NEON GENESIS EVANGELION pure soul
Episode 2 : 光の射す方へ


 

 無機質に灰色で統一された室内。

 ここにはおよそ、人の生活の息吹というものが感じられない。(かす)かに漂う消毒用アルコールの匂いが鼻につく。今でこそ、春の陽光が部屋の中に入り込んで、刺だった心を少しは和ませるが、寒い冬の間、この部屋は好きになれなかった。

 

 そんな必要は、ないのかもしれない。

 

 しかし、それではあまりにもこの部屋の住人がかわいそうだと思う。だから気が付けば、花を生けたり、春らしいパジャマを買ってきたりして、些細な抵抗を試みている。それでも彼女の心には届かない、ということを彼は承知していた。なぜなら、彼女は未だに夢の中の住人であるからだ。

 人の体温というものが感じられない荒涼とした部屋に、規則正しい電子音が響いている。それは、彼女が生あるものとして、存在しているという証。未だに冥府の扉が、彼女の為には開かれていないという証。

 

 

 シンジは腕時計を見やると、やや緩慢な動作で立ち上がった。

「綾波、ちょっと行ってくるね」

 シンジは、清潔で機能的だが、無機質で冷たい感じがするベッドに横たわっている銀色の髪の少女に語りかけた。彼女の髪は、カーテン越しの春のやわらかな日差しにつつまれ、光の加減で、時折蒼く輝いているようにも見える。

「今日ね、トウジが来ることになってるんだ」

 目の前の少女は、浅く呼吸を繰り返すだけでシンジの言葉に返事はなかったが、少年は落胆した表情を見せることもなく、部屋を出る為ドアのノブに手をかけた。

 

 

 

 

 

「センセ。久しぶりやな」

 割と広い病院のロビーで、シンジは旧友と再会を果たした。この病院は旧ネルフが管理していたもので、第三新東京市、最高水準の医療技術が提供されていた場所でもある。現在ではネルフの後を継いだ医療法人が経営を行っているらしい、ということ位しか、シンジは知らなかった。

「どや、調子は」

「あいかわらずだよ。トウジこそ大変だったね」

「なに、座っとるだけや」

 トウジは松葉杖を傍らに置き、友人に隣の席を勧めた。

 彼は妹の治療に付き添う為、三年間住んでいた第二新東京市から第三新東京市へ、先日移ってきたばかりである。シンジは友人の変わらぬ笑顔を見て、思わず顔がほころぶのを感じた。

 二人は、しばし思い出話に花を咲かせていたが、自然と未だに目覚めることの無い、綾波レイの話題になった。

「どや、綾波の様子は」

「電話で話した通り、変わらないよ」

「ほうか」

 友人は、神妙な顔をした。

「しかし、もう三年やな」

 トウジがため息とともに漏らす。

「そうだね ……」

 シンジは心の中で、トウジの言葉を繰り返した。

 

 

 少女は三年前と変わらぬ姿で、今も眠りつづけている。原因は不明であり、生理的には、彼女は眠っているのと変わらない状態であった。現在では栄養補給のための点滴を行い、24時間、脳波、血圧、心拍数、呼吸数等を計測、監視している。

 

 ひょっとしたら、今にも目が覚めるかもしれない。

 

 シンジは、飾り気の無い病室のベッドで横たわっているレイの顔を見る度に、そのような思いにかられるが、現在までシンジの希望する事象は発生してはいない。しかし、無駄だとは理解しているが、病室のドアを空ける都度、シンジは祈らずにはいられなかった。

 

 

 シンジは一年前に第三新東京市に戻ってきた。

 全世界を震撼させたあの出来事から二年。当事者であるシンジにとって、ここに戻ってくる、ということは、必ずしも楽しいことではない。しかし、かつてのサードチルドレンであるシンジにとって、事態は彼の意思でどうにかなるものではなかった。

 二年ぶりに戻ってきた街は、シンジを驚きをもって迎えた。想像していた以上に復興が進み、完全に元通り、というわけではなかったが、日常生活には支障が無いまでに復旧している。このときばかりは、人間の生命力に舌を巻く思いであった。

