風
45号

2006.9.15

わが忘れなば…… 『女掠屋リキさん伝』刊行案内

水田ふう


▼ご無沙汰しています。▼今号は刊行案内のための宣伝号。内容については本文を読んでください。これは、去年刊行した向井さんの『アナキストたち――〈無名〉のひとびと』の姉妹編。いますぐ読まないでも、二冊いっしょに買い揃えて、是非あなたの本棚に並べてください。▼定価千八百円。送料二百円。▼十月中には発売予定。予約受付中です。同封の予約用紙をご利用下さい。発売中です。

▼今年の夏は暑かった。「リキさん伝」は、なかなかはかどらんのに、船戸与一の分厚い小説「砂のクロニクル」「夢は荒地を」を汗をふきふき夢中で読んだ。こういうのを小説というんやなあ。「蝦夷地別件」もおもしろかった。

▼八月は夕方になるとついつい涙ぐんでしまうんやけど、六日の向井さんの命日には名古屋や大阪や東京から友人が訪ねてくれて、うれしかった。まる三年になる。▼それにしてもおいちゃん、男が生まれて世間は大喜びしてるようやけど、男だろうと女だろうがあたしらにとっちゃあ、「敵」やいうことは忘れへんからね。(風)


『女掠屋リキさん伝』が、やっとできる。今月中には印刷所に持っていけると思う。今年の三月の終わりに一応第一校をおえてたんやけど、そのあとでまた大幅に手を入れることになってしもて、夏の暑い盛りにも毎日まいにち手を入れ続けて、やっと今日、宣伝を兼ねて「風」をつくろ、と思いたった。

向井さんに連れられて伊勢のリキさんに会いに行ったのは七四年のこと。そのとき聞いた「聞き書き」をもとに一ど六〇枚ほどにまとめたんやけど、それきりほったらかしのようになって……。「女掠屋リキさん伝」ふう&こう――として「風」に連載しだしたのは、リキさんが亡くなった九年後の一九九六年やった。それを九八年の十一月まで一四回続けて中断。なんとか切りをつけようと〇三年六月の「黒」に連載一五回を唐突に載せて未完的完了にしたんやった。

三年前、向井さん死んでしもて、なんとなく自分で宿題のように思って一冊にまとめ始めたんやけど、ああ、もっと向井さんに訊いときゃよかったいうことばっかりや。それにリキさんに聞き書きした時、わたしは二七歳で、おいちゃんは五四歳やった。ほんまになんも知らんかった。

いま、わたしはその時のおいちゃんの年も追い越してもうすぐ六〇やんか。あのときは質問ひとつようせんかったけど、いまなら訊きたいことがいっぱいでてきてる。いまさらに後悔しきりや。

それでも、手許にある資料に改めて目を通したり、また、新しい資料を探し出してつけ加え、「黒」刊行同人の中島くんといっしょに読み込む共同作業をやって、なんとか目鼻がついてきた。これは「黒」で向井さんといっしょにつくろう云うてた最後の本や。

去年やったか一昨年やったか、オーストラリアで暮らしてるCさんが訪ねてきた。そして、向井さんの写真の前に一冊の分厚い本を供えたんやった。

彼女は六、七年くらい前に向井さんを訪ねてきて、リキさんのはなしや向井さんのアナ運動史の見方をきいて帰ったんやな。そのとき、オーストラリアの大学で日本のアナキズム運動についての論文をかいてるということやった。それが出来上がったんで、彼女はそれを本にして持ってきてくれたんや。

英語でかいてあるから中味はさっぱりわからんのやけど、論文を読んだ担当の教授はこんなふうなことを云うたらしい。幸徳秋水、石川三四郎、大杉栄、伊藤野枝、山鹿泰治、その他のアナキストは資料もないし、聞いたことがない。日本でアナキズムが無名のひとにたちによって担われたという事実はない。だから、あなたが書いたひとたちはアナキストではない……。

学者いうのは、ともかく何らかの資料を根拠にして、実証的にものを書くべきなんやろ。でも、資料を残さなかったもんは存在しなかった、いうんでは話にならんやろ。だからこそ、いろんな歴史の見方、記述の仕方が出てきてるんやないの。まあ教授いうんやからそのくらいのことはわかってるはずなのに……。その論文にたいしてテッサ・モーリス・スズキさんの意見は別やったらしいけど、まあ、学者いうても、どこにでもそんなんがいるんやな、とあきれてしもた。

