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今月の一言

バックナンバー/2003年

2003年 12月 テーマ:クリスマス

   杉井 和子 先生 (国語/S46.4〜48.3 )
  一番の思い出は東吾先生のメサイア。そして公演に付随した多くの事件のうちのあれ!! クラスの打ち上げ発覚で出場停止の憂き目に会った一人の女子が、トウゴに陳謝(実は号泣)すると、かの師は「あっ、そおっー」と教育者然と冷たく突き放したまま。(乃木大将もマッサオだあー) こともあろうにこのクラスの担任は「くれぐれも御用心」を看板とするクリスチャン志賀大先生。 師曰く「恥ずかしくって職員室にもいけねェよ。」(懺悔が白衣を着たような先生でした。) 生徒達は礼拝中心の高等部の地味なクリスマスに飽き足らず、(高邁と清楚だけじゃあネ、と私が代弁してあげよう)初、中の想い出のページェントを再創造した後で騒いだとか。 実力と謙遜の師のうちにあったればこそ出来る生徒の<遊>を、さて神は如何に御覧になるのでありましょう。
 

  久保田 織枝 (3年HR306)
  そう・・・あれはPS講堂でのクリスマス特別礼拝の時でした。謙先生と青木先生によりミニ劇場後、ブラバン金管部隊として演奏させていただいたのです。その後行われたインタビューの時でした。  司会者「では最後に、今までのクリスマスで一番思い出深いことを教えて下さい。」 私「中三のクリスマスなんですけどぉ、なんか夜中に好きな人から電話がかかってきたんですよぉ。」 観客「ヒュー」私(やや俯き加減で)「で、言われたんです。」(PS湧く) 私「『俺××に告ろうと思うんだ。君仲良いから呼び出してくれない?』って」笑い声笑い声、そして笑い声。 嗚呼、何故私はあの時、皆の嘲笑の的となるようなことを言ってしまったのでしょうか・・・。そうしてその年のクリスマスも誰かが同情しくて告白してくれるわけもなく過ぎていくのでした。
 

  枝村(丹澤) 弘江 (20期HR30)
  X‘マス!とくればX’マスツリーである。私の様な食いしん坊にはX‘マスケーキ・・・となったかどうか?笑。人生50年、これまで様々な顔のツリーに出会ってきた。私の心に残るベスト5をあげてみたいと思う。始めは何と言っても初等部の時の私にはとてつもなく巨大に見えてロータリーど真ん中のツリー。次は主人の転勤先タイでの暑い中、豆電球で汗だくの?南国のツリー。3本目は98年2回目の赴任先NYでのご存知ロックフェラーC、信じられないほどのっぽでご立派!なツリー。そして第4は・・・、飾られた豆電球の全てに平和への願いが込められた“グランドゼロ”でのツリー。そうなのです、私達はそこに住んでいました。静かに穏やかに、どこか悲しげにハドソン川の冷たい風に吹かれ乍らも凛と立つ姿・・・一生忘れない。ラスト5番目は我家のガラス製のミニツリー。今年も窓辺で太陽の光をうけ今キラキラ輝いている。
 


2003年 11月 テーマ:修学旅行

   大村 修文 先生 (部長 社会・地理/S45.4〜 )
 《旅》は場所移動以上のものです。それによって新しい体験をし、知識を深め、人間形成につながる、だから学校では《修学旅行》が需要な教育活動なのです。
 しかし何より私にとって、高等部の修学旅行は生徒時代からの楽しい思い出の宝庫です。42年前の11期の九州旅行は12月でした。阿蘇の草千里は雪で覆われ、雪合戦をしたのが忘れられない思い出です。それから教員になって下見を含めて十数回、雪のない草千里を訪れましたが、青い空の下の山と草原と池の美しさは変わりません。
 今年も生徒に付き添って、懐かしい場所をまた訪ねます。