 

 そしてシンジは、眠りつづけているレイのことを知らされる。

 その時から、シンジはレイのそばを離れることは無かった。

 

 

 

 

 

「入るで」

「あ、お兄ちゃん」

 トウジが318号室の病室のドアを開けると、春風のような声が聞こえてきた。その声の主は、奇妙な大阪弁を操る少年の妹君で、容姿は兄に似ず、平均よりも遥かに抜きん出ており、どう見ても血のつながりがあるとは思えない。しかしこの二人は、(まご)う事無き同じ両親から生を受けた兄妹であった。

「こんにちわ」

「え? …… シンジ …… お兄ちゃん?」

 病室に入ってきたもう一人の少年を、少女は大きな目をことさら大きくして見つめた。

「そうや、忘れてもうたか?」

「何行ってるの。びっくりしただけ。お兄ちゃんを忘れてもシンジお兄ちゃんを忘れるわけないじゃない」

「なんや、えらいいわれようやな」

「あたりまえでしょ。シンジお兄ちゃんはお兄ちゃんとは違うんだから」

 シンジと少女とは、三年前に何度か面識が会り、そのときから少女は、シンジに良くなついていた。しかし、三年という月日は少女に変化をもたらすには十分の時間だったようだ。幼い面影は現在でもあるが、シンジの方でも少女の成長に驚いていた。

