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クリシュナムルティ(K) 我々は、昨日、我々は自分自身を知る問題について話し続けると言いました。我々は暴力の問題を議論してきました、そして、それを十分に理解するためには、人は自己の全構造を、私の、つまり、現にある通りの私の全構造を理解する必要があります。従って、自分自身を知る問題を検討することが重要であるように私には思われます。なぜなら、もし私が自分自身を完全に理解しないなら、私は合理的な思考の基礎を、私は行動の基礎を、私は徳というものの根拠を手にしないからです。もし私が自分自身を理解しないなら、私はいつも矛盾しています、混乱しています、それゆえ、私はいつも争いや悲惨の中にいます。そして、争いや悲しみの中にいると、否応なく、それはそれ自身を何らかの暴力の形で表現せざるをえません。そのように、自分自身を理解することは非常に重要であるように私には思われます、いかなる専門家にもよらずに、あるいは、“私”あるいは自己が何であるのかのいかなる宗教的な概念にもよらずに、それが働くとき、それが機能するとき、それに実際に気づいていることです。しかし、もし私が何らかの哲学者や心理学者に従って自分自身を理解しようとするなら、私はそれら発言を理解しようとしています、その人たちが私について考えるそれです、その人たちが考える私の構造や私の性質です。
我々のほとんどは二番煎じの存在です、そして、我々の中にオリジナルなものは何もありません(我々は何らかのオリジナリティを探し求めているのではありません)。しかし、オリジナルな感覚やオリジナルな理解なしに、単に二番煎じのやり方で活動することは、否応なく、何らかの争いや悲惨や尽きない不安に至るに違いありません。そこで、私は願います、あなたと私(話し手と同様にあなた自身)が自分自身を知ることの重要性を見て取ることを。もし我々が共に、我々自身を完全に理解することが肝要であることに同意するなら、我々は全く異なる関係性を手にすることになります、そうすると、我々は共に歩むことができます、そうすると、我々は共に我々の精神の深奥にまで歩を進めることができます。しかし、もしあなたに興味がないなら、私は思います、話し手とあなた自身との間のあらゆるコミュニケーションは終了すると。
幾つかの質問が寄せられています、つまり、“私は平和に生きたいと思います、しかし、平和に生きるためには、私は衣食住を諦めなければなりません、それは私が死ななければならないことを意味します、そして、もし私が死ぬと、暴力的な人たちが社会を作り上げるでしょう”と。この種類の質問は本当に全く受け入れがたいのです、なぜなら、我々は衣食住の必要性について十分に話してきたからです、そして、この残虐な世界を我々自身が平和に生きることが可能かどうかを十分に話してきたからです、ですから、私はそのような質問を検討することはしません。
そこで、もし我々が、今朝、我々の全エネルギーを傾けて、我々自身を理解して、その行き着く先まで行くことができるなら(もし我々がそれを嫌っても、ただ単にそれにお手上げになるのではなく)そうすると、恐らく、我々は自分自身で何らかの精神の状態を発見するでしょう、それは争いとは全く無縁のそれです、従って、我々はこの世界を平和に生きることができます、外面的にも内面的にも。それでは、我々は自分自身を理解するこの問いをお互いに話し合いましょうか? 我々は、我々自身を理解するために、どこから始めましょうか? 私はここにいます、どのようにして私は私自身を学ぶのでしょうか、私自身を観察するのでしょうか、私の中で現に起こっていることを、どのようにして私は見て取るのでしょうか? 私は私自身を関係性の中で観察しうるだけです、なぜなら、全ての生が関係性だからです。たとえ私が全ての関係性を拒絶して、私自身をあらゆるものから分離させて、世捨て人になろうとも、それでも、私は何らかの関係性を手にしています、つまり、私は何らかの関係性の中にいます、そのように、私は、何らかの観念や人々や物事との私の関係性を観察して私自身を理解しうるだけです。違いますか? あなたはどう思いますか?
質問者(Q) (フランス語)精神が知覚するためには、エネルギーを要します。このエネルギーは沈黙から生じますか?
