学編『図們江学術論壇2011・論文集』に収載されている。
天候が急変した8月22日午後、王協力研究員の手配により清華大学・牡丹江師範学院の教授陣と共に、図們江口に近い防川を目指した。
延吉から、長春・吉林・琿春を結ぶ新たな高速公路で、図們市を経て琿春市に到着した。途中、琿春の密江郷や英安鎮辺り、また、高速路が終わり省道(201号)・県道で防川に向かう道筋は、敬信鎮を過ぎると車窓右側に図們江の流れ、川向こうに北朝鮮の山河や集落が目に映った。遠くの山道をバスがゆく光景も再三、目にした。図們江沿いの道は、河口に向けて次第に狭くなるが、今から一千年以上もの昔、このルートは、渤海国の中京顕徳府や東京龍原府から日本へ使節団が移動するときに重要な役割をはたした。防川風景名勝区の展望塔に登ると、左にロシア、右に北朝鮮の風景がひろがり、すぐ前方に見えるロシアと北朝鮮をつなぐ鉄橋・鉄路は、北朝鮮の良港、羅津へも通じている。鉄橋の向こうには、図們江口に向けて蛇行する川筋を遠望でき、図們江口の右側には入江に富む造山湾も近いであろう。
8月24日、延辺自治州図書館を訪問し、金勇進館長・金秀頴対外連絡部長から完成間近の新館と現在館の日本・中文資料室資料の説明を受けた。翌25日北京へ移る。滞在中、王府井書店で図書を探索し、夕刻、曾て東京の中国大使館に勤務し、任終えて北京に戻った孫永剛・喬倫の両氏と再会し、東京・学士会館フォーラム参加や福光・松村記念館訪問の際の思い出に話が弾んだ。
9月28日、王禹浪教授らをゲストに迎えて、公開講座「東アジアの交流と中国東北」(富山市)を開催した。王教授は「神秘の中国東北―黒龍江流域の民族と文明―」、藤井は「画像で語る中国東北の文化的景観」を発表し、滞在期間中に大野湊神社・金沢港・大野川河口周辺の調査、日本文献中の対外交流史関係事項の検索作業を行い、今後の共同作業に備えた。
旅順博物館主館 大連市旅順口区列寧街42号
[筆者撮影]
2011年12月15日~18日、大連大学(中国東北史研究中心)での公開講座の折に旅順博物館・大連漢墓博物館を参観し、旅順の市街地を訪ねる機会をえました。
滞在中、中国黒龍江省鶴崗市で今夏開催の黒龍江流域文明論壇について、鶴崗師範高等専科学校(辺校長)・同市社会科学界李主席・同市学術顧問王教授らと協議し、16日午後、2005年より交流の続く大連大学中国東北史研究中心(院)で大藪「日本における観光産業の現状と将来」、藤井「中国発見の日本古代貨幣と歴史的環境」の講義を行い、また文献収集を行いました。
17日、鶴崗市代表団や北野孝一富山国際大学教授・佐藤悦夫同准教授らとともに遼東半島の旅順口区を廻り、旅順博物館・漢慕博物館を参観し、劉述昕同館員の案内で近年、全面開放(軍港周辺・軍事施設以外)された旅順市街地(大連市旅順口区)に入りました。
旅順博物館は、日本植民地(関東都督府)時代の1917年に「満蒙物産館」として開館し、その後「関東庁博物館」(1919年)、「旅順博物館」(1934年)、「旅順東方文化博物館」(1945年ソ連赤軍旅順駐屯、1951年中国へ移管)、「旅順歴史文化博物館」(1952年)、「旅順博物館」(1954年)へと館名改称、2001年に分館が落成開館しました。主館の展示は、古代青銅・仏教造像芸術・鼻咽壺芸術・玉器・漆器工芸・陶瓷・貨幣・銅鏡・古印度仏像石刻・日本書画芸術、朝鮮・日本陶瓷芸術・竹木牙雕工芸、新彊文物の各展庁(コーナー)からなり、膨大な蔵品の内には、20世紀初頭の大谷光瑞(1876―1948)探検隊(第1~3次)の収集した新彊・甘粛などシルクロード文物「6566件」を含むとされます(1929年移管、旅順博物館編『旅順博物館90年』2007年)。