「えー、でもホントびっくりしたぁ」

「何が?」

「え、だって、ちょっと、かっこよくなってたんだもん」

 少女はさらっと言ってのけたが、シンジは知らず赤面した。

「かー、センセもてますなぁー」

 トウジがにやにやしながら茶々を入れた。

「何言ってんの、お兄ちゃん。そんなんじゃないよ」

「ええて、ええて。シンジならわしも安心や」

「ん、もう。勝手に話を進めないで。シンジお兄ちゃんも困ってるじゃない」

 赤く上気した頬に両手をやり、シンジの方を見て、話をそらすように言った。

「ね、シンジお兄ちゃん。そのお姉ちゃん、だあれ?」

 シンジは少女の視線の先、自分の左後ろを振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。

「はん? なんのことや?」

 この部屋には、シンジと妹と自分しかいないことを確認すると、いぶかしげな視線を自分の妹に向けた。

「え?そこにいるお姉ちゃんよ。なにいってんの、お兄ちゃん」

「シンジ、誰かいるか?」

「いや、僕には何も ……」

「え〜? シンジお兄ちゃんまで、からかわないでよぉ」

「おまえこそ、大人をからかうなや。どこにおね〜ちゃんがおるんや」

「だから、そこって ……」

 あいかわらず、三人のほかの人物を認識できないトウジは、楽しくない想像をしてしまった。

「冗談よしなや。病院に幽霊なんて、しゃれにならへんで」

「幽霊じゃないよぉ。子供だからってあたしをばかにしてるでしょ」

「いや、そんなつもり、あらへんが ……」

「ねえ、どこらへんにいるのかな?」

 シンジは、トウジの後を引き受けて聞いた。

「…… あそこ」

 シンジは少女の指先をじっと見詰めるが、やはり何も見えない。彼は、やさしい視線を少女に向けながら訊ねた。

「ごめん。本当に僕には見えないんだ。出来ればどういう人か教えて欲しいんだけど」

「おい、シンジ ……」

 シンジは手で友人を制した。

「えー? どうゆうって?」

「そうだね。じゃ、歳はいくつぐらいかな?」

 少女はシンジの左側を見ながら、考え込むようにして言った。

「うんとね、あたしよりも上よ。でも、シンジお兄ちゃんよりも下かなぁ」

「どんな感じの人?」

「えっとね、すっごくきれいなの!」

「そうなんだ」

「でも、悲しそう ……」

「悲しそう?」

「うん、なんだか、とっても悲しいことがあったみたい」

「そう」

 少女の顔が悲しみに曇るが、やがて、まぶしそうに目を細めた。

「髪の色が、とってもきれい。銀色できらきらって光っているの」

「銀色?」

「う〜ん。こう、光に反射してきらきらっと光るとき、ちょっと青く見えるの」

 シンジがトウジを振り返ってみたが、彼は何も感ずる所はなかったらしい。苦笑を顔に貼り付けたまま、部屋に備え付けのパイプ椅子に座っている。

「きっと学校帰りよ」

「なんで?」

「だって、学校の制服を着ているもの」

 シンジは少し考えていたが、おもむろに胸のポケットから手帳を取り出し、挟んであった紙を一枚抜き取ると、少女の目の前に向けた。

 それは色褪せた一枚の写真だった。時間旅行によって変色したものではなく、保存状態が良くなかったため、色が落ちたものであるようだった。端のほうが所々ちぎれて、長方形の形を辛うじて保っている。

 これは三年前、当時の友人の手によって収められたものであり、シンジやトウジ、そしてヒカリの他、仲が良かった数名で撮った写真である。

「この中に、そのお姉ちゃん、いる?」

 シンジは自分の心臓の鼓動を制御できず、車のアクセルを踏んでいるかのような錯覚にとらわれた。

「うん、この人だよ」

 そういって指差した先は、はたしてシンジの予想と合致していた。

 

 少女の白く、細い指の先に確認できるものは、シンジの隣で涼しげな瞳をこちらに向けている、綾波レイであった。

 

 

 

 

 

「子供の言うことや。あまり真に受けんほうがええで」

 318号病室を退出し、レイが眠っている部屋の椅子に座りながら、トウジは言った。この部屋に入ったとき、トウジは三年前に時間が巻き戻されたような錯覚を起こした。それほど、自分やシンジに比べ、レイの容姿は全くといっていいほど、変化がなかった。いや、以前から白かった肌は、ますます透明色を帯び、シンジに言われなければ、生者とは思えなかったであろう。

「冷静に考えてみい。幽霊なんているわけないやろ。第一、綾波は生きとる」

 シンジも椅子に座り、両肘を膝で支えながら両方の手を顔の前で結び、考え込むようにして言った。

「トウジ、幽体離脱って知ってる?」

「ってあれか、生きたまま魂が体を抜けだすっちゅう」

「うん」

 規則的な電子音が、静寂に包まれた部屋に響き、鼓膜を不快に刺激する。数秒の後、トウジが沈黙を破った。

「センセ、幽霊見たことあるか?」

「え? そりゃ …… ないけど ……」

「わしもない。おそらく、ほとんどの人間は幽霊っちゅうもんを見たこともないやろ。しかも科学がこんなに発達しとるのにいまだ幽霊の正体も解明できてへん。これは幽霊を見たやつは、錯覚か、嘘を付いているかのどちらかってことや」

 シンジは友人の発する言葉をじっと聞いていた。

「写真、当てたのだって偶然や」

「でも、トウジの妹だよ。嘘付くわけないと思う」

「言い方を変えれば、子供の想像力ってやつや」

 トウジは肩をすくめて見せた。

 

 

 

 

 

「こんにちわ」

「あ、シンジお兄ちゃん。こんにちわ」

 部屋の小さな女主人は、木漏れ日のような笑顔を見せてシンジを迎えた。シンジはレイの見舞いに来る度、つまり毎日のように、少女を見舞うようになっていた。それはシンジにとって、決して不快なことではなく、むしろ少女と会って話すことは楽しいことであった。

