アナキズムFAQ

A.3 アナキズムにはどの様な種類があるのか?

 アナキストは皆、幾つかの鍵となる考えを共有しているものの、どのような経済体系が人間の自由に最も適していると考えるのかに応じて、大雑把にカテゴリー分けすることができる。ただし、どのタイプのアナキストも一つの基本的アプローチを共有している。ルドルフ=ロッカーを引用しよう。

 社会主義の創設者たち同様に、アナキストもあらゆる経済独占の破棄・土地を含めたあらゆる生産手段の共有を求める。生産手段は万人が区別なく使用できなければならない。なぜなら、個人的自由と社会的自由は、万人に対する平等な経済的利益を踏まえて初めて考えることが出来るからだ。社会主義運動それ自体の中で、アナキストは、資本主義に対する戦争は同時に政治権力を保持している全ての機構に対する戦争でなければならないという見解を示している。なぜなら、歴史において、経済搾取は常に政治的・社会的抑圧と手に手を取って歩んで来たからである。人間が人間を搾取すること・人間が人間を支配すること、これらを分けることなど出来ない。一方は他方の前提なのである。』[Anarcho-Syndicalism, pp. 62-3]。

 アナキストの間で意見が異なっているとしても、それはこの大枠の範囲内でのことである。主な違いは「個人主義」アナキストと「社会的」アナキストにある。ただし、それぞれが望んでいる経済体系は全く相容れないものではない。これら二つの内、社会的アナキスト(無政府共産主義者・アナルコサンジカリストなど)はいつの時代も大多数を占めていた。個人主義アナキズムはそのほとんどが北米合州国に見られている。このセクションではアナキズム運動内にあるこうした主要諸傾向の違いを示す。すぐに明らかになるだろうが、社会的アナキストも個人主義アナキストも国家と資本主義に反対しているものの、自由社会の性質(そしてどのようにしてそこに到着するのか)については意見を異にしている。簡潔に言えば、社会的アナキストは社会問題に対して共同体型の解決策を望ましいとし、良い社会(つまり、個人の自由を保護し、促す社会)のヴィジョンも共同体型のものを望ましいとしている。個人主義アナキストは、その名前が示しているように、個人的解決策を望ましいとし、良い社会のヴィジョンはもっと個人主義的である。しかし、こうした違いによって、双方が共有していることが曇らされてはならない。どちらも、個人の自由を最大にし、国家と資本主義による支配と搾取を終わらせようとしているのである。
 この大きな違いに加え、アナキストの中には、サンジカリズム・平和主義・「ライフスタイル主義」・動物愛護など数多くの考えについて意見の相違がある。しかし、それらは重要ではあるものの、アナキズムが持つ様々な側面にすぎない。自由に非常に高い価値をおいている運動なのだから予想できるだろうが、幾つかの鍵となる考えを除き、アナキズム運動は(人生それ自体と同様)変化・議論・思索の状態にいつもいるのである。
 手の内を見せてしまえば、私たちFAQの作成者は、アナキズムの内でも「社会的な」立場を確固として取っている。だからと言って、個人主義アナキズムに関連した多くの重要な考えを無視しているわけではない。ただ、社会的アナキズムの方が現代社会に於いては適切で、個人の自由に対してより強力な基盤を生み出し、私たちが住みたいと思っているような社会により近いものを示している、と考えているにすぎないのである。

A.3.1 個人主義アナキストと社会的アナキストの違いは何か?

 どちらの立場を取っている人であれ、互いに「相手の考えはある種の国家の創設につながる」と主張するものだが、個人主義アナキストと社会的アナキストの違いはそれ程大きなものではない。どちらも反国家・反権威・反資本主義である。大きな違いは以下に述べる二つである。
 まず、今この場でどの様な行動を起こすか(そして、アナーキーをどのようなやり方で実現するのか)という点である。個人主義アナキストは一般に、教育と代替機関(例えば、相互銀行、組合、コミューンなど)の創設とを好んでいる。彼等は、普通、ストライキなど非暴力の社会抗議(例えば、家賃不払いストや税金納付拒否など)を支持している。基本的に彼らは改良主義者であって、革命家ではない。そして、社会的アナキストが直接行動を使って革命的状況を作り出そうとするのを好ましいと思ってはいない。革命は資本家の財産を収用する。つまり、権威主義的手段を使うことを意味している。従って、アナキズム原理と矛盾する、と個人主義アナキストは考えているのである。むしろ、新しい代替経済システム(相互銀行と協同組合を中心にした)を使って、所有権が社会から奪った富を社会に戻そうとする。このようにして、収用ではなく改良によってもたらされるアナキズムでは、全般的な「社会的清算」が簡単に行われるだろうと考えるのである。
 大部分の社会的アナキストも教育と代替機関(リバータリアン組合のような)創設の必要性は認めてはいるものの、それだけで充分だとは思っていない。社会的アナキストの考えでは、資本主義内部でリバータリアン諸傾向を増加させるべく社会闘争を行い、改良を進めることは大切であるが、資本主義は少しずつアナーキーに向けて改良できるようなものではない。また、権威(国家であろうと資本主義であろうと)を破壊することは権威主義ではないのだから、革命がアナキズム原理と矛盾しているとも考えていない。このように、社会革命による資本家階級の収用と国家の破壊とはリバータリアンの行為なのであって、権威主義の行為ではない。なぜなら、その正に本質からして、社会革命は大多数を支配し搾取している人々に反対して行われるからである。つまり、社会的アナキストは進化論者(漸進的発展論者)でありかつ革命論者である。資本主義の中でリバータリアン諸傾向を強めようとしながらも、社会革命によって資本主義システムを廃絶しようとしているのである。しかし、社会的アナキストの中にも純然たる漸進的発展論者がいるように、この違いは、社会的アナキストと個人主義者とを区別する上で最も重要なものではない。
 大きな違いの二つ目は、それぞれが企図しているアナキスト経済体系に関わっている。個人主義者は市場に基づいた分配システムを、社会的アナキストは必要に基づいた分配システムを好ましいと思っている。どちらも現行の資本主義的所有権システムは廃絶されるべきであり、生活手段の所有権(つまり、家賃・利子・利潤−−この不浄な三位一体に対して個人主義アナキストが好きな言葉を使えば「暴利」)に使用権が取って代わるべきであるということに同意している。要するに、どちらの学派もプルードンの古典的著作「所有とは何か? What is Property?」に従い、自由社会においては占有が所有に置き換わらねばならないと主張しているのである(所有に対するアナキストの様々な見解についての議論はセクションB.3を参照)。
 しかし、この使用権の枠組みの中で、アナキズムの二つの学派はそれぞれ別々のシステムを企図している。社会的アナキストは共同体的(社会的)所有と使用を主張することが多い。このことには、生産手段と分配手段の社会的所有が含まれ、個人が使用しているものに対しては個人的占有のままだが、それを創り出すために使われるものについては個人的に占有されない。つまり、『君の時計は君のものだが、時計工場は民衆のものである。』バークマンは続けて次のように述べている。『実際の使用が唯一の権利だと見なされるだろう−−それは所有権ではなく、占有権なのだ。例えば、炭坑労働者の組織は、所有者としてではなく、運営機関として炭坑を管理する。地域社会の利益のために集団的に管理される集団的占有は、利潤を求めて私的に行われる個人的所有に取って代わるであろう。』[What is Anarchism?, p.217]
 このシステムの基盤は、労働の労働者自主管理、そして(大部分の社会的アナキストにとっては)労働の産物の自由共有(つまり、金銭なき経済システム)となる。なぜなら『現在の工業の状態では、全てのものが相互依存的で、あらゆる生産部門が他の部門全てに編み込まれているため、工業製品の個人主義的起源を主張しようという試みは支持できない』からである。このことを考えれば、『万人がその蓄積に貢献している富について個々人の分け前を見積もる』など不可能であり、それ以上に、『労働器具の共有は、必然的に、それに伴う共同労働の果実を共同で享受するようにさせねばならないのである。』 [Kropotkin, The Conquest of Bread, p. 45 and p. 46] このことによって、社会的アナキストは、単に、万人が生産した社会的産物を、万人が入手できるようにし、生産的に社会に対して貢献した個々人が必要なだけものを取ることができるようにする、ということを意味しているに過ぎない(セクションI.2.2で論じているように、そうした理想にどれほど早く到達できるのかは論争点である)。こうしたリバータリアン(自由)共産主義システムに反対している社会的アナキストもいる。例えば相互主義者がそうである。しかし、一般には、大多数の社会的アナキストは金銭の廃絶を指向しており、その結果、売買の廃絶を指向している。ただ、全てのアナキストは次のことに同意しているのである。アナーキーは『平等で公正な交換』(プルードンのような)によってであれ、自由共有(クロポトキンのような)によってであれ、『あらゆる場所で資本主義と所有主の搾取が終わり』、『賃金システムが廃絶される』のを見ることになるだろう。[Proudhon, The General Idea of the Revolution, p. 281]
 逆に、個人主義アナキストは(相互主義者同様に)こうした使用権システムに労働の産物が含まれることを認めていない。個人主義アナキストは、社会的所有ではなく、市場に基づいたシステムを企図している。そのシステムでは、労働者は自分独自の生産手段を所有し、自分の労働の産物を他の労働者と自由に交換する。彼らの主張によれば、資本主義は実際には真の自由市場ではない。むしろ、資本主義者は、国家を利用することによって、自分の経済的・社会的権力を創り出し保護するために市場に足枷をかませているのだという(言い換えれば、市場原則は労働者階級のために、国家援助は支配階級のために、なのである)。国家が創造した独占(金銭・土地・関税・特許)と国家による資本主義的財産権の執行とが経済的不平等と搾取の源泉なのである。政府の廃絶と共に、真の自由競争が、資本主義の終焉と資本家による搾取とを確実に生み出すであろう(ベンジャミン=タッカーのエッセイ「国家社会主義とアナキズム State Socialism and Aanarchism」はこの主張を非常に上手くまとめている)。  個人主義アナキストは、生産手段(土地を除く)は個人の労働の産物であると主張している。従って、人は、そのように望むならば、自分が使用している生産手段を売ることが出来なければならない、ということを受け入れている。しかし、彼らは資本主義の財産権を拒絶し「占有と使用」システムを望ましいとしている。生産手段(例えば土地)が使われていなければ、共有に戻して他者が使用出来るようにするのである。相互主義と呼ばれるこのシステムが、生産の労働者管理を生み出し、資本家の搾取と暴利を終わらせるだろう、と彼らは考えている。「占有と使用」制度は論理的にも実践的にも賃労働と一致し得ないからである。ある仕事場にそれを運営する集団が必要だった場合、その仕事場を所有するのは使用する集団でなければならない。一人の個人がその仕事場を所有していると主張していても、実際には、その人以外の人たちもその仕事場を使っているなら、明らかに、「占有と使用」は侵害されているのである。同様に、ある所有者が仕事場を使うために他者を雇用した場合、このボスは労働者の労働の産物を盗むことができるわけで、労働はその十全な産物を受け取るべきだ、という格言を侵害していることになる。つまり、個人主義的アナキズムの諸原理は、反資本主義の結論を示しているのである(セクションG.3を参照)。
 この第二の違いが最も重要である。個人主義者が恐れているのは、ある地域社会に無理矢理参加させられ、そのことで自分の自由(他者と自由に交換する自由も含む)が奪われてしまうことである。マックス=シュティルナーはこの立場を次のように上手く論じている。『共産主義は、あらゆる私有財産を廃絶することで、私を他者に、つまり一般性や集団性に、なおさら依存するように引き戻すだけである。(これは)私の自由運動を妨害する条件、私に対して及ぼされる主権である。共産主義は、確かに、私が個々の所有者から受ける圧力に対して正しく叛逆している。しかし、集団性の手中に置かれた力は、なおさら恐ろしいのだ。』 [The Ego and Its Own, p. 257] プルードンも次のように論じて共産主義に反対している。共産主義の下では地域社会が所有者になる。つまり、資本主義も共産主義も所有に、従って権威に、基づいているのである(「所有とは何か? What is Property?」の「共産主義の特徴と所有の特徴 Characteristics of communism and of property」というセクションを参照)。つまり、いかなる形態の共産主義も個人を社会やコミューンに従属させるのだから、社会的所有は個人の自由を危険にさらす、と個人主義アナキストは主張するのである。彼らが恐れているのは、個人の道徳が命じられるということだけではない。「社会」が労働者に何を生産するべきか告げ、労働者の労働の産物を奪う以上、社会化は事実上労働者管理を排除するだろう、と彼らは恐れている。その結果、ボスによる搾取と権力が「「社会」による搾取と権力に置き換えられただけだとして、共産主義(つまり、社会的所有全般)は資本主義と類似している、と彼らは主張するのである。
 言うまでもなく、社会的アナキストの意見は違う。社会的アナキストは、シュティルナーとプルードンの意見は完全に正しいと主張する−−ただし、それは権威主義的共産主義についてだけの話である。クロポトキンは次のように論じていた。『1848年以前に提示された(共産主義の)理論を見れば、自由に対する共産主義の効果について何故プルードンが不信感を持っていたのかを十全に説明してくれる。古い共産主義の考えは、年長者の厳格な支配や司祭を導く科学者の厳格な支配の下での禁欲的地域社会という考えだった。人間がそうした共産主義を経験しなければならなかったなら、自由と個人のエネルギーの最後の名残までもが破壊されてしまっただろう。』 [Act for Yourselves, p. 98] クロポトキンは常に主張していた。無政府共産主義は新しい発展であり、1870年代に始まっている。従って、プルードンとシュティルナーの見解は、彼らが無政府共産主義を知ることが出来なかった以上、無政府共産主義に向けられたものだと考えることは出来ない。
 社会的アナキストは次のように主張する。共有は、財産所有者の権力がどのような形態をとっていようともそれを廃絶する。そのことで、共有は、個人を地域社会に従属させるのではなく、生の全面で個人的自由を保護するために必要な枠組みを提供するのである。さらに、無政府共産主義は、個人的「財産」全てを廃絶するのではなく、個人的所有物と個人的空間の重要性を認めている。従って、クロポトキンは『皆が同じ家に住み、その結果、「兄弟姉妹」と無理矢理絶え間なく顔を付き合わせなければならないような家族をモデルとして地域社会を管理しようとしている』形態の共産主義に反対しているのである。『個々人に対してなるべく多くの自由と家庭生活を保証しようとするのではなく、全くの「大家族」を押しつけようとするのは根本的誤りである。』[Small Communal Experiments and Why They Fail, pp. 8-9] 再びクロポトキンを引用すると、無政府共産主義の目的は『自宅で自分が望むだけ消費する自由を個々人に任せながら、収穫物や製品を万人が自由に使えるように』することである。[The Place of Anarchism in the Evolution of Socialist Thought, p. 7] このことで、個人の嗜好と願望、そして個性の表現が確保されるのである−−消費と生産双方において。社会的アナキストは労働者自主管理の断固たる支持者なのだ。
 従って、社会的アナキストにとって、共産主義に対する個人主義アナキストの反対は、国家共産主義や権威主義的共産主義にのみ通用するのであって、無政府共産主義の根本的性質を無視しているものである。無政府共産主義者は、個性を地域社会で置き換えるのではなく、むしろ、地域社会を利用して個性を防衛する。個人主義アナキストが恐れているように「社会」に個人を管理させるのではなく、社会的アナキズムは個性と個人的表現の重要性に基づいているのである。

 無政府共産主義は、あらゆる征服の中で最も価値あるもの−−個人の自由−−を保持し、それ以上に、それを拡充し、政治的自由に惑わされることのない確固たる基盤−−経済的自由−−を与える。無政府共産主義は、神・普遍的圧制者・神たる王・神たる議会を拒絶した個人に対して、いかなる手続きよりも恐ろしい神−−神たるコミュニティ−−を自分自身に与えるように、もしくは、自分の自立・意志・好みをその祭壇に放棄し、十字架に付けられた神の前で公式的に行った禁欲の誓いを再び始めるように求めはしない。逆のことをその人に言うのである。「個人が自由でなければ、いかなる社会も自由ではない!」と。[前掲書, pp. 14-15]

 さらに、社会的アナキストは集団化は自発的に為されるべきだと常に認めている。人が自力で仕事をしたいと思っているのであれば、それは何ら問題ではない(クロポトキン著「麺麭の略取 The Conquest of Bread」, p.61 と「自主行動論 Act for Yourselves」, pp. 104-5、また、マラテスタ著「エンリコ=マラテスタ:人生と思想 Errico Malatesta: His Life and Ideas」, p. 99 and p. 103を参照)。社会的アナキストがこのことを強調したからといって、その原理や自分達が望む社会の持つ共産主義的性質と何か矛盾するわけではない。こうした例外も「使用権」システムに根差しているからである(十全な議論は、セクションI.6.2を参照)。さらに、社会的アナキストにとって、一つの組織は、それを構成する個々人の利益のためにのみ存在する。組織は、共通の欲求を満たすために人々が協力する手段なのである。全てのアナキストは、アナキスト社会の基盤として自由合意の重要性を強調する。つまり、あらゆるアナキストは以下のバクーニンの言葉に同意しているのである。

 集産主義を押し付けるなど、奴隷に対してしかできない。つまり、そのような集産主義など人間性の否定なのだ。自由な地域社会において、集産主義は、上からの押し付けられた情況ではなく、下からの自由で自発的な運動が創り出した情況の圧力を通じてのみ実現できるのである。[Bakunin on Anarchism, p. 200]

 個人主義者が自力で働き、他者と産物を交換したいと思うのなら、社会的アナキストも異論を唱えない。だから、我々は、アナキズムの二つの形態は互いに相容れないものではない、と述べているのである。社会的アナキストは、コミューンに参加しない個人の権利を支持する。個人主義アナキストは、共産主義的組織を含めて、自分の所有物を自分が適していると思うようにプールする個々人の権利を支持している。だが、自由という名の下で、人が他者の労働を搾取するために所有権を主張したいと思うのなら、社会的アナキストは、「自由」の名において国権主義を再び作り出そうとするものだとして、その試みをすぐさま排撃する。アナキストは支配者になる「自由」を断じて認めないのだ!ルイジ=ガレアーニを引用しよう。

 個人主義アナキストという心地好い外套に隠れて支配観念をありがたがっている人々の性癖というのは、屁理屈が上手いという程度のものである。だが、支配の御使いどもは、自分達のエゴの名の下に、他者の従順なエゴ・あきらめのエゴ・不活発なエゴに対して個人主義を行使するつもりでいるのだ。[The End of Anarchism?, p. 40]

