pure soul - episode : 3
BE WITH YOU 2

 
 シンジはソーサーに乗せたジノリのティーカップを二客、ダイニングテーブルの上に置いた。次いでトレイからティーサーバーを持ち上げて傾け、カップに濃い紅色の液体を注ぐ。
 とたんにベルガモットの独特な芳香が漂ってきた。
 鼻腔をくすぐる好ましい匂いにマヤは目を細める。
 アールグレイは本来冷やして飲むものであるらしい。この強すぎる芳香は、湯音が上がるにつれより増幅され、下手すると厭味に感じる。
 しかし、マヤは暖かいアールグレイを好んで飲んだ。
 シンジは最初、香りの強さにあまり気が進まなかったが、マヤに勧められ自分でも淹れているうちに、他の種類の紅茶よりも良く飲むようになっていた。
 ――他の紅茶が飲めなくなりそうだな。
 実際、アールグレイと比較すると、他の紅茶の香りはないものと等しい。それは、この紅茶の香りが他に比べて圧倒的に強烈だからだ。
「はい。どうぞ」
「ありがとう、シンジ君。ごめんね、お客さんにやらせちゃって」
「何言っているんですか。いいんですよ。そんな大きなおなかを抱えた人に、働かせることはできません」
 自分のおなかを抱え、マヤはシンジに微笑んだ。
 あと一週間で、マヤは臨月を迎える。
 マヤの好みの変遷も、それが原因とも言えなくもない。マヤに限らず、妊娠中は好みが激変することがよくあるらしい。
 マヤの場合はそのほかにもチーズなど匂いの強いものが食べれなくなったり、逆に今まで食べれなかったものを好んで口にするようになった。よく言われる酸味が強い物にはそれほど興味を示さず、専ら甘いものを欲しがるようになった。
 この日もシンジの焼いたチョコレートブラウニーが、テーブルに広げられている。
「でも、この匂いにも大分慣れましたよ」
「そうね。シンジ君、最初の頃全然飲まなかったから」
「だって、そんな淹れ方、したことなかったですし」
「男の子はあまり、好きじゃないみたいね。でも、今じゃシンジ君も、こればっかり」
「そうですね。でも、これに飲み慣れると他の紅茶の匂いがわからなくなりそうで怖いです。マヤさんの所為ですよ」
「えー、あたしじゃないよ。これは元々うちの旦那の好みなの」
「そうなんですか?」
 そうよ、と言って笑いながらマヤはティーカップに口をつけた。
「ん。おいし」
 その表情には、翳りはなかった。
 心の中ではどうかわからないが、少なくともシンジにはそう見えた。
 ので、シンジも努めて平静に話を切り出した。
「もうすぐですね。赤ちゃん」
 南向きのベランダに面している大きな窓からは、午後の日差しが部屋に差し込んでいる。
 オレンジを基調としたマヤの部屋はいつも暖かい。シンジは、この姉のような存在の女性の部屋に来ると、自分の家に帰ってきたような安心感を感じていた。
 マヤはカップを置くと、両手を自分の膨らんでいる腹部にあてがい、目を少し伏せた。
 憂い――の表情とも読み取れなくはないが、マヤの声には暗さは無かった。
「ホント、長かったわ。もう体が重くて動くのも億劫になるのよね。でも、初産は遅れるって言うし、生まれるのはもうちょっと先なのよねぇ。きっと」
「最近、調子はいいんですか」
「うん。もうばっちり。それもシンジ君のおかげよ。でも、今度は逆に食欲がでて来ちゃって困るわ」
「何が困るんです?」
「女の子に聞くことじゃないわ。あ、もう女の子って年でもないか」
 と言ってマヤは舌を出した。もう二十台の後半の筈だが、彼女にはそのような仕種が何故か似合う。
「体重よ。体重。もう予定を上回りそうなの。ああ、明日定期検診なのに――」
「そうなんですか? そんなに太っているようには見えませんが――」
 もともと小柄で痩せているマヤである。少し太ってちょうど良いくらいだ。さすがに今は妊娠も後期に入り、腹部が目立って来てはいるが、それでも太ったとは思えない。
「もう、すごい太ったわよ! ここだけの話、実は検査の日は朝ご飯抜いているの。だってね、すごい怖い婦長さんがいて、少しでも予定体重をオーバーすると、ものすごい怒るのよ。でも、この前まで、今にも死にそう!っていう状態だったのが信じられないわ」
 ころころと、マヤは良く笑った。
 
