NEON GENESIS EVANGELION FAN FICTION
pure soul - episode : 3
BE WITH YOU

 暮らしには、不自由はない。
 自由も、ある。
 周りの人はみな親切だし
 親身になってくれる。
 友人もできた。
 楽しいひと時を、過ごすこともある。
 
 
 だけど――
 何故か満たされない――
 
 
 
 
 訳も無く、泣く夜もある。
 そんなことも、あるだろうと思う。
 
 そんな時、肩を並べて歩いた少女ひとのことを、思い出す。
 
 幼い少年を、振り返る余裕すらなかった
 あの頃――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



pure soul

第参話
BE WITH YOU
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 錆び付いた風が湿度を纏い、薄手のコートを羽織った体に絡み付いてくる。
 空には鉛色の雲が広がり、薄いながらも陽光を遮るのには十分な厚さをもってシンジの頭上に広がっていた。 目を転ずると、遠くに見える外輪山が水蒸気で(かす)んで見える。 色彩のない灰色の山々が、ぼおっとそびえ立っていた。
 
 夕刻のはずである。
 陽の光は地上に僅かに届く程度で、時刻はわからない。 あと数刻もすれば、(おぼろ)げに見えている山の輪郭も、夜の帳に溶けて行き、背景と区別することが不可能になるはずである。  
 
 シンジは再び視線を足元に戻した。
 目の前には、墓標が、ひっそりと佇んでいる。
 前だけではなく、右にも左にも、後方にも無数の墓標が広がっていた。
 墓地である。
 シンジの目の前にある墓標は、良く見ると正確には地表と垂直には屹立しておらず、やや右に傾いている。そして左側の「腕」の部分の先端が少し欠けていた。以前見たときには、自分の顔も映る位に磨き込まれていたような表面も、現在いまではよく見るとざらざらとしていて、まるで酸にでも洗れたかのように見えた。  
 
 一歩踏み出すと、シンジは手にしていた花束を無造作に手向たむけた。 青臭い生花の匂いと、湿った土の臭いが混じり合い、鼻につく。  
 シンジは、墓標に刻まれた文字を、睨みつけるようにして見つめた。  
 湿度を含んだ風が、少年の柔らかな髪をかきあげる。  
 やがて、彼は目を伏せて、僅かに視線を逸らした。  
 
 
 
 
 
 この場所には 「綾波レイ」 と呼ばれていた少女が眠っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 第三の衝撃サード・インパクトが世界にもたらしたの――
 ここ、日本では、「季節」 と云う、18年前に失われたものが、戻りつつあった。  
 
 今年の冬、シンジは雪、と言うものを初めて見た。 そして、冬と言う季節の厳しさに閉口した。
 冬を知っている年長の者達は、冬の訪れを歓迎する。 冬を知らないシンジは、それでもなんとなく、その気持ちがわかるような気がした。
 今では、ようやくその厳しい季節も過ぎ去り、桜樹のぷっくらとしたつぼみが膨らみ始めていた。
 淡い桜色の樹々が、山のふもとに見える。
 
 世界がどんなに変わろうとも、時は刻まれ、季節は変わる。
 そう思うと、シンジは物悲しくなった。
 一体、彼女――綾波レイの存在価値は、なんだったのだろうか?
 生まれた時から仕組まれた存在。
 利用される為だけに生を受けた少女。
 舞台が終わった時、彼女自身、自ら体を滅してしまった。
 一度も目を覚ますこともなく。
 
 しかし、この結末が導かれることは、シンジはあらかじめわかっていた。
 あの、一つになった世界において、彼は全てのことをべる存在であった。
 そして、あの世界を拒絶リジェクトした場合、現在の結果になるのは必然。  
 
 それでもシンジは、今の世界を選択した。
 あの時は、それが間違っていたとは思えない。
 今でも、間違っていたとは思わない。
 青臭い少年の理屈なのかもしれないが、あの世界は 「違う」 と、思ったのだ。
 だが、その結論が、今のこの状況を作り出していることについて、シンジは気持ちのやり場が無かった。
 僅か17歳の少年が背負うには、それはあまりにも重い十字架であった。
 
 
 