 少女の病室は、レイのそれと同じつくりであったが、こちらの方が何故か室温が高く、暖かく感じるようにシンジには思われた。

「今日はね、おねえちゃんと、ずっとおしゃべりしていたの」

 少女の鈴を鳴らすような声に、シンジは心地よい響きを感じる。

「不思議だなぁ。なんでみんなには見えないのかなぁ。看護婦さんにも言ったんだけど、だあれも見えないって言うの。ちょっと不思議よねぇ」

「きっと大人には見えないんだよ」

「じゃあ、あたしも大人になったら見えなくなるのかな?」

「さあ、それはどうかなぁ」

 それが例え、幼い子供の豊かな想像力の産物だとしても、シンジは今は信じたい気持ちだった。

「どんな話をしてたの?」

「んとね。お友達の話。お見舞いに来てくれる子がいるんだけどね、その子、好きな子がいるんだって。それでね ……」

 歳相応に友人の話をする少女を、シンジはまぶしそうに見つめた。

「お姉ちゃん、何か言ってる?」

「ううん。あたしがお話しても、今日も何も言ってくれないの。きっと恥ずかしがり屋さんなのね」

 レイが恥ずかしがり屋かどうかはわからなかったが、雄弁という言葉とレイの間には、かなりの距離があることは確かだった。しかし無口というわけではない。必要があれば話もするし、面白いことがあれば笑いもする、普通の女の子だった。

「でも、なんとなーく、おねえちゃんが考えていることが、わかる時があるの。寂しいとか嬉しい面白いとか」

「そうなんだ」

「シンジお兄ちゃんがお見舞いに来ると、嬉しいって思っているみたい」

「え?」

「うん、絶対そう! 今もおねえちゃんから、「ほよほよ」と感じるもの」

 少女の嬉しいという感情を、言葉で表現すると「ほよほよ」であるらしい、とシンジは数秒遅れで理解した。

「きっとおねえちゃんは、シンジお兄ちゃんのことが好きなんだよ」

「え? そ、そうなの?」

「あれ? シンジお兄ちゃん赤くなった」

「あ、こ、こいつ、からかったな。大人をからかうもんじゃないよ」

「からかってないもーん」

 少女は、きゃっきゃっと声を立てながら笑った。

 

 

 

 

 

 この病院は、市の東側の山の斜面に建立されており、屋上に上ると第三新東京市が一望できる。暖かな春の風が、屋上にたたずむ二人の少年を包み、厳しいだけの冬が、やっと去ったことを告げていた。

「よしんば、綾波の幽体だとして、なぜあいつにだけ見えるん?」

「それは、わからないよ」

 シンジは正直に言った。いくつか予想することも可能だが、それがオカルトと呼ばれるものの範囲を少しも出ないことは自覚していた。トウジも現代科学では証明されていない事項について言及するのは苦手らしく、それ以上深く追求はしなかった。

「まあ、こっちへきて体調も良いようやしな。向こうにいたときはずっとふさぎこんでいたし」

「…… 手術、明日だね」

 彼らはその目的で、三年間住み慣れた街を離れたのだった。現在の第二新東京市では、少女を治療するだけの設備と人材が不足しており、第三のそれとは比べ物にならない。日本中の物資と人材と無形のエネルギーがここ、第三新東京市に集中しているのである。

「なんにせよ、上手くいってほしいの」

 トウジは淡色の青空を仰ぎ、祈るような気持ちで言った。

 

 

 

 

 

 318号室の病室の窓には真円に近い、青白く輝く月がはめ込まれていた。少女はベッドに体を固定させたまま、首だけ回して、窓の外をじっと見詰めている。少女の目の前には、まるでその月の光の欠片を集めたかのような淡い青い光が漂っていた。

 少女は視線を窓の外の月から移すと、両手を持ち上げ、目の前のその光を両手で包み込み、小さな唇を開いた。

「あのね、明日の手術、…… お兄ちゃんには、大丈夫よって言ったけど ……」

 少女は、仮に間近に人がいるとしても、聞こえるか聞こえない位の震える小さな声で呟いた。

「本当は、こわいの」

 しかし、すぐに張りのある、気丈な声になる。

「でも、ちょっとだけよ。あたしが怖がるとお兄ちゃん、心配するから」

 少女の目の前の淡い光が、光度を増したように、少女の顔を照らしていた。

「先生も大丈夫って言ってたし、手術が成功すれば、また前のように、歩くことができるって。ううん、歩くだけじゃなく、飛んだり跳ねたり、走ったりすることだってできるようになるの」

 少女は、自分自身へ向けて、言い聞かせるように言葉を紡ぎ出す。

「だから、あたしはがんばるの」

 少女の漆黒の瞳が、正面の淡い光を正視する。刹那、淡光が少女を包み込むように取り巻く。

「おねえちゃん、…… 暖かい」

 少女の頬には、彼女自身気がつかない、涙が一筋流れ落ちた。

 

