「ねぇ、ソフィー。君、未だ怒ってるの?」
ハウルの情けない声に追い掛けられながら、ソフィーは急き立てられる様に洗濯物が沢山入った籠を細い2本の腕で持ち、中庭へと消えました。
勿論返事を返す事はありません。
無視された形の城の主は、綺麗な顔を歪めて呻き声を挙げます。
居心地が悪そうにマルクルは膝に抱えたヒンの頭を何度も何度も撫でていました。
さて。
事の発端は本当に今考えると馬鹿らしい事でした。
今朝の事です。
ハウルが朝起き出して来て、寝惚け眼で一同が揃った食卓に着くと、ようやく動く城の住人達の朝食が始まりした。
給仕長であるソフィーは眠そうなハウルを見て、「ちゃんと顔を洗ったの?」等と苦笑いを零しながらも、手際良くそれぞれの前に出来たてほやほやの野菜スープを皿によそって置いていきます。
着席位置の関係で最後の番のハウルに、労わるような優しげな瞳で生まれたての柔らかな朝の日差しのような微笑を向けました。
「昨日も遅くまで魔法の依頼をやっていたのでしょう?お疲れ様。」
ハウルを気遣っての労いの言葉はとても甘くハウルの耳の中で響き、何度もこだましました。
動きを止めてソフィーを見詰めたハウルの瞳の中に、一瞬で複雑な色が滲みました。
ああ、と吐息交じりの短い言葉を零し、ハウルは自分の席に着こうと歩き出したソフィー腕を掴んで引き止めました。
「どうしたの?」
振り返りながら問い掛けたソフィーが目を見開き、小さく息を止めました。
腰を浮かせて伸び上がったハウルが、自分の唇をソフィーのソレに重ねたからでした。
「ハウルさん。未だ痛そうだよね。ヒン。」
去り行く凛とした背中が見えなくなると、力無く椅子に座りがっくりとハウルは項垂れました。
肩に届く長さの金髪に隠された頬には、真っ赤な紅葉が残っているのを、マルクルは知っています。
その手形は今朝ソフィーによって作成されたものだからです。
皆の目の前でキスされたソフィーの恥ずかしがりようは、見ていて気の毒になるくらいでした。
硬直したソフィーに気付かず、ハウルはあの眩しいばかりの魅力一杯の笑顔で微笑みました。
「ああ、ソフィー。君は朝からとても綺麗だ。」
濡れた唇に窓から差し込む朝の光がきらきらと反射します。
次第に薔薇色に染まる頬を、ご満悦な様子で眺めていたハウルは、彼女の右手がゆっくりと握り締められたことに気が付きませんでした。
きっとこの時ソフィーは体中から力をかき集め、右手に溜めつつあったのでしょう。
その力が最終到達点に達した時、真っ赤になったソフィーは眉を吊り上げ唇をへの字に引き結び、渾身の一撃をハウルの左頬に繰り出したのでした。
痛そうなあの大きな音を、マルクルは暫くの間忘れる事は出来そうにありません。
女性の力と言えどもハウルは平手を喰らってよろめきました。
咄嗟に手を突いた机の上でかちゃんっとお皿がタップを踏み、中身が少し零れてしまいました。
「ハウルの馬鹿っ!」
涙声で叫ぶと、ソフィーは自室に逃げ込んでしまい、その扉はハウルが幾ら呼び掛けても午前中一杯開くことはありませんでした。
声が枯れるほど扉の前でソフィーに語り続けていたハウルの様子を見て、マルクルは何でソフィーがそこまで怒っているのか理解出来ません。
カルシファーはマルクルの質問に答えてくれませんでした。
おばーちゃんも含み笑いをするだけで答えてくれませんでした。
あの、隣国の王子だったカブがこの場に居たならば、マルクルの質問に答えをくれたのでしょうか?