 妊娠初期の頃、マヤは流産になりかけた。
 シンジが第3新東京市ここに来て、半年程経った日のことである。
 
 世界を揺るがした先の大災害の影響の為か、マヤはあまり健康とは言えない体になっていた。精神的負荷が大きすぎたのか、多かれ少なかれ、現在生きて生活している人類の大半は、先の衝撃から何かしらの影響を受けていた。
 特に、妊娠、出産ともなると体にかかる負担は通常の比ではない。
 医者は懸念を示したが、結局、マヤは生むことにした。
 
 当時のマヤは全くひどい状態だった。
 
 ――らしい。
 と言うのも、シンジはその状況を直接知らない。全てはマヤから聞いた話である。
 幸いにも現在は回復しているが、時折見せる表情にシンジは翳りを感じてしまう。それは、体調の所為ばかりとはいえない、ある悲しい出来事の所為でもあったのだが……。
 
「でも妊娠しているんですから太るのはしょうがないんではないのですか? それに痩せている方が心配のような来もしますけど――」
「あんまり体重が増えちゃうと、出産の時に大変なのよ。それに、妊娠中毒になっちゃう可能性もあるんだから」
「妊娠中毒?」
「妊娠中毒って言うのはね――あつっ」
「ど、どうしたんです?」
「――動いた」
 そう言って、マヤは顔をしかめた。
 
「動いたって――おなかの、中の――赤ちゃん?」
「うん。よく動くのよ、この子。内側から肋骨を蹴るんだからね。肋骨を。痛いのよ――」
「ろ、肋骨ですか?」
「もう妊娠も後期なのにねぇ。ホントよく動くのよ。元気がよすぎて大変。こんなに暴れているんじゃ、男の子かもね」
 そう言ってマヤは、大事そうにさすって、目を細めた。
 
「シンジ君、さわってみる?」
「え? い、いいんですか?」
「うん。どうぞ」
 そういえば、長いことマヤのところ(ここ)に来ているが、触わるのは初めてだった。いや、マヤに限らずおなかの中の子供と触れる機会は今まで皆無に等しい。
 マヤの言葉に、シンジはおずおずと手を伸ばす。マヤは触りやすいように、少し腹部を突き出すような格好をした。触ってみると、丸く膨らんでいるそれは弾力はそれほど無く、張り詰めて硬質な感じがする。しばらく手をあてがっていると、服の上からマヤの体温が伝わってくきた。
「う、動きませんね」
「うーん。さっきまであんなにはしゃいでいたのに――あっ」
 マヤが嬉々として声を上げた。
「シンジ君。わかった?」
「ええ、動きましたね。あっ、また」
 勢い良く腹部を蹴る振動が、シンジの手のひらに伝わってくる。
 手の平がぐっと押し返される。時折、ぐーとゆっくり押し返されるのは、手足をいっぱいに伸ばしているからだろうか?
 シンジは少し心拍数が早くなったような気がした。異性に触れている所為もあるだろうが、未知なる物への接触――この場合は子供だが――故、生命の不思議を実感した所為でもあろうか?
「なんだか――不思議ですね。ここに――子供がいるんですよね」
「そうね」
 そう言うとマヤは目を細め、シンジを抱き寄せて自分の腹部にシンジの頭部をあてがった。
「マ、マヤさん?」
「シンジ君 ―― 何が聞こえる?」
「何って ――」
 シンジの耳に聞こえるのは――
 ――潮騒。
 寄せては返し、返しては寄せる波の音。
 さざ波の様に――時には岩をも砕く大波の様に。
 遠くから聞こえる、海鳥の鳴き声。
 勢い良く跳ねる、魚の水音。
 遥か遠い過去から現在へと、脈々と連なる鎖。
 それに混ざって――とくん、とくん、と力強い鼓動が聞こえる。
「マヤさんの――心臓の音が、聞こえます」
 二人は見つめ、そして笑った。
 シンジはマヤから離れ立ち上がる。
「遅くなってしまうんで、もう行きます」
「うん」
「また来ますね」
 マヤは玄関のドアまで、シンジを送った。
 空を見上げると、暗い雲が空を覆っている。
「雨が降りそうよ、傘を持っていったら」
「バイクですから持っていけませんよ。それにそんなに長いこといるわけじゃないし――大丈夫です」
 マヤはじっとシンジのことを見つめていた。
「シンジ君。あのね、彼女のこと――」
「マヤさん」
 シンジはマヤの発言を制した。
「マヤさんの所為ではないです。マヤさんが気にすることはないんです。綾波がいつかこうなることは、覚悟していました。それに――」
 シンジはうつむいた。
 レイは、全て知っていたのではないだろうか?
 全て知った上で、シンジに全てを任せたのではないだろうか?
 その結果、このような結末になることも。
 二度と目覚めることなく、彼女が再生と破壊を繰り返す、混沌の世界に飲み込まれることも。
 三年間、魂を現世にとどめ置かれたのは何のためか。
 僕に逢うため?
 違うかもしれない。
 そうかもしれない。
 気休め――か。
 すべては、生き残ったものの傲慢に過ぎないのかもしれない。
 所詮、自分以外の人の気持ちなんてわからない。
 自分の気持ちさえも、わからないのに。
 ――カヲル君。君は――
 
