「立場を超える」ということ 
――ひもり孝雄君の死の意味のために

ふう&こう


隣のお宮さんの大きな樹々から蝉がしきりに鳴きだした。

ひもりさんがはじめて犬山のわが家に訪ねてきたのも、ちょうど今ごろ、三年前の七月。あのときも暑い暑い日やった。

それ以来、ひもりさんは毎月犬山に来た。さいしょのときはきっかりの午後三時。次からもいつも電話の予告どおりで、まるで時報のようやった。帰るときもだいたい決めた時間に。夕方四時といったらその時間や。

わたしはひもりさんのそれまでのことはまるで知らんかった。「黒」創刊号の感想の手紙が印象に残ってただけ。それに、わたしらは他人からアナキストと目され、非暴力直接行動いうことを云ったり、やったりしてきたわけやから、ひもりさんからしたら(こちらからも)あんまり接点のない……と思っていた。実際、十年くらいまえやったらそうやった、とひもりさんも云うてた。

そのうち気づいたら、ひもりさんはおいちゃんのこよない酒飲み相手で、誰よりも話を真剣に聞いて、そして誰よりもやさしく老年のおいちゃんをいたわって、来るのを待ちわびるほどのひとになってたんや。

ひもりさんは帰るとき、かならずおいちゃんの両手を取って、自分の額にこすりつけて別れの挨拶をした。おいちゃんも「風」に書いてたけど、あれはなんの儀式?やったんやろか。

ひもりさんがいよいよ帰るときはいつも、おいちゃんといっしょに玄関の外まで出ていって、お宮さんの石垣を曲がるまで見送った。わたしはひもりさんがタッタッタと歩く後ろ姿をみながら、「兵士みたいやな」と思ってた。

そして、二〇〇二年三月三十日夕刻、ひもりさんは日比谷公園カモメの噴水畔で独り焼身死した。

荼毘の日、おいちゃんといっしょに東京にいった。

お別れの後で、斎場ちかくの徳永さんの教会にみんなで移動することになり、ひもりさん縁のひとが何人か、前に出て話をすることになった。指名されたおいちゃんはわたしに代わりにしゃべってくれという。仕方なしに、わたしがひもりさんが家に来るようになったいきさつを少ししゃべって席にもどると、おいちゃん怒ったように「なんでもっとちゃんとひもりのことをしゃべらんか」いうたんや。

そんなふうに云うんやったら自分で話したらええのに……と思ったけど、おいちゃんその日新幹線に乗るのもやっという感じやったし、よろけた足で杖ついてみんなの前に出るのもいややったろうし、それに、何より、ひもりさんのことを話すのがつらかったんや。

おいちゃんは、「報せ」をきいてすぐ、まだコンピュータに残ってたひもりさんからのメールを抜粋して、「風」をつくった。そして東京から帰ってくると、ひもりのことをちゃんと書いておかな、いうて原稿を書き出したんや。

『「立場を超える」ということ――ひもり孝雄君の死の意味のために』という題やった。

いまもバラバラの下書き原稿用紙やメモ書きが残ってるんやけど、夏くらいまで何度も何度も書いたり削ったりしてたんやないかな。それでもけっきょく書きあがらんかった。

「彼は死ぬことで生きたのだ……と思いながら ぼくはやっぱり悲しい。彼がもう生きてないことがつらい。ああひもり君 なんで生きてへんのや もう一どだけでも やあいうて 話することができたら と思うとそれ丈で胸がつまる もうおれへんと思うと涙が滲んできてどうしようもない……」

原稿のわきにこんな走り書きがしてあった。これは、ほかの人の前にはあんまり出さんかったおいちゃんの気持ちそのものなんやけど……。

そして、一年半後、おいちゃんもひもりさんのあとを追うようにして死んでしもた……。

おいちゃんは、途中になった原稿で何を云いたかったんやろか。ちゃんとひもりさんのことを話せいうたのは、どんなことやったんやろ。おいちゃんの字が遺った散り散りのメモを読みながら、ひもりさんのことを(ひもりさんを想うおいちゃんのことを)ずっと考えている。