K しかし、宜しいでしょうか、もし差し支えなければ、それは我々の、今朝、議論していることではありません。我々が明らかにしようとしていることは、どのようにして自分自身を理解するのか、ということです。私はここにいて、何らかの矛盾、悲惨、争い、不安、希望、沈黙する精神を手にしたいという思いなどの寄せ集めです、私は矛盾するエネルギーの全くの寄せ集めです。私は私自身を理解したいと思います、なぜなら、私は分かるからです、私自身を理解することなしに、いかなる行動の基礎も築けないと、私は行動しえます、しかし、私は、その基礎を欠くと、絶えず、より大きな悲惨、より大きな混乱に陥るでしょう。そのように、私は私自身を理解しなければなりません。それでは、どこから私は始めましょうか? そして、私は分かります、私は私自身だけでは存在できないと、私はいつも関係性の中で存在しています、それが意識的であろうと、無意識的であろうと。そのような関係性は人々とのそれであり、様々なイデオロギーとのそれであり、あるいは、様々なもの、お金、家、家具、食べ物とのそれです。私のそれらのものとの、外面的なものや内面的なものとの関係性を学んで、私は私自身を理解し始めます。このことは明瞭でしょうか?
Q 私が私自身を観察するとき、私は私自身を非常に異なる状態で見ます。その自己は現実でしょうか?
K 我々は明らかにしようとしています。宜しいでしょうか、あなたは、今朝、そうしますか? あなたのあなた自身について知ることの全てを忘れて下さい、あなたがあなた自身について考えてきたことの全てを忘れて下さい。我々は明らかにしようとスタートしています、我々は我々が何も知らないかのようにスタートしようとしています。そうすると、それには何らかの価値があります。しかし、もしあなたがあなたの過去三十年間に収集してきた全ての“古い家具”を手にして始めるなら、あなたはそれほど遠くへは旅立てません。そのように、我々は新規の旅へ出るかのごとく始めましょう。
昨夜は激しい雨でした、そして、今朝、空が清々しくなり始めています、新しい一日です、新鮮な夜明けです、そして、あなたは、その新鮮な一日の始まりを、それがまるで後にも先にも唯一無二の一日の始まりであるかの如く、迎えるに違いありません。しかし、もしあなたが、昨日のあらゆる記憶を手にして、それと向き合うなら、あなたは今日の新鮮さに出会うことは決してないでしょう。そのように、我々が、今、行っていることは、我々自身を初めて理解するかのようにスタートすることです。そして、私は見て取ります、私は私自身を人々との、物事や何らかの観念との関係性の中でのみ理解しうると。私は、私自身が部屋の隅に座して居たり、私自身について瞑想したり、あるいは、どこかの僧院に引き籠って、私自身を孤立させたりしても、私自身を理解できません。私は私自身を関係性の中でのみ理解しうるだけです、なぜなら、あらゆる他の形が単なる何らかの抽象的な何かにすぎないからであり、それには全く妥当性がないからです。もし我々がそのことからスタートしうるなら、我々一人ひとりは、そうすると、我々は遠くまで行くでしょう、しかし、もし我々が何らかの抽象―何をすべきか、精神をどのように沈黙させておくのかなど、あなたがこの痛ましい話し手の言うのを聴いてきた全て―からスタートするなら、そうすると、あなたは途方に暮れるでしょう。一方、もし、今朝、我々が一歩一歩このことを検討するなら、あなたは自分自身で多くのことを発見するでしょう。
Q 私が私の中で起こっていることに気づくとき...
K いいえ、宜しいでしょうか、あなたは私より遥かに先へ行っています。私は言いました、あなたはあなた自身を関係性の中で理解しうるだけであると。違いますか?