 

 

 

 

 忙しい病院勤務の中にあって、深夜のナースステーションも例外ではない。

 以前は、もう少し余裕があった。

 昔から勤務している看護婦達は、そう思っていた。三年前のあの出来事以来、人出が不足し、三交代制が二交代制に変更された影響がでている。しかし、勤務の間隙を縫って時々ぽっかりと時間が空くことはあった。

「あの子怖いです」

 見回りを終えた新米看護婦が、顔を青ざめて先輩格の看護婦に告げた。彼女はつい先日、この病棟に配属されたばかりで、今夜は初めての深夜勤務だった。

「あの子って?」

「318の子です。明日、手術予定の」

「ああ、幽霊が見えるって子ね」

 少女は、この病院の看護婦の間で、ちょっとした噂に上っていた。

「さっき見回りに行ったら、一人でしゃべっているんですよ」

「子供の一人遊びでしょ」

「でも、…」

 一人遊びにしては、真に迫っていたような気がする。彼女は、幽霊など信じない現実主義者であったが、理性で理解できない現象を目の前にし、自分の世界観が崩れ落ちていくような気がしていた。

「案外、本当に見えてたりして」

「ちょっと、やめてください」

「それでよく看護婦が勤まるわね」

 先輩格の看護婦があきれたように言った。

「あたし、昔っから、お化けとか幽霊とかが苦手だったんです」

「幽霊が好きな人なんていないわよ」

「でも、先輩は怖がっているようには見えません」

「あたしも幽霊は怖いわよ …… でも」

 先輩看護婦は、考え込むようにして言った。

「あの子が見える幽霊って、なんか …… 怖いとか、そういうものじゃないような気がする」

「どうしてですか」

「なんとなく、よ」

 先輩看護婦は、ため息を漏らした。彼女にだって、確信があって言ったわけではない。

「それよりも、ちょっとこっちを見てくれる?」

 その一言で、少女の話題は打ち切りとなり、新米看護婦はそのことを記憶の引き出しにしまいこんだ。

 

 

 

 

 

 乾いた廊下に、ストレッチャーの移動する音が響く。それにあわせ、数名の足音が混ざり合い、手術室と書かれたドアの前で止まった。

「がんばってくるんやで」

「おにいちゃん、なにべそかいてるの? おかしいいよ」

「べ、べそやない。ちょっと鼻がむずむずするだけや」

 少女はおかしそうにくすくすと笑った。

「がんばってね」

「うん」

 少女は小さく頷く。シンジも気の利いたことは言えなかったが、少女にとっては、勇気付けられる一言であった。

 

 少女を乗せたストレッチャーが運ばれ、手術室のドアが閉まる。

 

 色彩の無い、機能が最優先された部屋に入れられると、少女は恐怖に心を支配されそうになった。頭では理解していても、幼い心は御しがたく、心肺機能がいつもより活発に活動する結果となる。

 少女は潤んだ瞳で視線を飛ばし、銀色の髪の彼女の姿を探した。彼女の姿を確認することは、少女の心を安定させることにつながる。

 やがて、麻酔が少女の全身の神経を支配し、意識を彼我の彼方へ連れ去っていった。

 

 

 

 

 

 

 ベッドの中のシンジは、旭日のなかに体を横たえていた。

 頭脳への酸素供給は必ずしも充足しているとは言いがたく、気だるい感覚が全身を支配している。昔はこうではなかった。今では、起床が大仕事のように感じられる。朝が弱くなったのはいつの頃からだろうか。シンジは毎朝、しばらくベッドの中で、体が覚醒するのを待つことにしている。

 そういえば今朝は、久しぶりに昔の親友の夢を見た。夢の中で友人は、シンジに何かを告げていたような気がする。だが、詳細な内容は、夢がいつもそうであるように、今回も忘却の淵から救い出すことは出来ないでいた。