  高橋 麻梨子(3年HR307)
 2年前の春に家族旅行で行ったばかりの九州。コースも似ている。正直ちょっと期待薄だった。しかし行ってみてすぐ、それがとんでもない勘違いであった事に気付いた。なんといっても自分達で話合って決めたコースだ。事前研究もたくさんしていった。その地に立った時の感動が違う。戦争の悲惨さを改めて思ったのは長崎だ。歴史を知る事は本当に大切だ。柳川の鰻もおいしかった。元気な先生達の目を盗んで部屋を抜け出し、友達と語り明かした夜。見つかって怒られたけれど、それも忘れられない思い出だ。
 そして羽田空港で解散の時、「旅行委員お疲れ様!」クラスのみんなが特大のポッキーをプレゼントしてくれた。委員の私達の為に用意しておいてくれたらしい。嬉しくてちょっと泣きそうになった。  
 

  藤堂 誠一郎 (19期HR304)
 夜の闇の中に時々ほのかな灯りの過ぎ去って行く光景をじっと見つめながら、彼女は大きな目に涙をためていた。スポーツ万能で、あらゆる大会で常に目ざましい活躍をして、みんなのあこがれの的だった一人の男子生徒に、つのらせていた思いを告白した直後だった。彼はとてもさわやかで優しく思いやりのある言葉で、しかしきっぱりと彼女との交際は断ったのだった。純粋で礼儀正しくいかにも躾のきびしい家庭に育てられたという様子が日頃の言葉遣い立ち居振る舞いによくあらわれている彼女は、余程の勇気と覚悟で恋心を告白したであろう事は私にも痛い程理解出来た。熊本行きの寝台車のデッキで目にした彼女の後ろ姿こそ、青春そのものであった。
 


2003年 10月 テーマ:先生

   山内 政清 先生 (教頭 社会・地理/S43.4〜H13.3 )
 私は退職後、地元のテニススクールに入り2人の先生についています。40年余り、ずっと教える側にあった者にとって、先生に教えていただく嬉しさは、格別なものがあります。
 お二人の指導法は対照的です。お一人は、“放牧”と自称されている通り、生徒の希望とTPOに合わせて自由自在。他方は、カリキュラムに則り練習メニューも導入・展開・まとめと判で押したように決まっています。しかし生徒に絶えず声を掛け、好奇心を掻き立て、意欲を高める為の様々な工夫には、驚嘆すべきものがあり、それにつけても今更ながら、内心忸怩たるものがあります。
 方法論や考え方の違う先生がいらっしゃることは大切な事で、勉強の楽しさ・意欲を引き出していただける先生に巡り合うのは、至上の喜びであります。
 

  中田 洋平 (3年HR308)
 僕は今でも忘れられない先生から言われた言葉がある。それは小学校1年の時に、ゴミ箱を蹴破ったうえ、「弁償するから大丈夫」と言い訳をしてしまった僕に対して、担任の先生の言った「悪いことをしてしまったら、何よりも先生にそのことを謝れる人になりなさい。」という言葉だ。はっきり言ってこの言葉には隠された深い意味もないし、ごくありふれた言葉と言ったっていい。しかし、自分の間違いを認められず、怒られることばかり恐れていた僕の心に強く響き、今も僕という人間を支え続けていることは確かだ。
 先生という存在は、子共が成長していくなかで、両親以外の一番身近な大人だ。そして、その大人の言葉は子供の人生さえも変える。「先生」にはそんな力が隠されているんじゃないかと僕は思う。
 

  奥村(山田) 緑 (18期HR39)
 結婚して資格を取り、保育園で働いています。青学時代を知る方には、うさぎやくまのついたエプロンをして幼い子の中にいる姿を、想像して頂けますか?3年前に命ぜられて、法人と園のお財布を預かり、今は給食の献立にも手を出す事になりました。“何故?”何か保育でミスをしたのか“と思い悩みもしましたが、事務室の窓から子ども達の遊ぶ姿を目で追いながら、高等部時代を思い出しました。儘田先生に学んだ数学の楽しさ、期末考査があっても敢えてとった登喜先生の調理の授業、一つ一つが今につながっているのでした。”オクせんせい、おはよう“と抱きついてくる子ども達にエネルギーをもらい、成長する姿に再び学ばされて歩んでいます。
 