「シンジ君――」
「いえ。何でも、ないです」
 シンジは、マヤの寂しそうな瞳から
 目を、そらした。
 
 
 
 


 
 
 三時間前にマヤと逢った時は、こんなことになるとは思ってもいなかった。寂しげな瞳を湛えたマヤは、それでもしっかりと息をしていた。
 胸の鼓動は、力強かった。
 駆けつけたときには、既に手術室のドアは閉じられ、術中であることを示す紅いランプが点灯していた。
 既に診察時間外なので、院内の広いロビーの照明は落とされ、静かで――そして冷たかった。荒い自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
 
 事故だった。
 外出しようとしていたマヤに、車が突っ込んだのだ。
 ガードレールごと、マヤは車にはじかれた。
 
 数分前自宅でその事を聞いた時、例えではなく、本当に目の前が暗くなった。
 アスカの声で気づいた時には、床に座り込んでいた。
 そこからどうやってこの病院まで来たのか、あまり記憶が無い。H2バイクで来た事だけは確かだった。
 腰に回されていたアスカの柔らかな腕が、やけに熱く感じた事だけは覚えている。
 シンジはともすれば失いそうになる気を引き締め、それでも冷静にバイクをコントロールし、出来る限り早くマヤが担ぎ込まれた病院に駆けつけた。
 受付で事の次第を説明し、手術室の前まで案内してもらう。
 シンジは、手術室から出てくる看護婦をつかまえて状況を聞き出した。
「まだ、なんともいえません」
 看護婦は緊張と疲労の為か、青ざめた顔で対応した。
「とりあえず――生きてはいるんですね?」
「え、ええ――」
 歯切れが悪い。
 シンジの不安はますます色濃くなっていった。
 