犬山に来だしたころ、ひもりさんは反弾圧を掲げて大きな集会をやろうとしていた。うちにきたのもおいちゃんをその呼びかけ賛同人の一人に、と思ってのことやったと思う。

おいちゃんはもう三十年来、趣旨に賛成でも、自分が体を動かさないような場合は、小額のカンパだけして、名前だけの賛同人の署名は辞退することにしていた。ところが、おいちゃん、このときは酔っ払ってたということもあったかもしれへんけど、ひもりさんの人柄のよさについついひっかかって? その戒律を破って署名したんや。そして、集会の冒頭に「立場を超えて」という一句を挙げることを提案した。たぶんいろんな政治的思わくがその集まりにはあるとおもうから、この一見使い古され、手垢にまみれた「立場を超えて」ということばを、それが単にスローガンでなく、内実としてそうなるきっかけをつくること、ほんの少しでも、そのような内容がつくれるように力を入れるならと、呼びかけ人の一人になったんや。

そやから、その集会について、おいちゃんはすこぶる関心をもってた。ひもりさんからは集会のためのいろんな資料やレジメが送られてきた。それを読むかぎりでは、従来どおりの集会のやり方で、おもろなさそうやった。「こんな集会やったら行く気せえへん」いうて、わたしはひもりさんに文句つけた。ひもりさんは困った顔して「ぼくだけの集会やないから自分の好きなようにはでけへん」「助っ人として手伝うてるんや」いうねん? そのへんの事情はようわからんかった。

で、わたしは行く気がなかったんやけど、当日になって急に行くことにした。二月二十三日のその〈立場を超えて 反弾圧の輪を!〉「反テロ」――運動弾圧を許さない民衆連帯――と題されたその集会のために、ひもりさんはこの一年ちかく、ほとんどなにから何まで裏方として準備し、東西を奔走してた。そんな中、ひもりさんには犬山に来てもらうばっかりで、たまにはこちらからもお返しせななあ、枯れ木も山の賑わいや、と思ったんや。人が少ないとこにはいくんや――いうおいちゃんの主義にならって。

さて、どれだけの人たちがきてるんやろ、とおもって会場の早稲田奉仕園につくと、拍子抜けするくらい小ホールはガラガラ。それでもボチボチ集まって最終的には四十人ちょっとくらいにはなったんやろか。後で聞いたら肝腎な党派のボイコットにあったと云うてた。遠くから来る人たちのために宿舎まで用意してたのに。

「立場を超えて」――とはならんかったんやな。というより、この日の決議文というのか基調報告いうのは、わたしには「立場を超えて、おれんとこにこい」みたいに読めた。

二次会のひもりさんはピリピリして荒れてた。誰彼の悪口をいうてた。犬山では見たことのないひもりさんやった。日帰りの予定やったから八時すぎに席を立ったら、店の表まで送ってきて「いっしょに犬山に帰りたいよ」って言うねん。

そして、月末二十七日から三月二日まで、ひもりさんは犬山に泊りにきたんやけど、ことばすくなく、失意の底にあるようやった。

ひもりさんはいつも個人として、一人で動いているようやったけど、最後まで党や組織を考えてたから(否定しながらも)、それに付随する「党派性」「組織性」の問題をどう解決していくんか。だから「立場を超える」いうことは、単なるスローガンやなくて、ひもりさんにとってそれは切実な現実問題としてあったし、そのために取り組んだ集会やったと思う。

「あの集会が終わって三日ほどは布団にもぐりこんでた」とも云ってた。そして、めずらしく集会の裏話をすこし洩らした。わたしが寝てしもた後も二時三時までおいちゃんと話してたみたい。

そのときおぼえてるのは、おいちゃんが「救援をやっている以上、獄中者が出て来るまで死ねんぞ」とひもりさんに言ったことや。ひもりさんはそのとき「はい」いうて返事してたのに。