 さらに、社会的アナキストにとって、生産手段を売却できるという考え方は、アナキスト社会に私有財産制度が再び導入されかねないということを暗示している。自由市場には、上手くやる者もいれば、失敗する者もいる。プルードンが主張していたように、競争では最も強い者が勝利する。ある人の交渉力が他者よりも弱ければ、いかなる「自由交換」でもより強い側を利することになろう。つまり、市場は、非資本主義の市場であっても、時間が経つにつれて富と権力を平等化するのではなく、それらの不平等を増幅するものなのだ。資本主義の下で、このことは更にハッキリしている。自分の労働力しか売れない人々は、資本を持っている人々よりも弱い立場にあるのだから。個人主義的アナキズムもこのことに影響されるであろう。
 つまり、社会的アナキストは、個人主義アナキスト社会は、その意に全く反して、公平な交換から資本主義へと進化するだろう、と論じているのである。ありそうなことだが、もし、「失敗した」競争者が無理矢理失業状態にさせられれば、その人は生きるために自分の労働力を「成功者」に売らねばならない。これは、権威主義的社会関係を創り出し、「自由契約」を通じた少数による多数の支配を生み出す。こうした契約(などそれに類するもの)の施行は、恐らく、『「防衛」という名目の下に国家の機能全てを再構築する道を開けるのだ』[Peter Kropotkin, Anarchism, p. 297]。
 ベンジャミン=タッカーは、自由主義と自由市場観念に最も影響されたアナキストだが、彼も抽象的個人主義の全学派に関連した問題−−特に、権威的社会関係を「自由」の表現として受け入れること−−に取り組んでいた。これは、財産が国家に類似していることに起因している。タッカーは、国家の特徴は次の二つであると論じていた。それは、攻撃性と『一般に臣民の完全抑圧と国境拡大という二つの目的のために行使される、特定領域と国家内部にいる万人に及ぼす権力という前提』である [Instead of a Book, p. 22]。しかし、ボスと地主も一定領域(当該所有地)とそこにいる万人(労働者と借地人)に対して権力を持っているのである。前者は後者の行動を管理する。丁度、国家が市民や臣民を支配するように。つまり、個人的所有は、国家が創り出すものと同じ社会関係を生み出すのである。双方は同じ源泉(一定領域とそれを利用する人々に及ぼす権力の独占)から生じているのだから。
 社会的アナキストは次のように主張する。個人主義アナキストによる個人的所有の受容、そして、その個人主義的な個人的自由の概念は、事実上本質的に権威主義・国家主義の社会的諸関係を創り出すことで、個人の自由を否定することになりかねない。マラテスタは次のように論じていた。『個人主義者たちは、抽象的な自由の概念を最も重要視しており、現実の具体的な自由は連帯と自発的協力との成果なのだという事実を説明したり詳論したり出来ないでいる。』 [The Anarchist Revolution, p. 16] 例えば、賃労働における労働者とボスとの関係は、市民権における市民と国家の関係と同じなのである。つまり、支配と従属の関係なのだ。借地人と地主の関係も同じである。
 こうした社会的関係は、国家の他の側面を生み出さずにはいられない。アルバート=メルツァーが指摘しているように、このことだけでも数々の国家主義的意味を持っている。その理由は次の通りだ。『ベンジャミン=タッカーの学派は−−その個人主義のために−−ストライキを打ち壊す警察が必要だということを認め、雇用者の「自由」を保証していた。いわゆる個人主義者なる学派は皆、警察機構の、ひいては政府の必要性を認めていた。そして、アナキズムの元々の定義は「政府は存在しない」なのである。』 [Anarchism: Arguments For and Against, p. 8] 社会的アナキストが個人の自由を実践する最良の手段として社会的所有を支持している理由の一部がこれである。
 個人的所有を受け入れるなら、この問題を「逃れる」ためには、プルードン(タッカーの相互主義観念の源泉だ)に従って、一人以上の労働者を要する仕事場を運営するために協同組合が必要だということを認めねばならない。このことで、地主を効果的に廃絶することになる土地の「占有と使用」を個人的アナキストが支持していることが必然的に補完される。資源を使用する人々だけがその資源を所有するならば、個人的所有はヒエラルキー型の権力(つまり、国権主義・資本主義)を生み出すことはないだろう。セクションGで論じるこの解決策を個人主義アナキストは確かに受け入れているように思われる。例えば、ジョセフ=ラバディは、自分の息子に賃金所得と『他者の支配』から遠ざかるように説得する文章を書いていた [Carlotta Abderson, All American Anarchist, p. 222 にて引用]。Wm=ゲリー=クラインが正しく指摘しているように、米国の個人主義アナキストは『自分達の中で大きな貧富の差がない、大部分が自営業の労働者からなる社会を期待していた。』[The Individualist Anarchists, p. 104] 彼らの思想が真にアナキズムであることを保証しているのは、この自営業者社会というヴィジョンなのである。
 それ以上に、個人主義者は「暴利」を攻撃する一方で、資本の蓄積という問題を常に無視している。資本の蓄積こそが、市場参入への自然な障害物を生みだし、そのことで新しい形態の暴利を再び創り出す(セクションC.4「何故市場は大企業に支配されるようになるのか?」を参照)。従って、タッカーなどの個人主義アナキストは、銀行の「自由市場」を擁護しているが、これは、協同組合の投資ではなく資本家の投資を支援することに直接の経済的利益を持った(協同組合よりもより高い収益を確保するのだから)少数の大銀行による支配をもたらしかねない。この問題に対する唯一の現実的解決策は、プルードンが元々望んでいたように、地域社会が銀行を所有し管理することを確実にすることだけである。
 資本主義経済内での発展をこのように認識しているが故に、社会的アナキストは個人主義的アナキズムを拒絶し、自由に提携した協働による地方自治的、したがって地方分権的な生産形態を好ましいと思っているのである。(個人主義アナキストの考えに関する議論は、セクションG「個人主義的アナキズムは資本主義的なのか?」を参照)

A.3.2 社会的アナキズムは幾つかのタイプに分かれているのか?

 分かれている。社会的アナキズムには四つの大きな傾向がある。相互主義、集産主義、共産主義、サンジカリズムがそれである。違いはそれ程大きくなく、単にどの様な戦略を使うかにある。確実に違うといえるほどの大きな違いは、相互主義と他の社会的アナキズムの間にある。相互主義は市場社会主義の一形態−−労働者の協同組合がコミュニティ銀行システムを通じて労働の産物を交換する−−を基にしている。この相互銀行ネットワークは、『コミュニティ全体によって、ある個人や階級に特別な利益をもたらすためにではなく、万人の利益となるように作られ、リスクと経費をカバーするのに充分な分を除いて、無利子で、貸付を行うのである。』こうしたシステムが資本主義の搾取と抑圧とを終わらせてしまうであろう。なぜなら『相互主義を交換と信用貸し(クレジット)に取り入れることで、あらゆる場所に相互主義を導入することになり、労働が新しい側面を持ち、真に民主的なものになると思われる』からである。[Charles A. Dana, Proudhon and his "Bank of the People", pp. 44-45 and p. 45]
 社会的アナキストの相互主義は、独立した協同組合になるのではなく、地元地域(コミューン)が相互銀行を所有するという点で、個人主義アナキストのものとは異なっている。このことで、資本主義的事業に対してではなく、協同組合に対して投資資金が必ず提供されるようになる。もう一つの違いは、社会的アナキズムの相互主義者の中には、リバータリアン地域社会(プルードンはコミューンと呼んだ)の連合を補完するために、プルードンが「農工連合」と呼んだものの創設を支持している人たちがいる、ということである。これは、『商業と工業』や道路や鉄道などの大規模な開発『において相互の安全をもたらそうと意図された連合』である。『特定の連合協定』の目的は『内外の資本主義的封建制度と金融封建制度から、連合諸国家(原文のまま!)の市民を保護することである。』なぜなら『政治的右翼は経済的右翼によって強化されねばならない』からだ。つまり、農工連合は、社会が持つアナキズム的性質を、市場交換が持つ不安定化効果(これが富の不平等、ひいては権力の不平等を増加させることになりかねない)から保護するために必要なのである。そうしたシステムは連帯の実際例となろう。『諸産業は姉妹のようなものだ。同じ体の一部なのである。一つが苦しめば、他の産業もその苦しみを共有する。従って、共に吸収合併したり混乱したりするためではなく、共に反映する諸条件を相互に保証し合うために、諸産業は連合しなければならない。そうした協定を結んだからといってその産業の自由が失われるわけではない。産業の自由に、さらなる安全と勢いを与えてくれるのである。』 [The Principle of Federation, p. 70, p. 67 and p. 72]
 その他の社会的アナキズムは、相互主義者のように市場を、たとえそれが非資本主義的なものであったとしても、支持してはいない。その代わり、生産手段を共有にし、産物と情報を協同組合間で自由に分かち合うことで、自由が最大限に発揮されると考えているのである。言い換えれば、他の社会的アナキズムは、個々の協同組合という相互主義システムではなく、生産者組織とコミューンの連合による共有(社会的所有)に基づいているのである。バクーニンの言葉を引用しよう。『将来の社会組織は、労働者の自由提携もしくは自由連合によって、まず最初に組合において、そしてコミューンに、地方に、国に、最終的には国際的で世界規模の大連合へと、下から上へと創られねばならない。』そして『土地や仕事道具などの資本は全て、社会全体の集団的財産になり、労働者だけが、言い換えれば農業組織と工業組織だけが、それらを利用することになるだろう。』 [Michael Bakunin: Selected Writings, p. 206 and p. 174] 個々の仕事場を越えて協働の原理を拡大することでのみ、個人の自由を最大にし、保護することができる(大部分のアナキストが市場制度に反対している理由についてはセクションI.1.3を参照)。お分かりだろうが、このように、社会的アナキストはある種の地盤をプルードンと共有しているのである。産業連邦は『生産用具の相互使用を保証するだろう。生産用具は、個々のこうしたグループの財産であり、相互契約によって連合全体の集団的財産になる。このようにして、様々なグループの連合は、変動する社会ニーズを満たすために生産率を調整することが出来るようになるのである。』[James Guillaume, Bakunin on Anarchism, p. 376]
 これらのアナキストは、協同組合内での労働者による生産の自己管理を相互主義者と同様に支持してはいるが、相互扶助発現の焦点を、市場にではなく、こうした組合の連合に見ている。仕事場の自律性と自主管理があらゆる連合の基盤となる。なぜなら『様々な工場の労働者は、やっと手に入れた生産用具を、「会社」と自称する上位権力に譲渡しようなどこれっぽっちも思わない』からだ [Guillaume, 前掲書, p. 364]。この産業規模の連合に加え、特定の産業連合の専門管轄外だったり収用能力の範囲外だったりする仕事や、社会的性質を持つ仕事を行うために、産業間の連邦と地域社会の連邦が存在することになろう。ここでもまた、プルードンの相互主義思想との類似性を持っているのである。
 様々な社会的アナキストは、生産手段(純粋に個々人だけが使うものを除く)の共有に対する確固たる信条を共有し、使用者が生産手段を「売却」できるという個人主義の考えを拒否している。これは、前にも書いたように、もしこのことが可能になれば、自由社会の中で資本主義と国家主義を再建する足がかりが回復しかねないからである。さらに、相互主義以外の社会的アナキストは、相互銀行を導入することで資本主義をリバータリアン社会主義へと改良できる、という相互主義者の考えに同意してはいない。彼らにとって、資本主義に置き換わることができるのは、社会革命による自由社会だけなのである。
 集産主義者と共産主義者の主たる違いは、革命後に「貨幣制度」をどう扱うかである。無政府共産主義者(アナルココミュニスト)は貨幣制度の破棄こそが大切だと考えているが、無政府集産主義者(アナルココレクティビスト)は生産手段の私的所有を終わらせることこそが鍵だと考えている。クロポトキンは次のように論じている。無政府集産主義は『生産に必要なもの全てを労働者集団と自由コミューンが共有する情況を述べている一方、労働の応報の方法(つまり、分配)が、共産主義なのか別の方法なのかについては、それぞれの集団独自に解決することになる。』[Anarchism, p. 295] つまり、共産主義も集産主義も生産者協会を通じて共同生産を組織するものの、その違いは、産物がどのように分配されるかなのである。共産主義は万人の自由消費に基づく。集産主義は貢献した労働に応じた物品の分配に基づく可能性が高い。ただし、大部分の無政府集産主義者は、時間と共に、生産性が増大し、地域社会の感覚が強くなるに従って、貨幣制度は消滅するだろうと考えている。結局のところ、どちらも、「各々の能力に応じて働き、各々の必要に応じて受け取る」という共産主義の格言が示す方向に沿って社会を運営しようと考えているわけである。一致していないところは、どれほど早くこのことが実現するかという点についてだけなのである(セクションI.2.2を参照)。
無政府共産主義者は、革命後に『共産主義−−少なくとも部分的な−−は、集産主義よりも定着する可能性が高い』と考えている [前掲書, p. 298]。共産主義への移行は絶対不可欠だと考えているのである。集産主義は『生産手段の私的所有を廃絶することで始まるが、行った仕事に応じて報酬を与えるシステム、つまり不平等を再導入するシステムに戻ることで即座に自説を翻す』からである [Alexander Berkman, What is Anarchism?, p. 230]。共産主義への移行が早ければ早いほど、新しい不平等が発達する可能性は減る。言うまでもなく、これらの立場はそれ程違ってはいない。実際には、社会革命が必要とすること、そして、アナキズムを導入する人々の政治的意識のレベルが、個々の領域でどのシステムが採用されるのかを決定するであろう。
 サンジカリズムは社会的アナキズムのもう一つの大きな形態である。他のサンジカリストと同様、アナルコサンジカリスト達はアナキストの考えに基づいた産業労働組合運動を創造しようとしている。従って、彼等は権力分散型で連合主義的な組合を擁護しており、資本主義を転覆しうるほど充分な力を持つまでは、資本主義下で直接行動を使って改良を得ようとしている。無政府集産主義も、労働運動の中でアナキストが活動し、将来の自由社会を前もって示す組合を創り出すことの重要性を強調していた。多くの点で、アナルコサンジカリズムは新しい型の無政府集産主義だと考えることが出来る。
 資本主義の下にあっても、アナルコサンジカリストは『自由な生産者の自由な連合』を創り出そうとしている。彼等は、こうした連合が『実践的アナキズム学校』としての役目を果たすことになると考え、革命の前段階においては労働者組織が『理念だけでなく、未来それ自体に関わる様々な事実をも』創り出さねばならぬ、というバクーニンのコメントを非常に真摯に受け止めているのだ。
 アナルコサンジカリストは、全ての社会的アナキストと同様、『社会主義の経済秩序を創り出すのは、一政府による布告や法令ではなく、それぞれの専門生産部門で手や頭を使っている労働者が連帯して協力することだけである、と確信している。産業における様々なグループ・工場・部門が、総体的な経済有機体の独立メンバーであり、自由な相互合意を基にコミュニティの利益になる生産物の生産と分配を体系的に実施する、こうした方法の下で生産者自身が全工場設備の管理を占有することを通じてその経済秩序が創り出されるのである。』[Rudolf Rocker, Anarcho-syndicalism, p. 55]
 もう一度言うが、全ての社会的アナキスト同様、アナルコサンジカリストは、労働組合が暗示している集団闘争と組織をアナキズムの学校だと見なしている。ユージーン=ヴァーリン(第一インターナショナルで活動しており、パリコミューンの終わりに殺害されたアナキスト)は次のように述べている。労組は『人々を集団生活に慣れさせ、人々にもっと拡大した社会組織の準備をさせることについて莫大な利点を持っている。組合は、お互いに上手くやり、お互いを理解するだけでなく、自分達を組織し、議論し、集団的観点で判断を下すことに人々を慣れさせるのである。』それ以上に、資本主義の搾取と抑圧を今ここで軽減すると同時に、組合は『未来の社会的構成物の自然な要素を形成する。労組こそが生産者協会に姿を変えることが出来る。労組こそが、社会の構成要素を創りだし、生産労働の組織を作ることが出来るのである。』[Julian P. W. Archer, The First International in France, 1864-1872, p. 196で引用]
 サンジカリストと他の革命的社会的アナキストの違いは些細なものであり、純粋な違いは、アナルコサンジカリスト組合をどう考えるかにある。無政府集産主義者は、リバータリアン労組を創ることは重要であり、労働運動の中で活動することは『労働者大衆の社会的(その結果として反政治的)力の発展とその力を持った組織』を確保するためには必須なのだということに同意している [Bakunin, Michael Bakunin: Selected Writings, p. 197]。無政府共産主義者も労働運動の中で活動することの大切さを常に認めているものの、概して、サンジカリスト組合を創り、労働者がそれに参画することを期待するよりも、闘争中の労働者がサンジカリズム的組織を創り、そのことで「叛逆の魂」を促進することの方がもっと重要だと考えているものである(もちろん、アナルコサンジカリストもそうした自律的闘争と組織を支持しているわけで、違いはそれほど大きくはない)。無政府共産主義者は仕事場に大きな強調点を置いていない。ヒエラルキーと支配に反対する仕事場外での闘争は、仕事場内部での闘争と同じぐらい重要だと考えているためである(しかし、大部分のアナルコサンジカリストはこのことに同意するだろうし、多くの場合、これは単に何を強調するかの違いに過ぎないものである)。無政府共産主義者の中には、労働運動を本質的に絶望的なほど改良主義だとして拒否し、労働運動内部での活動を拒絶する人々もいるが、それはごく少数である。
 無政府共産主義者も無政府集産主義者も、アナキストが純粋なアナキスト組織に団結する必要があると認めている。アナキストが自分達の考えを明確にし他者に伝えていくために、アナキストとして共に運動することが大切だと考えているのである。サンジカリストは、多くの場合、アナキストのグループや連合の重要性を否定する。革命的産業組合・革命的地域組合だけで充分だというわけである。サンジカリストはアナキズム運動と組合運動が一つに融合しうると考えているが、その他のアナキストの大部分はそう考えていない。非サンジカリストは、組合主義の持つ改良主義的性質を指摘しており、サンジカリスト組合を革命的なままにしておくためにはアナキストが、アナキスト集団やアナキスト連合の一部として、組合内部で活動しなければならないと主張している。大部分の非サンジカリストは、アナキズムと組合主義の融合(fusion)は混乱(confusion)を引き起こしかねず、その結果どちらの運動もそれぞれが重視している活動を正しく行えなくなってしまうと考えている。アナルコサンジカリズムに関する詳細はセクションJ.3.8(そして、多くのアナキストがアナルコサンジカリズムの諸側面を拒否している理由についてはセクションJ.3.9)を参照して欲しい。強調しなければならないが、非サンジカリストのアナキストは労働者による集団的闘争と組織の必要性を否定してはいないのである(これはマルクス主義者に特有の神話であり、セクションH.2.8を参照して欲しい)。
 現実的には、アナキスト連合の必要を完全に拒絶するアナルコサンジカリストはいないし、完全な反サンジカリストのアナキストもまずいない。例えば、バクーニンは、無政府共産主義の考えにもアナルコサンジカリストの考えにも影響を与えていた。クロポトキン、マラテスタ、バークマン、ゴールドマンといった無政府共産主義者も皆、アナルコサンジカリスト運動とその思想に共鳴していたのだった。
 様々なタイプの社会的アナキズムについて更に読んでみたいと思う場合には、以下のものをお勧めする。相互主義はプルードンの著作に結びついていることが多い。集産主義はバクーニンに、共産主義はクロポトキン・マラテスタ・ゴールドマン・バークマンに結びついている。サンジカリズムは少々異なっている。というのも、「有名な」人物の著作というよりも、闘争している労働者が創り出しているからである(学者どもは、ジョルジュ=ソレルをサンジカリズムの父だと呼び続けているが、彼は単に既に存在したサンジカリズム運動について文章を書いただけである。労働者階級民衆が自分達自身の思想を、自分達自身で創り出すことが出来るという考えは学者どもには通じないものなのだ)。しかし、ルドルフ=ロッカーは主導的アナルコサンジカリスト理論家だと見なされることが多く、フェルナンド=ペルティエとエミール=プージェの著作はアナルコサンジカリズムを理解するには必須の読み物である。社会的アナキズムの発展とその主導的人物の重要著作を概観するのであれば、ダニエル=ゲランの優れたアンソロジー「神もなく主人もなく No Gods No Masters」に勝るものはない。

A.3.3 グリーン=アナキズムにはどの様な種類があるのか?

