中島飛行機株式会社その軌跡

Nakajima Aircraft Industries ltd.1934〜1945

(3-1)機体組立工場の変遷

 中島飛行機は1937年太田町の太田工場を太田製作所、エンジン工場の東京工場を東京製作所とした。ところが日中戦争が勃発し、更に拡張計画が発動して太田製作所の3倍増や武蔵野製作所新設が決まった。また翌1938年には田無に鋳鍛工場も新設となった。この1938年(昭和13年)は航空行政史上画期的な年で、それは航空機工業の自立政策が定められ、中央航空研究所が設立され、航空機製造事業法が制定公布された。中島飛行機は1938年9月に本社を東京丸の内3丁目に移した。そして陸海軍から生産力拡充命令が発せられ、海軍にはエンジンの多摩製作所と機体の小泉製作所の新設も決定されたのである。 

(1)太田製作所

 太田町(現 群馬県太田市)にあった太田製作所は現在の富士重工業群馬製作所本工場であるが、当時東西600m、南北700m余りの20万uの大工場で、東側と南側に鉄道の引込み線があり、また南門から南方向へ約1,000mにある専用飛行場まで、完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用道路」があった。(戦後も昭和の時代までは一般に「専用道路」と呼ばれていた)1940年小泉製作所が完成するまでは、陸軍機海軍機ともに、ここで設計開発および生産がされていた。

 鉄道で搬入された部品は2つの倉庫に納められ、一部は熱処理工場を経て板金加工部門に回される。そこで裁断、成形、プレス、溶接される。その後集成工場で骨格が組み立てられ飛行機として形作られる。さらに最終組み立て艤装工場に送られ、着陸ギヤ、操縦装置、燃料系統や発動機が搭載され、最終検査を経て飛行場へ送られた。日中戦争勃発以降拡張につぐ拡張であったが、主脚および油圧関係部品は前橋分工場(現在の富士機械鰍ニダイハツ車体梶jへ、また中小板金部品は栃木県田沼分工場へと分担された。

 1935年時点での生産機数は300機弱であったが、1939年に1,000機を越え1943年には昼夜の2直操業を行い翌年には最大の3,500機となっている。従業員数は1940年ころ約3万人が勤めていたが、終戦前年1944年のピーク時には4万5千人の多きになったが、熟練工は兵役召集になり、素人徴用工がメインになっていた。また東京や日立方面の部品工場の爆撃により資材不足が表面化し代替材料での品質低下と納入遅延、とくに中島のエンジン工場であった武蔵製作所の相次ぐ爆撃で生産計画はままならぬものになっていった。

 戦争中の米軍による太田製作所への直接爆撃は1945年2月10日の夕刻で84機の飛行機から170トン余りの爆弾と焼夷弾が投下され、通常爆弾97発が工場内に命中し、生産途中にあったキ84(疾風)74機が破壊された。このときは従業員は避難できたが、2月16日は朝から終日にわたる波状攻撃で機銃による掃射もあって多数の死傷者がでて悲惨な状態となった。更に3回目が2月25日に行われ工場は破壊されない建物は小さなものが少し残って居る程度に徹底的に破壊されたのである。この日投下された爆弾は通算182トン、焼夷弾45トンに上った。

(2)小泉製作所

 1938年航空機増産の政府方針に応え、太田製作所の大拡張と陸軍発動機専門工場の武蔵野製作所を建設した。ところが海軍は之に刺激され、海軍工場の独立拡充命令を発し、発動機は多摩製作所、機体は1940年小泉製作所(現群馬県大泉町:左の写真、現在は東京三洋の工場)を建設した。小泉製作所は敷地東西に914m(運動場なども併設され加えると1,200m)、南北に853mの132万平方メートルの東洋一の大工場といわれた。主として機体組み立てであったが、板金部品プレスや成形溶接に加え燃料油圧系統パイプ類も生産した。なお機械部品は同じに建設した尾島工場(現在の三菱電機群馬工場)から、また尾翼や胴体の一部は館林の分工場(織物工場を接収)から供給した。

 生産した機種は圧倒的な量産の「零式艦上戦闘機(零戦)」であるが、また「97式艦攻」、「零式輸送機(ダグラスDC−3)」や「2式水戦」、夜間戦闘機「月光」などを生産した。その他に空技廠設計の「銀河」や97艦攻の後継機「天山」、高速偵察機「彩雲」等、1941年から45年までの間に約9,000機の量産をした。従業員は1940年に55千人から1945年最終的には何と6万8千人もの人々が働いていた。1機完成すると、工場の大扉(幅30m、高さ15m以上もある)が開かれ、その度に君が代と社歌が演奏され従業員みんなで見送る儀式が恒例であった。(後にスパイに生産能力が知れるといって軍から中止させられた) 