おいちゃんはひそかに心配してたんや。「ひもり君は、太陽の明るい日差しの中で、時折、さーと陽が陰るように奥平・安田の死にとり残されたというか、死に遅れて生きて来たという影が彼をつつむみたいや」と何度かわたしに云うてた。そやから、そう云って釘をさしたんや。

わたしから見たら、ひもりさんは、京都パルチザンの「無名の寄せ集め」からリッダ闘争に加わることで、革命家としてテロリストとして出発した人やった。そしてリッダで死んだバーシム奥平、サラーハ安田さんにつらなる人や。その死をまっすぐに受けとめることで革命を信じ、運動のかたちを求め、そのために党を求めながら党を疑い悩み、みずからのテロリズムの道を最後まで模索していた――

ひもりさんは、自分は日本赤軍やなくてアラブ赤軍やとよういうてた。そして、長い地下生活をやめて丸岡さんの救援のために東京に出て活動しながら、東京は嫌いやと「居場所のなさ」を云ってたけど、あくまで党の側に立つコミュニストとして自分を規定していた。

そんなひもりさんに対して、おいちゃんは「ぼくと問題意識が全く共通していて、アナとかマルということでの差異は、不思議なほど意識にのぼらなかった」と書いている。

ひもりさんはおいちゃんに「イスラエル大使館への献花行動にこんなビラかいたんですけど、題字を筆で書いてくれませんか」とか、浴田さんからこんな手紙が来てるんですけど、どう返事かいていいか困ってるんです」なんて相談をよくしてたけど、そういう具体的なことにはおいちゃんすぐに(喜んで)応じてた。でも、ひもりさんが、おいちゃんにより近づいたのは、なによりも、テロに対する立場の共通性がその一つやったと思う。或は社会一般の反テロの風潮に対する見解の、暗黙の一致があったからやと思う。

二十世紀につづく新しい二十一世紀は、二〇〇一年九月一一日の同時多発攻撃で、国際情勢を一変することから始まった。

ブッシュは世界の諸国家とひとりひとりに、「アメリカに加担同調しないかぎり、すべてテロリストの側とみなす」と宣告し、その二者択一的アメリカへの忠誠を迫った。

それにたいして日本のおおくの市民運動は、「テロにも戦争にも反対」といって、反戦の集会やデモを提起した。その呼びかけビラには「私たちは非暴力を主張しています。だから暴力を肯定するような人々の参加はお断りします」と但し書きがあった。それはまず何よりもテロを、つまり暴力を非難否定することで自己保身的アリバイを確保しながら、その意図を隠すもんや。

おいちゃんは九月のうちに「非戦!」という短い声明文をだした。それを英文にもしようと思ってたら、友人のとこにカナダ人が来ていて翻訳をたのんでくれた。もどってきた英文の声明文は原文と少し違ってた。

「わたしは、このテロリストたちの行為を単純に否定したり非難することには同調できません――」というくだりに抵抗を感じたからということやった。結局、「非戦!」を英語にしてくれたのはひもりさんやった。

そして、ひもりさんは九月下旬、その「非戦!」を赤く大書きしたムシロ旗の前で「僕は、九・一一闘争を無条件で支持する」といって、パレスチナ連帯を訴えて数人の仲間と日比谷公園でハンストをしたんやった。

おいちゃんは「反戦」でなく、「非戦」ということばを使うことで、より強く「戦争的手段を拒否する決意」を表現しようとした。(ところが、その後あちこちで使われだした「非戦」は、反権力という立場がすっぽり抜けてしもてるみたいや。)でも、その内容的意味について、おいちゃんはひもりさんとぜんぜん話しをしていないし、わたしはそのときのひもりさんの「非戦」のムシロ旗の意味は、ようわからんかった。しかし、ひもりさんは「非戦」を率直に自己のものとして受けとめ、それを大きくかかげて行動した最初の人や。そして、その「非戦」の意味をなにより深く考えたのはひもりさんではなかったか――