 
 あれからどのくらい経ったことだろう。
 リノリウムの床からはひんやりとした冷気が伝わり、白い壁からは圧迫感しか感じられない。
 以前はわずかながらでも希望に満ちていた窓越しの風景も、今はただ暗闇が支配している。
 シンジは、マヤが入った手術室の扉の近くにあるベンチに腕を組んで座っていた。
「――シンジ」
 声がするほうを見上げると、アスカが立っていた。
 手には自動販売機から購入したであろうコーヒーカップを持っている。
 シンジは無意識に受け取った。
 紙製のカップから、手にコーヒーの熱い温度が伝わる。
「あ、ああ――」
 シンジは改めてアスカを見つめた。
 襟足が少し濡れて、金色の髪がくすんだ色に変わっている。
 どしゃ降りとは言えなかったが再び降り出した雨の中、バイクを飛ばした所為だ。
 自分の服も濡れている。
 気がつかなかった。
 アスカは紺色のトレーナーの上にジャケットをはおり、下はブラックジーンズという姿。
 サイズが一回り以上大きく感じるのは、両方ともシンジのものである所為だ。
 そういえば外出する時に貸したような覚えがある。
 そのジャケットも、雨を含んで濡れていた。
 シンジはタオルを探そううとするが、ここが病院だということに改めて気がついた。
 半年間通った、シンジも良く知っている病院である。
 シンジは立ち上がった。
「あ、つっ」
 熱い液体が手にかかる。
 コーヒーカップを手に持っていることをすっかり忘れていた。
「ばか。何してるの」
 アスカは、それでも心配そうな顔をシンジに向けた。
 腕時計を見る。院内のショップならば、タオルなど生活必需品は揃う。
 しかしそこが開いている時間は、とっくに過ぎていた。
 一体いつからここにいるんだろうか?
 ――とりあえず、濡れた服と髪を何とかしなきゃ。
 アスカはシャワーを浴びた後だから、このままでは風邪をひいてしまう。
「あの――シンジ、君?」
 若い女性の声がした。
 振り向くと、顔見知りの看護婦が立っている。
「川瀬――さん」
 彼女はレイの入院中、何かとシンジの世話を焼いてくれた人だった。
 少し背の低い彼女は、小走りに走って来て上目遣いにシンジを見た。
「シンジ君。これ、良かったら使って」
「え?」
 そう言って川瀬は、タオルを二枚、差し出した。
「ついているわね、シンジ君。今日、あたし当直だったのよ」
「あ――」
「そんなずぶ濡れのまま、どうするつもりだったの? 彼女、風邪引いちゃうよ」
 シンジはアスカを見た。アスカは向こう側を向いていて表情は解からない。
「――すいません。ありがとうございます」
 シンジはタオルを受け取り、川瀬に向き直って礼を言った。
「彼女、シンジ君の――これ?」
 と言って、川瀬は微笑みながら、小さな小指を立てた。
「ち、違いますよ」
 シンジはあわてて否定する。
「そう? お似合いだと思ったんだけどなぁ」
 川瀬は、てへへっ、と言いながらウインクする。
 そして急に真面目な表情を作った。
「ごめんね、こんなときに。
 でも、沈んでいちゃダメだよ。応援しなきゃっ。中で彼女も頑張っているんだし」
 シンジは、彼女の年齢の割に幼い顔を見つめた。
「すいません。心配をかけて」
「あたし三階のナースステーションにいるからね。何かあったら遠慮なく来てね」
「はい。ありがとうございます」
「じゃぁ、ね」
 川瀬は階段を駆け上がりながら、アスカの方をちらっと見ると、にっこりと笑顔を作って手を振った。
「あの人――綾波がここにいたときから、いろいろと世話をしてくれてたんだ」
 シンジは、ため息をつきながらアスカにタオルを手渡した。
「なんだかパワフルな人でね、僕が落ち込んでいたりするといっつもはっぱを掛けられてたよ」
 シンジは、改めてアスカを見た。
 トレーナーが雨に濡れて色が変わっている。
 しかし、ヘルメットを被っていたのとタンデムの後部座席だったので、それほど被害は無かったようだ。
 とりあえず、ほっとする。
「ごめん、こんなことになって。
 マヤさん、まだ時間が掛かるみたいだから、アスカはタクシーで戻っていて」
「シンジは?」
「僕は、ここにいる」
 その時、別の看護婦が廊下をかけてきて、手術室に入った。
 手術室の中の様子は伺えないが、慌しい雰囲気は伝わってくる。
 扉は閉じ、すぐに静寂が戻った。
「あたしも――いる」
 アスカは閉じられた手術室のドアを、じっと睨みつけていた。
 
 
 


 
 