もしも、の話を考えて溜息を一つ。
「ソフィーに聞こうかなぁ。」
なんだか当事者に聞くのは悪いかなぁと思っていたマルクルですが、すっきりしない胸のむずむず感に耐えられそうにありません。
優しいソフィーになら、質問しても許されるような気がしたのです。
ヒンの耳を片手に一つずつ持ちながら、交互にパタパタと前後させてみます。
その姿はまるで絵本に出てくる空飛ぶ象の子供の姿を髣髴とさせました。
「・・・うん。ソフィーに聞こう。」
決めてしまって、マルクルは頷きます。
そうと決まれば洗濯物を干しているソフィーの元へ行こうと椅子から飛び降りた時、強い視線がマルクルの動きを止めました。
恐る恐るその視線の主を振り返ります。
その人は未だ、緑のねばねばは出していませんでしたが、ソレも時間の問題という風体でした。
「・・・何を、ソフィーに聞くの?」
いつもの張りも艶も失せた声でした。
世界中の人間の不幸を背負っているような苦悩に満ちた表情で、マルクルをじぃっと見詰めています。
背筋がすぅっと冷たくなり身震いをしたマルクルでした。
「えっと・・・」
「マルクル。」
促すような声には、縋るような響きがあり、ソフィーに無視され続けて本当に参ってしまっているハウルでした。
マルクルは二人が大好きです。
だから喧嘩などしないで仲良く笑いあって欲しいと願っています。
それに。
内緒の話ですが、あの緑のねばねば不気味だし掃除が大変だし、出来れば二度と見たくない類のものですから、ハウルがいつまでもこの調子だと心臓に良くありません。
だから、マルクルは自分の考えを言いました。
「ソフィーになんで怒ってるか聞いてこようと思って。理由が分かったら僕が何か出来るかもしれないでしょ?」
「怒る理由が分からない?」
「はい。」
「ああ、僕だって分からないよ!」
絶望だ、と呻いてハウルは崩れるように身体を折り曲げました。
癇癪とはちょっと違いますが、ここまで落ち込んでいるハウルを見るのが初めてだったマルクルは本格的にパニックになります。
「ハウルさんも分からないんですか?」
がばっと顔を上げると、長身をばねでも仕込まれているかのように跳ね上げ、ハウルは拳を握りました。
金髪が掻き毟られた所為であちこちに跳ねていますし、目じりには涙の跡もちょっぴり残っていました。
それでもこの美形の魔法使いの魅力は損なわれることはありませんでした。
「だって僕が今朝した事と言えば、普段している事と何ら変わりの無いことばかりなんだ。ちょっとの朝寝坊も跳ねたままの髪の毛も朝の挨拶だってまったく普段通り。それは毎日ソフィーが掃除をする事と同義だろう?ねぇマルクル!」
「はい、ハウルさん。」
こくこくと頷きながら、マルクルはハウルが言った事の中にはソフィーを怒らせる要因が無かった事を再確認しました。
「ソフィーがいつも綺麗で魅了的な事だっていつもの事で、あんな風に笑顔を見せられれば僕が自分だって知らない間にソフィーに惹き寄せられてる事だっていつもの事じゃないか!」
感情が昂ぶったのかハウルの長く芸術的な美しさを持つ指先はまたしても金髪をバリバリと掻き毟っていました。
溜息がまるで機関銃のように薄く整った唇から発せられ、それはもはや『溜息』と呼んでよいものかどうか疑問です。
「それが何でキスして殴られないといけないんだい?!おかしいじゃないか!」
「そうですよね。」
「大体、ソフィーがあんなにキスを嫌がる方がおかしいと僕は主張したいね。恋人同士がキスするだなんて、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前の事なのに、なんだってあんなに怒るんだろう?マルクルだってそう思うだろう?」
突如立ち上がり、ハウルは舞台俳優のように大袈裟な身振りで叫びました。
見栄えのする姿形の魔法使いはきっと転職してもたちまち人気者になる事間違い無しと確信させる程です。
マルクルは椅子に座りヒンを抱いたまま、ハウルの言葉に一生懸命耳を傾けていました。
「そりゃ恥じらいに頬を薔薇色に染めるソフィーはこの世の中に二つとない可憐さで、僕もお気に入りだけど。その後に必ずと言って良い程手が飛んでくるのはどうだろう?酷い時には薪やら椅子やら籠やらが投げ付けられて僕の身体は傷だらけだ!あんな細い体の何処にそんな力を隠しているのか、まったく持って不思議だけど、問題は其処じゃない。一体ソフィーはどんな風に男女間の恋愛を考えているんだろう。」
顎に手を当てて、自分で発した疑問に頭を悩ませるハウル。
そしてソレを見て同様に考え込むマルクル。
二人は一対の彫像のように動きを揃って止めました。
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