カターイ(カイロ)の大モスク
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の領土であったエジプトは 古代キリスト教の中心地のひとつであったが、イスラームが興ってまもなく 642年には イスラーム軍に征服され、軍営都市(ミスル)としての フスタートの町が建設された。そこは かつてビザンティンのバビロンの町があった所で、今もコプト教会(エジプトのキリスト教)の修道院が いくつもある。ずっと後の 10世紀に イフリーキーヤのファーティマ朝がエジプトを手中にすると、フスタートの北方に 新首都カーヒラ(勝利の都)を造営することになる。 これが 現在のカイロの基になる町なので、南郊外の フスタートとバビロンのあたりは、今ではオールド・カイロと呼ばれている。
イブン・トゥールーン・モスク
9世紀に バグダードのアッバース朝から派遣されて エジプトを統治した総督(アミール)アフマド・ブン・トゥールーンは トルコ系の軍人で、868年にアッバース朝から独立して トゥールーン朝を興した。彼はバグダードに貢納せずに豊かになった国庫で、フスタートと 後のカーヒラのちょうど中間地に、新しい首都 カターイを建設し、そこに彼の名を冠した イブン・トゥールーン・モスクを創建した。876年から 79年のことで、エジプトに現存する 最古のモスクである。この町は 今ではカイロの市街地に呑み込まれているので、カターイ時代の遺構はこのモスクだけとなり、初期イスラームの 大モスクのあり方を伝えるものとして貴重である。
イブン・トゥールーン・モスク 平面図 876-9年
( アンリ ・スチールラン『イスラムの建築文化』より)
外部からジヤーダへの出入り口がたくさんあるのは、金曜日の集団礼拝が 終わった時に、一斉に退出する 数百〜数千人の群集に対応するため。
アラブ型モスク
モスクはアラブ型で、92m角の正方形の中庭(サフン)を 列柱ホールが囲んでいる。 その外側には 外庭(ジヤーダ)を設けて 外界の喧騒をシャットアウトし、礼拝場所としての静謐さを確保している。この方法は アッバース朝の首都が一時 バグダードから移されたサーマッラー(イラク)の 大モスクの影響である。イブン・トゥールーンは中央アジアのブハラの出身であったが、サーマッラーで育ち 軍人としての訓練を受けたので、エジプトで都市やモスクを建設するにあたって、すべては サーマッラーに範をとった。モスク全体をレンガ造としたのも同様である。エジプトには ファラオの時代から石造建築が発展していたにもかかわらず、メソポタミア地方の伝統に倣って、堅固なレンガを焼かせて用いたのだった。
イブン・トゥールーン・モスクの礼拝室内部
その方針は 列柱ホールの柱にまでおよび、古代ローマやキリスト教聖堂から 大理石の円柱を取ってくるのをやめ、すべてレンガ積みの 太い剛柱とした。したがって、同じ初期の大モスクではあっても、西方的な(地中海的な)コルドバのメスキータや 前節のカイラワーンの大モスクとは異なり、著しく東方的な印象を与える。
中庭の正方形に対して、礼拝室(ハラム)のプロポーションは 横幅が奥行きの3倍もあるという、きわめて扁平な形となっていることも それに拍車をかける。そして横方向の(キブラ壁と平行な)アーケードが 太い剛柱列の上に架け渡されているので、礼拝室の空間全体を見通すことはできない。西洋の建築を見なれた目には、こういう宗教空間もあるものなのかと、一種の驚きを禁じえない。
イブン・トゥールーン・モスクのミフラーブまわり
ミナレットと泉亭
屋根自体は 軽い木造の陸屋根(ろくやね)なので、この剛柱の森は 構造的必要性を はるかに超えているように見えるが、スレンダーな円柱による列柱ホール・モスクの多くが、木製のつなぎ梁で柱頭どうしを結ぶことによって かろうじて耐震性を得ていることを思えば、初期のレンガ造モスクとしては やむをえなかったのかもしれない。
しかし、そうした鈍重さと ひきかえに、すべてに妥協のない幾何学的プランニングと 規則正しい架構法は、宗教建築の根源のような 厳粛な雰囲気をもたらし、喧騒のカイロの町の中の 異世界を形づくっている。
回廊の背後に聳えるミナレット
もうひとつ、サーマッラーの影響を受けたのは 螺旋(らせん)状のミナレットで、螺旋階段を内包するかわりに 外側に階段をまわしている。しかし現存するのは 1296年に再建されたものであって、焼失したオリジナルのミナレットは もっとサーマッラーのものに形が近く、また モスク全体を貫く中心軸上に位置していた。
ミナレット以外に 造形的に目立つのは 中庭の泉亭であるが、これも 13世紀末の再建。2階建てになっているのは、上階が ミナレットの役割も果たしていたせいらしい。
( 2006年『イスラーム建築』第1章「イスラーム建築の名作」)
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