 設計開発部門も太田製作所から小泉製作所に移ったのである。移動してからの開発体制は、従来の1機種1グループ方式から、専門グループ方式に変更され、空力班、重量班、構造班、動力班、降着装置班、操縦装置班、電装班、兵装班など、共通機能別体制となった。また標準化を進めるために統制班が設けられ、効率的な開発を目指した。中島からは何度も、陸軍機と海軍機の部品の共通標準化を提案したが、両方のエゴが出て歩み寄ることなく非効率な体制に泣かざるを得なかった。ここで新たに開発され量産された機体としては「天山」「彩雲」があり、開発試作の機体としては4発の「連山」、双発局地戦闘機「天雷」、双発ジェットエンジンの特殊攻撃機「橘花」などがあげられる。

 小泉製作所への空襲は最初は1945年2月25日で太田製作所と同日に米国海軍艦載機が来襲し、111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を中心に命中し、組立中の銀河43機に損害がでて、更に治工具に被害が及びその後の銀河の生産が極めて困難となった。また死傷者も21名に及んだ。(右写真は米軍機撮影)2回目は4月3日の夜間でB29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下し、約半数は工場に命中して板金工場が壊滅的損害を受けた。

機体生産機数

太田製作所

小泉製作所

宇都宮製作所

半田製作所

合  計

1939年

1,187

-

-

-

1,187

1940

783

-

-

-

785

1941

502

247

-

-

916

1942

1,210

1,005

-

-

2,215

1943

2,234

2,412

-

-

4,646

1944

3,506

3,454

234

702

7,896

1945

1,082

1,789

493

655

4,019

合 計

10,506

8,907

727

1,357

21,664

(3)宇都宮製作所

 宇都宮製作所は陸軍機を生産するための機体組み立て工場として1943年に着工し、操業開始は1944年1月であった。同年5月にはキ84(疾風)の第1号が完成した。機械部品は栃木工場、油圧系統部品は太田原市金丸工場などから搬入された。宇都宮飛行場近くに敷地面積が90万uの大工場の計画であったが、終戦までに完成したのは3分の1程度であった。従業員は最高26千人を数えたが3割は学生による勤労奉仕で、終戦までに727機を完成させた。宇都宮製作所でも操業が開始されて直ぐに空襲が近いと、疎開の検討が始まり、疎開先として、城山、栃木、太田原、千松などであったが、中心は城山で、ここは大矢石の採掘場であって採掘跡の本格的な地下工場で、計画の一部しか完成しなかったが、胴体や翼の生産が行われた。

 1945年7月10日米国海軍による空襲は宇都宮飛行場を主目的にしていたが、隣接する部品工場にも影響が出て、宇都宮製作所での生産を困難に陥れた。また直接の爆撃は敗戦直前の8月13日に艦載機による急降下爆撃に見まわれ工場の6棟が大破した。(写真は戦後1947年当時の工場と飛行場である)

 

 戦後は食器日用品の生産を行ったが低調で、その後鉄道車両の生産に着手・宇都宮車両鰍経て富士重工業宇都宮製作所となって、鉄道以外の各種車両の生産に加え、南側の第二工場で航空機の生産再開へと繋がっていった。

(4)半田製作所

 半田製作所は愛知県知多半島にあり、海軍専用工場で小規模の飛行場を含めた敷地面積は何と270万uであった。計画は1942年に始まり、同年8月着工、1944年1月第一号機、艦上攻撃機「天山」が完成している。そして1944年8月から艦上偵察機「彩雲」の生産が行われた。従業員数は操業開始直前で5千名を数え、1945年2月の最盛期には2万8千人に達していたが、この内約半数が学生であった。

 工場自体が海に面し東側に飛行場があって、北側に鉄道の駅と引込み線があった。南工場と北工場があり、北工場は熱処理や板金加工を行い、南工場で組み立てた胴体と、翼を合わせて最終艤装を行って、完成した機体は東の門からでて飛行場に運ばれた。1944年1月に操業が開始され3月には小泉製作所から「天山」のほぼ完全移転が終わり、2直体制になった。そして順調に生産が伸びて行ったが、同年12月東海大地震が発生し大被害を受けた。工場建物の破壊、組み立て治具等の損傷も甚だしく、また震災による殉職者は153名にのぼった。この中には半田周辺は勿論、京都から学徒動員された多くの女学生が含まれていた。この震災は軍によって機密事項とされ敗戦まで東海地方の人以外は全く知る由も無かった。この震災の復興もつかのま、空襲も予想される事から疎開が計画され、1945年3月には石川県小松市への移動が始まり、4月30日には「彩雲」の疎開1号機を完成と初飛行をさせている。ここも砕石跡の地下工場で敗戦までに8,000uに約100台の工作機械が据えられていた。