2003年 9月 テーマ:文化祭

   須貝 俊男 先生 (国語 S43.4〜 )
 今年も文化祭が近づいてきた。高等部の文化祭はHR参加が基本だから、二学期になると、どの教室も後方や横の空きスペースに、準備途中のベニヤ板だの発砲スチロールだの塗料の缶だのが、所せましと置きならべられた中での授業となる。好ましい光景とは言えないかも知れないが、長いこと生徒会の顧問をしていた私は、このワサワサ感というか、ウキウキ感というか、学校全体が一大行事に向かって具体的に動いているという雰囲気は決して嫌いではない。昼休みや放課後には、実行委員会、チーフ会、何々パート会と、大小の会議が連日のように開かれ、ユニフォーム姿の実行委員やパート員が生き生きとした顔で、あるいは何やら思いつめた表情で飛び回る。
勿論一般の生徒もHRの、あるいはクラブの仕事に忙殺される。こして当日を迎え、三日間大いに盛り上がった後の閉会式では、実行委員長を始めとして全ての生徒が大きな達成感を味わうこととなる。
 ところで、今年から高等部は五日制となり、三年生の学力テストが九月の初めに行われることになった。文化祭にどう影響するかは終わってみなければ解らないが、生徒、教員共に協力して、これまで以上の文化祭を創り上げていきたいものである。 
 

  吉川 裕美 (3年HR309)
 私が高校受験の時に青学を受けたいと思ったきっかけは、高等部の文化祭でした。とても楽しそうで印象的でした。入学して私は文化祭を一番楽しみにしていたのでチーフに立候補しました。チーフの仕事は思った以上に大変で、昼休みや放課後に何度も集まりがありました。一年の時には「たす球」と題して卓球をしました。夏休み中からクラスが集まってベニヤ板にペンキを塗ったり、前日にはみんなで風船をふくらませました。こうして出来上がった「たす球」は大成功で沢山のひとに来てもらうことができ、学年三位も受賞しました。二年生でも私はチーフをやって、縁日をやりました。まとまりがなかったうちのクラスに不安を感じることもあったけど、この文化祭でクラスの仲が確実に深まったと思いました。チーフの仕事はとても達成感があり、良い経験をすることが出来ました。
 

  田中 政彰 (17期HR315)
 卒業を控えた高等部3年の文化祭の事は、心の片隅に残っています。各クラス5〜6人の班に分かれて、思い思いのテーマを選んで研究成果を展示しました。どんな内容だったかは記憶にないのですが、連日下校時間を大幅に超え、最後の仕上げに集中したのを覚えています。この時ばかりは、団結心もみなぎり皆一生懸命でした。
 公開を終えた後の充実感はひとしおでした。後片付けも終わりまだ興奮冷めやらぬ我がHR315の面々は、担任の田中昭雄先生に先導され、渋谷の街に繰り出したのでした。そして確か東横デパートの大食堂でラーメンをご馳走になったのを、つい昨日の事の様に覚えています。


2003年 8月 テーマ:夏休み

   生出 隆 先生 (数学 S41.4〜 )
 私は現時ゴルフ部の顧問をしていますが、私にとっての夏休みは何といっても、ゴルフクラブの合宿ということになるでしょう。ゴルフ部は現在50名という大世帯で、合宿は昨年から37期の福島範治君が副社長をしている鹿沼カントリーでお世話になっています。コーチは19期の富澤為一さん(熱血漢で彼なしには合宿は成立しません)コーチ補佐には青学大4年の伊藤晴祥君、2年の広川洵子さん、更に副顧問には33期の渡辺健先生、このように同窓生の協力なしには、合格が成立しないのが現状です。現在の部員の中からも、将来ゴルフクラブの為に、協力してくれる人が出ることを期待している次第です。 
 

  川上 紘子 (3年HR310)
 夏休みと言えば部活!中等部で吹奏楽部に入り、続けて高等部でもブラスバンド部に燃えた。毎日帰宅してからも部活の事に時間を費やし、夏休みともなれば殆ど毎日部活をしに登校。体育系文化部と言われる由縁だ。一人一人違う個性や能力の大勢の人達と一つのものを作り出す醍醐味が楽しくてたまらない。特に朝から晩まで部活に没頭出来る夏合宿は最高の日だった。音楽指導担当になった年には、私の持てるもの全てを惜しみなく生かして部員80人の指導に力を注いだ。合宿から帰るとすぐ東京都吹奏楽コンクール。積み重ねた努力を信じて心を合わせて一つの音楽を奏でた。そしてなんとここ数年縁が無かった銀賞を受賞したのだ。支えて下さった方々に感謝で胸が一杯になり仲間達と涙でぐしゃぐしゃになりながら感動を分かち合った。そして今夏、私は音大生達と競うオーディションを経て、プラハの国際音楽祭で日本代表の一人としてフルートを演奏する。
 