 今日、様々なアナキズムの中で共通のテーマとなっているのが、生態系の危機に対する解決策の一つとしてアナキズム思想を強調する、というものである。この傾向は19世紀後半に、ピョトール=クロポトキンとエリゼ=ルクリュの著作から続いている。例えば、ルクリュは次のように論じていた。『地球と、地球を育てている人間との間には秘密の調和が存在する。そして、軽率な社会がこの調和を破壊する時、常にそうした社会は最終的に後悔することになる。』同様に、『本当に文明化された人間は、自分の性質が万人の利益と自然の利益とに結びついていることを理解している。その人は、先人が引き起こしたダメージを修復し、自分の領地を改善しようと立ち働く。』 [George Woodcock, "Introduction", Marie Fleming, The Geography of Freedom, p. 15 で引用]
 クロポトキンについて言えば、彼は次のように論じていた。アナキズム社会は地域社会の連合に基づく。その地域社会では、工業と農業を分権化して統合しながら肉体労働と頭脳労働を統合するであろう(クロポトキンの古典的名著「田園・工場・仕事場 Fields, Factories, and Workshops」を参照)。「小さいことは美しい(スモール イズ ビューティフル)」(E=F=シューマッハーによるグリーンの古典のタイトルを使えば)という経済観念は、その後に現れるグリーン運動によって取り上げられるほぼ70年前に、既に提起されていたのだった。さらに、「相互扶助論 Mutual Aid」の中でクロポトキンは、種内での協力、そして、種間やその環境との協力の方が競争よりも種にとって利益になっていることが多い、と報告していた。クロポトキンの著作は、ウィリアム=モリス・ルクリュ兄弟(二人ともクロポトキンと同様に世界的に著名な地理学者だった)など多くの人々の著作と共に、生態系の問題に対する現在のアナキストの関心の基盤となった。
 しかし、古典的アナキズムにいくら数多くの生態学(エコロジー)的性質を含んだテーマが存在しているとはいえ、生態学(エコロジー)的思考とアナキズムとの類似性が前面に出てくるようになったのは比較的最近になってからである(基本的に、マレイ=ブクチンの古典的エッセー「生態学と革命思想 Ecology and Revolutionary Thought」が1965年に出版されてからである)。実際、マレイ=ブクチンの考えと著作こそが、アナキズムの中心に生態学と生態系の問題を据え、グリーン運動の多くの側面にアナキストの理想と分析方法を持ち込んだのだ、と述べても過言ではないであろう。
 グリーン=アナキズム(エコアナキズムとも呼ばれる)の種類を論じる前に、アナキズムと生態学(エコロジー)がどのような共通点を持っているのか、を厳密に説明しておいた方が良いと思われる。マレイ=ブクチンを引用しよう。『エコロジストもアナキストも自発性を強く強調している。』そして、『エコロジストにとってもアナキストにとっても、分化の増大によって、永続的に増大する一体性は、分化の増大によって達成される。拡充する全体を創り出すのは、その部分部分の多様化と豊潤化なのだ。』さらに『エコロジストが生態系の範囲を広げ、種間の自由な相互作用を促そうとしているように、アナキストも社会実験の範囲を広げ、その発展を妨げるあらゆるものを取り除こうとしているのである。』 [Post-Scarcity Anarchism, p. 72 and p. 78]
 自由な発達・権力分散・多様性・自発性に対するアナキストの関心は、生態学的な考えと関心の中に反映されている。ヒエラルキー・中央集権・国家・富の集中は、正に本質的に、多様性を減じ、個人とそのコミュニティの自由な発達を妨げる。その結果、社会的生態システムだけでなく、人間社会がその一部となっている実際の生態系をも弱めてしまう。ブクチンは次のように論じている。『生態学が持つ再生メッセージは、私たちは多様性を保全し促進しなければならないということである』が、近代資本主義社会は『自発的で創造的で個性を持っているもの全てを、標準化され秩序立てられ大衆化されたものによって束縛してしまっている。』[前掲書、76ページ、65ページ] 従って、数多くの点で、アナキズムは生態学の考えを社会に対して応用したものと考えることができる。アナキズムの目的は、個人と地域社会に力を与え、政治的・社会的・経済的権力を分散し、そのことで個々人と社会生活とが確実に自由に発達できるように、その結果、自然における多様性を大きくするように保証することだからである。この理由でブライアン=モリスは次のように主張したのである。『生態学を補完し、いわば生態学と完全に繋がっている−−純粋に本当のやり方で−−唯一の政治的伝統は、アナキズムの伝統である。』[Ecology and Anarchism, p. 132]
 さて、グリーン=アナキズムにはいかなる種類があるのだろうか?殆ど全ての近代アナキズムは生態学的次元を持っていると自身を見なしているものの、エコアナキズムで特にハッキリとしている潮流は二つある。社会的エコロジー「プリミティビスト(原始人主義)」アナキズムである。さらに、多くはいないが、ディープエコロジーに影響を受けているアナキストもいる。疑いもなく、社会的エコロジーが現在最も影響力を持っている。社会的エコロジーはマレイ=ブクチンの思想と著作に従っている。ブクチンは1950年代から生態系の問題について文章を書いており、1960年代からは革命的社会的アナキズムと生態系諸問題を組み合わせて論じている。彼の著作には、「欲望充足のアナキズム Post-Scarcity Anarchism」「生態調和社会に向けて Toward an Ecological Society」「自由の生態学 The Ecology of Freedom」など数多くある。
 社会的エコロジーは、生態系の危機の根源は人間間の支配関係である、と断固として示している。自然の支配は人間社会に見られる支配の産物だと見なされるが、この支配が危機の段階にまで達するのは資本主義下においてのみなのである。マレイ=ブクチンは次のように述べている。

 人間が自然を支配しなければならないという考えは、人間の人間による支配から直接生じている。しかし、この関係が出現したのは、有機的コミュニティ関係が市場関係へと解消されたときだった。市場関係の下では、この惑星それ自体が搾取対象の一資源へと還元される。この何世紀にもわたる傾向の最悪の発展形態が、近代資本主義である。競争的性質を本質的に持っているため、ブルジョア社会は人間同士を戦わせるだけにとどまらず、自然界に対して大多数の人類を戦わせてもいる。人間が商品へと変換させられているように、自然の全面が商品へと転化させられ、資源は気紛れに製造され売られている。市場における人間の魂の略奪は、資本による地球の略奪と平行して進んでいるのである。』[前掲書、63ページ]

 ブクチンは強調する。『生態学が社会変革に向けた反ヒエラルキー・反支配の感性・構造・戦略を意識的に育まない限り、人間性と自然との新しいバランスを求めた声としての正なるアイデンティティを、そして、真の生態調和社会に向けたその目標持ち続けることなど出来ない。』社会的エコロジストは、ブクチンが『環境保護主義』と呼んでいるものとこのことを対比している。社会的エコロジーは『人間による人間の支配を取り除くことで、人間による自然の支配という概念を廃絶しようとしているが、環境保護主義は「道具的」つまり技術的感性を示している。この感性では、自然は単なる受動的習性、外的物体と外的力の集塊として見なされる。どのように利用されるのかに関わらず、人間が利用する上でもっと「実用的な」ものにしなければならないわけだ。環境保護主義は、現代社会の根底にある概念、とりわけ、人間が自然を支配しなければならないという概念を疑問視しない。逆に、支配がもたらす危険を軽減する技術を開発することで、その支配を促そうとしているのである。』[Murray Bookchin, Toward an Ecological Society, p. 77]
 社会的エコロジーは自然と調和した社会ヴィジョンを提供する。これは『資本主義テクノロジーとブルジョア社会の歴史的発展を特徴付けているあらゆる傾向−−機械と労働の綿密な特殊化・巨大な工業事業と都会的事業体への資源と人間の集中・自然と人間の階層化と官僚化−−を根底から覆す。』そうしたエコトピアは『地域社会が位置する生態系に芸術的にはめ込まれる全く新しいエココミュニティを確立する。』クロポトキンに同意しながら、ブクチンは次のように論じる。『そうしたエココミュニティは、知的作業と肉体作業を融合することによって、職務課題の交代や多様化の中で工業を農業と融合することによって、町と田舎、精神と肉体の分断を治療してくれる。』この社会は適正テクノロジーと緑のテクノロジーの使用に基づくことになろう。『新しいテクノロジー−−つまりエコテクノロジー−−は、柔軟性があり融通が利く機械から成り立ち、それが実際の生産に応用されると、耐久性と品質が重視されるであろう。陳腐化・粗悪な商品の軽率な大量生産・使い捨て商品の急速な流通の中に組み込まれるのではない。そうしたエコテクノロジーは、公害を出さない素材や廃棄時にリサイクル可能な物質をエココミュニティに提供するために、自然が持つ無尽蔵のエネルギー容量を利用することになろう。太陽光や風・潮の干満や水路・地球の温度差や私たちの周囲に多量に存在する水素を燃料として使うことが出来るだろう。』[Bookchin, 前掲書, pp. 68-9]
 しかし、これが全てではない。ブクチンが強調しているように、生態調和社会は『人間と自然界との間で増大している不均衡を調査しようとする社会以上のものである。社会の機能を単純な技術的問題や政治的問題に還元するこうした退屈な見解は、生態学による批判が提起した諸問題の評判を落とし、生態系諸問題に対する純粋に技術的で道具的なアプローチを導く。社会的エコロジーはまず第一に感性である。それは、ヒエラルキーと支配の批判だけでなく、社会再建の展望を含み、差異をヒエラルキー型の秩序に構造化せずに多様性を強調する倫理によって導かれる。参加と分化こそがそうした倫理への指針なのである。』[The Modern Crisis, pp. 24-5]
 したがって、社会的エコロジストは、生態系諸問題の根本的原因として、文明それ自体ではなく、ヒエラルキーと資本主義を排撃することこそ重要だと見なしている。これが、社会的エコロジストが「原始人主義(プリミティビスト)」アナキストの考えに反対している重要な分野の一つである。「原始人主義」アナキストは、現代生活全てについて、はるかに批判的な場合が多く、「文明の終焉」−−明らかに、あらゆるテクノロジーとあらゆる大規模組織も含まれる−−を要求するところまで行っている者もいる。こうした考えについては、セクションA.3.9で論じる。
 記しておかねばならないが、他のアナキストは、社会的エコロジーの分析と示唆に全般的に同意しているものの、社会的エコロジーが自治体選挙で候補者を擁立しようとしていることを激しく批判している。社会的エコロジストは、候補者擁立を、自主管理型民衆集会を創り出し、国家に対する対抗権力を創り出す手段だと見なしているが、これに同意するアナキストはほとんどいない。むしろ、それは本質的に改良主義であり、社会変革をもたらすために選挙を利用する可能性について絶望的に素朴なのだと見なしている(このことに関する充分な議論は、セクションJ.5.14で行う)。こうしたアナキストは、選挙は急進主義思想を水で薄め、そこに参画する人々を堕落させる破目になる行き詰まりだとして拒絶しながら、アナキズム思想と生態学思想を推し進める手段として直接行動を企図しているのである(セクションJ.2 「直接行動とは何か?」を参照)。
 最後になるが、「ディープエコロジー」がある。しかし、その生物中心主義的性質のために、多くのアナキストはディープエコロジーは反人間だとして拒絶している。多くのディープエコロジストが示そうとしていると思われるのだが、人間は人間であるが故に生態系危機の原因である、などと考えているアナキストは殆どいない。例えば、マレイ=ブクチンは、ディープエコロジーとディープエコロジーに結びつくことの多い反人間思想に対して特に遠慮なく率直な批判をしている(例えば、「エコロジー運動はどの方向に向かうのか? Which Way for the Ecology Movement?」を参照)。デヴィッド=ワトソンもディープエコロジーに反対している(ジョージ=ブラッドフォード名で書かれた「ディープエコロジーはどれほどディープなのか? How Deep is Deep Ecology?」を参照)。大部分のアナキストは次のように主張する。問題なのは人間ではなく現行システムなのであり、システムを変えることができるのは人間だけである。マレイ=ブクチンの言葉を引用しよう。

 (ディープ=エコロジーの問題は)粗野な生物学主義が持つ権威主義的傾向に由来している。この生物学主義は、人間性の感覚が永続的に矮小化し続けていることを覆い隠すために「自然法」を利用し、社会現実に関する深刻な無知を覆い隠すために、私たちが話しているのは「人間性」とか「社会」とか呼ばれる抽象ではなく資本主義なのだという事実を無視しているのである。』[The Philosophy of Social Ecology, p. 160]

 つまり、モリスが強調しているように、『「人間性」というカテゴリーに全焦点を当てることで、ディープエコロジストは生態系諸問題の社会的起源を無視したり、全く見えなくしたりする。あるいは、本質的に社会的な問題を生物学的なものにしてしまう。』生態学的批判と分析を人類に対する単純化された抗議へと覆い隠すことは、生態系破壊の真の原因とそのダイナミクスとを無視することであり、その結果、この破壊の終わりを見つけることが出来なくしている。単純に言って、人々の生活・地域社会・産業・生態系に影響を及ぼす決定に対して大多数の人々が何の本質的発言権も持っていないときに、責められるべきは「人々」ではない。むしろ、儲けと権力とを民衆と惑星よりも高く価値づけているのは、経済システム・社会システムである。「人間性」に注意を向けることで(そして、金持ちと貧乏人・男と女・白人と有色人種・搾取する側とされる側・圧政者と非抑圧者間の区別を見過ごすことで)、私たちが生活しているシステムが実質的に無視され、その結果、生態系諸問題の制度的原因も無視されてしまう。このことは、『その言外の意味において、反動的にも権威主義的にも』なり得る。『そして、現実の社会的諸問題と社会的懸念に関する批判的研究を、「自然」の素朴な理解に置き換えてしまうのである。』[Morris, 前掲書, p. 135]
 アナキストがその発言者の考えのいくつかを一貫して批判することで、多くのディープエコロジストはその運動と結び付いていた反人間的考えに背を向けて来ている。ディープエコロジー、特に「アース=ファースト!」(EF!)という組織は、時と共に重大な変遷を遂げ、現在では、「世界産業労働者」(IWW)というサンジカリスト組合と共に密接に活動している。ディープエコロジーはエコアナキズムの一派ではないが、多くの考えを共有し、EF!がその厭世的考えを拒否し、人類ではなくヒエラルキーが問題なのだとする見方をし始めるにつれ、アナキストに受け入れられるようになって来ている(マレイ=ブクチンとアース=ファースト!の主導的メンバー、デイブ=フォアマンとの議論は「地球を守る Defending the Earth」という本を参照)。  

A.3.4 アナキズムは平和主義なのか?