 西空の雲が、紅黒く染め上げられている。
 鮮やか過ぎるその色を見ながら、シンジは天空の対極の東側に目をやった。
 山々はすでに漆黒の世界に半分飲み込まれている。
 上空にかかる雲はますます厚くなり、とうとうシンジの髪の毛を濡らし始めた。
 霧の様な細かい雨が、彼を包む。
 花束が霧雨に濡れ、さわさわと音を立てた。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 この場には似つかわしくない、機械的な音が聞こえて来た。
 無粋な音は、この墓地の入り口辺りの処で止まり、数刻の後、去って行った。
 遠くに見える車種から判断すると、タクシーかハイヤーらしい。
 ――墓参りか、この時間に。
 不審に思ったが、シンジも人の事は言えない。
 既に陽は翳り、灯りの少ない墓地は、歩くのもおぼつかなくなっている。
 
 サードインパクトの後、全世界の人口は更に半分以下になった。
 行政、経済、交通及び、生活のパイプラインである電気、ガス、水道等は全くと言っていいほど機能を果たしていなかったが、先人達の遺産と偉大な努力により、ようやく復旧し、人としての生活が送れるまでに復活を果たした。 だがそれも大都市を中心とした話で、地方の都市は依然復興の手さえも差し伸べられていない処も多い。
 ここ、第3新東京市は、復興計画の上位に位置付けされていたので、比較的他の都市よりは進んでいた。 だが、計画が全ての場所に行き渡る訳も無く、今シンジが居る墓所も、整備はされていなかった。
 皆、故人を偲ぶ時間もとれず、唯でさえ人気の無い処なので、シンジは今まで他の人と擦れ違うことすら無かった。
 
 時刻も遅く雨も降ってきたので、そろそろ辞そうと思い立ち上がった。
 何気なく、その参拝者を見た。
 
 
 亜麻あま色の傘を差し、黒い服――喪服を着ている。
 献花を抱えているところを見ると、やはり墓参りであろう。
 女性らしい。
 彼女はシンジの居る処に向かい、ゆっくりと歩を進めている。
 シンジは立ち去る機会を失い、佇んでいた。
 否。 彼女が近づくに従い、心臓の鼓動が早鐘を打ち、立ち去ることなど何処かへ行ってしまった。
 身長はシンジよりも低いが、平均的な女性よりは高く見える。 喪服の上からでもはっきりとわかる均整バランスの取れた身体つきプロポーション。 鮮やかな金色の髪を、肩のところでばっさりと切りそろえている(!)が、意志の強いあおい瞳の色は変わっていない。
 見紛みまごうはずが無い。
 
 
 
 
 ――アスカだった。
 
 
 
 
 一体、何年ぶりの邂逅だろう。
 正確には約2年半ぶりの再会であったのだが、もう何十年も出逢っていないようにシンジは感じた。
 アスカと最後に出会った時のことが、脳裏にぎった。
 あの時も、蒼い瞳がシンジを見つめていた――  
 
 
 気が付くと、立ち竦んでいるシンジの目の前を、アスカは表情を変えることなく通り過ぎた。
 傾きかけている墓標の前で立ち止まり、刻まれた文字を見つめている。
 やがて、彼女の小さな口が開いた。
「――ここに」
 言葉は空気の振動となり、シンジに伝播する。
「――ここに、あの子がいるのね?」
 シンジは弾かれたように、アスカを見た。
 ようやく、アスカから傘を差し出されていることに気が付いた。
 反射的に受け取る。
 細かい雨が、シンジの身体を濡らしていた。
 アスカは膝を折ってかがみこみ、胸に抱えていた花束を、シンジが捧げた花束の隣に重ねて置いた。  
 アスカは雨に濡れていた。  シンジは腕を伸ばしてアスカに傘を差し掛ける。
 彼女はしばらく、そのまま墓標の前で、じっと佇んでいた。  
 ――何を思っているのだろうか。  
 その静謐な横顔からは、心の中までは窺い知れない。  
 陶器のように白い頬が、雨に濡れて、青白く光っていた。  
 
 
「久しぶりね」
 やがて、アスカは立ち上がると、まっすぐにシンジを見た。
 シンジも、改めてアスカを見た。
 シンジが知る頃よりも、遥かに大人びて見える。
 色白の肌はますます透明度を増し、薄く化粧を施した顔は、すでに大人の女性のものである。
 長い睫の下にある憂いを帯びた瞳は、深い蒼色を湛え、短くした髪から垣間見える首筋は折れそうなほど細く、形の良い耳にはピアスが光って見えた。
 手足は長くすらっと伸び、服の上からでも感じられる胸の厚さが、少年の心を困惑させる。
 