旅順は1898年にロシアが旅順・大連を租借、1905年のポーツマス条約により日本が旅順・大連並びに付近の領土・領水を租借、1932年に傀儡国家「満州国」領内、1945年にソ連軍が旅順を占領、1955年に中華人民共和国に返還された歴史を刻み、現在も市内にロシア・日本各租借・領有時代の多くの建造物が形状を留めています。
隋・唐代の旅順は「都里鎮」と呼ばれ、口区内の黄金山北麓に「開元二年(714)」「靺鞨使鴻臚卿崔忻」銘の鴻臚井石碑遺址が知られます。また甘井子区に新たに開館した大連漢墓博物館は、日本でも著名な営城子漢墓の資料を中心に、大連地区の墓葬(貝墓・磚墓)・出土文物と歴史資料を展示しており、遼東半島が原始・古代から近現代に至る東アジアの深刻な歴史舞台であったことを、今日に伝えています。
隋・唐代の旅順は「都里鎮」と呼ばれ、口区内の黄金山北麓に「開元二年(714)」「靺鞨使鴻臚卿崔忻」銘の鴻臚井石碑遺址が知られます。また甘井子区に新たに開館した大連漢墓博物館は、日本でも著名な営城子漢墓の資料を中心に、大連地区の墓葬(貝墓・磚墓)・出土文物と歴史資料を展示しており、遼東半島が原始・古代から近現代に至る東アジアの深刻な歴史舞台であったことを、今日に伝えています。
大連市営城子街道沙崗村営沙路にオープンした漢代墓博物館。敷地4600平方メートル。地下墓葬を実見できる。
[筆者撮影]
海を渡った和同開珎―天平の渤海交流―
中国洛陽市発見の和同開珎銀銭(『中国銭幣』63期)
安徽省池州市発見の和同開珎銀銭(『安徽銭幣』第71期)
江蘇省揚州市発見の和同開珎銀銭(『江蘇銭幣』第58期)
黒龍江省寧安市・渤海上京城発見の和同開珎銅銭(『東京城』)
七世紀末から十世紀初めにかけて中国東北部を中心に栄えた渤海国は、旧高句麗領の大半を領土とし「海東盛国」(新唐書)と讃えられました。渤海は東牟(とうむ)山城に始まり遷都を繰り返しますが、長く王城として栄えたのは上京龍泉府(黒龍江省寧安市渤海鎮)でした。そこは東西六二○メートル×南北七二○メートルにおよぶ宮城(南門・第一~五宮殿)を中心に付属区、皇城、外郭城の城壁・城門、街道の遺址が明らかとなり、中国国家文物保護単位として整備されています。
かつて日本の東亜考古学会による調査によって第四宮殿址から一枚の和同開珎(銅銭)が発見され、王城中枢への伝播として脚光を浴びました。発見された宮殿母屋は、暖房用のオンドルを施した王宮の生活空間であったのです。
渤海王城が中京顕徳府(吉林省和龍市)から上京龍泉府へ遷る七五五年頃より新銭の万年通宝を発行した七六○年にかけて、渤海へ渡った使人に小野田守(七五八年春出発・九月帰還)と内蔵全成(七五九年二月出発・十月帰国)がいますが、一方で来日した渤海使として揚承慶ら二三人(七五八年九月到着、翌年二月帰国)と高南申(七五九年十月到着、翌年二月帰還)ら一行の滞在が知られます。ここでは渤海上京城に初めて入った日本使節団として小野田守に注目するのですが、揚承慶一行も平城京に二か月以上も滞在しており、役所や市人らと交易する機会は多かったはずです。
一九七○年に陝西省西安市で発見の和同開珎銀銭五枚、一九九一年に河南省洛陽市で発見の銀銭五枚(現存一枚)に加え、近年、安徽省池州市や江蘇省揚州市でも和同開珎銀銭の発見が相次いでおり、それらは唐都の長安へ通じる行路に沿っています。