 平和主義の潮流はアナキズムに昔から存在していた。レフ=トルストイがその代表的な人物である。この潮流は、「無政府平和主義(アナルコパシフィズム)」と呼ばれることが多い(「非暴力的アナキスト」という言葉が使われることもあるが、これは、それ以外のアナキスト運動が「暴力的だ」ということを暗に示しているため不適切であるし、その様なことは真実ではないのだ!)。アナキズムと平和主義の結合は、アナキズムの根本理念と主張とを理解していれば、何等驚くべきことではない。結局、暴力そのものや、暴力や危害を使った脅迫行為は、個人の自由を破壊する重大な手段なのである。ピーター=マーシャルが指摘しているように、『アナキストが個人の主権を大切にしていることを考えれば、長い目で見て、アナキズムの価値観が示しているのは非暴力であって、暴力ではない。』[Demanding the Impossible, p.637] マラテスタはもっとハッキリと次のように述べている。『アナキズムの主要政策は、人間関係から暴力を除去することである』、そしてアナキストは『暴力に反対する。』[Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 53]
 しかし、多くのアナキストが暴力を拒否し平和主義を要求しているのにも関わらず、運動は、一般的に言って、本質的に平和主義的ではない(いつでもいかなる形態の暴力にも反対するという意味において)。むしろ、アナキズムは反軍国主義である。国家の組織暴力には反対するが、圧政する側の暴力と圧政される側の暴力との重要な違いを理解しているのである。アナキスト運動が、いつも多くの時間とエネルギーを費やして、軍事機構と資本主義戦争に敵対し、同時に、圧政に対する武装レジスタンスを支援し組織している理由がこれである(ロシア革命中に赤軍と白軍双方に抵抗したマフノ主義者の軍隊やスペイン革命中にファシストに抵抗するために組織されたアナキスト市民軍がその例である。それぞれ、
セクションA.5.4A.5.6を参照)。
 非暴力の問題に関して、大雑把な経験則として、アナキズム運動は個人主義アナキストと社会的アナキストの二つのやり方に別れる。大部分の個人主義アナキストは、社会変革に対する純粋な非暴力戦略を支持しており、相互主義者もそうである。しかし、個人主義アナキズムは平和主義者そのものではない。その多くが攻撃に対する自己防衛という形で暴力の考えを支持している。一方、大部分の社会的アナキストは、革命的暴力の使用を支持しており、堅固に身を固めた権力を転覆し、国家と資本主義者の攻撃に抵抗するためには暴力が必要だとという立場を取っている(ただし、「暴力の略取 The Conquest of Violence」という非戦論の古典的名著を書いたのは、バート=デ=リフトというアナルコサンジカリストだったが)。マラテスタが述べているように、暴力は、『本質的に悪』であるが、『自分自身や他者を暴力から守るために必要な場合にのみ正当化』され、『奴隷はいつも正当防衛の状態に置かれているため、ボスや圧政者に対するその暴力はいつでも道徳的に正当なものである。』[前掲書, p. 55 and pp. 53-54] それ以上に、社会的アナキストは、バクーニンの言葉を借りて、社会的抑圧は『個々人からではなく、物事の組織や社会的立場から生じる』以上、アナキストは、人間ではなく『立場や物事を情け容赦なく破壊する』ことを目的としている。何故なら、アナキズム革命の目的は、『個人としてではなく、階級としての』特権階級の終焉を見ることだからだ [Richard B. Saltman, The Social and Political Thought of Michael Bakunin p. 121, p. 124 and p. 122 で引用]。
 確かに、暴力の問題は、ほとんどのアナキストにとってそれ程重要ではない。暴力を賛美するわけではないが、いかなる社会闘争や社会革命の最中であっても最小限にとどめておくべきだと考えているのである。全てのアナキストは、オランダの平和主義アナルコサンジカリスト、デ=リフトによる次の主張に同意するだろう。『暴力と戦争が個人の解放と共存することなどできはしない。暴力と戦争は資本主義の特徴的条件であり、個人の解放は搾取されている階級の歴史的使命である。暴力が大きくなればなるほど、革命は弱体化する。それがたとえ、革命の役に立つように意図的に暴力を行使する場合であってもである。』[The Conquest of Violence, p. 75]
 同様に、アナキストは皆、バート=デ=リフトの本の一章につけられた表題「ブルジョア平和主義の不条理」に同意するだろう。デ=リフトにとって、そして全てのアナキストにとっても、暴力は資本主義システムに内在しているものであり、資本主義を平和主義的ににしようという試みはいかなるものであれ失敗する運命にある。その理由は、一方においては、戦争は他の手段でも行われている経済的競争でしかないからである。国は経済危機に直面したときに戦争を引き起こすことが多く、経済闘争で得ることができなかったことを対立によって得ようとする。他方、『暴力は近代社会で不可欠である。(何故なら)暴力なしでは、支配階級は、個々の国々で搾取されている大衆に対して特権的立場を維持することが全くできなくなってしまうからである。』[Bart de Ligt, 前掲書, p.62] 国家と資本主義が存在する限り、暴力は不可避である。したがって、無政府平和主義者にとって、一貫して平和主義者である以上アナキストでなければならず、一貫してアナキストである以上平和主義者でなければならないのである。
 平和主義者ではないアナキストにとって、暴力は、圧政と搾取の、残念ではあるが避けることのできない結果であると同時に、特権階級にその権力と富とを放棄させるための唯一の手段である、と見なされる。権威を持っている人々は、自分の権力を容易に手放そうとはせず、だからこそ無理矢理そうさせなければならない、というわけである。『大多数の人間を奴隷状態にし続けているもっと大きく永続的な暴力を終わらせるために、過渡的な』暴力が必要なのである [Malatesta, 前掲書, p. 55]。暴力vs.非暴力の問題に集中することは、本質的問題、すなわちどの様にして社会をより良い方向へと変えていくか、を見逃すことになってしまう。アレクサンダー=バークマンが指摘したように、平和主義のアナキストは問題を混同している。丁度、『仕事で腕まくりをすることを仕事そのものだと見なされねばならない』と考えている人々のようなものだ。逆に、『革命の戦闘的側面は、単に腕まくりをすることに過ぎない。本来の現実的課題はその先にある。』[What is Anarchism?, p. 183] 実際、大部分の社会闘争と社会革命は比較的平和的に(ストライキや占拠などで)始まる。それが暴力へと変質するのは、権力者が自分の立場を維持しようとしたときだけである(代表的な例をあげれば、1920年のイタリアでは労働者による工場占拠の後にファシストのテロが起こったのである−−セクションA.5.5を参照)。
 上述したように、アナキストは皆、反軍国主義であり、軍事機構(そして「防衛」産業も)と国家主義者や資本主義者の戦争とに反対している(ルドルフ=ロッカーとサム=ドルゴフのような少数のアナキストは、第二次世界大戦中、反ファシストの資本主義者を悪い中でもまだ良い方だとして支持していたが)。アナキストとアナルコサンジカリストによる反軍事機構メッセージは、第一次世界大戦が始まるずっと前から英国と北米のサンジカリストとアナキストによって宣伝され、兵士に向けて命令に従わないように、仲間の兵士のストライキを抑圧しないようにと呼びかけたフランスCGTのリーフレットに翻刻された。エマ=ゴールドマンとアレクサンダー=バークマンは、1917年に「徴兵制反対同盟」を組織したために逮捕され合州国を追放させられた。一方、欧州では多くのアナキストが第一次世界大戦と第二次世界大戦で軍隊に入ることを拒否したために投獄させられた。アナルコサンジカリズムの影響を受けたIWWは、その組織的反戦メッセージが権力を持った戦争好きのエリートにとって脅威だっため、押し寄せる政府の残虐な弾圧によって壊滅させられた。最近でも、アナキスト(ノーム=チョムスキーやポール=グッドマンのような人々を含む)は、平和運動に積極的に参加しており、未だに存在する徴兵制に対して抵抗している。アナキストは、ベトナム戦争・フォークランド紛争・1991年と2003年の湾岸戦争(イタリアとスペインにおいて、湾岸戦争に抵抗してストライキを組織する手助けをしてたことも含む)などの戦争に反対するときに積極的な役割を果たしている。多くのアナキストが「階級戦争以外の戦争は止めろ」というスローガンを掲げたのは、1991年の湾岸戦争中であった。このスローガンはアナキストの反戦論をうまく要約している。つまり、戦争は階級システムのもたらす害悪であり、様々な国々の圧制されている階級が、支配者の権力と利益のためにお互い殺し合っているのである。アナキストは、この組織化された大虐殺の一部にならずに、労働者が、その主人の関心事ではなく、自身の関心事のために闘うように呼びかけているのである。

 何にもまして、我々は妥協してはならぬ。資本主義と賃金奴隷、支配者と支配される側との溝を深くせよ。民衆間の親交・全ての民衆の正義と自由を保証する唯一の手段だとして、私有財産の収用と国家の破壊とを伝道せよ。我々はこれらのことを成し遂げる用意をせねばならないのだ。[Malatesta,前掲書, p. 251]

 一言ここで言っておかねばならないが、マラテスタがこのように書いた理由の一部は、ピョートル=クロポトキンに反論するためであった。クロポトキンは、彼にしか分からない理由で、第一次世界大戦中、彼がそれ以前に長いこと主張し続けて来たこと全てを否定して、ドイツの権威主義と帝国主義に反対する同盟を、悪い中でもましな方として支持した。むろん、マラテスタが指摘しているように『いかなる政府であれ、いかなる資本家階級であれ、自身の国の労働者と反逆者に対抗するという悪行を』行っているのだ。[前掲書, p. 246] マラテスタは、バークマン・ゴールドマンなど数多くのアナキストと共に、第一次世界大戦に反対する国際アナキスト宣言に署名した。この文書は、大部分のアナキズム運動(当時の、そしてその後の)が、戦争と戦争を止める方法について持っている意見を表明していた。以下に引用しよう。

 特権の様式である国家、この存在こそが戦争の原因である。これが真実である。国家は、それがどのような形態を装おうとも、特権を持つ少数者を利する組織的抑圧以外の何者でもない。
 心の底から平和を重んじている国民の不幸は、戦争を避けるために、その陰謀めいた外交を伴う国家・民主主義・政治政党に信頼を置いていることである。この信頼は故意に裏切られてきた。現在も裏切られ続けている。政府は、あらゆる新聞雑誌の助けを借りて、この戦争は解放戦争なのだと個々の民衆に信じ込ませているのである。
 我々は、国民間のあらゆる戦争に断固として反対する。我々は、これまで、戦争に対して最も力強く反対してきた。今も反対している。今後も、最も力強く反対するであろう。
 アナキストの役割は、解放の戦争は一つしかない、と公言し続けることである。万国において、抑圧者に対して抑圧されている側が、搾取者に対して搾取されている側が仕掛ける戦争である。我々の役目は、主人に対して反逆するように奴隷を奮起させることである。
 アナキストの行動とプロパガンダは、様々な国家を弱体化させ、消滅させ、叛逆の魂を養い、国民と軍隊に不満を呼び起こすことに向けて、熱心に根気よく行われる。
 我々は、叛乱を扇動し、あらゆる社会悪の終焉を目差す革命を組織するために、あらゆる叛逆の運動・あらゆる不平不満を活用しなければならない。社会正義は生産者の自由組織を通じて実現する。戦争と軍国主義は廃棄される。完全なる自由が勝利する。国家とその破滅的諸機関の廃絶によって。["International Anarchist Manifesto on the War," Anarchy! An Anthology of Emma Goldman's Mother Earth, pp. 386-8]

 従って、アナキストにとっての平和主義の魅力は明らかである。暴力は権威主義的で威圧的なのである。そして、暴力の使用はアナキズムの原則と矛盾する。アナキストはマラテスタの次の言葉に同意する。『我々は暴力に反対する原則に則っている。この理由で、社会闘争は出来るだけ穏やかに行われねばならないと我々は望んでいる。』[Malatesta, 前掲書, p. 57] 全員ではないにせよ、大部分のアナキストは厳格な平和主義者ではない。しかし、暴力は逆効果であり、民衆を疎外し、社会変革をもたらそうというアナキスト運動と民衆運動の双方を弾圧する口実を国家に与えてしまいかねない、と平和主義者が論じるならば、アナキストはそれに同意する。アナキストは皆、非暴力直接行動と市民の不服従を支持している。こうした方法の方がラディカルな変化をもたらす良い道筋を示してくれることが多いものである。
 要約しよう。純粋な平和主義のアナキストは希である。大部分が、必要悪として暴力の使用を受け入れ、その使用を最小限に留めることを支持している。全てのアナキストは、暴力を制度化する革命は国家を新たな形で創り出すだけだと主張している。しかし、権力を破壊することや暴力に抵抗するために暴力を使うことは権威主義ではないとも論じている。従って、大部分のアナキストは平和主義者ではないが、暴力の使用は自己防衛の場合以外は拒絶しており、その場合であっても暴力使用は最小限に留めるべきだと考えているのである。

A.3.5 アナルカフェミニズムとは何か?

 19世紀の初期フェミニストの中でも国家と全ての権威に対する反対が強く表明されていたが、1960年代に始まった現代フェミニスト運動はアナキスト実践を基礎としていた。これがアナルカフェミニズムという言葉の由来であり、より大きなフェミニズム運動・アナキズム運動の中で活動している女性アナキストのことを指し、彼女たちにその根本原理を思い起こさせるようにしているのである。
 現代のアナルカフェミニストは、それ以前のアナキスト(男性であれ女性であれ)が持っていたフェミニズム思想に基づいている。実際、アナキズムとフェミニズムはいつも密接に関連しあって来た。多くの優れたフェミニストはアナキストでもあった。その中には、先駆者マリー=ウルストンクラフト(「女性の権利の擁護 A Vindication of the Rights of Woman」の著者)・パリコミューン参加者ルイズ=ミシェル・米国人アナキストのヴォルテーリン=デ=クライアー・女性の自由を求めた疲れを知らぬ闘士エマ=ゴールドマン(「女性売買 The Traffic in Women」「女性の参政権 Woman Suffrage」「女性解放の悲劇 The Tragedy of Woman's Emancipation」「結婚と愛 Marriage and Love」「道徳の犠牲者 Victims of Morality」などの有名なエッセイを参照)。世界で最も古いアナキスト新聞「自由」は1886年にシャーロッテ=ウィルソンが発刊した。ビルヒリア=ダンドリアとローズ=ペソタはリバータリアン運動と労働運動の両方で重要な役割を果たした。革命中のスペインにおける「ムヘレス=リブレス」(自由な女性たち)運動は、女性アナキストが自分達の基本的自由を防衛し、女性の自由と平等に基づいた社会を作りだそうとして組織を作った古典的実例である(この重要な組織の詳細は、マーサ=アッケルスバーグ著「スペインの自由な女性 Free Women of Spain」を参照)。さらに、主要な男性アナキスト思想家は(プルードンを除き)皆、女性平等の断固たる支持者だった。例えば、バクーニンは家父長制に反対し、法律がいかにして『(女性を)男性の絶対支配下に置く』ようにしているのかを述べていた。女性が『自分らしい生活を自由に築く』ことができるように『平等の権利が男性と女性に属していなければならない』と彼は主張した。彼が望んだのは『権威主義的で裁判所のような家族』の終焉と『女性の十全な性の解放』であった。[Bakunin on Anarchism, p. 396 and p. 397]
 つまり、アナキズムは1860年代以来、資本主義と国家に対する徹底的批判を、家父長制(男性による統治)に対する同じぐらい強力な批判と組み合わせてきたのである。アナキスト、特に女性のアナキストは、近代社会が男性によって支配されていることを理解している。アナ=マリア=モッツォーニ(ブエノスアイレスにいるイタリア移民のアナキスト)は次のように述べている。女性は『分かるであろう。自分を呪っている司祭は男性である。自分を弾圧している立法者は男性である。自分をモノに貶めている夫は男性である。自分を苦しめている放蕩者は男性である。人には儲けさせないで自分だけ儲けている資本家、あなたの肉体の対価を冷静に着服している相場師は男性なのである。』当時から何も変わっていない。家父長制は今も存在し、「社会問題 La Questione Sociale」というアナキスト新聞を引用すれば、未だに女性が『社会生活においても私的生活においても奴隷である』ことに変わりがないのだ。自分がプロレタリア階級だとすれば、二人の暴君を持っていることになる。男性とボスである。ブルジョア階級だとすれば、自分に残されている主権は、軽薄と媚態に関係するものだけなのだ。』[Jose Moya, Italians in Buenos Aires's Anarchist Movement, pp. 197-8 and p. 200 で引用]
 アナキズムは、家父長制と戦うことは、国家や資本主義と戦うことと同じぐらい重要だという認識に基づいている。ルイズ=ミシェルを引用しよう。

 まず第一に変えねばならないのは、性別間の関係である。人間には男性と女性の二種類がいる。私たちは共に歩まねばならない。しかし、今は対立している。「より弱い」側を「より強い」側が統制するとか、統制していると思い込むといったことがある限り、このことは続くであろう。[The Red Virgin: Memoirs of Louise Michel, p. 139]

 アナキズムは、フェミニズム同様、家父長制と闘い、女性の平等のために戦う。アナキズムもフェミニズムも共通の歴史を多く持ち、女性メンバーの個人的自由・平等・尊厳について関心を持っている。(だが、以下でもっと深く説明するが、アナキストは主流派やリベラルなフェミニズムは不充分であるとしていつも非常に批判的である)。従って、60年代の新しいフェミニズムの波がアナキズム的なやり方で自身を表現し、エマ=ゴールドマンのようなアナキスト傑人から多くのインスピレーションを引き出していたことは驚くにはあたらない。キャシー=レヴァインが指摘しているように、この時期には『女性の独立集団は、男性左翼が持っていた構造・指導者・その他の雑役人なしで機能し始めていた。独自に、同時期に、組織を創っていたのである。それは、数十年にわたり様々な場所に存在しているアナキスト組織と類似していた。どちらも偶然ではなかったのだ。』 ["The Tyranny of Tyranny," Quiet Rumours: An Anarcha-Feminist Reader, p. 66] 偶然ではない。フェミニストの学者が書いているように、家父長制と支配イデオロギーは新石器時代後期に始まったと考えられるが、女性はそのヒエラルキー社会の最初の被害者だった。マリリン=フレンチが(「権力を越えて Beyond Power」で)論じているように、人類種で最初に大きな社会階層化が生じたのは、男性が女性を支配し始めた時であり、その結果女性は「低級」で「劣等な」社会階級にされてしまったのである。
 アナキズムと現代フェミニズムとは思想と行動の両方で繋がっている。主導的フェミニスト思想家キャロール=ペイトマンは次のように書いている。自分の『議論(契約理論とその権威主義的・家父長制的基盤)が拠所としているのは』リバータリアン思想、『社会主義運動のアナキズム派』である [The Sexual Contract, p. 14] さらに、1980年代には次のように記していた。『過去20年間、権威主義・ヒエラルキー・非民主主義組織批判の中心は、女性運動であった。第一インターナショナルでマルクスがバクーニンを打ち負かして以来、労度運動・国有産業・左翼セクトで蔓延していた組織形態は、国家のヒエラルキーを模倣している。女性運動は、長い間埋もれていた(バクーニンのようなアナキストの)思想を奪還し、実践してきた。社会変革運動と社会変革実験は、未来の社会組織を予示しなければならない。』[The Disorder of Women, p. 201]
 ペギー=コーネガーはフェミニズムとアナキズムの理論上・実践上の強力なつながりを指摘している。『急進的フェミニストの見解はほとんど純然たるアナキズムである』と彼女は書いている。『その基本理論の前提は、全ての権威主義システムの基盤は核家族だ、ということである。父親から教師から職場のボスから神にいたるまで、子供が学ぶ教訓は、匿名の権威の偉大なる声に服従することである。子供時代を卒業して成人期へ入ること、これは、疑問を持つことも明瞭に考えることすらできない一人前の自働機械になることなのだ。』 ["Anarchism: The Feminist Connection," Quiet Rumours: An Anarcha-Feminist Reader, p. 26] 同様に、ゼロ=コレクティヴが論じているように、アナルカフェミニズムは『フェミニズムの中のアナキズムであると認識し、それを意識的に発展させようとすることで成り立っている。』["Anarchism/Feminism," pp. 3-7, The Raven, no. 21, p. 6]
 アナルカフェミニズムは、支配・搾取・攻撃性・競争性・無感覚化などの権威主義的特徴と価値観とが、ヒエラルキー文明の中で非常に重んじられ、伝統的に「男らしさ」として述べられている、と指摘する。逆に、協働・共有・同情・感受性・優しさなどの非権威主義的特性と価値観は、伝統的に「女性的」特性と見なされ、見下されている。フェミニストの学者たちは、この現象を、青銅器時代初期の家父長制社会の発展と、協働に基づいた「有機的」社会の征服にまで辿って考察している。有機的社会では「女性的」特性と価値観とが広く行きわたり、尊重されていた。しかし、有機的社会が征服された後、これらの価値観は、特に男性にとって「劣等だ」と見なされるようになった。なぜなら、家父長制度下で男性が支配と搾取を掌握していたからである。(例えば、リーアン=アイスラー著「聖杯と刀 The Chalice and the Blade」やエリース=ボールディング著「歴史の底面 The Underside of History」などを参照)。だから、アナルカフェミニストは協働・共有・相互扶助などに基づいた非権威主義的アナキスト社会の創造を「社会の女性化」と呼んでいるのである。
 アナルカフェミニストは、社会の「女性化」を達成するためには自主管理と分権化とが必須である、と述べている。アナルカフェミニストが転覆しようとしている家父長的権威主義的価値観と伝統が、ヒエラルキーの中に編み込まれ、その中で再生産されているからである。従って、フェミニズムは分権化の意味も含み、結果として、自主管理も示唆している。多くのフェミニストはこのことを認識し、ヒエラルキー構造と競争的意思決定を排除したコレクティヴ形態のフェミニスト組織を使って様々な実験を行っている。フェミニストの中には、直接民主主義組織が特に女性の政治形態だと論じているものすらある。(例えば、ゼイラ=アイゼンシュタイン編「資本主義家父長制と社会主義フェミニズム擁護論 Capitalist Patriarchy and the Case for Socialist Feminism」、56〜77ページ収録のナンシー=ハートソック著「フェミニズム理論と革命戦略の開発 Feminist Theory and the Development of Revolutionary Strategy」、を参照)。全てのアナキストと同様、アナルカフェミニストは自己解放が女性の平等の鍵であり、従って女性の自由の鍵だと認識している。エマ=ゴールドマンは次のように述べている。