Q はい、しかし、私が首をかしげるのは、あなたの言う関係性とはどういう意味なのか、ということです。
K 我々はそれを検討しようとしています。宜しいでしょうか、新鮮な朝です。最初に、はっきりさせましょう、私は私自身を、私の関係性を、それらの関係性の中の私の反応を学ぶことによってのみ理解しえるということを。私は様々なものと関係しています、つまり、財産そして様々な物質的な何かです。私のそれらのものに対する、お金に対する、衣服に対する、食べ物に対する、家屋に対する反応とは何でしょうか? 私の反応を学ぶことによって、私は、それらのものとの関係性の中にある私自身を理解し始めます。違いますか? 我々はそのように行っていますか? あなたはあなたの家との、あなたの財産との、あなたの家族である財産との何らかの関係性を手にしています―そして、それは非常に複雑な質問です、どのようにあなたはあなたの財産に、様々なものに反応するのか、ということです。それを脇へ置かないで下さい、このことを理解することは非常に重要なことです。仮に、私が沢山のお金を手にしているとして、そのお金と称するものとの私の関係性とは何でしょうか? 私の反応を理解することで、私は私自身を理解します。私の反応が私自身です。違いますか? そうすると、私は非常に明瞭にお金に関する私の反応がどうであるのかを見て取り始めます、私は貧乏なので、私は裕福な人々を憎むかのか、あるいは、私は裕福な人と同様に裕福になりたいと思うのかどうか、ということです。
そのように、私は私自身を私の物事に対する反応によって学び始めます。私には食べ物、衣服、住居が必要です、それは絶対的に必要です。しかし、私のそれらに対する反応とは何でしょうか? それらは私に内面的な満足をもたらしますか―お分かりですか―内面的な安全性です。もしそうなら、私は途轍もない重要性を財産に与えます、従って、私は進んで私の財産を守ろうとします。そして、私の財産を守ることによって、私は暴力的になります、従って、私は、お金によって、私が途轍もない満足を得られる社会を作り出します。私は私自身について途轍もなく沢山の何かを発見しました。あなたは私と一緒にそのように行っていますか?
私は発見します、私は財産を、物事を―私はそれを必要とします、それは必要なことです―内面的な安全性、満足の手段として使っています、従って、財産が途方もなく重要になります。違いますか? あーっ、待って下さい―いいえと言わないで下さい! どうか、それは、はいとか、いいえと言う問題ではありません、我々は我々自身を我々の物事に対する反応によって学んでいます。私は財産を地位のシンボルとして使いますか? 私は私自身を物事との関連で理解し始めています―私の物事との関係性とは何かです―関係性です―お分かりでしょうか? 何らかの関係性を手にするということは関連することです、触れることです―違いますか? 進めても宜しいでしょうか? 私は財産に、物事に触れているのでしょうか、それとも、私は物事が私にもたらす満足に触れているのでしょうか、従って、私は物事を満足を得るために使うのでしょうか、そうすると、物事は二次的な重要性になります、なぜなら、私の主要な欲望は満足を見つけること、安全性を手にすることだからです。違いますか? そして、私は私自身について何か不都合なものを発見します―私は財産を、物事を手にしたいと思います、そしてまた、私はその危険性も見て取ります、そして、私はそれを避けたいと思います、私はそれを脇へ取り除きたいと思います、それでも、私はそれを保持したいと思います。違いますか? そのように、矛盾が私の中ですでに起こっています。私は素敵な家を、庭を、多くの使用人を手にしたいと思います、そして、それが私に途轍もない安全性の、地位の、名声の感覚の、内面的な満足感をもたらします。私は物事を私自身の満足のために使います、従って、私は私に満足をもたらすそれらのものを守ります、そのために、私は絶えず防御の状態の中にいます。
Q (フランス語)私は私自身を知ることの重要性が分かりません、しかし、それが重要であるとのあなたの説明を聴いていると、私はそれが重要であると発見します―それは何らかの逃亡ではありませんか?
K あなたはあなた自身を知ることの重要性を発見します、なぜなら、誰かがそれは重要であると主張したからです。あなたはその重要性を自分自身で見て取りません。なぜあなたはそれを見て取らないのでしょうか? それは盲目の中を生きる人がこう言うようなものです、目を備えることは重要ではありませんと。あなたは話し手に刺激されているのでしょうか、自分自身を理解することの重要性を、そのことに興味を持つことの重要性を強調する話し手に刺激されているのでしょうか? そうすると、それには何の価値もありません。
宜しいでしょう、先へ進みましょう、私は物事との関係性の中で私自身を発見します、なぜなら、我々にとって、物事が途方もなく重要だからです。我々自身を偽らないで下さい。お金、家屋、あなたの触る、感じる、味わう物質的なものが途方もなく重要です。そして、なぜそれらが重要になっているのでしょうか? どうか、このことを見て下さい。なぜそれらが私やあなたにとって重要になっているのでしょうか? 私には衣食住は必要です、しかし、なぜそれらが途轍もなく生の中で重要になっているのでしょうか? あなたはどう思うでしょうか?