 久しく忘却の彼方にあった友人の顔は、目を閉じればいつでも、瞼に浮かべることが出来た。だがしかし、何故彼の夢を見たのかは、見当はつかなかった。

 

 そういえば彼女の夢も、最近は見ることが少なくなったな ……。

 

 シンジは手元の時計を取り寄せ、時刻を確認する。手術が成功した少女が退院するまでには、まだ時間がかなりあった。

 

 

 

 

 

 シンジが318号室を訪れた時、部屋はすっかり片付けられ、元来のそっけない表情に戻っていた。その中で、車椅子に乗っている少女の周りだけが色彩を帯びている。

「あ、シンジお兄ちゃん」

 少女はシンジを視線で確認すると、全身を喜色で満たしていた。

「退院おめでとう」

「ありがとう」

「これ、何が良いかわからなかったけど ……」

 言いながら、シンジは後ろ手に隠した花束を少女に手渡した。

「うわー、きれい。ありがとう、シンジお兄ちゃん」

 少女は満面の笑みを浮かべた。

「これからはリハビリや。びしびししごくで」

「え〜、おにいちゃん、本気で殴るんだもん。いやよぉ」

「何甘えたこと言っとるんや。根性出していかんか」

「先生が無理しちゃだめっていってたもーん」

「すこし位、無理した方がええんや」

「ふっるーいよ。お兄ちゃん」

 

 ロビーから病院の外へ出ると、やわらかな陽の光を浴びて、少女はまぶしそうに目を細めた。病院の庭に設置されている池の噴水の飛沫が、液体の宝石と化して虹色のきらめきを発している。

「それじゃあね、シンジお兄ちゃん」

「うん。がんばってね」

「また、リハビリで会えるて」

「そうだね」

 少女の手術は成功していた。

 あとは、定期的にリハビリに通うだけであり、通常は自宅でリハビリの補助を行う。だが、少女の体が完全に昔の状態に普及するにはまだ、かなりの時間がかかることが予想された。

 しかし、少女の努力には、目を見張るものがあった。すでに始められているリハビリのメニューも難なくこなしている。担当医も予想よりも早い復帰が期待できることを告げていた。

 

 

 

「あ、シンジお兄ちゃん」

 自宅へ向かう、車に乗り込むとき、少女は思い出したように、シンジに振り向いた。

「何?」

「セントラルドクマって何?」

 シンジは息を呑んだ。それは、記憶の片隅にある覚醒のスイッチに触れる言葉であった。

「そ、それが、どうしたの?」

「夢を見たの」

「夢?」

「うん。夢の中で知らないお兄ちゃん出てきて言ってたの。セントラルドグマがなくなるって」

 その瞬間、シンジはすべてを思い出していた。今朝、カヲルという少年の口から告げられた言葉を。

 

 『シンジ君。今日、セントラルドグマが破棄されるよ』

 

 セントラルドクマが破棄されることにどんな意味があるのかわからなかったし、現在のシンジではその真偽を確認することは容易ではなかった。しかし、彼の親友が何か大切なことを告げに来たということだけはわかった。理性では、非科学的だと理解していたが、シンジの心の奥の何かが、それは真実だと告げていた。

 

「…ちゃん。シンジお兄ちゃん」

 少女の言葉に、シンジは現実に引き戻された

「え?あ、あ ……」

「ん、もう。ぼおっとしちゃって」

「あ、ご、ごめん」

「もう、いいよぉ」

 少女は、ことさら大げさに怒って見せたが、すぐに、病院を振り返り、少し寂しげな表情を見せた。

「お姉ちゃんと会えなくなるのはさびしなぁ」

「そうだね」

 シンジは少女の言葉に深く思い至ることなく、相槌を打った。

 

 

 

 

 

 シンジがレイの部屋の扉を開けたとき、傾きかけた春の陽光が、カーテンの隙間からわずかに部屋へ侵入しており、レイの顔に暖色の光が一条射していた。シンジは窓際に歩み寄り、注意深くカーテンの位置をずらして、レイの顔に光が当たらないように調整した。

