2002年の遺言 
『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』刊行によせて

向井 孝


20世紀を「戦争と革命の世紀」と呼ぶ人がいる。そうすると、ぼくは1920年の生まれだから、その全生涯はすっぽりその中に納まって、おつりみたいなものが今世紀、というわけだ。つまりまあほとんど20世紀で、一生がもう終わったといって差し支えないだろう。

そこで改めて「戦争と革命」ということにこだわると、歴史的事実としての比重は、前半の期間、ロシア革命の成立、それと関連しての世界各地における共産党の活動に加えて、第1次と第2次世界大戦ということなのかもしれない。

ところが20世紀前半のそれはそれとして、ぼく個人の経験的経過をいうならば、ぼくにとっての戦争と革命は、その前半期を問題とする以上に、その後、いまは逆現象のようでありながら、その裏返しともいえる反テロ戦争を生み出した現在につながる――「70年代前後」とそれに継続する後半世紀に、重点があるといってよいだろうか。

簡単にいえばそれは、ベトナム反戦にはじまり、全共闘、新左翼諸派の活動した激動の日々、その結果として見るも無惨な内ゲバである。今ふりかえれば、まさにそれは革命と戦争を意味する、その時代そのものだったのだ。

ここでいっぺんに話がとぶが、当時70年9月、ぼくは旧版「現代暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か」を書いた。それは当時の主流ともいうべき暴力闘争への志向――それにつづく武闘主義に対して非暴力直接行動を主張し、実践することだった。それははじめほとんど軽視され、むしろ侮蔑されるようなことでしかなかった。しかも非暴力直接行動をいいながら連続企業爆破の東アジア反日武装戦線に対し、救援をいちはやく表明することなどの立場への反問をうけつつ、たとえば大阪中之島公会堂に、1,200人をあつめて奇想天外ともいうべき集会を6時間にわたって開いたりすることだった。そんなあれこれの中で、一般に運動が急速に弱まり動きが少なくなっていく状況に対し、むしろ軽佻浮薄で無責任な市民主義であり、お祭りさわぎ主義とされる一方、権力にとっては五月蠅のようにうるさく、一体何をやりだすかわからず取締り難いものとされたりした。

そんなことがほんの少数のぼくたちにとっての非暴力直接行動でしかなかったが、それはやがて原発反対運動で登場した市民、とくに主婦層によって形態的に受継がれ、一時は二万人が東京に集まる大デモともなった。そして、いまは運動内で非暴力を言う者はいても、このごろでは暴力を主張する風潮は全く姿を消したといってよいだろう。

そしてあの9.11以降出てきたのが「テロにも戦争にも反対」というまことしやかな、一応は誰にも反対できないスローガンである。

このことで世界の様相は一変した。それまで擬似的な非暴力姿勢をとっていた諸国家は、その威迫的で圧倒的な軍事力をむき出しにし、反テロ戦争を正義とし、テロ狩りの名目でまつろわぬ全世界人民への宣戦を布告したのである。新しい21世紀は、まさにそのようなアメリカの一国支配を先頭とする反テロ戦争国家と人民との闘いの世紀として始まったといってよい。

反テロ戦争を正義の名目に世界を支配しようとするアメリカとそれに追随する諸国家群。そのような立場に立って、いま世界の状況を見直すならば反テロ国家群に対する、人民の非暴力直接行動の動きがようやく世界に広がり出しているともいえる。かって非暴力を軽んじた人々も、いまは暴力反対をとなえることで非暴力直接行動と対立できない。否それ以上にもう非暴力直接行動しかないことにだんだん気付きはじめている。

もう一度言おう。20世紀の「戦争と革命」は、21世紀の反テロ戦争国家群と人民との対峙からはじまった。ただ非暴力をいうしかない人々が、改めて掲げるものが非暴力直接行動であることを今ほど強く明確に語らねばならぬ時はない。

32年前に出した「現代暴力論ノート」(ガリ版刷り・B5100頁)の旧版を多少下敷きにしながら、約半分の量、B5判でいえば50頁ほどに改訂した新訂版「暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か」を12月15日に刊行する。

ぜひ読んでほしい!

友人知己へも宣伝してもらいたい。

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――非暴力直接行動とは何か
『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』
向井 孝著/解説 水田ふう
B6判 104ページ
2002.12.14完成
【送料込1冊 1,000円】
品切
【郵便振替】口座名称:水田ふう/口座番号:00840-9-34502
【問合せ】lanigreco@yahoo.co.jp
(02-12-12up)

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旧版『現代暴力論ノート』英訳版「非戦!」(向井孝)
テロリズムについて「テロにも戦争にも反対」とはいいたくない(水田ふう)