  狩野(渡辺) 澄子 (16期HR34)
 高等部一年の夏休み、クラスの友達の鎌倉の別荘に出かけました。4人で3泊4日の自炊生活は実に楽しいものでした。海にゴムボートを浮かべて乗って遊んだり、当時、流行っていた“シェー!”のポーズを決めたスナップ写真も懐かしく、海で遊んだ帰りにはお買い物をして、各自が得意料理に挑戦したのです。果たして・・・。夜は布団の中で沢山おしゃべりに花を咲かせました。親元を離れてドキドキ、ワクワクの貴重な体験でした。きっと、この計画は、お昼に高等部の食堂でアイスを食べながら練られたのではないでしょうか。
 


2003年 7月 テーマ:クラブ活動

  澤田 隆 先生 (教頭 英語 S40.4〜 )
 クラブは同好の士がお互いに協力しながら自己開発をする場である。その手段として試合やコンクールや発表がある。試合で勝ったり、コンクールで金賞を得ることは確かに嬉しいことであるが、それは目的ではない。私自身高校時代にパープルクラブという名の器械体操部に所属していたが、インターハイでは東北大会を超えられず悔しい思いをした。高等部に勤め、試合のない山岳部の顧問をして、クラブは自己研修をその目的とするという意識を強めた。その後、水泳部、サッカー部、ゴルフ部の顧問をしたが、クラブ員は皆夫々工夫を凝らして練習しているのを見て、どのクラブでもその体験は必ず将来に生きることを確信し続けている。 
 

  藤島 哲祐 (3年HR311)
  僕にとって今までの高校生活の中で一番かけがえのない存在であったのは言うまでもなく部活である。幼稚園の頃から根っからのサッカー少年であった僕は入学するやいなやサッカー部に入部した。しかし始めの約一年は礼儀、私生活面での規律などサッカー以外の面で制限がある事への自覚に欠け、部に多大な迷惑をかけてしまった。そんな事もあって自ら腐りかけていた。しかしその時熱い拳と心で僕を感化してくれたのが顧問の小島先生だった。その時先生とサッカー部を死ぬ気で最後までやり抜くという約束をした。僕は心をいれかえて約束のためにも本気でサッカーをしまくった。副キャプテンにもなり、チームも連続都大会出場を果たすなどいい流れに乗ってきた。しかしまたしても僕にとって大きな壁が立ちはだかった。それは受験だ。僕は中等部の頃から受験すると決めていた。最近は部活との両立もかなりきつくなってきて体調を崩すこともしばしばあった。そこで限界に達し僕は小島先生に引退を考えていると相談した。先生は僕の人生なのだから僕の決めた道を進めばいいと言ってくれた。そして約束は現役合格へと変わった。正直すごい辛い選択だった。だからこそ小島先生や理解をしてくれた部員達のためにも絶対合格をつかみとりたいと思う。
 

  瀬戸 秀子 (15期HR30)
 テニス部で思い出す事は、まず夏の追分での合宿です。早朝一番のランニングや、うさぎ跳びは苦手でした。又、水が飲めない為スライスレモンを持っての練習でしたが、汗をふきふきコートで皆がファイトと、声をかけあってボールを追いかけている姿が浮かんできます。
40年も前の事で断片的ですが、不思議と種々のことが、思いだされます。先日、久しぶりにクラブの仲間と会い、懐かしい時を過ごしました。テニスからは、お互いファイト、ドンマイと励まし、前衛、後衛が協力してプレイする事、一つの事に集中する充実感、楽しさ等を学びましたが、一緒に行動してきた友との出会いによって尚、思い出深いものになっているようです。
 