 廊下の壁に掛けられた時計の、時を刻む音だけがやけに耳に障る。
 あれから何人か手術室に出入りしているが、様子を聞くことは出来なかった。
 マヤが手術室に入って、いったいどのくらい時間が経ったのか。
 正確な時間をシンジは知らなかった。
 様子が全くわからない状態で何時間も耐えるのは辛い。
 精神的にも疲労が溜まってくる。
 シンジでさえこの状態なので、日本に到着したばかりのアスカはかなり疲れているだろう。
 やっぱりアスカを休ませよう、と思った矢先、手術室のドアが開いた。
 ドアの前に、年若い医師が立っている。
 シンジはすぐさまソファから立ち上がり、駆け寄った。
 アスカも続いた。
「危険な状態です」
 眼鏡を掛けなおした医師の表情に、疲労の色が浮かんでいる。
 シンジは息を呑んだ。
「た、助かるんですよね?」
「最善の処置を施しています。ただ――」
 医師はシンジの視線を正面から捕らえた。
「最悪、子供は諦めてください」
 シンジは息を呑んだ。
 そのまま、蒼ざめた医師の顔を見つめる。
 
 あきらめる?
 あきらめるってなんだ?
 何をあきらめるんだ?
 あきらめるって、死んでしまうということか?
 助からないのか?
 子供は、助からないのか?
 この世に、生まれてこないのか?
 子供。
 こども。
 マヤさんの、あかちゃん。
 
 
 
 

―――――――――――ぼくの、こどもは?


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「た、助からない――助からないって――。子供…… 子供って……。マ、マヤさんは、マヤさんは助かるんですか?」
 声が震えていた。
「ねえ、先生。マヤさんは。マヤさんの子供は――子供は、だめなんですか? 先生、答えてください。先生!」
 気がつくとシンジは若い医師につかみ掛かっていた。
「シンジ!」
 アスカがシンジの肩をつかむ。
「あんなに――あんなに、楽しみにしていたのに――マヤさん」
 シンジは医師の襟首を掴んだまま、俯いた。
「とにかく――全力は尽くしています」
 それだけ言うと、医師はシンジを振りほどき、再び手術室に戻った。
 
 
 


 
 
 震えている。
 左手が震えている。
 寒くも無いのに――震えている。
 右手で、左手を強く抑える。
 それでも、震えは止まらない。
「――マヤさん、あんなに子供のこと、楽しみにしていたのに……」
 ソファがかたかたと、音を立てている。
 震えは止まらない。
「僕だ――。僕の所為だ――」
 声まで震えている。
 舌をかみそうになる。
 呂律が回らない。
「罰だ。
 これは、罰なんだ。
 きっと ―― そうだ。
 僕がこの世界を選んだから――。
 あの世界を拒否したから――。
 その所為だっ」
 シンジは静かに激昂した。
「僕にかかわった人は、みんな死んでいくんだ。
 綾波だって、死んだ。
 日向さんだって、青葉さんだって……」
 目の前が霞む。
 呼吸が乱れる。
 咳が止まらない。
 話すことが贖罪になるかのように、シンジは心の中に溜まっていたものを吐き出していく。
「マヤさん――」
 声がかすれる。
「マヤさんも ―― マヤさんの子供も死んじゃうんだっ。
 僕の ―― 僕の子供と、同じようにっ――!」
 パン!
 耳の近くで何かが破裂した。
 しばらくすると、頬がジンジンと熱くなってくる。
 無意識に頬に手をあて、目の前の少女を見る。
 顔を真っ赤にして、肩で息をしている。
 漸く、頬をひっぱたかれたことを理解した。
「シンジッ! あんたがそんなことでどうするのっ!
 マヤはもっと大変なんだよ。
 おなかの子供のために、一生懸命戦ってるのよ。
 なのに――あんたが諦めてどうするのっ!」
 シンジは頬を押さえて呆然とアスカを見た。
「ア、アスカ――」
 アスカは泣いていた。
 いや、涙は流れていない。
 でもシンジには、その顔が泣いているように――思えた。
「――ご、ごめん」
 シンジは俯いた。
 アスカは、漸くシンジの隣に腰を下ろした。
 すぐ隣に熱い体温を感じる。
 荒い呼吸を整え、アスカは正面を向きながら静かに切り出した。
「マヤ――妊娠してたんだ」
「うん」
「父親、は? 連絡は出来ないの?」
 ――父親。
 子供の、父親。
 マヤさんの――。
「父親は――」
 少し言い淀んだが、シンジは深く息を吸い込むと、一息に言い放った。
「青葉さん――なんだ」
 隣でアスカの身体がぴくりと反応するのがわかった。
「青葉――青葉って――た、確かあの人、死――」
 アスカは小さな両手を口に当てた。
「――うん。半年前に」
「そう。――そうなの」
 アスカは、ゆっくりと肩を落とした。
 