 1945年7月24日早朝から米軍のB29がこの地域一帯に通算537トンの通常爆弾を投下、27日にも空襲は続き、半田製作所は、従業員の寮も破壊されたので、小泉からの転勤者や各地方から来ていた者は故郷に帰し、事実上壊滅した。戦後、愛知富士産業鰍ニ変え、更に輸送機工業鰍ニとなり独立し富士重工業のグループ会社としてクレーンキャリアやトレーラを生産してきたが、2005年事業再編を行い、航空機関係事業に特化する方向にある。

 

(補足)

 中島飛行機株式会社は形態は株式会社ではあるが、そもそも個人経営そのもの閉鎖的な経営であった。即ち株式の全数を中島一族が所有していた。改組時点の資本金は1,200万円で、1934年太田製作所拡張時に全額払込みになっている。資本金については1930年代の拡張に対し自己資本で賄ってきたが、1938年の矢継ぎ早の増資(設備資金調達)には応じきれず日本興業銀行からの借り入れに頼っている。しかし更なる設備拡張には資金目処が断たれたかに思われた時、国家総動員法が発動され、政府保証の命令融資を日本興業銀行から受けられる事となった。それらは長短あわせて27億円にも達し興銀の融資残高の2割近くになったのである。

 このように中島飛行機は株式の公開をすれば容易に市場からの資金調達が出来た筈なのにしなかった。その理由として、第一は軍事上の機密保持、第二は営利本位の経営にしたくなかった、第三に株価の変化が株主に迷惑をかける、といわれていたが、本音は中島知久平自身の方針で、自分の信念に従って思い通りの経営を進めて行きたいということであろう。これは創設時に川西グループとの経営主導権争いの教訓から揺るがないものであったと思われる。しかし単一株主である事は、また一方で軍が介入するには誠に都合がよかった事も事実であり、敗戦直前に真っ先に第一軍需廠となったことでも明らかである。

 ここで航空機メーカーのもう一つの雄たる名古屋を拠点とした三菱について簡単に触れておきたい。三菱は三菱造船内燃機部より本格的に航空機生産に乗り出したのが1919年(大正8年)で中島が飛行機研究所を設立して約2年後であった。中島と違って、ベースの性格上まづ航空エンジン生産から入った。そのためフランスのイスパノ・スイザ社から技術導入を図り、一方機体は1921年イギリスのソッピー社から技術者を招いて艦上戦闘機を製作した。その後陸海軍の約100機の生産を行ったことから、艦艇用エンジン製造と分離し、航空機メーカーとして三菱航空機株式会社を資本金500万円で1928年設立した。

 しかし、その後活動は停滞していたが、その中にあった堀越二郎技師がアメリカのカーチス社などで技術を習得し帰国後設計した九試単座戦闘機が96式艦上戦闘機として制式採用され、一躍独自技術による世界最高峰の機体が生産できる自立の道を歩み始め、次に零式艦上戦闘機に至ったのである。エンジンに付いては水冷にこだわって空冷の中島に遅れをとり96式艦戦も中島の「寿」を搭載していたが、「金星」発動機の開発で見通しをつける事が出来た。日中戦争の勃発と共に、軍需の急増に合わせ活発な設備投資を行った。三菱の最高傑作機の零式艦上戦闘機も試作当初は自前の「瑞星」を採用したかったが、軍の要望で中島の「栄」発動機を搭載すると見違えるほどの性能向上が見られ、(諸説あり定かでないが・・・)堀越技師自身も会社幹部に「栄」の採用を勧めたほどであったとも言われている。その後は三菱のエンジン技術も更に発展し「金星」の性能向上とともに、次ぎの「火星」で1,500〜1,900馬力級に達し、寸法は若干大きいものの信頼性の高いエンジンに育ち、三菱では局地戦闘機「雷電」や「一式陸攻」に、また逆に中島の艦攻「天山」などに三菱のエンジンが搭載された。

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・出典及び参考文献:「富士重工業30年史」「銀翼遥か(太田市)」「飛翔の詩(中島会)」
「中島飛行機の研究(高橋泰隆)」 「富士重工業広報部」の協力 等によります。

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