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聖母マリアはキリストの足下で両腕をクロスして胸に当て、裁かれる人々に目をやっています。思えばそれは楽園を追われるエバが自分の犯した罪の故にとっていた姿と重なります。いま聖母は、人々の犯した罪の執り成しの故に同じ姿をとっているのではないでしょうか。
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キリストの左足下にいるバルトロマイは剥がれた皮をぶら下げています。これは彼が皮剥ぎの刑で殉教したことを示していますが、その皮にミケランジェロの自画像があることがわかりました。バルトロマイとは「トロマイの息子」を指し、彼の名はナタナエル(神の賜物)です。自分の才能は神からの賜物でそれを活かさなくてはならない、と考えた彼らしい選択といえます。しかもバルトロマイが手を離せば地獄へ真っ逆さまという謙遜さすら意味したのでしょうか。
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画面の左下には復活し墓から起き上がり、天へ向かう人の姿があります。信仰の印のロザリオで救い上げられているのは、浅黒い肌のムーア人、イスラム教徒でしょうか。かなり大胆で現代的な問いかけです。
信仰によって救われる彼らの上方には、強い希望で浮き上がる人、また天使の愛に導かれて救われる人の姿が。信仰と希望と愛によって救われる人たちです。
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「信仰による救い」は宗教改革者ルターの主張ですが、ミケランジェロは当時、アルプスの北から届く印刷物でルターに共感していた節があります。「彼はルテラーニ(ルター派)だ」との非難も起こりましたが、これに何の反論も試みてはいません。
画面右下には地獄へと落ちる人々の様子があります。この部分はダンテの『神曲・地獄篇』によっています。彼は同じフィレンツェ人としてダンテを尊敬し『神曲』を暗記していたといいます。
こうして完成したシスティーナ礼拝堂に身を置きフレスコ画全体を眺めると、ミケランジェロがこの礼拝堂を開かれた聖書に仕立てたことに気づきます。祭壇に向かって左と右の壁には建設当初から旧約・律法を代表するモーセの一代記と新約の愛の律法の完成者、イエスの生涯が描かれています。そこには旧約と新約のエッセンスが展開しているのです。そして天井には聖書巻頭の物語、人の誕生と堕罪の現実を示し、正面に対峙するのは聖書巻末、黙示録にある終末と最後の審判の出来事です。礼拝者はクリスチャンとして帰し方行く末に想いを馳せつつ聖書の只中に立って礼拝をささげ、瞑想と祈りのときを守るのです。
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最後に、詩人としてのミケランジェロが晩年に書いた詩と死の数日前まで削り続けた最後の作品『ロンダニーニのピエタ』をご紹介します。
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