 そこには三年分の時が、確実に流れていた。
 
「――アスカ、その」
 錆付いた歯車を回すような嫌な音が、頭の中で鳴っているような気がした。
「どうして、ここに――」
 それだけを言うのがやっとだった。
 アスカは顔を伏せた。
「教えてくれたの。マヤが――」
「マヤさんが?」
「本当はもう少し早く来たかったんだけど、色々とあって――」
 
 あの日から、既に2週間が経っている――。
 
 シンジはその日のことを、良く覚えていない。
 この半月の間、毎日が慌しかった。
 最近、ようやく自分の回りに目を向けることが出来るようになり、学校へも通うようになった。
 ――少しは落ち着いてきたって事か。
 それとも、すでに忘れ始めているのか。
 そう思うと、シンジは少し悲しくなった。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「すごい音。 何なの、あのバイク」
 アスカが、あきれたように言った。
「マッハV。 KAWASAKIの」
「すっごく古いわよね」
「50年近く前のバイクものなんだ。 もう年代物を通り越して、博物館行きになってもおかしくは無いんけどね」  
 
 カワサキ 500SS H1 マッハV。
 2ストローク空冷3気筒ピストンリードバルブ。 左右非対称アンシンメトリーの3本マフラー。 タンクに映えるダークブルーストライプ。  最高出力60ps/7,500rpm、最大トルク6.85kg-m/7,000rpmは、今でこそ古ぼけたのスペックだが、当時は熱狂的な人気を誇ったバイクである。
 500SS H1は、当然の事ながらすでに生産は中止されている。 普通ならメンテナンスは不可能なのだが、シンジのH1は二台のマシンから一台を作り上げたものであった。
 
 サードインパクトの後、一時期身を寄せていた処の近くに、老人が住んでいた。
 出会いは忘れてしまった。
 気が付くと、シンジは何時の間にか、その老人の家に入り浸る日々が続いていた。
 何処が気に入ったのだろうか。
 考えると良くわからなかったが、とにかく居心地が良いことだけは確かだった。
 老人は一人暮らしだった。
 配偶者は何年も前に亡くなっていたらしい。
 子供達の行方は知れない。
 シンジも、聞かなかった。
 
 老人は、いわゆるバイクショップを経営していた。
 三年前の大災害の影響により、経済の破綻や、原油の輸出規制等で、老人の店も例に漏れず打撃を受けた。 混乱した時期もあったが、1年後にはそれも落ち着きを見せていたようだ。
 
 老人の店は狭かったが、色々な種類のマシンがあった。
 シンジは、バイクには興味は無かった。
 だが、ある日、古ぼけた一台のマシンに目が止まった。
 それは他のどのマシンとも違うフォルムをしていた。
 一目で全時代的なデザインとわかった。
 それが、H1だった。
「それは、もう動かんよ」
 老人はそう言ったが、ある日、そのマシンを解体し始めた。
「倉庫にもう一台、あったんでな」
 動かない二台のH1から、動く一台のマシンを作る。 老人はそう言っていた。
 完成には2週間を要した。
 成り行きで、シンジが乗ることになった。
 免許を持っていない、と、シンジが言うと。
「ばかたれ! この世界で免許もくそもあるか!」
 と一喝され、良くわからないうちに乗せられた。
 シンジはH1はおろか、バイクに乗ることも、触れることさえも始めてであった。
 当然、何度も転倒した。
 その度に、H1の傷は増えていった。
 シンジがそのことを気にすると、老人は笑って。
「贅沢な乗りかたじゃ。 見るやつが見れば、卒倒しかねんな」
 と、言うだけであった。
 ともあれ、もともと運動神経が優れていたのか、それとも老人の指導が良かったのか、数日を経ずにシンジの腕は、目を見張るほど上達していった。
 