2003年 6月 テーマ:友達

   飯沼(米田) 千鶴子 先生 (国語 S40.4〜H3.3 )
 高等部に入学した時、勿論友人と呼べるひとは誰もいず中等部から来た人は、既にグループを作り、入り込む余地はなかった。そのような時「馬が合う」と言うか、感性や価値観が一緒の人達に会い、友達になった。中等部から来た二人と外部入学者三人のグループは、毎日お喋りをし、心の悩みを打ち明け合い、下校時はいつも一緒だった。親友なんだと満足していたのだ。
 卒業後は皆別々の道を進み、各々の生活が始まった。会うこともままならなかった一年後、仲間の一人の自殺の報に接し、強い衝撃を受けた。自殺する前の友の苦しみを何故解らなかったのか。その辛い思いは、この年齢になるも残っている。若い時の友人関係では、目先の楽しみや気持だけにとらわれ、心の深部までは踏み込むことはしないし、出来ない。
 友達は、試行錯誤を繰り返しながら、相互の信頼関係を築き上げて作っていくもので、親友と呼べるものを持つのには、努力も必要なのだと、それ以来痛切に感じている。 
 

  東井 有香 (3年HR301)
 私の一年間の楽しみの一つに、中学の同窓会があります。毎年行われ、再開を楽しみ、近況を報告しあいます。
 私は中学時代をメキシコで過ごしました。日本人学校に通っていたのですが、そもそもメキシコに駐在に来る人があまり多くないので、日本人学校の生徒も余り多くなく、小・中学部あわせて二百人いるかいないかでした。まして中学生は少なく、一学年三十人いれば良い方でした。そんな中で育ったため、一人一人が全員と友達になり、交友が深まりました。
 そんな訳で、年に一回の同窓会は、親しかった友達と会える、楽しみな日です。
 私は、同窓会で互いの変化や近況を知ることができるため、こんなにも心待ちにしているのだと思っていました。が、それもあるものの、それ以上に「友達に会う」こと自体が楽しみなのであり、私の中での友達の存在が大きいことがわかりました。一こんなにも大切な友達―これからも交際を続け、一生「友達」でいたいと思います。
 

  山口(岡田) 愛子 (14期HR32)
 幼い頃から半世紀のつきあいの友。青春時代の何とも楽しい賑やかな仲間達。子育てを通じての頼もしい面々。共通するのは、利害関係なしに何でも話せること。日常生活の中では、それぞれ、身構え、装っていることも多々あるけれど、友との語らいは、ただリラックスの一言。互いにグチをこぼすこともあれば、自慢しあって喜びを分かち合うことも。率直な意見交換で議論に発展すれど、後腐れなし。身内でなく、他人でなく、互いに思いやり励まし合い、元気をもらえるのが友達。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」という聖句も思い出す。将来的には、友達同士のケアハウスもありかなと思ったりするこのごろです。
 


2003年 5月 テーマ:放課後

   古賀 節子 先生 (英語 S40.4〜S49.3)
 一口に「放課後」と言っても、年齢によってその思いは違ってくるでしょう。私の場合は、鉄棒から落ちて骨折したこととその痛さを想い出す小学校時代。戦後混乱期の女子高等部では、放課後職員室に呼び出され、わけも分からないことで叱られたこと。物資欠乏時代の大学生時代は、クラブ活動に励んだり映画を観たり、渋谷駅裏の喫茶店で、コーヒーを飲んだこと等々。そして、今、私は、人生最後の放課後とも言える時を過ごしています。その想いは、皆さんの先輩の詩人村上博子さん(昭和25年卒)が謳ってくれています。

                  想い

            過ぎた  日々は 愛しく
            未知の  日々は
            かみの  みてのなかで
            ふくらむ
 
 

  湯浅 徹也 (3年HR302)
 光まばゆいばかりに輝き、吹き抜ける爽やかな五月を迎えると新学期初めの緊張感も緩み、皆部活や各々の趣味に精を出しています。一方でなかなかHRでまとまる機会が少なくなりがちな中で慣例のバレーボール大会が近づいて来ます。放課後になると中庭にHRが集まって一つの大きな円陣を組んで大声を掛け合い終礼近くまで練習をします。一年生はHRデーに次いでクラスの友人と絆を深める機会として、二年生はこれから卒業までのクラスで良いスタートを切れる絶好の機会として、そして三年生は高等部生活最後のスポーツ大会を盛り上げるために一生懸命です。今年もついにその時期が到来して来ますが、その前に中間試験という頭の痛い事があります。しかし、試験後に待っている六日の一大イベントをカンフル剤に乗り切って行きたいと思います。
 