ひもりさんが亡くなった後に、Tさんがまとめたビデオを観た。それにこの「ハンスト中」のひもりさんが話してた。誰かがひもりさんに「この非戦というのはどういう意味ですか?」と尋ねてる。

ひもりさんは

「戦争によっては何事も解決しない。戦争によって解決しようとすることにたいしては非戦ということです。」(1)

「しかし、現実に戦争がおきていて、その戦争に直接的に加担しているこの日本に住んでいて、自分が殺す側殺される側にたっている。それに対して自分はどうすることができるか。自分と戦争とのかかわりを考える時、自分の命、お互いの命をどう考えるか。パレスチナに連帯というとき、殺す側にひきつれていこうとする小泉なりに反対するだけでなく、国内植民地がますますつくりだされる状況のなかでやらなければならないことは、自分の生活のただ中にあります……」(2)

「(1)についての非戦には〈!〉マークだけど、しかし(2)の非戦ということについては〈?〉なんです。ぼくのなかでもまだ答えは出せていません」

「それをいま、ぼくは考えています」と答えている。

ひもりさんの立場は、リッダ闘争での三人の死とも深く関連して「その彼らの〈遺志〉の継承と再整理」として、三十年後の三月三〇日の最後まで容易に言葉などではつくせないものやったろう。

ひもりさんは「黒」八号「水平線の向こうに――72・5・30 リッダ覚書」でこう書いている。

「9・11でも問われたのは、アメリカや日本、そしてイスラエルなどの侵略と抑圧の国家を亡くすためにどんな立場に立つのか、この一点に絞り込まれている。」

「僕は九・十一闘争を無条件で支持する。……武装した独占による世界支配への、命を賭けた叛逆の側に立ち続けたい」

「七二年リッダ闘争に至る再整理は、九・十一を経て自分自身どのような立場に立つかの再確認である」……と。

その再整理、再確認とはどんなものやったんか……

そして、ひもりさんは、亜人さんへ宛てた遺書に「突然と思われるかもしれませんが、昨年九月に、こうなるだろうとは思っておりました。」とかいて焼身死したんや。これがひもりさんが出した答えやった……

ひもりさんが「死者」についていった言葉がつよく印象に残っている。

二〇〇一年十二月はじめ、「黒」の集まりを持った時、ひもりさんも顔を出した。9・11のことで、議論が紛糾した。A君は「テロにも戦争にも反対――という言い方には組みしたくないけど、あのテロを支持することはできない」といい、B君は「朝日新聞に連載されてた実行犯とされるアタには共感するところがあるが、しかし、組織の命令でやったとすれば、戦前の日本の特攻隊と同じではないのか」といった。

その他にもいくつか意見があったあと、ひもりさんが最後に

「たとえ軍の命令だろうと、自ら進んで志願したにしろ、人を殺し、自分の死を覚悟するには、何度も何度も個人としての自分を見つめて問い直すということがあります。最後は個人として個人が死ぬんです。……」と、それこそ決然とした口調でいったんや。

そのときのひもりさんの様子には何とないすごみのようなものがあって、みなしいんとした。

おいちゃんもわたしも、ひもりさんと暴力・非暴力についてことさら話し合ったことはなかった。そして、「パレスチナへの方々へ」としたひもりさんの遺書に「平和的であれ、暴力的であれ、人間の尊厳を回復するための抵抗を無条件に支持します」という一説をみて、おいちゃんは、これは彼の非暴力直接行動なんや。これこそが立場を超えた非暴力直接行動の立場やと云った。それからひもりさんを非暴力テロリストともいうてた。

でも、「ひもりがあんなふうにして死んだから、もう非暴力いうのは云うのをやめとこか……」とも漏らしていた。そのことについて、中島くんあてへのファックスで「……ひもり君が死んだとき、非暴力云々といったけど、彼の非暴力的な死を、あえてぼくなどがそれと云うことは、多くの人にこじつけととられるおそれがある……その上で、このごろはやや手垢にまみれて通用しかけている非暴力という語句をきびしく使わねば……と思う……(このことで、今これから書くひもり君にふれた文章で、ちょっとかこうと思ってる)」と送ったものが遺ってる。