 女性の発達・自由・独立は、女性自身から女性自身を通じてなされねばならない。まず第一に、自分は一つの人格であり、性の商品ではないと主張することで。第二に、自分の身体に対する他人の権利を拒絶し、自分が欲しいと思わない限り子供を持つことを拒絶し、神・国家・社会・夫・家族などに仕える立場を拒絶し、自分の生活をシンプルだが奥深く豊潤にすることで。つまり、人生の意味と本質をその莫大な複雑さの中で学び取ろうとし、世論や世間からの非難に対する恐怖から自分自身を解放することによってである。』[Anarchism and Other Essays, p. 211]

 アナルカフェミニズムは、フェミニズムが右翼や左翼の権威主義的イデオロギーから影響を受けたり、それらに支配されたりしないように努めている。アナルカフェミニズムが企図しているのは、直接行動と自助であって、改良主義の大衆政治キャンペーンではない。そうした政治キャンペーンを好んで使っているのは「公式的」フェミニズム運動である。ヒエラルキー的中央集権的組織を創り、女ボス・女性議員・女性兵士を増やすことが「平等」に向かう第一歩だという幻想を持っているわけだ。アナルカフェミニストは次のように指摘する。女性が資本主義企業の中で経営者になるためには、いわゆる「経営学」なるものを学ばねばならないが、それは本質的に賃金労働者を大企業ヒエラルキーの中で管理し搾取するためのテクニック群である。逆に、社会を「女性化する」ためには、資本主義の賃金奴隷と経営管理者の支配を共に排除しなければならない。アナルカフェミニストは、効果的搾取者や抑圧者になる方法を学ぶなど、平等に向かう道ではない、ということを実感しているのである(ムヘレス=リブレスのメンバーが次のように述べていた。『私たちは、男のヒエラルキーをフェミニストのヒエラルキーで置き換えようとは思っていなかった。』[Martha A. Ackelsberg, Free Women of Spain. p. 2で引用]。また、家父長制度とヒエラルキーについてさらに詳しく論じているセクションB.1.4も参照)。
 このため、アナキズムは、女性の解放と平等を支持するものの、リベラルな(主流派の)フェミニズムに対しては伝統的に敵対している。フェデリカ=モンセニー(スペインのアナキスト運動の要人である)は、そうしたフェミニズムは女性の平等を擁護してはいるが既存諸制度には挑戦していなかった、と論じていた。彼女は、(主流派の)フェミニズムが持つ『唯一の野望は、既存の特権システムにもっと十全に参画できるような機会を特定階級の女性たちに与えることである』と述べ、こうした制度が『男性がそこから利益を得ている場合に不公正ならば、女性がそこから利益を得たとしても不公正であることには変わりはない』と論じていた [Martha A. Ackelsberg, 前掲書, pp. 90-91 and p. 91で引用]。従って、アナキストにとって、女性の自由は、ボスになったり賃金奴隷になったり、有権者になったり政治家になったりする機会を平等に持つことではない。むしろ、自由な繋がりの中で平等者として協力する自由で平等な個人になる機会を平等に持つことなのである。ペギー=コーネガーは次のように強調している。『フェミニズムは、企業での女性の力だとか女性大統領だとかの意味ではない。企業力も大統領もいらない、という意味である。男女平等憲法修正事項が社会を変えることはない。ヒエラルキー経済に進出するための「権利」を女性に与えるだけである。性差別に挑戦することはあらゆるヒエラルキー−−経済的・政治的・私的−−に挑戦することだ。つまり、アナルカフェミニズム革命を意味するのである。』[前掲書, p. 27]
 お分かりだろうが、アナキズムには階級分析と経済分析が含まれている。この分析はフェミニズム主流派にはない。同時に、主流の社会主義運動には理解できない家庭関係・性に基づく権力関係をもアナキズムは意識している。この意識はヒエラルキーに対する憎悪から出現しているのだ。モッツォーニは次のように述べている。『アナーキーは、全ての抑圧される側の大義を擁護する。このために、特別なやり方で、あなたの(女性の)大義を擁護する。嗚呼!女性は現代社会で社会的領域でも私的領域でも二重に抑圧されているのだ。』[Moya, 前掲書, p. 203で引用] つまり、中国のアナキストを引用すれば、『性別間の平等』によってアナキストが『意味しているのは、単に男性が女性を今後抑圧しないということだけではない。男性が他の男性から抑圧されず、女性が他の女性から抑圧されないことをも我々は望んでいる。』従って、女性は『支配権を完全に打倒し、男性にその特権全てを放棄させて、女性に対して平等になるようにさせ、女性の抑圧も男性の抑圧もない世界を創出』しなければならないのである [He Zhenの言葉, Peter Zarrow, Anarchism and Chinese Political Culture, p. 147で引用]。  マーサ=アッケルスバーグが記しているように、歴史的なアナキスト運動において、リベラルなフェミニズム・主流派のフェミニズムは、『女性解放の戦略として余りにも視野が狭すぎる』と見なされていた。『性の闘争を階級闘争やアナキズムのプロジェクト全体から切り離すことなどできはしない。』[前掲書, p. 91]。アナルカフェミニズムはこの伝統を継承している。家父長制度だけでなく、あらゆるヒエラルキーが誤りであり、フェミニズムが単に男がやっているのと同じようにボスになる機会を女も持てるようにしようということを望むのであれば、フェミニズム自体が持っている理想に反している、と主張するのである。明白なことを端的に述べているだけのことだ。『女性の手中にある権力が強制のない社会を導きうるなどと信じてはいない』し、『エリート指導者のいる大衆運動から何か良いことが出現しうるなどと信じても』いないのである。『中心となる問題は、常に権力と社会的ヒエラルキーである。』そして、人々は『自分の生活を自分でコントロールする力を持つときにだけ、自由なのだ。』[Carole Ehrlich, "Socialism, Anarchism and Feminism", Quiet Rumours: An Anarcha-Feminist Reader, p. 44] ルイズ=ミシェルが述べているように『プロレタリアが奴隷だとすれば、プロレタリアの妻は更に奴隷である。』[前掲書, p. 141] 同じレベルの抑圧を妻が確実に経験するようにし、夫が問題の核心を分からないようにしているのである。
 従って、アナルカフェミニストは、全てのアナキスト同様、資本主義を自由の否定だとして反対している。「平等な機会を持った」資本主義が女性を解放するという理念は、資本主義システムでは労働者階級の女性はボス(男であれ女であれ)によって抑圧される、という事実を無視している。アナルカフェミニストにとって、女性解放の闘争は、ヒエラルキーそれ自体に対する闘争と区別できはしない。L=スーザン=ブラウンは以下のように述べている。

 アナキスト=フェミニズムは、フェミニストの懸念に応用されたアナキズム的感性の一表現として、個人をその出発点とし、支配と服従の関係に反対し、男性に対しても女性に対しても個人の実存的自由を保護する非道具的経済に賛同している。[The Politics of Individualism, p. 144]

 アナルカフェミニストはヒエラルキー文明が持つ権威主義的価値観の中で生態危機がどの様に生じたかを理解するのに多くの貢献をしている。例えば、多くのフェミニスト学者が、自然の支配は女性の支配とパラレルであり、女性は歴史を通じて自然と同一視されてきた、と主張している(例えば、1980年に出版されたキャロライン=マーチャント著、「自然の死 The Death of Nature」を参照)。女性も自然も権威主義的人格を特徴づけている強迫的統制観念の犠牲者なのだ。このため、次第に多くの急進的エコロジストとフェミニストが、各々の目標を達成するためにはヒエラルキーを取り除かねばならないということを理解し始めているのである。
 さらに、アナルカフェミニズムは女性を男性と同様に扱うことの大切さだけでなく、男性と女性との違いを尊重することも思い起こさせてくれる。つまり、多様性を認識し尊重することには、女性だけでなく男性も含まれるのである。非常によくあることだが、多くの男性アナキストは、自分達は(理論上)性差別主義に反対しているのだから、実際に性差別主義者ではない、と仮定しているものだ。こうした仮定は間違いである。アナルカフェミニズムは、理論と実践の一致という問題を社会的活動主義の前面に押し出し、我々が、外的な拘束だけでなく、内的な拘束とも戦わねばならないということを思い起こさせてくれるのである。
 アナルカフェミニズムは、自分が説いていることを実践するように我々に訴えている。性的平等を語る男性アナキストの性差別主義に直面して、スペインの女性アナキストはムヘレス=リブレスを組織して、これと闘った。革命後のいつの日にか自分たちが解放されるとは信じなかったのである。その解放は、スペイン革命になくてはならないものであり、今日も着手されねばならないものであった。活動する中で彼女たちが達した結論は、米国イリノイ州の炭坑町でアナキストの女性たちが到達したものと同じであった。イリノイ州のアナキスト女性たちはウンザリしていた。男性同志が『未来社会において』性の平等『が望ましいと声高に叫んでいた』ものの、今ここで性の平等について何も行わなかったからだ。彼女たちは特に侮辱的なアナロジーを使っていた。『飢えで死にそうな大衆に、天国にご褒美があるなどと不誠実な約束をしている』司祭に男性同志をなぞらえたのである。彼女たちは母親は自分の娘に『性の違いは権利の不平等を意味しないということを理解させる』べきだと主張していた。『今日の社会システムに対して反抗』するだけでなく、『特に、女性を道徳的・肉体的に劣ったものだと考え続けようとしている男性の抑圧に対して闘うべきである。』[Ersilia Grandiの言葉, Caroline Waldron Merithew, Anarchist Motherhood, p. 227で引用] 彼女たちは「ルイザ=ミシェル」というグループを作り、スペインの同志たちが組織を作る以前に、イリノイ渓谷北部の炭坑町で資本主義と家父長制に対して30年にわたり闘ったのだった。
 アナルカフェミニストにとって、性差別と闘うことは自由を求めた闘争の重要な側面である。これは、多くのマルクス主義系社会主義者がフェミニズムの勃興以前に主張していたように、資本主義に対する「本物の」闘争を迂回するもの、革命後にどういうわけか自動的に解決されるものではない。闘争の本質的部分なのである。

 あなたの肩書きなどいらない。そんなものは、いらないのだ。私たちが欲しいのは知識・教育・自由である。私たちは自分達の権利がどういうものであるか知っており、それを要求しているのだ。私たちは、最終闘争を行うべくあなたと並んで立っているいるわけではないのか?あなたは、最終闘争の一部を女性の権利を求めた闘争にする程強くないのか?そして、男と女は共に全ての人間に関わる様々な権利を手に入れようとしているのだ。[Louise Michel, 前掲書, p. 142]

 近代社会を革命化する重要な取り組みは、現在の性別間の関係を変換することである。結婚は特に悪い。なぜなら、『聖書に基づいた「死が二人を分かつまで」という古い結婚形態は、女性に対する男性の支配権を、男性の気まぐれと命令に完全に女性が服従することを、象徴する制度』だからである。女性は『男の召使い・子供の出産者の機能に』還元されているのだ [Goldman, 前掲書, pp. 220-1]。結婚の代わりに、アナキストは自由恋愛を企図する。つまり、パートナーの一方が権威を持ち、他方はそれに従うだけというのではなく、平等者間の自由合意に基づいたカップル・家族である。こうした結合は、教会や国家による認可のないものとなろう。なぜなら『互いに愛し合っている二つの存在が、第三者から性交渉を持つ許しを得る必要などない』からだ [Mozzoniの言葉, Moya, 前掲書, p. 200で引用]。
 平等と自由とは単なる関係以上のことに当てはまる。男性も国家も、女性が自分の体をどうすべきか述べてはならない。つまり、女性は自分自身の肉体をコントロールするべきであり、当然、自分自身の生殖器官もコントロールするべきである。つまり、アナキスト全般もそうだが、アナルカフェミニストは、中絶賛成であり、性と生殖に関する権利(女性が自分自身で生殖の決定をコントロールする権利)に賛成なのである。これはずっと昔からの立場である。エマ=ゴールドマンは、避妊方法と、女性はいつ妊娠するのかを自分で決めるべきだという過激な意見を公的に擁護したために、起訴され、投獄された(フェミニスト著述家マーガレット=アンダーソによれば『1916年、エマ=ゴールドマンは「女性が常に口を閉ざして子宮を開けておく必要はない」と主張したために投獄された』)。
 アナルカフェミニズムはそこで止まってはない。アナキズム全般と同じように、家庭で起こっていることだけでなく、社会の全ての面を変えることを目的にしている。このために、ゴールドマンは次のように問うたのだった。『家庭での自由の少なさや自由の欠如が、工場・労働者搾取工場・百貨店・オフィスでの自由の少なさや自由の欠如に置き換えられたとしたら、どれほどの自立が手に入るのだろうか?』つまり、女性の平等と自由とは、あらゆる場所で闘い取らねばならず、あらゆるヒエラルキーに対抗して防衛されねばならなかったのである。投票によって達成することもできない。真の解放は直接行動によってのみ可能である、とアナルカフェミニストは主張する。アナルカフェミニズムは女性の自主活動・自己解放に基づく。『投票権・平等な市民権は充分な要求かも知れない。(しかし)真の解放は投票によっても、裁判によっても始まらない。女性の魂で始まる。女性の自由は、自由を達成する力が及ぶ範囲まで、到達するのである。』[Goldman, 前掲書, p. 216 and p. 224]
 女性運動の歴史がこのことを証明している。進歩は全て下から、女性自身の行動によって生じた。ルイズ=ミシェルは次のように述べている。『私たち女性は、へまな革命家ではない。誰にも物乞いをすることなく、私たちは闘争の中に身を置いている。さもなくば、世界が終わるまで動議を出し続け、何も手に入ることができなかったであろう。』[前掲書, p. 139] 他者が自分たちのために行動してくれることを待っていたのであれば、女性の社会的立場は何も変わらなかったであろう。そもそも投票権の獲得にしてもそうだ。女性の投票権を求めた戦闘的普通選挙運動に直面して、英国のアナキスト、ローズ=ウィトコップは次のように認めていた。『自分の主人である男性に対してこれまで非常に服従的だった女性が、自分たちは主人よりも劣っていないという事実に遂に立ち上がり始めているということ、この運動が示しているのはこのことであり、これは真実である』しかし、女性が自由になるのは投票によってではなく、『女性自身の強さによって』であると主張していた [Sheila Rowbotham, Hidden from History, pp. 100-1 and p. 101で引用]。1960年代と1970年代の女性運動がこの分析の正しさを示している。平等な投票権にも関わらず、女性の社会的立場は1920年代から何も変わってはいなかったのだ。
 アナキストのリリー=ゲァ=ウィルキンソンが強調しているように、究極的に『「選挙権」の要求は、自由の要求にはなり得ない。投票は何のためにするのだろうか?投票することは、どの議員による支配を受け入れるのか、登録することなのである。』[Sheila Rowbotham, 前掲書, p. 102で引用] 投票は問題の核心に、つまりヒエラルキーとそれが創り出す権威主義的社会関係に到達しない。家父長制はこの社会関係の一部でしかない。政治的であれ経済的であれ社会的であれ性的であれ、あらゆるボスを排除することで初めて女性は本物の自由を獲得できる。『女性が本当の意味で人間になることができるのである。彼女の中にあって主張と活動を必要とする全てのことが十全に表現されねばならない。あらゆる人工的障害物を破壊しなければならない。より大きな自由への道程には、数世紀にわたる服従と隷属のあらゆる痕跡が消し去られなければならないのだ。』[Emma Goldman, 前掲書, p. 214]

A.3.6 文化的アナキズムとは何か?