 レイをカーテンの庇護下に置くと、シンジは改めて白磁のような顔を見つめた。

 それは成長という言葉とは無縁な要素で構成されており、永遠という言葉が最も似つかわしい横顔であった。

 

 いつか終わりが来るのだろうか。

 

 この一年、何度となく考えてきたことが、胸の内に沸き上がってくる。その度に彼の胸を締め付け、循環機能と呼吸機能を無秩序に混乱せしめる。

 意識して肺から空気を排出し、部屋の中に視線を戻したシンジの網膜に投影された画像は、彼の意思に反して、呼吸を停止させることを肺に命令させた。

 

 

 そこには、三年前と変わらぬ姿のレイが立っていた。

 

 

 理由なく、シンジにはわかってしまった。冷たい無機質なベッドには、未だレイが変わらぬ姿で仰臥していることを。しかし、その肉体に宿るべき魂は今、シンジの目の前で悲しげな視線を、彼に向けているのである。

 止まっていた時が流れるように、不意にレイはシンジに歩み寄り、三年前と変わらぬ細い腕をシンジの背中に回し、三年前より広くなった青年の胸に、小さな顔を埋めた。シンジを覚醒させたのは、鼻腔に感じたかすかな匂いだった。それは紛れもなく、三年前に感じたものと同じであった。

 シンジは、自然とレイの体に腕を回した。片方の腕でレイの小さな頭を抱き、やわらかな髪に顔をうずめる。当時、シンジの身長はレイとさほど変わらないはずであったが、今ではシンジの方が遥かに高くなっており、三年分の成長の差がそこに存在した。

 

 

 

 いつのまにか、窓から差し込んでいた暁光は、山の端に隠れ始めており、深淵の闇が支配する時刻が近づいていた。

「綾波 ……」

 シンジはやっとのことで言葉を紡ぎ出した。

 レイは、透けるような微笑をシンジに向けた。

 やがて彼女は瞳を閉じ、それと同時に、見る間に背景と同一化していく。

 

 刹那、一陣の風が吹き、カーテンが大きくゆれた。シンジは、カーテンをつかむと、病室の窓を一気に開放した。血のような(くれない)色に染め上げられた空を見上げると、天上へと昇って行く小さな二人の姿が見える。

 カヲルはレイの手をとり、レイはカヲルに視線を預けていた。

 もはや、地上の万物一切のものから、彼らの意識は離脱を始めており、天使の奇跡の力を持ってしても、地上に引き止めることは不可能であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 錯覚かもしれない。

 すべては、夢の中の出来事だったのかもしれない。

 しかし、鼻腔に残る心地よい柔らかな感触は、理性を裏切って主張していた。

 

 

 

 

 

 窓の外を見ると、衰え行く陽光に照り出された針葉樹の陰が、幾重にも折り重なって、黄金色の帯を織り出しており、やがて、それが消えると、空の(あお)みが恐ろしくなるほど深く、濃くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fine Storia 2
Continua alla prossima puntata


Postilla

 

 『pure soul』第弐話、お届けします。

 本当はもっと早くアップする予定だったのですが、諸般の事情により本日掲載となりました。(笑)

 しかし、当初の予定では第参話まで4月中に掲載予定だったはずが ……。当時の進捗状況では、第参話の方が進んでいたので、これはいけるかな、と思ったのが運のつきでした。どこが、短期集中連載なんだろう。(汗)

 図らずも、第弐話がかなり長いお話になってしまったのも敗因のような気がします。

 

 ええと、出来ましたら、ぜひぜひ感想をお寄せくださいませ。

 なんでもいいのです。「読んだよ」とか、「つまんなかった」とか。(T-T)

 よろしくお願いします。(^^;

 

 

 壱萬ヒット記念短期集中連載『pure soul』は、次のお話で完結予定です。

 次話が掲載される前に、弐萬ヒットがきたらどうしよう。(笑)

 

 それでは、最後に。

 このお話を気に入っていただけたら、とても嬉しいです。

 そして、辛抱強く待っていただけたなら、第参話でお逢いましょう。

 

2000.5.1

なお

 

 


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