キ-115「剣」誕生秘話(2)

B-29の来襲

 秋も深まったある日、抜けるような青空を背景に見慣れぬ白い大型機が一機、非常な高空を北東に向かって飛んでいった。そのときは気にも止めなかったが、その後数回この飛行機を見かけることがあった。これより先、アメリカのある大型機が同国の西海岸からオーストラリア大陸まで、無着陸飛行に成功したというニュースを新聞で読んだことを思い出した。われわれは、それと同じ飛行機が偵察にきているのではなかろうかなどと噂しあっていた。戦後、その飛行機こそ偵察機型のB-29であったことを知った。

 それから間もない11月24日、B-29が現実に東京の空に現われた。澄み切った秋の青空を背景に、10機ほどの編隊でわれわれの真上を北東方向に飛び去った。これが第1回目の東京空襲であり、目標は中島の武蔵製作所であった。防空壕の入り口に立って、始めてこの飛行機を見たとき、とっさにB-29だと思った。紺碧の秋空を背景に、細長い翼を精一杯左右に伸ばした銀色の4発機を見あげたときは、敵も味方もなくただ美しい飛行機だなと思った。

 アメリカは、日本の急所をよく調べていた。三鷹研究所の北東約5km先には、わが国最大の航空機用エンジン工場武蔵製作所があった。武蔵製作所は、陸軍機用の武蔵野製作所と海軍機用の多摩製作所が隣合っていたのを、一つにまとめて武蔵製作所と改称したものである。当時中島は、このほかにも大宮、浜松にエンジン工場を新設中であった。太平洋戦争中の主力戦闘機である陸軍の隼、鍾馗、疾風、海軍の零戦、紫電改のエンジンはすべてこの工場で一手に生産されていた。

 近代戦では、制空権を確保すれば勝ったも同然といわれた。したがって、発電所や製鉄所を爆撃するよりも、航空機用エンジン工場を潰すのがもっとも手っとり早い。米軍は、サイパンを手中にして東京を爆撃圏内に収め、最初に決めた爆撃目標がこの武蔵製作所であったことは戦後のアメリカ文献で知らされた。また、前述の白い偵察機によって、その位置を正確に把握していたのである。以後、この工場は集中爆撃を受けて、建物は全壊し多くの死傷者を出している。

 第1回の爆撃後、われわれの設計本館には、武蔵工場から運びこまれたエンジン部品が階段の裏や廊下の隅々に、たちまちのうちに山積みとなった。いずれはここも狙われるとわかっていても、とっさの場合の止むを得ない処置であった。B-29の爆撃は、次第に規模と範囲を拡大してきて、東京に来襲するB-29 は、しばしば研究所の上を通っていった。そしてわれわれは、しばしばB-29 と日本の戦闘機の空戦を見た。B-29 の数が増していくのに反して、日本の戦闘機の姿は次第に減っていく。首都の防空戦闘隊でさえこの有様ということは、明らかに戦闘機不足を物語っている。第一線機の生産さえ間に合わないならば、われわれが現在手掛けているキ-87を始め、現在各社で開発中の十指に近い戦闘機は、もはや役に立たないことになる。開発中の戦闘機は、試作が完了しても、そのテスト、手直し、生産、訓練の過程を経なければ戦力化できず、それには最低1年以上かかる。戦闘機を手がけた者ならばだれでも知っていることである。明らかに、アメリカの進攻作戦は、日本が予想した以上に早まっているに違いない。そう考えると、われわれのいまやっているキ-87も到底間に合うとは思えない。だれも口には出さないが、思いは同じであったと思う。

青年将校の話

 B-29 の爆撃が始まったころの話である。この研究所の裏に隣接する調布飛行場の防空戦闘隊の若い将校が、二、三人で訪ねてきたことがあった。まだ二十歳をいくらも超えていない人懐っこい若者たちであった。きょうはB-29 の定期便もお休みだと、軍側では予想がつくのであろう。しかし、任務上持ち場を遠く離れるわけにもいかないらしく、同じ飛行機に縁のあるわれわれの所に、隣組という気安さもあってつかの間の気晴らしに遊びにきたらしい。

 集会所の一室で、配給酒をすすりながら語るうちに、話は自然にB-29 の話に集中した。東京地区に来襲するB-29 は、伊豆半島先端に設置されたレーダーによってキャッチされる。しかし、一般市民への警戒警報はそれから30分後に発令されるとのことである。

 戦闘隊の方は、発見と同時に発進する。戦闘機は飛燕であった。B-29 は排気タ−ピン過給器を備えており、高空性能に優れている。飛燕は、4挺の砲を1挺だけに減らし、携行弾数は50発、その他可能な限り装備を外して減量し、人間でいえぱふんどし一本に脇差し一本の落とし差しといった軽装で、発見と同時に飛び立つ。そうしなければB-29 の上方には出られない。毎回、B-29の進入コースはほぼ決まっているので、その上空で待機し上位から急降下攻撃を仕掛けて、一気に全弾を撃ち尽くし後は編隊の間をすり抜けて帰還するしかない。2次攻撃を仕掛ける余力など全くないという。そう語りながら、まくって見せた腕には、高度に耐えるための注射の跡が点々と見られ痛々しい。もっと性能のよい戦闘機が欲しいと訴えられているようで、こちらは耳が痛い。

 後に、こんな話をしていった。「それでもわれわれはいい方です。前線に近い小さな基地では、赤トンボで特攻に飛び立っているそうです。あんな飛行機で出撃するのは、ただ死にいくのと同じです。」当時、飛行機屋仲間では赤く塗った複葉型練習機のことを、赤トンボと呼んでいた。おそらく、台湾あたりの錬成飛行隊の赤トンボを特攻出撃させたのかもしれない。偶然耳にしたこの日の話は、その場にいたわれわれの心を強く打つものであった。

 われわれは、改めていまの立場を振り返ってみた。B-29 は連日のように日本のどこかにやってくる。これを阻止できる戦闘機が全くないわけではない。疾風や、紫電改の数がそろえば、B-29 にこんなに勝手なまねはさせないでも済むであろう。しかし、現実はこの有様で、これらの戦闘機を首都防衛に回わす余裕さえない状態である。防空戦闘隊でさえこの状況では、まだ試作一機が完成したばかりのキ-87を戦力化する見込みなどあるわけがない。キ-87には、新開発の重要機能部品をいく種類も使用する予定になっていた。まず、離昇馬力2,450馬力という強力な「ハ-44」エンジンがある。さらに排気タ−ピン過給器、口径30mmの機関砲もある。これらの製品の完成が一つでも遅れれば、キ-87の完成もそれだけ遅れることになる。これらの製品が予定どおりに完成し、試作機が完成したとしても、それからテストを重ね必要な手直しをして、生産に移るまでにはいくら急いでも一年以上はかかるだろう。さらにこれを生産し、操縦者の未修教育を行って始めて戦力化されるのである。これ以上、キ-87に未練を残して設計を続けていることは、単に開発に名を借りて設計伎術を楽しんでいるに過ぎない。こんなことでいいのだろうかという疑問が頭の中を去来する。設計室の中にも、ようやく落着かない空気が漂い始めた。


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