 ここでは、我々の目的に合うように文化的アナキズムを定義しておこう。文化的アナキズムとは、社会の諸側面の中で「経済」や「政治」ではなく「文化」の領域に属すると伝統的に見なされているもの−−例えば、美術・音楽・演劇・文学・教育・子育ての実践・性のモラル・テクノロジーなど−−を通じて、反権威主義的価値観を促すことである。
 大部分の伝統的文化形態は権威主義的価値観・姿勢を、特に支配と搾取に関するものを促す傾向を持っているが、この傾向を意図的に攻撃し・弱め・腐敗させている限り、文化的表現はアナキズム的になる。従って、軍国主義の邪悪さを描いている小説は、それが単なる「戦争は地獄」形式以上のもので、軍国主義がどのようにして権威主義的制度(資本主義や国家主権主義など)や権威主義的条件づけ方法(伝統的家父長家族における躾)と関連しているのかを読者に示しているなら、文化的アナキズムだと考えることができる。ジョン=クラークが述べているように、文化的アナキズムは『支配システムの様々な側面を明らかにし、自由と地域社会に基づいた価値観システムを支配システムと対比させているアートやメディアなどの象徴形式の発達』を意味する。この『文化的闘争は、多次元の解放実践を使って、経済的・政治的・人種的・宗教的・性的なあらゆる支配階級の物質的・イデオロギー的権力と闘う』全体的闘争の一部となるであろう。つまり、『階級分析概念の拡大』と『階級闘争実践の増幅』は『ストライキ・ボイコット・抗議行動・占拠、直接行動グループの組織とリバータリアン労働者グループの連合、労働者集会・コレクティヴ・協同組合の整備といった経済的活動』や『政府の抑圧的政策の実施に対する積極的妨害』のような『政治的活動』に限定されない。『社会の厳格な組織化と官僚化に対する不服従・抵抗』と『意志決定と地元地域の管理への直接参加を増大させる運動に対する参加』も含まれるのである。[The Anarchist Moment, p. 31]
 文化的アナキズムは重要である。実際、本質的なものである。何故なら、権威主義的価値観は、政治と経済だけでなく、多くの側面を持つ支配システム全体に編み込まれているからである。従って、もしそこに大多数の民衆の根本的心理的変化が伴わなければ、権威主義的価値観は経済的革命と政治的革命を組み合わせても根絶できないだろう。何故なら、現行システムにおける大衆の黙従は人間の心的構造(ヴィルヘルム=ライヒの表現を使えば「人格構造」)にその根を持っているからだ。それは、過去五〜六千年間にわたり、家父長的権威主義文明と共に発達した多くの条件づけや社会化の形態が生み出しているのである。
 資本主義と国家が明日転覆されたとしても、民衆はすぐに新しい形態の権威をその場に創り出すと思われる。何故なら、服従的・権威主義的人格は、権威−−強力な指導者・命令の連鎖・命令を与えてくれ、自分で考える責任から解放してくれる人−−を最も快適に感じるからだ。不幸にして、人類の大多数は本当の自由を恐れている。実際、本当の自由をどう扱えば良いのか知らないのだ。幾度も繰り返された一連の失敗した革命や自由獲得運動がこのことを示している。自由・民主主義・平等という革命的理想は裏切られ、新しいヒエラルキーと支配階級がすぐさま作り出された。これらの失敗は、一般には、反動的政治家や資本家の陰謀と革命指導者の背信のせいだとされている。しかし、反動的政治家がその追従者を引き付けているのは、平凡な人々の人格構造に、自分たちの権威主義的理想を成長させる上で好ましい土壌があるからに他ならないのだ。
 アナキズム革命の前提条件は、一定期間の意識覚醒である。その期間に、民衆は自身にある服従的・権威主義的特性に次第に気付くようになり、条件づけによってそれらの特性が再生産されていることを分かり、新しい文化形態、特に子育てと教育方法を通じてそれらの特性を軽減し排除する方法を理解する。この問題はセクションB.1.5(権威主義的文明を支持する大衆心理基盤はどの様なものか?)・セクションJ.6(
アナキストが主唱する子育ての方法は何か?)・セクションJ.5.13(「近代学校」とは何か?)においてより十全に探求する。
 文化的アナキストの考えは、アナキスト思想のほとんど全ての学派で共有されており、意識の覚醒はいかなるアナキスト運動においても本質的だと見なされている。アナキストにとって、生活の全面において「旧世界の殻の中で新世界を構築する」ことが重要である。そして、アナキスト文化を創り出すことはその活動の一部である。しかし、意識覚醒それ自体だけで充分だと考えているアナキストはほとんどいない。そこで、文化的アナキスト活動は、組織作り・直接行動の使用・資本主義社会におけるリバータリアン代替社会の構築と組み合わされることになる。アナキスト運動は、実践的自主活動を文化的活動と組み合わせたものであり、この二つの活動が影響し合い、支援し合っているのである。

A.3.7 宗教的アナキストはいるのか?

 いる。大部分のアナキストは宗教と神の概念を全く反人間的で、地上の権威と奴隷制度を正当化するものだとして反対しているが、宗教信者の中にはその考えがアナキズムの帰結に達している者もいる。全てのアナキスト同様、こうした宗教的アナキストは、国家に反対し、私的所有権と不平等に対して批判的立場を取っている。言い換えれば、アナキズムは必ずしも無神論ではないのだ。実際、ジャック=エリュールによれば、『聖書的思考は直接的にアナキズムを導く。これが、キリスト教思索者と一致する唯一の「反政治の政治的」立場なのである。』[Peter Marshall, Demanding the Impossible, p. 75で引用]
 宗教的考えに刺激されたアナキズムには様々なタイプがある。ピーター=マーシャルが記しているように、『アナキズム的感性の最初の明確な表明は、紀元前6世紀頃の古代中国の道教信者にまで遡ることができる。』そして『仏教、特に禅宗は、強力なリバータリアン精神を持っている。』[前掲書, p. 53 and p. 65] 反グローバリゼーション活動家のスターホークのように、アナキズム思想をペーガン・スピリチュアリズムの影響力と組み合わせている者もいる。しかし、宗教的アナキズムは通常キリスト教アナキズムの形態を取っているものであり、ここではこれに焦点を当てることとする。
 キリスト教アナキストは『王と統治者は人を支配する。あなたがたの中にはそのようなものがいないようにしなさい。』というイエスが信徒に述べた言葉を深刻に受け止めている。同様に、『神の他に権威はない』というパウロの格言は、明らかに、社会における国家の権威を否定するという結論を導く。真のキリスト教徒にとって、国家は神の権威を奪っている。自分自身を統治し、(トルストイの有名な本のタイトルを使えば)「神の王国はあなたの中にある」ことを発見するのが各人の責務なのである。
 同様に、イエスの自発的貧困・富が破滅的効果を持っているというイエスの発言・世界は人間が共に楽しむために作られたという聖書の主張、これらは全て私的所有権と資本主義に対する社会主義的批判の基礎として受け取られて来た。実際、初期キリスト教教会(その後に国家宗教へと吸収されてしまったものの、奴隷解放運動と見なすことが出来た)の基盤は、物品の共産主義的共有であった。このテーマは、急進的キリスト教運動の中で繰り返し現われている(実際、聖書は、抑圧された人々の急進的なリバータリアン的熱望を表現するために使われ、この熱望は後年アナキストやマルクス主義者の用語形態を取ることとなった)。例えば、英国における1381年の農民一揆でジョン=ボール牧師は以下のような平等主義的言葉を述べていた [Peter Marshall, 前掲書, p. 89で引用]。

『アダムが掘り、イヴが紡ぐ時代、
紳士などいただろうか?』

 キリスト教アナキズムの歴史には、中世の「自由な精霊の異教信仰 Heresy of the Free Spirit」・様々な農民一揆・16世紀の再洗礼派がある。キリスト教信仰にあるリバータリアンの伝統は、ウィリアム=ブレイクの著作において18世紀に再び浮上し、米国人のアダム=バーロウは1854年に著した「実践的キリスト教社会主義 Practical Christian Socialism」においてアナキズムの結論に達している。だが、キリスト教アナキズムがアナキズム運動の中でハッキリと明確な一派となったのは、有名なロシア人著述家レフ=トルストイの著作によってである。
 トルストイは聖書のメッセージを真面目に受け止め、真のキリスト教徒は国家に反対しなければならないと考えるようになった。聖書を読むことで、トルストイはアナキズムの結論を導き出した。

 支配することとは力を行使することであり、力の行使とは、力を使われる人に対してその人が好まないことを、力を行使する側の人が確実に自分になされたくないことを行うことである。従って、支配することとは、自分に行って欲しくないことを他者に対して行うこと、つまり、悪しき行いを意味している。[The Kingdom of God is Within You, p. 242]

 真のキリスト教徒は、他者を支配することを止めねばならない。この反国家主義の立場から、下から自主組織された社会を望ましいとトルストイが主張したのは当然であった。

 政府の役人が自分のためにではなく他者のために生活を取り決めることができて、役人ではない人々が自分の生活を自分自身で取り決めることができないと考えるのは何故なのだろうか?[The Anarchist Reader, p. 306]

 トルストイは、抑圧に対する非暴力行動を主張し、各人の精神的転換こそアナキスト社会を創り出すための鍵であると見なしていた。マックス=ネットラウが主張していたように、『トルストイが強調した偉大な真実は、幸福・善良さ・連帯−−これら全てが愛と呼ばれる−−の力は我々自身の中に認識され、我々自身の行動の中で目覚めさせ、発達させ、行使させることができるし、また、そうしなければならない、ということである。』[A Short History of Anarchism, pp. 251-2]
 全てのアナキスト同様、トルストイは私的所有権と資本主義に批判的だった。ヘンリー=ジョージ(その考えは、プルードンの思想と共にトルストイに強く影響した)のように、彼は土地の私的所有に反対し、『土地所有とその後の値段のつりあげが擁護されなかったなら、民衆は、これほどにも狭い場所に群がることなどなく、世界に今も数多く残る自由の天地に点在していたことだろう』と主張していた。それ以上に、『(土地所有に対する)この闘争で利益を得るのは、その地で働いている人ではなく、政府の暴力に荷担している人々である。』[前掲書, p. 307] トルストイは、使用していないものに対する所有権は、それを保護するための国家暴力が必要となる、と認識していたのだった(財産は、『習慣・公的意見・正義と相互交換の感情によって常に保護されているのだから、暴力によって保護される必要などない』[前掲書])。実際、彼は次のように論じていた。

 一人の所有者の所有物になっている何万エーカーもの森林地帯−−傍にいる何千という人たちは燃料すら全く持っていないのに−−は、 暴力による保護を必要としている。そしてまた、工場と労働もそうであり、そこでは労働者が数世代にわたって騙され続け、今も騙されている。さらに、一人だけが所有している何百万ブッシェルもの穀物も同様だ。その人は、飢饉の時に値段を三倍につりあげて売るために穀物をためこんでいるのである。[前掲書, p. 307]

 資本主義は道徳的にも肉体的にも個々人を破滅させる。資本家は『奴隷の監督』である。トルストイはこのように論じていた。彼の考えでは、真のキリスト者は資本家になることなどできない。『工場主とは、労働者から搾り取った価格から収入を得ている人のことであり、その行い全てが強制的で不自然な労働に基づいている。』従って、『その人は、まず最初に、自分の利益のために人の生活を破滅させることを止めねばならない。』[The Kingdom Of God is Within You, p. 338 and p. 339] トルストイが、共同組合は『暴力一味になりたくない人、道徳的で自尊心を持った人が参加できる唯一の社会的活動』[Peter Marshall, 前掲書, p. 378で引用] であると主張していても驚くべきことではない。
 暴力に対する反対から、トルストイは国家と私的所有権を拒絶し、社会の中で暴力を終わらせ、公正な社会を創り出すための平和主義戦略を主張していた。ネットラウによれば、トルストイは『悪に対する抵抗を主張し、抵抗方法の一つ−−能動的力によるもの−−に対して、別なやり方を付け加えていた。不服従、受動的力を通じた抵抗である。』[前掲書, p. 251] 自由社会に関する考えについてトルストイが明らかに影響を受けていたのは、地方ロシア人の生活クロポトキン(「田園・工場・仕事場 Fields, Factories and Workshops」など)・プルードン・アナキストではないがヘンリー=ジョージの著作だった。
 トルストイの考えは、ガンジーに強く影響を及ぼし、英国をインドから叩き出すために非暴力の抵抗を使うように仲間の国民を刺激した。さらに、農民コミューン連合としての自由インドというガンジーのヴィジョンは、自由社会に関するトルストイのアナキストヴィジョンに似ている(ただし、ガンジーはアナキストではなかったことをここで強調しておかねばならない)。合州国のカトリック労働者グループもトルストイ(とプルードン)に非常に影響を受けていた。1933年にこのグループを創立したドロシー=デイは断固たるキリスト教平和主義者であり、アナキストであった。トルストイと宗教的アナキズム全般の影響は、ラテン=アメリカ・南米における解放神学運動に見られる。この運動は、キリスト教の考えを労働者階級と農民の中にある社会的活動主義と組み合わせている(ただし、記しておかねばならないが、解放神学は、アナキストの考えというよりも国家社会主義的考えに刺激されていることが多い)。
 このように、アナキズムの中には、アナキズムの結論を宗教から導き出している少数派の伝統がある。しかし、
セクションA.2.20で記しているように、大部分のアナキストは宗教に反対し、アナキズムは無神論であり、聖書の見解が歴史的にヒエラルキーと関係し、世俗の支配者の擁護と関係していることは偶然ではない、と主張している。大部分のアナキストは無神論者である。なぜなら、『自然のものであろうと超自然のものであろうと、いかなる存在をも賛美したり崇敬したりすることは、常に、自己隷属と奴隷状態であり、このことが社会的支配を生み出す。(ブクチン)が書いているように、「人間が自分自身よりも「高い」何かの前に跪いた瞬間に、ヒエラルキーは自由に対する最初の勝利を収めることになるのだ」。』[Brian Morris, Ecology and Anarchism, p. 137] 神が存在するならば、人間の自由と尊厳のために神を滅ぼさねばならない、というバクーニンの言葉に大部分のアナキストは同意する。聖書が述べていることを考えれば、権威主義思想ではなくリバータリアン思想を正当化するために聖書を利用することなどできはしないのである。
 無神論アナキストは、聖書はあらゆる種類の虐待を擁護していることで悪名高いと指摘する。キリスト教アナキストは、このこととどのようにして折り合いをつけているのだろうか?キリスト教アナキストは、第一にキリスト教徒なのだろうか、アナキストなのだろうか?平等を支持するのだろうか、それとも聖書を忠実に支持するのだろうか?キリスト教信者にとって選択などありはしないだろう。聖書が神の言葉であれば、神・その権威・その法を信じると公言しながら、聖書が取っているさらに極端な立場を支持するなど、アナキストにできるのだろうか?
 例えば、安息日には働かないという聖書が述べている法を実行している資本主義国はない。キリスト教徒であるボスの大部分は、仲間の信者を無理矢理7日間労働させて満足している。聖書の罰では死ぬまで石をぶつけられることになっているはずだ(『6日間は仕事をしてもよい。しかし、7日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、誰でも殺されなければならない。』出エジプト記 35:2)。キリスト教アナキストは神の法を破ったからという理由で、このような罰を擁護するのだろうか?同様に、結婚式の夜に処女ではなかった女性を石で打って殺すことのできる国を全くの悪だと考えるのは、当たり前ではないだろうか?しかし、これは「聖書」に明記された運命なのである(申命記 22:13-21)。キリスト教アナキストは、女性の婚前セックスは死罪だと考えるのだろうか?この点に関して言えば、『ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば』、『町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す』という運命を被らねばならないのだろうか?(申命記 21:18-21)聖書が女性を扱うやり方についてはどうなのだろうか?『妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。』(コロサイ書 3:18)女性たちは次のようにも命じられている。『婦人たちは、教会では黙っていなさい。』(コリント人への第一の手紙 14:34-35)男性支配が明らかに述べられているのだ。『ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。』(コリント人への第一の手紙 11:3)
 明らかに、聖書の教えとなると、キリスト教アナキストは非アナキストの信者と同じぐらい非常に選択的にならざるを得ない。金持ちは(少なくとも自分にとっての)貧困の必要性を公言しない。そして、例えば、金持ちが天国に行くのは明らかに難しいということを(教会同様に)大喜びで忘れているようだ。イエスの次の警告を大喜びで無視しているようだ。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』(マタイ 19:21)キリスト教右派の弟子たちは、このことを自分の政治的指導者に対して当てはめておらず、ついでに言えば、自分の精神的指導者に対しても当てはめてはいない。『求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。』(ルカ 6:30、マタイ 5:42)という格言を生かしている者は殆どいない。最初のキリスト教信奉者が実践していたように『すべてを共有』することもない(使徒行伝 4:32)。キリスト教アナキストが、非アナキストの信者は聖書の教えを無視していると見なすというのであれば、攻撃されている非アナキスト信者が同じことをキリスト教アナキストに対して言うこともできるのである。
 それ以上に、キリスト教信仰は基本的にアナキズムであるという考えは、キリスト教の歴史と一致してはいない。聖書は、不公正と闘うどころではなく、不公正を擁護するために使われてきた。アイルランド・南米の一部・19世紀と20世紀初頭のスペインなど、教会が事実上の政治権力を持っている国々では、アナキストは強力に反宗教であることが多かった。教会は異議と階級闘争を抑圧する権力を持っているからである。教会の現実の役割が、聖書がアナキズムのテキストであるという主張が偽りであると示しているのである。
 さらに、大部分の社会的アナキストはトルストイ主義的平和主義を、ドグマ的で極端だと考え、より大きな諸悪に抵抗するために暴力を(時として)必要としていると見なしている。しかし、大部分のアナキストは、アナキズム社会を創り出す重要な側面として個人的な価値観の転換が必要だということ、一般的戦略として非暴力が重要だということについて、トルストイ主義者に同意するだろう(だが、強調しておくが、他の選択肢が利用できない場合に、自己防衛としての暴力の使用を完全に拒否しているアナキストはほとんどいない)。

A.3.8 「形容詞のないアナキズム」とは何か?