 
 
 妊娠初期、切迫流産を起こしたマヤにとって、心の支えは将来を誓い合った一人の男性の存在だった。
 先の大災害の後、マヤを力づけ、支え、時には叱咤し、そして力を合わせ生きてきた。
 そうして、その人はマヤにとって掛け替えの無い人となった。
 
 しかし――その人は、永遠に帰らぬ人となってしまった。
 
 マヤは、泣き、嘆き、悲しみ、そして苦しんだ。
 精神は体にも影響を与え、衰弱が激しく、病院に担ぎ込まれた。点滴を投与され、絶対安静と、カウンセラーがつきっきりで看病にあたっていた。当時のマヤは全くひどい状態だった。
 
 
 
 全てはマヤから聞いた話である。
 
「――そう、だったの」
 アスカは力なく、ぽつり、と言った。
「マヤ――大変だったんだ。あたし、知らなかった」
「アスカはずっとドイツだったから、知らなくて当然だと思う。
 僕だってついこの間、聞いたばかりだし――」
 アスカは俯いていた顔を上げ、シンジの方を向いた。
「シンジ――。あんた、あたしに聞きたいことがあるんじゃないの?」
「別に――何も」
「嘘。あんた、あたし達の子供の事、知っているんでしょ?」
 シンジは不意に顔を上げ、アスカを見つめた。
 蒼い瞳とまともに目が合った。
「知っているんでしょ。何とか――言ったらどうなのよ?」
 地の底から聞こえてくるような、低い声だった。
「子供は――死んだんだろ」
 漸くシンジは口を開いた。
「無理も無い、と思う。だってあの時、アスカは14歳だったんだから。
 そんな年で子供を産むなんて。誰だって、そう考えるよ。
 それに――望まれて出来た子ではない――し」
「言いたいことは――それだけ?」
 アスカの言葉が震えている。
「あ、あたしが ―― 好きであたしが子供を見捨てるとでも思ったの?」
「そ、そんなこと――。だ、だって、アスカは別に僕の事なんか好きでも何でも無かったんだろ?
 そんな好きでもないヤツの子供なんて、産むわけないじゃないか。
 子供が死んだって聞かされたとき、やっぱり「ああ、そうだったんだ」って思ったよ。
 アスカが僕のことを好きになるわけ無いもの。
 僕にはその資格も、何も無い。
 あの時、アスカは守ってくれる人が誰もいなくて、悲しくて、寂しくて――。
 でも、周りには僕しかいなくて――。
 だから僕に抱かれたんだ。でなきゃ、僕となんて――」
 ばしっ!
 間髪いれず、凄い勢いで頬が叩かれた。
 先ほどとは違い、今度は容赦が無かった。
「――な、何すんだ、よ」
 アスカは肩で息をしていた。
「やっぱり、あんた何も分かってない。
 あたしのこと、何にも分かってない!」
「な、なんだよ。わかってないって……何をわかれっていうんだよ!
 いつも、アスカは何も言ってくれなかったじゃないかっ。
 僕に抱かれた時だって、何も言わなかった。
 ドイツにだって黙って帰っちゃうし、子供の事だって何の相談も無かった。
 それで、理解しろって言われても、わかんないよ!」
「ドイツに送り返されたのは ―― 子供の所為よ。
 帰ってすぐに――しょ、処分しろって言われたっ。
 そんな14歳で子供を産んでどうするんだっ、て周りの大人たちは言ったわ。
 あたしが、堕すのはイヤだって言っても、何度も何度も説得に来た。
 でも、あたしは諦めなかった。あたしは生むつもりだった。
 生むつもりだったのよっ。シンジッ!」
 アスカの目には涙が浮かんでいる。
 僅かな光を反射し、それでも光り輝いていた。
 まるで真珠のようだ。
 シンジは場違いな感想を持った。
 そういえばアスカの涙を見たのは何時の時以来だろう。
「で、でもね ―― でも、どうしようもなかったのっ。
 助けられなかったのよ!
 おなかの中で、赤ちゃんの心臓の音がだんだん小さくなってきて――
 せ、先生にも、一生懸命お願いしたわ。
 この子を助けれくれたら、何もいらない。
 あたしの未来を、この子に全部あげるって。
 だから、この子を助けて。
 お願いっ。この子を死なせないで!」
 アスカは自分自身を抱きしめた。
「だって、この子がシンジとの唯一のつながりだったから――」
 