 それから――シンジは時間ひまがあればH1に乗った。
 
 故障も良く起きたが、その度に老人に師事し、修理をする度に愛着が一層増していった。
 バイクの免許も取った。
 
 
 そんなある日、シンジは第3新東京市に戻ることになった。
 ここの生活にもようやく慣れてきたし、何よりこの歳を取った友人と別れる気は無かったのだが、シンジにとって最も大切な友人――綾波レイの状況を知り、戻ることを決心した。
 第3新東京市に来る時、シンジはH1をここに残そうと思ったが、老人はそれを許さなかった。
 ――もうすでに、そいつはお前のもんだ。
 結局、またもや強引に押し切られる形となった。
 シンジは歳を取った友人に感謝した。
 そして、ここに来る時、少しの荷物と一緒に乗ってきたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 シンジとアスカは、雨に濡れていた。  
 如何に霧雨と言え、防雨の対策が全く施されていないH1バイクに乗れば、結果は明らかだ。  
 
「アスカ、大丈夫?」
 シンジは自宅のマンションの扉を開け、アスカを中に招き入れた。
「ええ。 でも、面白かった。ちょっと耳が痛いけど」
 そう言って、耳に手をやったアスカは、年齢よりも幼く見える。 頬に張り付いている濡れた金色の髪をかきあげる仕種に、シンジは三年前に戻ったような錯覚を覚えた。
 シンジはワードローブからタオルを取り出し、リビングにいるアスカに投げた。
「ちょっと待っていて。 お風呂、沸かしてくるから」
 シンジは暖房を入れバスルームに向かった。
 春とはいえ、まだ気温は低く、肌寒い。 下手をすると、風邪を引いてしまいそうだ。
 
 
 シンジがバスルームから戻ると、アスカはコーヒーメーカーの用意をしていた。
「あ、ごめん。 お客さんにそんなことやらせちゃって」
「気にしないで。 雨宿りさせてもらっているから」
 手早く豆を挽き、ドリップする。
 良い匂いが、部屋中を満たした。
 シンジは二人分のコーヒーカップを用意する。
「――アスカ」
「何?」
「その、いつ日本に」
「ついさっきよ。 空港から直接」
「その服は?」
「持ってきたわ。 空港のラウンジで着替えたの」
 アスカは、出来上がったコーヒーを二つのカップに注ぐ。
「向こうで聞いた時には驚いたわ。 彼女の状態は知っていたけど。 それにしたって、突然――」
 目を伏せながら、彼女は言った。
 長い睫が綺麗だ、とシンジは思った。
「――もう、一度」
「なに?」
「ううん。 何でも――ない」
 シンジは、アスカと三年前に一度、別れている。
 それはレイも同じ事。
 台詞の先は、きっと
 ――もう一度、逢いたかった。
 以前の二人――アスカとレイは、決して仲が良いとは言えなかった。
 どちらかというと、二人が出会うと険悪なムードになっていたことの方が多いように思える。 それでも、シンジがそう思うのは、希望だからであろうか。
 だから聞いてみた。
「アスカ。 もう一度、綾波と、その――」
 優柔不断は三年前と変わりない。
 そんなシンジの姿を見てアスカは小さく笑った。
「ついこの前までは、絶対会いたくなかったわ」
 シンジは目を丸くした。
「あの子のことを聞いて、日本に来る飛行機の中で色々と考えたの。
 そうしたら、一つだけわかったことがあったわ。
 彼女を見ると、あたしの中にとても汚いものがあるっていうことに気づかされるの。 あたしの中の醜い感情――そうね、それは今思えば、嫉妬や羨望、と言われるものかもしれない。
 あたしは、それが嫌だった。
 それに気づくのが嫌だった。
 彼女は――あたしに無いものを持っていたから」
 シンジは、溜め込んでいた息を、吐き出した。
「僕は、綾波なんかより、ずっとアスカのほうが恵まれていると思っていたけれど――」
「それはシンジが、ある側面からしか見ていないからよ」
 アスカは手厳しく、言った。
「彼女は何事にも動じない心をもっていたわ。 ううん、本当はすごく心が弱い子なのかもしれない。
 でも、それを見せない。
 だからあたしはそう思った。
 逆に――あたしの心は、とても弱かったの。
 いくら努力しても、精神的メンタルな面はいつまでたっても子供だった。  
 だから、うらやましかった。  
 それに――彼女には、強い大きな保護者がいたわ。  
 あたしには、両親はいなかったから。  
 唯一、保護者と呼べる男の人は、逝ってしまったし。  
 その時には、もう、守ってくれる人が、誰もいなくなってしまったから」  
 
