インドのイスラム建築 |
神谷武夫
(『季刊文化遺産』1999年春号「インドの建築伝統」より)
預言者ムハンマドが初めて神の呼び声を聞いたのは 610年頃、アラビアはメッカの町においてである。その教えはイスラム教として急速に広まり、8世紀にはスペインから中央アジアに至るまでを支配する世界宗教となった。その本質をなすのは、神は一人であり、すべての人間は神の前に平等であるという理念であった。 ムスリム(イスラム教徒)は日に5回神をたたえ、神の前に平伏するので、イスラム帝国が征服する先々で集団礼拝をするモスク(礼拝堂)を必要とした。最初のモスクはアラビアのメディナに移住したムハンマドの住家であったが、最初期のモニュメンタルな建造物はシリアのダマスクスやエルサレムにつくられたから、その地に栄えていたビザンチン建築の影響を強く受けた。そしてペルシア(現在のイラン)に伝わるとペルシア建築の、エジプトに伝わるとエジプト建築の、スペインに伝わるとスペイン建築の影響のもとに、その地にふさわしいイスラム建築を生んだのである。
インドへのイスラム勢力の侵入は早くから間歇的に行われたものの、それらは一時的なものであって、インドを領土としてイスラム政権を打ち立てるのは 1206年のクトゥブ・アッディーン・アイバクが最初である。
![]() モスクで礼拝するムスリム
インドにおける最初のモスクがデリーに建立される 12世紀末、インドにはすでに千年にわたる石造建築の発展があり、その建設技術と美学はほとんど完成の域に達していた。
スルタン以下の支配層はそうした建築の素養を備えていて、故国の建築と同じようなモスクや宮殿を建てようと思った。しかし、それを実際に建てるのは征服されたインド人であったから、伝統的な建築と外来の建築との間に激しい葛藤を生むことになる。
第 1 は「彫刻的建築」であって、建物をマッシブなかたまりと捉え、その彫刻的な造形効果に最も力をいれる建築である。これを代表するのがインドの伝統的建築であった。カジュラーホのヒンドゥ寺院群 に典型的に見られるように、壁面が神像をはじめとする大量の彫刻で埋め尽くされるばかりでなく、建物全体も一個の彫刻作品のように扱われる。その威容に比して、内部空間はあっけないくらい狭小で見劣りがする。 ![]() ![]() カジュラーホのヴィシュワナータ寺院と、ウマイヤのモスクの礼拝室 第2はこれと全く逆に内部空間の充実を最重要視し、外部に表れる形態は二の次とする「皮膜的建築」である。これを代表するのがイスラム建築であって、ダマスクスの大モスクやイスファハーンの金曜モスクなどは、外側は街並みに埋もれてしまって見ることさえもできない。ところが入口をぬけて中庭にはいるとそこには整然とした幾何学的秩序による構成と装飾があり、礼拝室は壮大な内部空間をなしている。 第3は「骨組的建築」というべきもので、柱・梁架構の美とその上に載る屋根が全体を規定するのであって、必ずしも壁による空間の限定を必要としない。日本の木造建築がその典型であり、壁が開放されることによって内外の空間が連続してしまい、外観の彫刻的効果はそれほど高くない。 インドのイスラム政権がデリーを足場にして次第に領土を拡大し各地にイスラム建築を建てるにつれ、第1の類型としての彫刻的建築と第2の類型としての皮膜的建築が衝突し、試行錯誤をへつつ相互に影響を与えあうことになる。ペルシアからもたらされたイスラム建築はここにインド的変容をとげることになるのだが、次にそれらを支える石造技術の違いを見てみよう。
インドの建築が中世に石造の「彫刻的建築」を発展させる前、古代においては木造建築が主流であった。その後インド亜大陸が乾燥化して木材が減少するにつれ、モニュメンタルな建物は石でつくられるようになる。けれども木造の軸組み的な構造と美学になれきったインド人は、建物を石造とするようになってもなお、石を木のように用いて軸組み的な構造、つまり柱と梁によって構成し続けるのである。
一方、中東においては初めから木材が少なかったのでレンガや石で建物をつくり、早くから組積造のアーチやドームの構造を発明した。これは小さな迫石(せりいし)を円弧にそって放射状に積み重ねることによって大きなスパンを架け渡す方法で、これによれば直径数十メートルの大ホールをも柱なしで覆うことができる。中東で生まれたイスラム建築はこのアーチやドームの原理を駆使してあらゆる種類の建物を皮膜的につくりあげた。 ![]() ![]() ジャイナ教のマハーヴィーラ寺院と、クッワト・アルイスラム・モスク インドにおける最初のモスク、デリーのクッワト・アルイスラム・モスクもまたアーチやドームの連続によって建てられた。しかし真のアーチや真のドームの原理や作り方を知らなかったインドの職人たちは、石材を放射状にではなく、水平に積みながら少しずつ上を持ち出して、形だけをまねした擬似アーチや擬似ドームで建てたのである。そのために、このモスクのほとんどのアーチやドームは崩れ去り、今はごく一部のアーチと伝統的な方法で建てた回廊を残すのみである。 けれどもインドの建築家や職人たちも次第にイスラム建築の技術に習熟し、アーチやドームを自由に使いこなしてモスクやマドラサ(学院)、宮殿、廟、キャラバンサライ(隊商宿)などを建てるようになる。ついには直径(内径)38メートルもの巨大なドームを 一本の柱もなしに架け渡すほどの「皮膜的建築」を実現するのである(ビジャープルのゴル・グンバズ)。
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デリーのスルタン朝時代にはまだ無骨さが残るものの、その間にイスラムの建設技術は十分に移植され、16世紀から 17世紀のムガル朝においてインド・イスラム建築は絶頂期を迎えることになる。 イスラム諸国における代表的建築というのは通常、モスクである。インドにイスラム建築を伝えたペルシアのモスクは「四イーワーン形式」といって、大きなアーチ開口を壁で四角く枠取りし、その内側を半ドームの半外部空間としたイーワーンを四つ、中庭を囲んで向かい合わせた姿をとる。
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しかし「彫刻的建築」を愛したインド人にとって、こうした外観が鮮明でない内向きの建物では満足できるものではなかった。そこで、この四つのイーワーンを背中合わせにしてその上にドーム屋根を乗せ、彫刻的効果が大なる外向きの建物を発展させたのである。それはモスクによりも墓廟にふさわしい形態であり、それは壮大な タージ・マハル廟 において頂点に達することになる。
![]() デリーの金曜モスク (ジャーミ・マスジド)
ムガル朝の皇帝の中にはもっと積極的にインドの伝統的建築とイスラム建築とを融合させようとした皇帝がいた。第3代皇帝のアクバルである。彼はムガル朝の領土を拡張して帝国の名にふさわしいものにするとともに、その治世の安定のために諸宗教の宥和政策をとった。
![]() ![]() シカンドラのアクバル廟と、タージ・マハル廟の周壁のチャトリ
アクバル廟では基壇の上に「骨組み的建築」としての柱・梁が4層のジャングルジムのように積み重なり、他に例を見ない特異なイスラム建築となっている。その構成要素は、庇のついた重たげな屋根を梁と四本柱で支えるチャトリ(語源は 傘 を意味する サンスクリット語の チャトラ)であり、これがあらゆる建物の装飾要素として用いられるようになる。 |