 歴史家ジョージ=リチャード=エセンウェインの言葉を使えば、『形容詞のないアナキズム』は、その最も広い意味では、『ハイフンでつないだもののないアナキズム形態、つまり、共産主義的・集産主義的・相互主義的・個人主義的といった修飾ラベルのない主義のことを指す。他者にとっては、単に、様々なアナキスト学派の共存を許容した姿勢として単に理解されていた。』[Anarchist Ideology and the Working Class Movement in Spain, 1868-1898, p. 135]
 この表現は、キューバ生まれのフェルナンド=タリダ=デル=マルモルが、1889年の11月にバルセロナで初めて使った。彼は、スペインにおける共産主義アナキストと集産主義アナキストに対して意見を述べた。当時、双方のアナキストは、これら二つの理論の利点について激論を戦わしていた。「形容詞のないアナキズム」は、アナキズムの諸傾向間により大きな寛容性を示す試みであり、アナキストは前もって画策した経済計画をいかなる人に対しても−−たとえ理論上であっても−−押しつけてはならないことをハッキリとさせようとしていた。つまり、アナキストの経済的選択は、資本主義と国家の廃絶に対して「二次的に重要なこと」、自由実験を行うに連れて自由社会の一ルールになるべきことなのである。
 「the anarquismo sin adjetives」(「形容詞のないアナキズム」)として知られる理論的観点は、運動それ自体の中でなされた激論の副産物の一つであった。議論の根源は、1876年のバクーニンの死後、共産主義アナキズムの発展の中に見ることが出来る。共産主義アナキズムは集産主義的アナキズムと完全に異なっているわけではない(「バクーニンのアナキズム Bakunin on Anarchism」収録のジェームズ=ギョームの有名な論文「新しい社会秩序の構築について On Building the New Social Order」から、集産主義はその経済システムを自由共産主義へ進化させると見なしていたことがわかる)。丁度、バクーニンがプルードンの著作を発展させ・深化し・豊潤化したように、共産主義アナキストはバクーニンの著作を発展させ・深化し・豊潤化した。共産主義アナキズムはエリゼ=ルクリュ・カルロ=カフィーロ・エンリコ=マラテスタ・(最も著名な)ピョートル=クロポトキンといったアナキストと結びついていた。
 急速に、共産主義アナキストの考えは、欧州アナキズムの主要傾向として集産主義アナキズムに取って代わるようになった。だが、スペインは例外だった。ここでの大きな問題は、共産主義に関するものではなく(ただし、リカルド=メリャにとってはこのことが問題の一部だったが)、共産主義アナキズムによる戦略・戦術の修正に関わっていた。当時(1880年代)、共産主義アナキストが強調していたのは、アナキスト闘士の地域的(純粋な)支部であり、一般に労働組合主義には反対だった(ただし、クロポトキンは違っており、戦闘的労働者組織を重要だと見なしていた)。また同様に、共産主義アナキストは幾分反組織的でもあった。戦術・戦略におけるこうした変化が、労働者階級の組織と闘争を強く支持していたスペイン集産主義者から多くの論議を招いたことは当然であった。
 この軋轢はすぐにスペイン外にまで広がり、パリの「叛逆者 La Revolte」紙で議論が戦わされた。このことで、多くのアナキストはマラテスタの次の論に同意するようになった。『単なる仮説について争いに陥ることは、控えめに言っても、我々にとって正しくはない。』[Max Nettlau, A Short History of Anarchism, pp. 198-9で引用] 時間と共に、大部分のアナキストは(ネットラウの言葉を使えば)『我々は未来の経済発展を予言することなど出来ない』[前掲書, p. 201]ということに同意するようになった。そして、自由社会がどのように運営されるのかに関する様々なヴィジョンよりも、自分達が共通に思っていること(資本主義と国家に対する反対)を強調し始めた。時が経つと、大部分の共産主義アナキストは、労働運動を無視すれば自分達の考えが確実に労働者階級に届かなくなってしまうと見なし、大部分の集産主義アナキストは、共産主義理念に自分たちがコミットしていること、そして、革命後のしばらく経った後ではなく、すぐさま共産主義が達成されるだろうということを強調するようになった。従って、どちらのアナキスト集団も共に活動できたのである。マラテスタは次のように述べている。『未来社会が持つある種の特徴は時と場所に応じて変化するのだから、その特徴を強調しすぎて小規模な分派に分かれる理由などない。こうした特徴は、現在の私たちから余りにも遠く離れすぎていて、その調整点や組み合わせなど全てを思い巡らすことなどできないのである。』それ以上に、自由社会では『個々の連合と合意の方法や形式・労働組織や社会生活の組織は、均一ではないだろうから、現段階でそれらを予見したり、それらについて決定したりすることなどできない。』[Nettlau, 前掲書, p. 173で引用]
 マラテスタは続けている。『無政府集産主義と無政府共産主義との間の問題は、必要条件の問題、方法と合意の問題でもある。』重要なのは、システムがどのようなものであろうとも『新しい道徳意識が出現し、現在合法的奴隷制と強制とが人間にとって不快なのと同じように、賃金システムを人間にとって不快なものにしてくれること』である。新しい道徳意識が生じれば、『どのような社会形式になろうとも、社会組織の基盤は共産主義になるであろう。』我々が『根本原理を固守し、それを大衆に教え込むために最善を尽くす』限り、『単なる言葉や些細なことをで口論する』のではなく、『公正・平等・自由への方針を革命後の社会に示さねばならないのである。』[Nettlau, 前掲書, p. 173 and p. 174で引用]
 同様に、合州国でも同時期に、個人主義アナキストと共産主義的アナキストの間で激論がかわされていた。ベンジャミン=タッカーは、共産主義的アナキストはアナキストではないと主張し、ヨハン=モストは同じことをタッカーの考えについて述べていた。メリャとタリダのような人々がアナキストグループ間の寛容性という考えを推し進めるに連れ、ヴォルテリーン=デ=クライアーのようなアナキストも『自身を単に「アナキスト」と呼ぶようになり、マラテスタ同様に「形容詞のないアナキズム」を主張した。なぜなら、政府が無くなれば、最も適切な形式を決定するために、様々な地域で多種多様な実験がなされると思われるからである。』[Peter Marshall, Demanding the Impossible, p. 393] 彼女自身の言葉では、あらゆる種類の経済システムが『地域ごとに有効なやり方で試み』られることになろう。『民衆の本能と習慣とがあらゆる地域社会で自由選択の中で表現されるのを目にするであろう。独自の環境が独自の適合形態を呼び出すことを私は確信している。』究極的に『自由と実験だけが、最良の社会形態を決定することができるのである。』そして、だからこそ『私は自分自身を単に「アナキスト」としか呼ばないのである。』[Paul Avrich, An American Anarchist, pp. 153-4で引用]
 これらの議論は、アナキスト運動に永続的影響を与えた。デ=クライアー・マラテスタ・ネットラウ・ルクリュのような著名なアナキストは、 「形容詞のないアナキズム」という表現の中に編みこまれた寛容な見解を採用した(ネットラウ著、「アナキズム小史 A Short History of Anarchism」の195ページから201ページはこのことを上手く要約している)。付け加えるなら、これは今日のアナキズム運動内で主流の立場であり、大部分のアナキストが他の諸傾向が「アナキスト」の名を使う権利を認めている。しかし、明らかに、各人は特定のアナキスト理論を好ましいとし、何故他種の理論が失敗するのかを主張もしている。ただ、様々なアナキズム形態(共産主義・サンジカリズム・宗教的など)は相互に排除しあうものではなく、一つだけを支持しその他を憎む必要はない、と強調しておかねばなるまい。この寛容性が、「形容詞のないアナキズム」という表現に反映されているのである。
 最後に一点だけ述べておこう。「無政府」資本主義者の中には、自分のイデオロギーがアナキズム運動の一部として受け入れられるはずだと主張するために、「形容詞のないアナキズム」に関係する寛容性を利用しようとしている人たちがいる。結局、彼らの論法によれば、アナキズムは国家の排除だけに関わることであって、経済は二次的に重要なものだと言うのである。しかし、このように「形容詞のないアナキズム」を使うのはインチキである。なぜなら、「形容詞のないアナキズム」は反資本主義的(つまり社会主義的)な経済タイプについて議論されていた時代に一般に認められていたからである。例えば、マラテスタにとって、共産主義アナキズムとは『異なる解決策や将来の社会組織を予見し、企図しているアナキスト』もいたが、こうしたアナキストは『我々同様に、政治権力と私有財産を破壊しようとしている』のである。『様々な思考の学派が持つあらゆる排他主義を放棄しよう』と彼は主張した。『方法と手段について合意をし、前進』しようではないか [Nettlau, 前掲書, p. 175で引用] 。言い換えれば、資本主義は国家と共に排除されるべきだと論じられていたのであって、このことが論じられて初めて、自由実験が発達すると考えられていたのである。つまり、国家に対する闘争は、抑圧と搾取を終焉させるより大きな闘争の一部に過ぎず、この大きな目的から引き離すことなど出来なかったのである。「無政府」資本主義者が国家と共に資本主義の排除を求めていない以上、彼らはアナキストではない。従って、いわゆる「無政府」資本主義者に対して「形容詞のないアナキズム」は適用されないのである(何故「無政府」資本主義がアナキズムではないのかについてはセクションFを参照)
 だからと言って、革命後に「無政府」資本主義のコミュニティが存在しない、というのではない。全く違う。一群の人々がそうしたシステムを形成したいと思うのであれば、それは構わないのである。革命後の体制下で国家社会主義や神権政治を支持するコミュニティが存在するだろうと思われるのと同じである。ヒエラルキーを支持するこのような少数集団が存在すると思われるのは、単に、地球上にいる全ての人が、いや一定地域にいる全ての人さえもが、皆そろって同時期にアナキストになるなどありえないからだ。ただ、そのようなシステムはアナキズムでもなんでもなく、従って、「形容詞のないアナキズム」でもないことは覚えておかねばならない。

A.3.9 アナルコプリミティビズムとは何か?

 セクションA.3.3で論じたように、大部分のアナキストは情況主義者ケン=ナッブの次の主張に同意している。『解放された世界では、コンピュータなどの近代テクノロジーを使って、危険な仕事や退屈な仕事を削減することができ、誰もがもっと興味深い活動に集中できるようになるだろう。』明らかに、『ある種のテクノロジー−−原子力はその最たる例である−−は、実際にとてつもなく危険すぎて、必ずやすぐさま停止させられる。バカげていたり、時代遅れだったり、無用だったりする商品を生み出している多くの産業は、当然、その商業的根拠が消え失せると共に自動的に消滅するであろう。しかし、多くのテクノロジーには、それが現在どれほど誤用されていようとも、先天的な難点は、全くとは言わないにせよ、殆どないのだ。単に、そのテクノロジーをもっと賢明に使い、民衆管理下に置き、幾つかの生態学的改善を導入し、資本主義の目的ではなく人間的な目的のために再デザインすれば良いだけのことなのである。』[Public Secrets, p. 79 and p. 80] つまり、大部分のエコアナキストは、適正テクノロジーの使用を、自然と調和して生きる社会を創造する手段だと見なしているのである。
 だが、(非常に)少数の、しかし口うるさい、自称グリーン=アナキストたちは、これに反対している。ジョン=ザーザン・ジョン=ムーア・デヴィッド=ワトソンといった著作者たちは、アナキズムの一つのヴィジョンを解説している。それは、彼等が主張するところによれば、あらゆる権力と抑圧を批判することを目的としているという。これは多くの場合、「アナルコプリミティビズム」と呼ばれており、ムーアによれば、単に『アナキズムの観点から文明全体を批判し、人間生活を総合的に変容し始めようとする急進的潮流の簡略表現』だという [Primitivist Primer] 。
 この潮流は様々な形で表現される。最も極端な分子は、あらゆるテクノロジー・労働分業・家畜化・「進歩」・産業主義・彼等が言うところの『大衆社会』を終焉させようとしており、象徴文化(つまり、数・言語・時間・芸術)さえもを止めさせようとしている人々もいる。こうした人々は、上記の特徴を含んだあらゆるシステムを『文明』と呼ぶことが多く、その結果、『文明の破壊』を目的としているものである。どれほど昔まで遡ろうとしているのかについては議論の余地がある。産業革命以前に存在していたテクノロジーレベルであれば受け入れることができる、という人もいるが、多くは更に遡り、農業を拒絶し、最も基本的なもの以外のあらゆるテクノロジーを拒絶する。こうした人々にとって、野生に、狩猟採取生活様式に戻ることこそが、アナーキーが存在する唯一の方法である。生態系に対する影響を最小限に留めた工業生産に基づくアナキスト社会を構築するために、適正テクノロジーを使うことができるなどという考えはあっさり却下されてしまうのだ。
 だからこそ、プリミティビスト雑誌「グリーン=アナーキー Green Anarchy」では、次のように主張されているのである。『私的自律や野性的存在の価値を最優先する』彼等のような人々には、『あらゆる大規模組織と社会に敵対し、拒絶する理由がある。大規模組織と社会は、それがどのような目的で計画されていようとも、帝国主義・奴隷・ヒエラルキーを必然的に伴うからだ。』プリミティビストは『現代における文明の主要な発現』だという理由で資本主義に反対する。しかし、彼等は次のように強調する。『資本主義それ自体ではなく、文明こそが、組織的権威主義・強制的隷属・社会的孤立の起源であった。従って、文明をターゲットにせずに資本主義を攻撃したところで、社会を支援している制度化された強制を廃絶することなどできはしない。産業を民主化すべく集産化するなど、あらゆる大規模組織は組織のメンバーの意志とは無関係にその方向性と形態を採用する、ということを認識できていないのだ。』従って、彼等は次のように論じるのである。本物のアナキストは、産業とテクノロジーに反対しなければならない。なぜなら『ヒエラルキー型諸制度・領土の拡大・生の機械化は、全て、大量生産の管理・処理を行うために必要だ』からである。プリミティビストにとって『自給自足する個々人からなる小規模コミュニティだけが、権威の押しつけ無しに、他の存在(それが人間であろうとなかろうと)と共存できる。』そうしたコミュニティは部族社会と同じ本質的特徴を持つことになる。『人類の歴史の99%以上で、人間は小規模で平等主義的な拡大家族関係の中で生活し、生活必需品を直接大地から手に入れていたのだった。』[Against Mass Society]
 自然と調和して生活し、殆どもしくは全くヒエラルキーのない部族コミュニティに感銘を受けるだけでなく、プリミティビストは『未来の原始人』(ジョン=ザーザンの本のタイトルを使えば)を目にしたいとも思っている。ジョン=ムーアは次のように述べている。『アナルコプリミティビズムが思い巡らす未来は、先例のないものである。原始的諸文化は未来を暗示している。未来は原始的諸文化から導き出される諸要素を組み込むことにはなるだろう。しかし、アナルコプリミティビズムの世界はそれ以前のアナーキー諸形態とは全く異なるものになるであろう。』[前掲書]
 プリミティビストにとって、他形態のアナキズムは単に、現在我々が耐えているシステムからより悪い残虐行為を差し引いただけの、本質的には同じ基本システム内部での自主管理型疎外でしかない。従って、ジョン=ムーアは次のようにコメントしているのである。『古典的アナキズム』が行おうとしているのは『文明を乗っ取り、ある程度その構造に手を加え、その最悪の虐待と抑圧を除去することである。だが、古典的アナキズムの未来のシナリオでは、文明にいる生命体の99%は現在と同じままである。正に古典的アナキズムが問題にしている文明の諸側面などほんの僅かである。故に、生活パターン全体が変化することは殆どないであろう。』従って『アナルコプリミティビズムの観点から他の急進主義を見ると、自身を革命的だと見なそうが見なすまいが、全て改良主義なのである。』(前掲書)
 その返事として、「古典的アナキスト」は次の三点を指摘する。まず第一に、『最悪の虐待と抑圧』が資本主義社会の1%しか占めていないと主張するなど、ナンセンスに他ならない。それ以上に、これはシステムが大喜びで同意する護教論でしかない。第二に、「古典的」アナキズムのテキストを読んでみれば、明らかに、ムーアの主張はナンセンスである。「古典的」アナキズムの目的は、社会を徹底的に上から下まで変容することであって、社会の微々たる諸側面を弄くることではない。プリミティビストは、資本主義を廃絶しようと尽力していた人々が、廃絶後にも以前と99%同じことを行い続けようとしている、などと本当に考えているのだろうか?もちろん違う。言い換えれば、ボスを排除するだけでは不充分なのだが、これは必須の第一歩なのである!第三に、そして最も重要なことだが、ムーアの主張では、良い社会という自身のヴィジョンが達成されるには、想像を絶する規模で大量殺戮がされねばならないのだ。
 お分かりのように、プリミティビズムは伝統的アナキズム運動やその思想とは殆ど関係ない。全く関係ないと言ってもいいだろう。双方のヴィジョンは単に相容れないのだ。前者は後者の思想を権威主義だとして却下している。当然、プリミティビズムの思想と他のアナキズム諸思想とが和解することは難しい。同様に、他のアナキストが、プリミティビズムが短期的に現実的なのかを−−長期的に望ましいのかすらをも−−疑問視していることも当然である。プリミティビズムの支持者たちはプリミティビズムをアナキズムの最も進歩した急進的形態だと示そうとしているが、他のアナキストはそれほど納得していない。プリミティビズムは信奉者をバカげた立場に引きずり込んでいる混乱したイデオロギーであり、それ以上に、完全に非現実的だ、と他のアナキストは見なしている。こうしたアナキストは、ケン=ナッブによる次のコメントに同意するだろう。プリミティビズムは『あまりにも多くの明白な自己矛盾を含んでいるため、事細かに批判する必要もない空想』にその根元を持つ。『実際にあった過去の社会との関連性は疑わしく、現在の可能性とは全く無関係といってもよい。過去の時代の方が良い生活だったと仮定したとしても、我々は、現在自分達がいるところから出発しなければならない。近代テクノロジーはあまりにも我々の生活の全面に織り込まれているため、突然中断してしまえば、地球規模の混乱を引き起こしかねず、それは何十億人もの人々を死滅させる程のものとなろう。』[前掲書, p.79]
 なぜなら、我々は、高度に産業化され、相互に関連したシステムに生きているからだ。大部分の人々は、狩猟採取社会での生活に必要なスキルを持っておらず、農業社会での生活に必要なスキルさえも持っていない。それ以上に、必要なスキルを持っていたとしても、60億人が狩猟採取者として生きることが可能なのかどうかは極度に疑わしい。ブライアン=モリスは次のように述べている。『未来は「原始的」である、と言われる。現在ほぼ60億人を維持している世界において、これをどのように達成するのか(狩猟採取型ライフスタイルは一平方マイルに一人か二人を養うことができるだけだという証拠があるのに)』ザーザンのようなプリミティビストは語っていない ["Anthropology and Anarchism," pp. 35-41, Anarchy: A Journal of Desire Armed, no. 45, p. 38]。
 つまり、いかなる「プリミティビスト」反乱も二つの選択肢を持っていることになる。その反乱は、ほぼ瞬時に原始主義システムへの変化をもたらすか、長期に渡る移行期間を含むか、のどちらかである。前者は、結果的に、数十億人を餓死させ、同時に大規模な生態系破壊を引き起こす。後者は、「文明」とその産業的遺産が安全に廃棄され、人口水準は自然に適正レベルまで落ち、人々は自分達の新しい生活に必要なスキルを再び手に入れる。
 悲しいかな、大部分のプリミティビスト著述家が示していると思われるのは、第一の選択肢、つまり殆ど一夜にして引き起こされる変化である。例えば、ムーアは、『文明が崩壊したとき』(『文明自体の決断であろうと、我々の活動を通じてであろうと、その二つの組み合わせを通じてであろうと』)について述べている。これは極度に速いプロセスを意味しており、平凡な人間には何の発言権もなく、それを制御することもできない。このことを確認できるのは、彼が『文明崩壊が引き起こす社会崩壊は容易く心理的不安と社会的真空状態を引き起こし、ファシズムなどの全体主義的独裁が活躍しかねない』ために、『ポジティブな代替案』を今のうちに構築しておく必要があると述べているからである [前掲書]。『崩壊』・『不安』・『社会崩壊』に基づいた革命など、大衆参加と社会実験に基づいた社会革命の手法だとは思えない。
 そして、プリミティビズムは反組織ドグマを展開する。ムーアは典型例なのだが、その主張は次のようなものだ。『アナルコプリミティビストにとって、組織は、単なる騒音、特定イデオロギーを権力の座に置くギャングに過ぎない。』そして次のように述べてこの点を繰り返している。プリミティビストは『国家を含むあらゆる権力関係の廃絶、あらゆる種類の党や組織の廃絶』のために戦う [前掲書]。しかし、組織なくしてはいかなる近代社会も機能し得ない。すぐさま、全面的な崩壊がもたらされるであろう。大衆の飢餓だけでなく、原発のメルトダウン・周辺環境への産業廃棄物の浸透・都市や街の崩壊・田舎で見つけることのできる野菜や果物や動物をめぐって争う飢えた人々の大群といった生態系崩壊も目にすることになろう。明らかに、反組織ドグマが融和できるのは、長期的目標に向けた安定した前進ではなく、文明を殆ど一夜にして『崩壊』させるという考えだけである。同様に、組織なくして、どれほど多くの『ポジティブな代替案』が存在しうるというのだろうか?
 こうした『崩壊』が必然的に引き起こす恐怖に直面しても、この問題を考え抜いて、過渡期の必要性を最終的に受け入れるようになったプリミティビストは殆どいない。逆に、そのようにすることで、プリミティビズムの矛盾をさらけ出している。「ここ」から「あちら」への過渡期の必要性を受け入れてしまえば、アナキズムの伝統からプリミティビズムを自動的に排除することになるからだ。この理由は簡単である。ムーアの主張では、『大衆社会』には『人工的で技術化された環境で働き、生活し、様々な形態の強制と管理に支配されている人々が』含まれる [前掲書]。これが真実だとすれば、プリミティビズムの過渡期はいかなるものであれ、定義上、リバータリアンではない。短期間に自発的手段によって人口規模を大きく減じることなどできないことは明らかだからである。つまり、農業と大部分の工業は、一定期間継続しなければならないのである。大都市においても町においても、都市からの即時的で全般的な脱出など不可能である。そして、産業社会の遺産には、それ自体で崩壊させるがままにしておくわけには行かないものもある。ハッキリした例を一つ挙げてみよう。原発をメルトダウンするがままにさせておくことなど、環境に優しくはないのだ。それ以上に、支配エリートが抵抗なしにその権力を放棄するなど疑わしい。結局、ヒエラルキーを再導入する試みから身を守るためには、何らかの社会革命が必要なのである。言うまでもなく、あらゆる組織と産業とを本質的に権威主義だとして回避する革命に、このことをできるわけがない(もう一つハッキリした例を挙げれば、スペイン革命中に、フランコのファシスト軍と戦うために必要な軍事物資を生産することができたのは、労働者が自分達の仕事場を改造して利用したからこそなのだ)。
 従って、『大衆社会』は、革命成功後も一定期間持続しなければならず、その結果、プリミティビストの見解からすれば『様々な形態の強制と管理』に基づくことになろう。強制・管理・ヒエラルキーに基づいた移行システムが必要であり、このシステムは行く行くは無国家社会の中に消滅すると公言するイデオロギーもある。このイデオロギーも、プリミティビズム同様、産業と大規模組織はヒエラルキーと権威なしには存在不可能だと強調している。このイデオロギーはマルクス主義である。「古典的」アナキストにとって、バクーニンの「アナーキー」賛成論に反対してエンゲルスが主張していたことを、自称アナキストが繰り返しているなど皮肉にしか思えない(産業が自律性を締め出すというエンゲルスの主張については、セクションH.4を参照)。
 さて、プリミティビズムの主要な問題をお分かりのことだろう。リバータリアンのやり方で目標を達成する現実的手段を提供していないのである。ナッブは次のように要約している。『最初は、科学とテクノロジーに対する過剰な信用を正当に疑問視することで始まるが、最終的には、抽象的で終末論的なやり方でしか現在のシステムと関わることができずに、原始時代のパラダイスに戻るという正当化できない絶望的信念に行き着く。』これを避けるためには、自分たちが今何処にいるのかに気を配ることが必要となり、それ故に『中間段階で提起されることになる現実問題全てを、自分たちがどのように扱うのか真面目に考え』ねばならない [Knabb, 前掲書, p. 80 and p. 79] 。残念ながら、プリミティビズムのイデオロギーはこの可能性を排除している。現実の革命の出発点を本質的に権威主義だとして却下しているのである。プリミティビズムに向かう過渡期には『大衆社会』で労働し生活している人々が含まれる以上、プリミティビズムは全く非現実的だと非難されねばならない。
 ヒエラルキー社会が多くのテクノロジーを誤用することを考えれば、「テクノロジー」を主たる問題だと見なし、その終焉を求める人が出てくるようになるのは理解できる。どのようにしてそれを達成するのかを論ぜずに、あらゆる不公正・抑圧を一夜にして廃絶すると述べている人々は、極度に急進的だと見なされるだろう。だが、現実には、それほど急進的ではない。実際、こうした人々は、本物の社会変革を妨げているのである。自分たちの批判を満足させるほど革命的な大衆運動などこれまでなかったし、従って、試してみる意味すらない、と請け負っているのだ。ケン=ナッブは次のように述べている。