 

  井上(土屋) 節子(13期HR37)
 同じ学び舎で同じ時を過ごしたから?同じ考えの基盤で話が通じるから?職場や近所の方との付き合いとは違うほっとした時間や、空間があるのが、母校の友達との再会、そのように感じています。青山学院の仲間だからなのでしょうか。
 公立小学校に勤務した私としては、母校の先進的な教育方針、ことに一人一人を大切にした自由な校風が、友達との密度の濃いかかわりを可能にしたのではないかと思えます。『人』とのかかわり方が上手くできない子どもや保護者が増えていることは事実です。学力も必要です。でも自分を支えてくれる人、分かってくれる仲間の存在はもっと重要なことだと考えるこの頃です。
 


2003年 4月 テーマ:入学

   二谷 隆太郎 先生 ( S34.4〜H14.3 )
 人間誰しも、新しい立場に立ってスタートを切るときは緊張と同時にある種の新鮮さ覚えるものです。人生の中で飛躍的に成長するこの大事な時間に、その緊張と新鮮さを持続させ、狭い世界観や偏見から己を解放し、自分の営みが他の人々の平和な生活とつながるような生き方ができるように成長し得るかどうかが課題でしょう。本来学問の府であるべき大学が企業的な性格を深めているこのごろでは、人間らしさを求める文学や哲学的な思索が片隅に追いやられる傾向にあります。友人や先生方や親兄弟などと緊張関係の中でそうした思索を深める努力を忘れないで下さい。 
 

  朝比奈 ゆみか (2年HR203)
 まさに桜が綺麗に舞う2001年4月上旬、私は青山学院に帰国生として入学した。親と離れでPS講堂に入ると既に、緊張気味の外部生をよそ目に前の方で友達と同じHRになった等と騒いでいる内部生が騒いでいた。式が終わり中庭で同じクラスらしき集まりの所にいくと、私が誰々に似ている等の話題で内部生が沢山声を掛けてくれた。それが嬉しかったので私もなるべく外に声をかけようとした。その時の友達とはHRが変わった今でも付き合いがある。外部生は最初知っている人がいたとしても少なく同学年だけで約500人いる生徒を把握するのは大変だけど、その分内部生には無い中学での体験などがあり、青学のように色々な地域から生徒が集まる学校での交流はとても新鮮だと思う。今でもたまにお互いに話がわからないことがあるけど、分け目などは関係なくみな仲が良い。
  

  深沢 克麿 (12期HR31)
 社会人になって「学ぶ喜び」を知った私は入学の経験もいろいろある。しかし、子共の頃から新しい環境に順応できずに悩んでいる。多くの人にとってワクワクするような体験も内弁慶の私にはドキドキすることになる。
 これまでのドキドキ人生で唯一の例外が高等部への入学だった。クラス数の多さには圧倒されたけれど、中等部入学時には馴染めなかった礼拝の時間もすっかり生活の一部なっていたし、話をしたことのない先輩たちも含めて、学内には見覚えがある顔も多かった。自分の周囲に沢山いた美少女たちの存在にも気づく余裕さえあった。それまでのモノクロだった人生が、突然、色づき始めたことをはっきり覚えている。ああ、なつかしい!
 
 


2003年 3月 テーマ:卒業

   勝野 栄一 先生 ( 英語S38.4〜H10.3 )
 池雪国民学校は現在の大田区立の小学校ですが、卒業写真に写っている木造校舎はその2か月後に空襲で焼失しました。青山学院中等部は戦後の教育制度が変わる時で卒業式はなかったと思います、記憶にありません。男子高等部では、名前を呼ばれ壇上に上がり、村上精一部長、豊田實院長と握手をしました。当時はあまり握手する習慣がなく、院長の柔らかい手を覚えています。大学はPS講堂で、高等部と同じように名前を呼ばれその場で立ち上がりました。イリノイ大学の大学院は一年半で卒業したので、六月の式に招待状が来ましたが、出席出来ませんでした。生徒の名前を呼ぶ立場になり、才能が豊かでまた人格のりっぱな生徒からは多くの事を学びました。 
 