おいちゃんは六十年代から「非暴力直接行動」ということを言い続けてきた。しかし、おいちゃんの「非暴力直接行動」は、この四十年間誰からも理解されなかった。革命戦争をいう武闘派にはもちろん、非暴力をいう人たちにはよけいになんのことかわからんかったやろ。

いまだに暴力と非暴力は対立する概念としてとらえられ、そしてそれをいうそれぞれは、お互い敵対関係であるかのようや。

非暴力直接行動とは、「生きる」ことそのもののことやねん。ひとが死ぬまで「生きる」ための「生命力」は、それがふだんは「非暴力=暴に非らざる力」によってなされる日常のなかで、その日常を脅かすものがあらわれたら、当然それに対して「闘う」ということがでてくる。それが「生きる」いうことや。そのとき、その「暴力」は、生命力やねん。ひとりの人間のうちにある「暴力」も「非暴力」も、それは矛盾ではなく、生命力として「ある」ひとつづきのものや。善悪とは関係ないもんや。

パレスチナで自分の命の尊厳を賭けた十八歳の少女の「テロ」。それは究極の生命力ともいうべきものがむしろ「テロ」に向わせたんや。そやから、その「生命力」が、わたしらに共鳴し、響いてくる。

この意味で、ひもりさんの立場とおいちゃんの立場には暗黙の一致があった。

ひもりさんにふれてのおいちゃんの遺稿の一部に「テロについて」というのがある。

「たしかに九・一一のテロは全世界を震撼させた。その結果を見ることなく瞬間に死んでいったテロ実行者にとっても、その結果の大きさは予想をはるかに超えるものだったろう。

しかしテロの問題の第一は、権力をにぎり、支配と搾取におごって省みることのない富者・強者・権力者が支配する、あまりにも不条理な日常を、とくに滅茶苦茶に踏みつけられている窮民・弱者の存在とその無視、放置、それを窮民とさせている制度・政治機構、国家体制にある。

第二に、では「テロ」とは何か。いうまでもなくそれは弱者の強者に対する支配の拒否であり、それをあらわす叛逆の最後の意志行為である。個人の生命を賭けることにおいて、もう勝敗を超えたところから出る――やむにやまれぬものといえようか。

第三に、具体的にいえば、パレスチナの十八歳の少女が「もう私に残されたものは何もない」という言葉を遺して「自爆」したその抗議行動に、テロの意味が特によく示されている。そしてそれがテロの出発点である。そしてそこに現れたテロ暴力の何よりの特徴は、相手の虚をつく瞬発的な捨身の一回性である。いつも必ずそれが、それの終着点でなければならないという問題を改めてつきつける。

テロはそれゆえに、決定的な戦闘力、あるいは打撃効果たりえない。相手の支配土台をくつがえす直接決戦的な打撃戦術ではない。(それが発展し集団組織化してゲリラ、パルチザンの遊撃戦となる。そしてしばしば報復的反撃を招いてかえって状況を悪化させる事態をももたらすものともなる。)

このことは、九・一一以降ほぼ八ヶ月の事態の推移をみれば、ほとんど明らかである。(ただ弱者がとにもかくにも強者になにがしかの打撃を与えたことの切実な意味において、状況をかえる以外、根絶できないだろう。)

だがそれ故に、テロが有縁無縁の市民を巻き添え的死傷を必然とすることの、どうしようもなさがある。もう最後のどうする手だてもない、自分の身命を捨てた賭け、屈服の拒否・抵抗・攻撃であるとしても、当然その是非が問われることは免れえない。

(もっともテロ実行者がもう死者であることで云えば、もはや理由を問うことは出来ないという意味で、ことの是非を超えているともいえる。誰がどう何を裁きうるのかの課題としても、いま生きている者――ぼくらに応えることのできない答えを迫るものでもある)