 
 
「自分勝手だと思うわ。
 あんたに、何の相談もなしに生むって決めたこと。
 おなかの中の子供の父親はシンジだもの。
 でも、その時のあたしに、子供以外の事まで考える余裕は無かったの。
 そして ―― 子供は、確かにあたしのおなかの中にいる。
 いるのよっ!
 それを殺すことなんて出来ない。
 絶対に出来なかったわ!」
 
 
 
「でも、ダメだった。助けてあげることは出来なかったの」
 アスカは声の調子を落とした。
「お、おなかの中の子供には、遺伝子に、先天的な異常があるって言われたの。
 ま、毎日、毎日、検査して。
 日々、弱ってくるのがわかって。
 で、でも、それでもどうしようもなくて。
 その子は結局、あたしのおなかの中で――」
 アスカの声が震えている。
 見ると、顔も蒼ざめている。
「あたし達の子が特別じゃない。稀にあることなの。
 不完全な卵は、生まれる前に自分で生きていく強さを獲得出来ないまま、死んじゃうの」
 シンジは目を閉じた。
 恵みを受けることの出来なかった子供。
 一度もこの腕に抱くことが出来なかった子供。
 それは神が与えたもう運命だったのか。
 
 静寂が二人を包む。
 無音が硬いリノリウムの床に反射して、耳が痛い。
 
「シンジは、逃げていただけだから――。
 あたしのことを見ていなかったから――。
 あなたには相談できなかった」
 アスカは、少し寂しそうに笑った。
「あなたは、何も変わっていないわ。
 そして何も分かっていない。
 自分の心さえも――」
 思い直したように、アスカは首を振った。
「痴話げんか――ね」
 息を吐き出す音が耳に障る。
「マヤが大変な時に――あたしは――」
 アスカは、唇をかんだ。
「アスカ ―― 僕は」
 その時、重々しい音を立て、手術室の扉が開いた
 扉の中には、部屋の照明を後ろに浴びた医師が立っていた。
「せ、先生――」
 シンジはアスカを見て、医師に駆け寄った。
「大丈夫。持ち直しましたよ」
 年若い医師はそう告げると、安堵のためか深く息を吐き出した。
「こ、子供は?」
 思い直したようにシンジは聞いた。
「予定日より前だったので、少し小さいけれど、元気だよ」
「そ、それじゃ」
「助かったよ、二人とも」
「あ――ありがとう――ございます
 シンジは医師に深深と礼をした。
「君達もがんばったね。
 君達の祈りをきっと神様が聞き届けてくれたに違いない」
 医師は手術の成功かあるいは疲れの為か、少し興奮しているようだった。
 そういわれると、シンジは困ってしまう。
 先ほどの自分達の痴態を神様が見ていたらどう思うであろうか。
 アスカを見ると、耳まで真っ赤にしている。
「何にせよ、もう心配は要らない。
 あとは医者の仕事だ。君達はゆっくり休みなさい」
 
 
 
 


 
 