  武田 佳美 (2年HR204)
 部屋を片付ける時には、たくさんのものを捨てる。それらは以前私が買ったものだったり街頭で貰ったものだったりと様々だ。しかし買ったとき、私は確かにそれらと出会っている。だが捨てるとき、私は過去のものであるそれらに別れを告げる。それは一種の「卒業」だと思う。それは必然的に別れるというのではなく、自らの意思によって以前の自分や物に別れを告げるということだ。もちろん、一般的に「卒業」と聞いて連想するのは「学校を卒業する」ということだろう。しかしこれは自分の意思ではなく、時間の経過、学業の修学などによる外部から無理やり与えられる「卒業」だ。それを思うと、外部から与えられる「卒業」というものは何と無精なのだろうと思わざるを得ない。自ら出会い「卒業」を決めた物達。私はこれから先もたくさんの物に出会い、そして別れを告げる。だがその一つ一つが無駄であったと思いたくないし、外部からの「卒業」も同様である。
 

  鈴木 健彦 (11期HR36)
 まだ、自分が何かの仕事をなし終えて卒業出来たとは思っていません。むしろ学校の卒業というのは形式的なことだと思っていたので、卒業にあまり感慨もありませんでした。しかし、高等部の卒業には特別の意味があったと感じます。なぜかと考えると、次のことに尽きると思います。それは、中等部、高等部を含めて学校生活が楽しかったからです。先生方も含めて、一人一人がみんな美しく生き生きとして光っていたからです。学校生活が終わって欲しくないし、終わりが来るなどということを考えてもいませんでした。あの時のあの時間は生涯二度と味わえない時間でした。私を含め皆さんも多くの思い出と経験を胸に秘めていらっしゃると思います。それらの思いは、口に出さなくても、あの時期みんなで共有したものです。今学生生活を送っている皆さんもこのように感じていられることを期待します。最後にあのような自由な明るく楽しい環境を作って下さった先生方、共に同じ時を過ごしていただいた同窓生方々にお礼を申し上げます。
 


2003年 2月 テーマ:試験

   宮ア 基和 先生 ( 理科S32.4〜H5.3 )
  試験と言っても、高等部の入試については現役の松本通孝先生が以前述べて居られるので、日常的なテストについて触れよう。テストは本来学習の達成度→成績→進級の流れの中で、プラス思考的には自己を育ててくれる、励ましてくれる、達成感と喜びを与えてくれるものであり、マイナス思考的には労力と不安から“この世に試験が無かりせば・・・”なんて恨めしがらせることにもなる。一方、試験を課してきた立場からすれば問題作成にはそれなりの苦労もあり、その結果によっては教え方や力不足の反省ともなり、図らずも不本意な成績をつける段になると夜も寝られないくらい悩んでしまう。これぞ教師の宿命なのかも知れない。 
 

  松下 絵里香 (2年HR205)
  私は中等部生の頃、高等部生になる事が嫌だった。その理由の一つに試験があった。「高等部は中間試験でも四日間もあるんだって。」と友達から聞いていた私は「そんなの耐えられない。」と思っていたのだ。高等部生になれば慣れてくるのかなと思っていたが、二年生になった今でも試験が近付いてくると憂鬱になる。もちろん入試とは違い「出来が悪かったから不合格」なんて事はないが、とても緊張感がある。私の場合試験期間中より試験前の一週間が一番つらく感じる。私の友達の中には「試験期間中の緊張感が好き」と言っている人もいるので、試験の感じ方は人それぞれなのだろう。試験嫌いな私だが、試験がある事により習った事を自分の物に出来る。この事は一番大きい利点だろう。そして終わった後の達成感は何とも言えない。高等部生にしろ大学生にしろ社会人にしろ、試験と離れる事はできない。これからも試験が好きになる事は有り得ないと思うが、頑張って生きたいと思う。
 

