証言書

最高裁判所  殿


私は、《自衛官官舎に反戦ビラを配布したことが二審で「有罪」になった》ということにとても驚き、衝撃をうけています。

実は私も、小牧基地の自衛官官舎に反戦ビラを配布しています。私が小牧の官舎に行ったのは二〇〇三年の十二月十三日です。

十二日の朝刊(朝日)の「自衛官の妻」の記事を読んで、いてもたってもいられなくなったからです。(このときの手紙ビラを参考に読んでください)

もし、ビラを配布したくらいで逮捕されるような世の中になっているんならなおさら、逮捕されてでも、どうしても「自衛官の妻」たちに、わたしの手紙を渡したい――という切羽詰った思いがあったからです。

そもそも憲法ができたとき、『あたらしい憲法のはなし』(昭和二二年、中学一年の教科書)には、もう二度と日本は戦争をしない。そのために軍隊は保持しません。みんなで民主的で平和な国をつくっていきましょう――とかいてあります。しかし、その後の六十年をみていて、政府というものは、憲法でもなんでもその時々の都合によっていかようにでも解釈してまげてしまうものなんや、ということを私はつくづく感じています。そやから、憲法の条文どおりに考えれば、自衛隊は違憲やし、まして海外に自衛隊を送るなどもってのほかやし、政府が間違ったことをしたら、それに対して異議を唱えることは私たちに保障された権利のはずや。なにも反戦ビラ一枚を配りにいくのに、「逮捕されるかもしれない」なんて大袈裟な心配する必要はないんや。そやのに、わたしのこころのなかにはすでに政府のすることに反対するものは取り締まりの対象としてみなされる、という危惧ができてしまっているのでした。

だから、翌年の二月二十七日、立川テント村のひとたちが「住居侵入罪で礼状逮捕」されたと聞いたときは、「ええっ?! そんなあ」とびっくりしたけど、「やっぱり」とも思ったのでした。「お上」にたてつくとこうなるんやぞ、ということを警察は天下に示したんや、とおもいました。

ひとりひとりの反戦の気持を自由に表現できる国――というのは、誰でもそれが気楽にできるという状況が保障されている国――ということです。日々の日常のくらしのなかから時間をつくって、反戦ビラを配布するということは、けっこう決意がいるし、面倒なことです。ましてやそのことでガサを食ったり、逮捕されるかもわからんなんていうことになると、その対策を考えるだけでやる気が萎んできます。まさに、このことこそが私たちにとっての最大の問題です。そして、現に、立川のひとたちが逮捕され、二審では有罪にされてしまった……。この国には、反戦の気持を表現する自由は保障されてないんや……。

私は一度は逮捕も覚悟して小牧基地に向ったのに、二度目の決心ができません。何度でも手紙をかいて小牧基地に行こうと思ったはずやったのに……。自衛官官舎のビラ配布に対する、警察の逮捕・ガサ弾圧は確実にわたしのこころを萎縮させました。効果絶大です。

こころの萎縮・恐怖を国民に与えることによって反対意見をつぶし、賛成多数ということでつくりだされる民主政治というのは一体何なんなんでしょうか。私はそういう警察権力をバックにした政府のやり方を糾すものとして最高裁判所があるものと信じたいのです。もし、そうでないとするなら、民主国家とは名ばかりの警察国家ということになります。

私たちの口からいまもって、つい「お上」ということばがでてくるのは、ビラひとつ撒くのにも警察がでてくるという尋常ならざる事態が現にあちこちにあるからです。

最高裁判事殿 どうか教えてください。この国においては、私たちに自衛隊海外派兵に反対する自由はあるのでしょうか。そして自衛官やその家族のひとたちにそれを直接伝える自由はないのでしょうか。

二〇〇六年五月七日

水田ふう

愛知県犬山市鵜飼町666


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