それでいえば、リキさんやリキさんの仲間たちなんていうんは、それこそ、塵芥ちりあくたのようなもんやろ。

「リキさん伝」を連載しだしたころ、「なんでこんな人をとりあげるのかねえ」とよういわれた。

「掠」いうのは、わたしらが資本や権力者に搾取収奪された富を奪い返す、いう意味で、クロポトキンの『パンの略取』から来てる。掠新聞、掠雑誌なんかをつくって、広告料、購読料いう名目で銀行、鉄道、紡績など、大会社から金をとってくるんや。

満州事変が起きて、そのうち一九三五年無政府共産党事件、翌年に農村青年社事件とつづいて、アナの運動も完全に封殺され、とうとうどうにも動けんようになってしまうんやけど、大正末期からだいたいその頃まで、アナキストの一部においては、掠もまたごく一般的な活動やった。

向井さんはつらいなあ、哀しいなあ、いうて掠のことを複雑な表情で話してたけど、弾圧がきびしくなって、といって就職もできない。就職したと思えば特高が来てクビや。その日暮らしのまま、明日こそ、明日こそと「待機」が続くような日々。運動も生活も行き詰まって、戦前・戦中についに肺病で死んだり、自殺みたいにして死んだひとらも少なくないんや。どうにもならん無念を抱えて。その無念は、私たちのものでもあるんやないか。

「リキさん伝」は、そんなアナ仲間たちすべての物語なんや。

そやけど、掠・掠屋なんてのは、同じアナ仲間からも、文字通り、塵芥のように扱われてきた。運動史の恥部として黙殺され、ゴミ捨てみたいにしてポイやった。

そやけど、河がたえず渦巻いたり逆流したり走ったり、いろんな小さい流れがあったりしながら、その一切で大きく流れているように、アナキズム「本来」からズレたりはみ出したりした動きを、その部分だけアナキスト個人から切り離すことはでけへんのや。それもまたアナ運動そのものにちがいないねんから。

今回「リキさん伝」と銘打ってパンフにするわけやけど、しかしこれは、決してリキさんだけのでない、リキさんたち・・の物語や。

大正末から昭和初頭は、掠真っ盛りの一時期と重なってる。世間的には、アナの衰退・終焉期やとかいわれてきた。でも、ほんとうにそんなマイナスイメージだけで語れることができるんやろか。

それは、たとえば、いわゆる知識人やなくて、無学でルンプロといわれるような、そこここにいた若者たちが、窮民街でくらしながら仲間をつくり、議論をかわし、ボルでは考えられんような名前の、たとえば野蛮人社いうような小結社をつくり、ブタ箱に頻繁に出入りしながら、各地でいっせいに活動を開始する……そんなアナ運動の新しい質があらわれた時代でもあったんや。

向井さんは戦後すぐアナ連の関西地協でそんな人たちと直接出会うたんやった。

それが戦前戦中を生き残り、戦後もしっかり生き抜いた――小松亀代吉さん、林隆人さん、そして、少しあとのことになるけど、リキさんやった。

それにしても、リキさんにはじめて聞きがきしたときから数えたら30年にもなる。世の中の様子もえらい変った。こんなもんに興味をもつひとはますますおらんやろ。いままで「風」を読んでくれてたひとは、多少リキさんの名前は覚えてくれてるかもしれへんけど、ここに登場するひとたちの名前はどこにも書かれたことのないひとばかりや。そやから読んでも馴染がないし、アナ運動史とか掠・掠屋いうても、ほとんどのひとにとってはまるで関係ないはなしかもしれん。

「掠・掠屋の話なんか、もう誰も書くひといない・・・・・・・・んだからね」って早く仕上げろいうてせかされたから、わたしはすかさず「でも誰も読むひとおれへん・・・・・・・・・・」いうて大笑いしたんやけど、問題はこれなんや。せっかく出来上っても買って読んでくれるひとがおらんことには話しにならん。稀少な本やから、読者かて稀少価値や。けどまあ、いっぺん読んでみて! 全編改稿、ほとんど書き直し。連載を読んでくれた方もぜひ!