中国各地の和同銭発見は、日本の「貢献」に限らず、市場での「交易」を目的とする視点を含めて、伝播の意味を再考することが必要となります。
(続)中国洛陽・池州の和同開珎―「長安への道」発見相次ぐ―
一九七○年に中国陝西省西安市何家(かか)村で、唐代の穴蔵から発見された和同開珎の銀銭五枚が大きなニュースになってから四〇年余の歳月を経た。二〇一二年秋、陝西歴史博物館(西安市)で開催の「大唐遺宝展」において、和同開珎とともに一〇〇〇点余の文物をおさめていた陶製大甕が展示された。七五五年冬、節度使安禄山が反乱し十五万の大軍で都へ迫ったとき、皇帝玄宗の従兄弟である李守礼の子孫が都を脱出する際、地中に隠した財宝に日本の銀銭が混じっていたのである。
遣唐使が目ざした長安は東ローマ・イスラムなど西域の文物が集まる国際都市であり、そこでの発見は、和同銀銭を鋳造した七〇八(和銅元)年から安禄山の乱が起きる七五五年までの間に日本を出発した遣唐使に関心が集まることとなった。近年、この遣唐使ルートに沿う洛陽・揚州・池州などで和同開珎の新たな発見が相次いでいる。
洛陽と遣唐使
一九九一年、旧洛陽城遺址北郊の河南省洛陽市馬坡(ばは)村で銀銭五枚が発見された。現存する一枚の法量は径二四ミリ、厚さ一・九ミリ、重さ六・三五グラム(「洛陽出土日本和同開珎銀弊」『中国銭幣』一九九八年四期)。六グラム以上の銀銭は西安出土のうちにも含まれ、日本国内では一九八六年に橿原市高殿町字テンヤク(旧藤原宮)で出土した銀銭三枚の個々の重さに匹敵する。銀含有量の多い初期の銀貨であったとみられる。
報告者の霍宏偉・董留根氏は、洛陽に来着した日本の遣唐使として三回をあげ、そのうち七三二(天平四)年任命の第九次遣唐使が「朝貢品」として唐に持ち込んだと推論する。それは七一七(養老元)年三月に日本を出発し、十月長安に到着した第八次遣唐使の場合にも共通している。蘇州・揚州を経て洛陽・長安へ至る行路周縁に、日本の遣使が銀銭を伝える機会は確実に存在していたのである。
揚州・池州の銀銭
二〇〇八年刊行の『江蘇銭幣』第五八期は、江蘇省揚州市紅園の「収蔵品市場」で発見された和同銀銭一枚を紹介した(「唐代中日友好交流的見証―揚州首現“和同開珎”銀幣」)。その径は二六ミリと広く重さ五・四グラムは小治田安万呂墓(奈良県山辺郡都祁村)から出土した銀銭一〇枚の平均値に相当する。
揚州は長江口の蘇州などとともに、遣唐使の主要な上陸地であり、唐僧鑑真が住職をつとめた大明寺の所在地でもある。さらに江蘇省の南、安徽省池州市でも和同開珎銀銭の発見があった。『安徽銭幣』二〇一〇年第一期の「池州発現日本《和同開珎》銀幣」によると、出土した道路口は唐代池州北門の近辺。銀銭の径二四・一ミリ、重さ五・〇グラム、厚さ一・五ミリで、「和」字「禾」偏の一画目が長く太い特徴をもつ。江南西道の池州は、揚州のある淮南道の南側に位置し長江でつながる。地蔵菩薩の霊場で有名な九華山は管内の青陽県にある。
池州における和同開珎の発見について王祥進・王幸福氏は、仏教名山の九華山を目ざす日本の留学僧らによる仏道の交流に着目している。池州は揚州から西の方向ではないが、長江を溯り武昌(現武漢)に上陸すれば、長安へ通じる交通路とも結びつく。