 あらゆる妥協・権威・組織・理論・テクノロジーなどに対する「完全な反対」を誇らしげに公言している人々は、いかなる革命的観点も持っていないことが最終的に明らかになるものだ−−現在のシステムをどのようにして転覆できるのか、革命後の社会がどのように機能するようになるかに関する実際的な考えなどないのだ。単なる革命など自分たちの不変的な存在論的叛逆性を満足させるに充分なほどラジカルにはなり得ない、と宣言することで、こうした観点の欠如を正当化しようとしている者すらいる。こうした全か無かの大言壮語は、一時的に数人の傍観者を引きつけるかも知れないが、その最終帰結は、単に人々を無関心にさせるだけのことである。 [前掲書, pp. 31-32]

 さらに、プリミティビズムを達成すべく提起されている手段に関わる問題がある。ムーアは次のように論じている。『アナルコプリミティビズムが考えている世界は、どの程度の自由・どのような種類の自由が見込まれるのかという点で、人間経験の中で先例のないものである。従って、発展する可能性を持つ抵抗と暴動の形態を限定することなどできはしない。』[前掲書] 非プリミティビストは次のように答える。これは、プリミティビストが何を求めているのか、どのようにしてそれを達成するのかを自分自身で全く分かっていないという意味である。同様に強調するが、何が容認可能な抵抗形態と見なされるのかに関して制限がなければならないのだ。なぜなら、手段が目的を形成するからである。権威主義的手段は権威主義的目的を創り出す。戦術は中立的ではない。ある種の戦術を支持することは反権威主義の見解を裏切ることになる。
 このことは、英国の雑誌「グリーン=アナキスト Green Anarchist」に見ることができる。この雑誌は「プリミティビズム」の一方の極であり、人間社会の「狩猟採取」形態への回帰を好ましいと論じ、テクノロジーは正にその本質からヒエラルキー的だとして敵視している。大部分の人々にとってそうした「プリミティビズム」思想は本質的に魅力のないものであるため、リバータリアン手段によって(つまり、自分自身の行動で創造している個々人の自由選択によって)実現できはしない。従って、そうした情況を実際に自発的に受け入れている人が殆どいない以上、アナキズムにはなり得ない。このため、「グリーン=アナキスト Green Anarchist」誌はエコ前衛主義を発達させることとなった。ルソーの表現を使えば「人々を無理矢理自由にする」というわけだ。この雑誌が(非アナキストの)ウナボンバー(大学・空港専門の爆弾犯)を支持し、当時の二人の編集者の一方は、ある記事(「非合理主義者 The Irrationalists」)で、その論理帰結に到達した。その記事によれば、『オクラホマ爆弾犯たちは正しい考えを持っていた。残念なことに、彼等はもっと多くの政府事務所を攻撃しなかった。東京でのカルト宗教によるサリン事件は正しい考えを持っていた。残念ながら、攻撃の一年前にガスをテストした際、正体がばれてしまった。』[Green Anarchist, no. 51, p. 11] こうした発言を擁護する文章が次の号に掲載され、米国の「アナーキー:武装した欲望 Anarchy: A Journal of Desire Armed」誌(48号〜52号)で行われたその後の手紙のやり取りでは、もう一人の編集者(当時の)は、この吐き気がする程の権威主義的ナンセンスを、『極度の弾圧条件下で』行われた『自然発生的抵抗』の実例と同じ程度の単なるナンセンスだと正当化した。アナキズム原理に一体何が起これば、この手段がその目的を形成することになるのだろうか?つまり、戦術の中にはリバータリアン的ではないもの、リバータリアン的にはなり得ないものがあるように、戦術には「制限」があるのだ
 しかし、エコアナキストでもこれほど極端な立場を取る人は少ない。大部分の「プリミティビスト」アナキストは、反テクノロジー・反文明それ自体というよりも、(デヴィッド=ワトソンの表現を使えば)『原住民族生活様式の肯定』、そして、テクノロジー・理性・進歩といった問題に対して、社会的エコロジーのアプローチよりも遙かに批判的なアプローチを取る方が正しいと信じている。こうしたエコアナキストは、「進歩」という考えだけでなく『原始的ルーツに直線的に戻ることができると主張するドグマ的プリミティビズム』をも拒絶し、『啓蒙と反啓蒙双方の思想と伝統に置き換わる。』こうしたエコアナキストにとって、プリミティビズムは『国家勃興以前の生活を垣間見るだけでなく、文明下における現実の生活諸条件に対する正当な反応をも示す。』従って、我々は『旧石器時代と新石器時代の賢明な伝統』(例えば、アメリカ原住民部族などの土着民族と関連した伝統)を尊重し、そこから学ばねばならない。我々は『世界を思考し経験する際の世俗的様式を放棄することはできないし、したいとも思わないが、生活経験を、そして、何故我々は生きるのか、どのように我々は生きるのか、という根本的で避けられない疑問を世俗的な言葉に還元することなどできはしない。それ以上に、スピリチュアルと世俗との境界は非常にハッキリしているわけではないのだ。自分は自分の歴史であるという弁証法的理解は、スピリットに満ちた理性を肯定するであろう。この理性は、理想(el ideal)のために死んだ無神論のスペイン革命家だけでなく、宗教的平和主義の良心の囚人・ラコタのゴーストダンサー・道教の隠者・処刑されたスーフィー教神秘主義者にも敬意を払うのである。』[David Watson, Beyond Bookchin: Preface for a future social ecology, p. 240, p. 103, p. 240 and pp. 66-67]
 こうした「プリミティビスト」アナキズムは様々な雑誌と関わりがあるが、主に「第五権力 Fifth Estate」のような米国の雑誌と関係している。例えば、テクノロジーの問題について、こうしたエコアナキストは次のように主張している。『市場資本主義は火付け役の火花であった。現在もこの複合体の中心にあり続けている。しかし、それはもっと大きなものの一部に過ぎない。つまり、有機的人間社会が経済−道具文明とその大規模技術へ強制的に順応させられているということである。この文明と技術は、ヒエラルキー的で外的なものだというだけでなく、次第に「細胞的」になり内部的なものになってきている。第一原因と二次的諸結果という機会論のヒエラルキーに、このプロセスの様々な要素を積み重ねても何の意味もない。』[David Watson, 前掲書, pp. 127-8] この理由で、「プリミティビスト」アナキストは、テクノロジーの全面に対してもっと批判的である。人間性と地球の解放にとって本質的な適正テクノロジーの使用という社会的エコロジーの要求にも批判的なのである。ワトソンは次のように論じている。

 テクノロジー社会について語ることは、実際には、資本主義の範囲内で生み出された技術について述べることである。それは、次には、新しい資本の形態を生み出す。テクノロジーを決定する社会的諸関係の明確な領域という概念など、非歴史的であり、非弁証法的であるだけでなく、ある種の単純主義的な下部構造・上部構造という図式を示しているのである。[前掲書, p. 124]

 つまり、テクノロジーを誰が使用するのかという問題がその結果を決定するのではなく、むしろ、テクノロジーの効果の大部分は、それを創り出した社会が決定するというのである。言い換えれば、ヒエラルキー型権力を補強する傾向を持つテクノロジーが選択されているのである。なぜなら、一般に、社会の中にどのテクノロジーを導入するのかを選ぶのは権力者だからだ(そうは言っても、抑圧された人々は権力者に対抗するようにテクノロジーを変化させるという優れた習慣を持っており、テクノロジー変革と社会闘争は相互に関連しているのだが−−セクションD.10を参照)。従って、こうしたテクノロジーは、それを誰が使おうとも特定の効果を持っている以上、適正テクノロジーの使用でさえも、入手可能なテクノロジーの中から選択するということ以上のことが含まれるのである。むしろ、問題は、テクノロジーの全面を批判的に評価し、個人の自由・権能・幸福を最大限にするために必要なものかどうかに応じてそれを修正し、拒絶するということである。しかし、社会的エコロジーの立場を取る者の中でこのアプローチに反対する者は殆どいない。違いは、深刻な政治的ポイントではなく、強調点の問題であることが多い。
 だが、アナキストの中で、ブライアン=モリスが述べているようなイデオロギーに納得している者は殆どいない。それは、『人間の歴史の過去約8千年間』を『暴政・ヒエラルキー型統制・あらゆる自発性を欠如した機械的ルーチン』だとして却下する。『こうした人間の創造的想像力の産物全て(農業・芸術・哲学・テクノロジー・科学・都市生活・象徴的文化)をザーザンは、一枚岩的な意味で、否定的に見ている。』進歩を崇拝する理由などないが、あらゆる変革と発展を深く考えずに抑圧的だとして却下する必要もない。同様に、ザーザンの『人類学的文献の恣意的選択』[Morris, 前掲書, p. 38] も納得できるものではない。さらに、「時計を逆回転させる」という立場は全く誤っている。なぜなら、原住民族社会は、一般に非常にアナキズム的ではあるものの、そうした社会の中には、国家主義的で所有主義的なものへと発展した社会も確かにあるからだ。従って、有史以前のアナーキーが持つ重要な要素を導入することに主として着想され、また、それを導入しようとしている未来のアナキスト社会など正解ではないのだ。
 プリミティビズムは、二つの根本的に異なる立場を混同している。つまり、原始生活様式への文字通りの回帰を支持する立場と、原始生活からの実例を社会批判の道具として使用する立場とである。アナキストの中で、第二の立場に反対する者は殆どいない。何故なら、アナキストは、現状がより良いものではないと認めており、それ故に、過去の文化と社会は、本物の人間社会がどのようなものになり得るかを明らかにできるポジティブな諸側面(ネガティブなものもあるが)を持っている可能性がある、ということを認識しているからである。同様に、「プリミティビズム」が単に権威に伴うテクノロジーを疑問視しているだけならば、異論がある者は殆どいまい。だが、この賢明な疑問は、概して、第一の立場の中に−−アナキズム社会は狩猟採取社会への文字通りの回帰となるという考えの中に−−包摂されてしまうものだ。プリミティビストの著作を読めば、これが問題だと分かる。プリミティビストの中には、自分が待望する社会モデルは石器時代ではなく、また、狩猟採取への回帰でもないと強調している者もいる。だが、彼等は、自分たちの批判によって、それ以外の選択肢を排除してしまっているのではないだろうか。
 だから、プリミティビズムは、単なる『アナキズムの思弁』(ジョン=ムーアの言葉を使えば)に対する批判のようなものだと示唆されたところで、なかなか信用できないのである。テクノロジー・組織・「大衆社会」・「文明」を本質的に権威主義だとして悪魔化する以上、過渡期や自由社会においてさえもそれらを利用することを擁護するように意見を変えることはできない。従って、批判は行動様式と自由社会ヴィジョンに向けられているのであるから、それ以外のものを示されたところで単に疑わしいだけなのだ。同様に、過去と現在の狩猟採取部族と園芸農業へ移行したコミュニティを、アナーキーの実例だとして賞賛するのであれば、批判者たちから、プリミティビストは未来においても同様のシステムを望んでいる、と結論付けられても仕方があるまい。産業・テクノロジー・「大衆社会」・農業をプリミティビストが批判すればするほど、この見解は強められるのである。
 「プリミティビスト」が、プリミティビズムの二形態のうちどちらに同意しているのかをハッキリと述べるまで、他のアナキストがその思想を真面目に受け取ることはないだろう。産業をどのようにして安全に停止させ、労働者管理・国際連結・連邦型組織(プリミティビストは新しい「統治」の形態だとして常にあっさり却下している)なしに、大規模な飢餓をどのようにして避けるのかという基本的問題に回答できない以上、他のアナキストはそんなことがすぐに生じるなどこれっぽっちの希望も抱きはしないのだ。結局のところ、我々は、革命は現状の社会の中で始まる、という事実に直面するのである。アナキズムはこのことを認め、社会を変換する手段を示しているのだ。プリミティビズムは、そうした小さな諸問題から逃げだし、その結果、変換手段を殆ど提言していない。この理由から、大部分のアナキストは、実際に次のように論じているのだ。こうした「プリミティビズム」の諸形態はアナキズムなどではない。「狩猟採取」社会への回帰は、社会インフラが崩壊するため、殆ど全ての国々で大規模な飢餓を引き起こし、結果として、生き残ることのできた「ラッキーな」少数者が「野生」になり得、病院・書物・電気といった暴政から自由になるのだから。
 もちろん、だからといって、非プリミティビストのアナキストは、自由社会にいる万人は同じレベルのテクノロジーを持たねばならない、と考えてはいない。全く違う。アナキスト社会は自由実験に基づく。様々な人やグループが、自分たちに最適の生活様式を選択することになる。テクノロジーにそれほど依存しない生活様式を求めている人々は自由にそうすればよいだけのことである。(適正)テクノロジーの恩恵を利用したいと思っている人も自由にそうすればよい。同様に、全てのアナキストは、発展途上世界で、(資本主義)文明の猛攻撃と(資本主義的)進歩の要求に反対している人々の闘争を支持しているのである。
 「プリミティビスト」アナキズムについては、ジョン=ザーザン著「未来の原始人 Future Primitive」や、デヴィッド=ワトソン著「ブクチンを越えて Beyond Bookchin」「巨大機械に対抗して Against the Mega-Machine」を参照して欲しい。ケン=ナッブのエッセイ「プリミティビズムの貧困 The Poverty of Primitivism」は、ブライアン=オリバー=シェパードの「アナキズム vs.プリミティビズム Anarchism vs. Primitivism」同様、プリミティビズムに対する優れた批判である。

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