リキさんのこと初めてという方に、ちょっとだけ略歴紹介――

▼リキさんは一九〇九年(明42)生まれ。本名は安田理き。伊勢市に生まれる。六人兄弟の四番目。祖父母が天理教の布教師で天理教の理と教祖中山みきの「き」をとって、理きと名付けられた。

▼リキさん10歳のとき、祖父が天理教本部詰になったんで、いっしょに奈良の丹波いちへ。天理小学校の5年に編入。

▼ところが教室のうしろの隅に、机もなく、かたまって坐らされている部落の子たちに気づき、そのことを訴えて、たちまち問題がおこる。再び伊勢へ戻される。

▼「恐ろしい子」として先生からもこどもたちからも危険視されるようになって、学校にいかなくなる。家出をくりかえす。

▼12歳。「死線を越えて」(当時のベストセラー)を読んで、神戸の賀川豊彦を訪ねる。ここで部落のひとたちや、のちに同棲することになる野口市郎と出会う。大阪の婦人矯風会の林歌子や、東京の救世軍山室軍平などのところにも行くようになる。

▼一九二一年(大10)、皇太子ヒロヒトのヨーロッパ行きがあって、その帰国奉告のため伊勢参宮するというんで、九月末、伊勢警察署に予防検束される。リキさん、まだ12歳のときや。

▼13歳。五ヶ月も拘留されて、二月に釈放されたとたん、こんどは三重国児院(非行児矯正施設)に収容されてしまう。脱走数十回。

▼15歳。一九二四年(大13)一月十六日。県知事が国児院に視察にきた、そのドサクサにまぎれて、遂に脱走成功。数日後、大阪の野口の家を訪ねる。そこで一枚のビラを手にする。そのビラは、関東大震災のあとで、ひとはみなひどいくらしをしてるというのに、皇太子ヒロヒトと良子は結婚式に二千万円もの金をかける。ケシカランではないか、というもの。黙ってそれを持って単独上京。

▼同一月二六日。皇太子鹵簿ろぼ先の路上で逮捕される。持っていたビラで不敬罪ということになり、判決六年!

▼19歳。一九二八年(昭3)四月三日。大正天皇死去で恩赦・減刑されて、出所。 そして、それからほんの一年ほどの間にリキさんの境遇は目まぐるしく変転する。

▼五月、丹波市の天理教施設、天理養徳院に引取られ保母見習いとして働く。

▼六月、天理外語学校の学生ストに関係し、養徳院を追われる。

▼七月、アナキスト野口市郎と出逢い、すぐ同棲。

▼一九二九年(昭4)五月二九日、リキさん出産。裕仁ヒロヒトと命名。不敬に問われる。

▼九月十六日。この日、野口は朝、家を出て、それきり一年間帰らず。大杉栄の秘密追悼集会の首謀者として逮捕されていた。

▼野口の留守でいよいよ生活に困ったリキさんは、野口におそわって「掠」をはじめる。というても女いうことでなかなか相手にしてもらえない。この日も掠先の三越で軽くあしらわれ、思わず抱いていた裕仁を投げ出して「もうよろしい課長さん、わかりました。お金はいりません。その代りこの子を置いていきます。三越さんで売ってください」……

リキさんが「女掠屋」として一躍大阪一円にその名をしられるようになったのは、伝説みたいにひろがったこのエピソードからやった……。この後は省略。 あとは買ってからのお楽しみ。

ふう


鵜飼町から

●立川テント村の三人が自衛隊宿舎にビラいれして逮捕され、一審では無罪やったんが、高裁で有罪。現在最高裁に上告中やけど、その上告に際して、証言書を書くように要請があって書いた。(別紙同封)それで、五月三十日は上告趣意書の提出というので、わたしも最高裁にいってみた。最高裁にいくのは二十年ぶりや。

●六月二十日。中島くんと伊勢の青雲荘を訪ねた。リキさんのお葬式以来やからこれもほぼ二十年ぶり。「リキさん伝」のあとがきにこのときのことを書いたけど、その変わり果てた姿に呆然。

●二年前の六月六日、名古屋でサウンドデモをしたとき、長野県からも何人かの若者たちが参加してくれた。で翌年の五月一日、松本でその若者たちが「ダメーデー」をやるというので、名古屋の若者たちに加わって、わたしも返礼参加した。そのとき、鈴木良知くんに会った。なんと、彼のお祖父さんは「農村青年社」の南沢袈裟松さんの孫というのでわたしは大感激したんやった。(これはわたしの早とちりで、その親戚ということやった)ところが、ひと月しかたってない夜、かれはバイクの事故で死んでしもたんや。まだ二三才やった。

突然切れてしまった鈴木くんとの出会いを、鈴木くんに繋がるひとたちで未来につなげていきたい。鈴木くんのおじいさんたちの世代がこの地でやろうとしたこと、やったことの意味をもういちど遡ってみたい――という思いで「鈴木くんを偲ぶ集い」を今年六月二五日に長野の仲間と計画し、相京さんにきてもろて「農村青年社」の話をきいた。(このときつくった資料ご希望の方、注文してくださればおくります)


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