これら西安・洛陽や揚州・池州で出土した和同開珎銀銭は、形状・重量・銭文などが不揃いで、とくに貢献用に鋳造したものとは見なし難い。中国各地で発見の和同開珎をみると、南は遣唐使、北の場合は遣渤海使や渤海使によって伝わったに違いなく、日本からの「貢献」とともに市場での「交易」を目的とする視点も今後浮上してこよう。
遣唐使ルートや一九三〇年代に渤海王城址(黒龍江省寧安市)で発見された和同開珎は、渤海国から長安へ渡った日本の「舞女」の記録(「旧唐書」大暦十二年条)とともに、遣唐使や渤海使が往来した古代東アジアの交流回廊の証跡を今に伝えている。
敦煌壁画・双飛天 第321窟(初唐)
(敦煌研究院主編『敦煌石窟全集』15、商務印書館、2002年)
2013年5月、平成22年―24年度科学研究費補助金 基盤研究(C)課題 「古代日本と渤海中期王権の交流と流域遺産に関する歴史環境学的研究」による成果報告書が完成し日本学術振興会に提出しました。いま あらためて本研究の目的・方法・成果をふまえ、今後とも東アジア多文化交流ネットワークを中心に研究成果の公開と協同研究課題の展開をはかる予定です。
1.目的
- 渤海使・遣渤海使の往来と発着拠点となる渤海王城の関係について、王城 (東牟山城・中京・上京・東京城など)の段階ごとに整理し、交流の実態を把握する。②日本・渤海を結ぶ回廊が「もう一つの遣唐使」として機能した側面を明らかにし、その行程に北陸道地域が果たした歴史的環境を実証的に解明する。
2.方法
- 図們(ともん)江・琿春(こんしゅん)河・布尓哈通(ふるはとん)河・牡丹江など主要河川流域と龍頭山・六頂山麓、図們江口と渤海王城を結ぶ陸路沿いに分布する文化遺産の把握につとめ、王城址・王族墓・山城の時代背景、王城・王権の変遷と日本の交流関係を検証する。
- 中国東北地域の渤海遺跡の資料調査と景観画像の収録をすすめ、日本・渤海の交流回廊と周縁文化遺産を包括的に把握し、資料整理と画像データを収録する。
3.成果
- 渤海早期王城=中京顕徳府址の位置する吉林省和龍市西古城周辺の海蘭河や龍頭山を中心とする地勢・環境を実見し、渤海第3代王大欽茂の第4王女貞孝公主墓のある龍頭山は宮城址が確認されている中京顕徳府址から地理的に近く、多くの王族墓を造築できる長大な山丘であることを確認した。
- 中京城と龍頭山の近くを流れる海蘭河は、布尓哈通河・図們江を経て日本海に通じ、渤海時代における中京顕徳府の交通・物流環境に重要な役割を担ったことを、遺跡分布と地勢面から明らかにした。
- 延辺地区の王城(中京・東京城)・王族墓は 中国東北部の図們江流域に分布し渤海建国段階の「旧国」の中枢部に位置すること、同河川の水路と河川沿いの道路が日本海に連接する「日本道」「渤海路」に相当する様態を把握した。
- 資料調査では、中国黒龍江省寧安市の渤海上京城址・同遺址博物館、鏡泊湖畔の渤海山城、吉林省延辺自治州琿春市の図們江流域、黒龍江省鶴崗市にある黒龍江流域博物館の巡見によって 渤海遺産の現地景観と歴史環境の画像を収録した。
- 拙論「渤海早期王城と古代日本の対渤海交渉」(『東アジア地域の歴史文化と現代社会』所収)において ○渤海の建国・王城と交流環境 ○旧国と日本・渤海間交流 ○中京顕徳府と日本・渤海間交流に焦点を当て、渤海・渤海靺鞨・高麗の表示を主体領域・主体種族・黒水靺鞨との関係から解釈を試みた。
- 3年間の調査・研究活動に参画した研究協力者を含む 同ネットワークによって 論集『東アジアの交流と地域連動』の刊行を企画した。( 藤井一二『古代日本と渤海中期王権の交流と流域遺産に関する歴史環境学的研究』所収、2013年3月刊)