第四は、第三で明らかにしたこと――テロは決定的暴力(戦闘力)たりえない。にもかかわらず、その結果は多くの人々のシンパシイを喚起する。または不測の恐怖としてひろまる。そのことから次の誰かにテロが心情的に承継され易い状況をつくり出す。そして、戦術として党派などが政治的に利用するという現実がある。(自爆について、党派から「犯行声明」が出たように。)

換言すれば、テロが弱者の命をかけた「志」であるゆえ、おのずから報復の意志の後続継承をつくりだす。そのことでテロは、一回性の結果だけに限定されないで、むしろそれを契機に呼び起こされる社会心理的な被害者想像力の、拡散誇大化をこそ「力」とするとさえいえるだろう。それは物理的な暴力の「結果」以上に、むしろ「暴に非ざる力」として対抗する「非暴力」の「力」――想像力になる。

第五は、それ故にテロの政治性の問題である。例えばアメリカはテロのその「被害想像力」を、逆手にとった政治的戦略として、「反テロ」戦線を世界的規模で拡大してつくり出そうとしている。つまりテロは「両刃の剣」であることをも見定めねばならない。……」

おいちゃんがひもりさんのことでどうしてもいいたかったことのひとつには、このテロの問題があったと思う。でも、結局、おいちゃんはひもりさんに直接ふれた文章をかくのをやめて、三十年まえに書いた『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』の新訂版を出す仕事に切り替えたんやった。その年の暮れ、できあがった本の扉の後ろには、ひもりさんのかたみのハッターの模様。そしてエスペラント語で「ひもり孝雄君に捧げる」と書いている。「立場を超える」ということ――ひもり孝雄君の死の意味のために……としては書き切ることができなかったことが、そこにぜんぶ託されている。おいちゃんはひもりさんの死の意味を考えながら、自分にとっての最後の本を書いた。

ひもりさんの死を、その深い沈黙のくらがりのなかから、おいちゃんは「非暴力直接行動」そのものとして受けとめていた。ひもりさんの「生きる」行為そのものとして受けとめていた。ひもりさんがアナに近づいたわけでも、非暴力直接行動をもって任じるようになったわけでもない。わたしは、いま、ひもりさんとおいちゃんの「立場を超えた」こよない関係を想うばかりや。

ひもりさんは「いま仲間たちが殺されている」といい続けた。そして「立場を超えて」パレスチナに「連帯」をといった。それはいままで運動がつかってきたスローガンのようなものなんかでは決してなく、自分のことばとして真にことばどおりのもんやった。ひもりさんはそのことを、「身をもって」訴えたかったんとちがうか。

ひもりさんは一身にいっぱいの仕事をかつぎ、おおくの人へのおもいをもって、そのすべてを一身にあつめて炎として燃やし尽くして焼身死した。

まだ子どもが遊んでる。

もう潮風も少し冷たくなってきた。

遠い昔、能代の浜で遊んだあの小さな

やさしい波がここにもある

この海がハイファにもシドンにもつながっている。

そしてピジョン・ロックにも。

もうちょっとしたらこどもはいなくなるだろう。

「ここには彼が最後に到達した、おだやかなやさしさと、しずかな澄んだ眼ざしがある。遠くはるかをながめながら、いなくなる子どもたちへのわかれのあいさつを送っているひもり君の心象風景がぼくらの方までひろがってこないか。そしてそれがはてしなく ひもり君のやさしさ ぼくらへの思いやりから出ていることに、気付く……」

と、おいちゃんは書き遺していた。

付記・この原稿は、向井孝が遺した未完の『「立場を超えて」――ひもり孝雄くんの死の意味のために』と水田ふうの合作。それで署名をふう&こうとした。

二〇〇四年七月三〇日

*『水平線の向こうに――ルポルタージュ檜森孝雄』(『水平線の向こうに』刊行委員会、風塵社、2005)掲載

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