  家次 二郎 (10期HR30)
 小さい時から宿題と試験は“呪い”の対象。PS講堂での“祈り”の対極。だがその量は祈りの比では無い。学校の勉強は将来何の役に立つのか?
トップが居ればビリは必然。合格者は落第者の上に成立。優勝劣敗は世の習い?ナザレのイエスは何と云う・・・。
 ママちん(担任:儘田先生)がテニスコートから校舎に向かって飄々と歩いて来る。試験前日の放課後の校庭。ツッパリで、野球をしているカワイイボクの前に来て、ニコニコしながら一言『ジロさん、付け焼き刃でもいいから勉強しろよ。』と言って校舎の方へ去っていった。
 何故“ニコニコ”なのか。何故“さん”付けなのか。何故“付け焼き刃でもいい”のか。何故俺ごときに声を掛けたのか・・・。
妙に印象に残り、今に至る。もうすぐ還暦だが、ずーと試験は嫌いで付け焼き刃人生。正に「少年老い易く、学成り難し」だ。
 


2003年 1月 テーマ:礼拝

   山村 富太郎 先生 ( 数学S30.4〜H6.6 )
 1955年、私が青山学院高等部の数学科教師として奉職する際、英文学者として有名であり、当時院長であられた豊田実先生と院長室で一対一で面接する機会が与えられました。その時先生は『数学の先生でしかもクリスチャンというのへ珍しいですね』と言われました。
 しかし、私が、クリスチャンとして信仰が強められたとすれば、その後、年に1,2回、PS講堂での礼拝の時間に大勢の生徒たちを前にして、真剣に聖書の証しをせねばならなくなってからといえるでしょう。
そうした、証しの中でもっとも私の心を揺るがし、生徒たちに紹介した言葉は次のマザーテレサの言葉でした。
「この世でいちばん美しいことは、神様が私たちを愛して下さるように、私たちも互いに愛することです。私たちがこの世にいるのも、この目的のためです。」
「人間のほほえみ、人間のふれあいを忘れた人がいます。これはとてもとてもおおきな貧困です。貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です、私たちが分かち合わないからです。」
「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。私たちは忙し過ぎます。ほほえみを交わす暇さえありません。ましてや、愛を与えたり、受けたりする暇はないという状態です。」
「神の愛の輝きとなるためには祈りが必要です。祈りは済んだ心を与えでくれます。澄んだ心は、神様を見ることができます。神様は見ることができたら、愛が始まります。」 
 

  中村 ひろみ (3年HR309)
 高等部に入学して私は初めて礼拝に参加しました。私はクリスチャンではありませんが、礼拝の荘厳な雰囲気にはいつも圧倒され、またそれを快く感じます。礼拝の中で一番好きなのは賛美歌です。耳にしたことのある歌が意外と多く、楽しく歌うことが出来ます。高等部では、イースター礼拝、また伝道週間の普段より20分長い礼拝、生徒や留学生がお話する礼拝、聖歌隊やオルガンによる賛美礼拝などバラエティーに富む礼拝が行われます。以前大学の外国人の先生が薩摩琵琶を片手に歌って下さったこともありました。これらの礼拝は毎日を平凡に過ごす私達にとってちょっとしたスパイスになるのです。また、入学以来三年間、HR礼拝委員を務めていますが、点火祭やクリスマス礼拝など大規模な行事をお手伝いできて、一味違った高校生活を送ることが出来ました。ほぼ毎日礼拝に参加するという生活は、私の生涯において印象深く残っていくものだと思われます。 
 

  牧野(平山) 恵美子 (9期HR30)
 高等部時代、幼い時から通っていた教会をやめ、いろんな教会めぐりをしていた私は、何かを拒否し、何かを求めていたように思う。PS講堂の座席は覚えていても、申し訳ない事に先生方のお話の内容は記憶に乏しい。それでも、学校で毎日聖書を聞く時間を与えられたことによって大きな迷い道にそれなかったのだと思う。ある時友人に、生きている意味を問われ、彼女の苦しみに思い至らず、唯「自分は生かされているだけだ」と答えたことがある。悩み、祈り、彼女は卒業後の春に受洗。私はその後に続いた。各々に“時”は定められていたのだ。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」
何と恵まれた青春時代だったことだろうと改めて思う。
 



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