 
 旅客ターミナルは、出発と見送りの人々で込み合っていた。
 
 雑多な喧騒。
 出発を告げるアナウンス。
 人いきれ。
 
 シンジは、息が詰まりそうだった。
 
 セカンドインパクト後に建設された第三新東京空港は、例に漏れずサードインパクトにより壊滅的な被害を受けた。
 残った人々は、海外そして国内の物流の中心として空港の復興を望み、そしてそれは早期に実現された。
 しかし貨物に比べ、旅客ターミナルにおいては間に合わせの修復で、しかも以前の半分のスペースしか開放されていない。残り半分は全面開港に向け、現在工事中である。
 だが、それでもフロアは広かった。端から端まで、500mは優にあるだろう。シンジは目的のチェックインカウンターにたどり着くまで、かなりげんなりした気持ちで歩いた。
 自分が乗るわけではないのでチェックインをしている間は、何もすることがなかった。
 ふと高い天井を見上げる。
 人工的な照明の光りが、目に痛かった。
 
 
 
 出発ロビーに設置されているソファに座りながら、シンジは目の前に立つアスカを見つめていた。黒のコートに赤いベレーを被った少女は、少し離れたところに所在無さげに佇んでいる。ショートコートから黒のブーツに包まれたほっそりとした足が見え隠れてしていた。彼女は、薄手のベージュの手袋をした両手を身体の前で交差させ、落ち着かない様子で何度となく手を組替えている。
 今日、第3新東京市を出発してから、二人の間に会話らしい会話は無かった。
 アスカは昨日の別れ際、予約したホテルに一泊し翌朝とんぼ返りでドイツに戻ると言った。
 ――送っていくよ。
 何気なく出た言葉。
 だが、シンジは後悔していた。
 あんなことがあった後だ。何を話せばいいのか、分からなかった。
 何を言っても、アスカを傷つけそうだった。
 だから今、アスカと離れてソファに座っている。
 でも、何故かアスカとはこれが最後のような気がした。
 多分、アスカはもう日本には戻ってこない。
 来るとしたら、それは今のアスカが過去になった時だ。
 そうなった時、アスカの中の自分の存在は消えてしまう。
 だから――今が最後の時なのかもしれない。
 でも、何か言わなければならないと思うが、言葉にはならない。
 伝えたいことは確かにあるはずだが、喉の奥に消えてしまう。
 
 アスカの乗る便の、最終の出国手続きを告げるアナウンスが広大な港内に響いた。
 アスカは一瞬悲しそうな表情を浮かべ、フロアを見渡した。
「時間だから――もう行くね」
 ゆっくりとシンジは頷いた。
「見送ってくれて、ありがと」
 ソファから立ち上がり、アスカの隣に並ぶ。
 アスカはシンジの方に向きなおった。
 肩越しにアスカの視線を感じる。
「シンジも、元気でね」
「アスカ――」
 やっとのことでしぼり出した言葉はかすれていて、自分の声ではないようだった。
 何を話すつもりなのか。
 自分の心もわからないのに。
 こんな曖昧な気持ちで、何を言うんだ。
 離れたくないとでも言って泣きつくのか?
 子供じゃあるまいし――。
「シンジ――」
 静かな声が、耳に響いた。
 その、水のように澄んだ声のする方に顔を向ける。
 少女は、なんだか泣きそうな顔をしていた。
 いや ―― それは、自分か?
「シンジ、あたしね――」
 アスカは一言一言、言葉を選ぶように、確かめるように話し始めた。
 喧騒の中に埋もれてしまわないように、シンジはアスカの口元を見つめる。
 薄く引いたルージュ。そこだけが何故か浮いているようだ。
 鈴が鳴るようなアスカの声。
 シンジはその言葉の先を、知っているような気がした。
「あたしね、ドイツに――」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「フィアンセが、いるの」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

to be continued.

 
あとがき


 大変お待たせしました。
 『BE WITH YOU』の二番目のお話をお届けします。
 三ヶ月ぶりの更新です。
 全く持って言い訳は出来ません。
 ええ、遊びほうけてました。
 違っ。仕事も忙しかったのです。
 
 今回はちょっと辛いお話かもしれませんが、最後はハッピーになる予定です(多分)
 次が『BE WITH YOU』そして『pure soul』最後のお話です。
 
 それでは簡単ですが最後に――。
 このお話を気に入っていただけたら、とても嬉しいです。
 そして、辛抱強く待っていただけたなら、またお逢いましょう。
 

2001/2/5
なお


 
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