 アスカはそこまで、一息に話した。
 コーヒーカップから漂う湯気がヒーターの風に吹かれて、右に左に揺らめいている。
「そして、あの子には――あの子にとって、とても大切な人が、いたから――」
 そう言って、アスカはシンジを見つめた。
 シンジも、アスカの蒼い瞳を見ていた。
 幾許いくばくかの間、視線が絡み合い、解けていく。
 
 
 甲高い電子音が、鳴り響いた。
 シンジは目を逸らした。
「お風呂が沸いたよ。 アスカ、入ってくれば」
 アスカは、シンジを見つめ続けていた。
 視線を感じたシンジは、それでもコーヒーカップを見つめていた。 何時の間にか黒い液体は、底の方に少し残っているだけとなっている。
 やがて、アスカは視線を逸らすと、机に手をついて立ち上がった。
「そうね。 先に入らせてもらうわ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 湯上りの女性は、魅力的に見える。
 それも、美人ならばなおさらである。
 さらに、大き目のTシャツを被り、トレパンから健康的な細い、白い足が出ている状況とくれば、正常な一般男子ならば、ある特定の一部分が通常状態から大きく逸脱しても、責めるのは酷というものであろう。
 上気した桜色の頬に濡れた金色の髪がかかり、細いうなじが見え隠れする度に、一層少年の心は揺さぶられるのだった。
「じろじろ見ないでよ。 えっち!」
「あ、い、いや、そん、そんなつもりは――」
 無いと言って、しどろもどろに言い訳をする。
 アスカは、べぇ、と言って小さく舌を出した。
 彼女は、シンジのTシャツを着ている。
 二人の体格の差は、見た目よりもあるようで、アスカにはかなり大きかった。
 アスカは、タオルを頭に巻いたまま、冷蔵庫を開けた。
「いいものがあるわね。 貰っていい?」
 シンジの返事も聞かないまま、ビールの缶を手にとり、プルトップを引き上げた。
 ぷしゅっ、と言う景気のいい音が上がる。
「ああ、いいよ」
 タイミングを逸したシンジの返事は、それを向けられたものには全く届いていなかった。
「でもあんた、まだ未成年でしょ。 いいの? アルコールなんか常備していて」
 それなら、アスカだって同じ歳だろう、と言うと
「何言ってるの。 ドイツではお酒は14歳から飲んでいいのよ!」
 シンジはドイツに行ったことが無いし、ましてや法律など知らないが、それは嘘だ、と思った。
 アスカを見ると、あらぬほうを向いて小さく舌を出している。
 それを見て、シンジは苦笑した。
「何笑っているのよ。 シンジも早くお風呂に入ってきたらどうなの? 風邪引くよ」
 シンジは、はいはい、と返事をしてバスルームに向かった。
 
 
 
「アスカ?」
 風呂から上がったシンジは、アスカの姿が見えないことに気が付いた。
 アスカの服は、既に乾いているようだったが、まだ乾燥機の中にあった。
 あの格好のまま、外出することは無い。――気がする。
 シンジはキッチンに行って冷蔵庫を開け、自分用のビールを取り出した。
 
 風が動いた。
 
 ベランダを見ると、アスカが立っている。
 背を向けているので表情は見えないが、どうやら外の景色を眺めているようだ。
 半乾きの濡れた髪をかきあげ、シンジはベランダに近づいた。
「雨、上がったわよ」
 振り向きもせず、アスカは言った。
 雲は少し残っていたが、上空には月が出ていた。 新円をちょうど半分に切り取った形で浮かんでいる。
 シンジはアスカの隣に立ち、プルトップを引くと、ビールの缶に口をつけた。
 隣を見ると、アスカは缶ビールを片手に持ち、ベランダの手すりにもたれ、腕に頭をつけてシンジをじっと見つめていた。
 目が潤んで見えるのは、アルコールの所為か。
 17歳という、いまだ苦悩と逡巡と後悔の年齢の真っ只中。
 アスカの視線の意味を理解するには若すぎたし、仮に歳を重ねても永遠に理解出来ないかもしれない。 意味ありげな(とシンジが思っている)視線で見つめられると、一体どうしてよいかわからなくなってしまう。
「シンジ、大きくなったね」
 アスカはシンジを見つめたまま、言った。
「な、なんだよ、それ」
「あたしも背は高くなったけど、シンジもあの頃より、ずいぶんと大きくなったわよね? さっきあそこで逢った時、びっくりしたわ」
 アスカが、そんなに驚いているようには見えなかった。
 墓地でのアスカは、黒い喪服に包まれていた為でもあるのか、青白い顔はまるで彫刻のように整っていて、どこかよそよそしく、自分が知っているアスカとは思えなかった。
 凛、と空気が張り詰め、息をするのも躊躇われた。
「なあに、見てんのよ」
「あ、いや、その――」
 シンジは慌てて目をそらした。
 顔が赤くなってくるのがわかる。
 シンジは、アスカから視線をはずし、缶ビールを一気に呷った。
「やっぱり変わってないわねぇ」
「一体、どっちなんだよ」
 アスカは、ふふふっと笑った。
「ちょっと――嬉しかったかな」
 そう言って、アスカはシンジに向き直った。
 
 三年前と違い、身長は高くなり、身体つきも女性らしくなった。
 話し方も、大分落ち着きが見られ、指にはマニキュアも塗られている。
 髪は肩の処で綺麗に切り揃えられ、化粧を落とした今でさえも、少女から女性への境界線ボーダーラインを超えようとしている処に居るように感じた。  
 
 ただ――
 瞳の色は、三年前と変わらなかった。
 
 深い、深い蒼。
 それは、絶対的な自信。
 そして、垣間見える、深い――悲しみ。
 
 それを、わかってやれなかった。
 いや、わかろうとしなかったんだ。
 もう少しの勇気があれば。
 僕にもう少し、力があれば――
 
 頭の中で、何かが弾けた。
 視線の隅を、青白い月が横切るのが、見えた。
 
 
 
 
 
 気が付くと、腕の中で柔らかなものが動いていた。
 頬にあたる、柔らかな髪。
 細く、華奢な身体。
 鼻腔をくすぐる、やさしい匂い。
 
 自分の腕の中に居たのは――アスカだった。
 
「ちょ、ちょっと――」
 腕の中で、アスカは抗議の声を上げていた。
 いつの間にか、シンジはアスカを抱きしめる格好になっている。
 シンジは驚いてた。
 頭の中は、すでにパニックを起こしている。
 冷たい汗が出てくる。
 
 しかし、それを冷静に見ている、もう一人の自分も、いた。
 
 じたばたと、腕の中でアスカは暴れている。
 シンジは目を瞑り、少しだけアスカを抱く力を、込めた。
 
「――あ」
 
 艶のある声が、聞こえた。
 
 程なく、腕の中の彼女の抵抗が、消えた。
 シンジは、もう少しだけ、力を込めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気が付くと、アスカの腕は背中に回されていた。
 回された腕から、アスカの体温が、シンジに流れ込んできた。
 シンジは、目の前にある、金色の髪を見つめる。
 水分を少し含んだそれは、きらきらと月の光を反射していた。
 
 シンジは、アスカの頬に、恐る恐る右手を添えた。
「――アスカ」
 腕の中の少女は、シンジの視線を逸らすように、目を伏せていた。
 瞳が僅かに濡れている。
 シンジの脳裏には、三年前の情景が、朧げながらに映し出されていた。
 
 ――あの時、アスカは
 
 シンジはゆっくりと目を伏せた。
 
 
 
 
 そして――
 少年と少女の距離は
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 限りなく、ゼロに――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夜を切り裂いて、騒々しい音が鳴り響いた。
 電話のベルは世界を暗転させるのに、十分な音量をもって
 
 
 シンジを――包んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

to be continued.

 

 あとがき という言い訳
 
 お待たせいたしました。
 『Luna Blu』10万ヒット記念作品をお届けします。
 
 管理人の記念作品が一番後なんて、本当に申し訳ありません。
 しかも本作は、もともと壱萬ヒット記念作品三部作の最後の作品になるはずでした。
 それが、半年近くも遅れてしまい、しかもまだ完結していません。
 
 あきられているかもしれません。(汗)
 
 もし、まだ、あきれてなくて
 そして続きも読んでやろうという人がいたら
 うれしいです。(T-T)
 
 連載になってしまったので、次はなるべく早く掲載したいなぁ。(汗)
 


 2000/10/27
 なお
 

INDEX