Q それらは私には重要になります、なぜなら、我々は内面的に虚しいからです。
K 我々の中には何もありません、そこで、我々はその虚しさを家具で満たします―いえ、いえ、笑わないで下さい―書物で、お金で、車などで満たします。違いますか? そのように、それらが重要になります、なぜなら、それらが、完全に鈍くて虚しい私の精神の状態を満たすからです。我々はそうしていますか?
Q 宜しいでしょうか、私はそれがその意識的な理由だとは思いません。
K 私は知りません。宜しいでしょうか、あなたは自分自身を発見しています、あなたは私に語っていません。
Q 宜しいでしょうか、私にとって、私の意識的な理由はこうです、私は非常に貧しい人々を見ます―その人たちは医者にかかれないなどです―そして、私はそのようにはなりたくない、ということです。そして、私がそのようにならないでいるのは何でしょうか? それは物質的なものです、従って、物質的なものが大変重要になります。
K はい、そうです、我々はそう言いました、つまり、それは大変重要であると。
Q それが我々のそれらに重要性を付与する理由です。
K それは理由の一つです。それが主要な理由ではありません。一つの理由は、私は貧しい人のようにはなりたくないということです、従って、私は私の手にしているものを守ります。違いますか? 従って、私は暴力的な状態でいます。私はそのことを発見しています、あなたが私にそう告げているのではありません、私はあなたにそう告げていません。私は比較して発見しています、裕福であることの方がましであると。そうすると、あなたはもっと社会的に敬われます、あなたは社会的に敬われるブルジョアなどその他の全てになります。我々は依然として検討しています(お分かりでしょうか?)私は私自身を学んでいます。私が、私自身の不足をカバーするために、私自身の虚しさ、浅はかさ、私自身の見掛け倒しの存在をカバーするために、様々なものを使うとき、何が起こりますか? それを追究して下さい。そのプロセスの中で何が起こりますか?
Q しかし、あなたの、今、話しているこの問題、我々の虚しさを満たすために様々なものに我々が引かれるこの問題、私は、それは心理的なことであると思います、そして、その根源はもっと具体的なものに根差すと私は思います。もし我々が動物を例に取れば...
K あーっ、私は動物を例に取りたくありません。
Q 私自身の経験から、私は、食べ物がないと私が暴力的になるのが分かります。
K しかし、宜しいでしょうか、我々はそのことを言ってきました。私には衣食住が必要です。そのことについては疑問の余地がありません。あらゆる動物にはそれらが必要です。
Q そのために私の執着が生じます―それは恐れのためです。
K はい、そうです、しかし、なぜ我々は執着するのでしょうか? 私はそれらのものを手にしなければなりません。なぜ私はそれらにそれほどの重要性を付与するのでしょうか?
Q しかし、もし私がそれらを手にしないなら、私は死ぬと感じます。
K 勿論です、勿論です、そこで、あなたはそれらにそのような途轍もない重要性を付与します。それがあなたの衣食住に重要性を与える理由でしょうか? 明らかにして下さい、あなた自身の中で。
Q (フランス語)お金はシンボルです、しかし、実際に、それは精神的な生が基礎を置く物質的な生の仕組みの一部です。人はそれを学ばなければなりません、そして、お金が生の中で果たす複雑な役割とその意味を理解しなければなりません。
K そのことを問うているのではありません、しかし、私のそれとの関係性とは何でしょうか? 私は私の様々なものとの関係性を知りたいと思います、つまり、お金であり、家屋であり、食べ物、衣服そして住居などです。そうすることで、私は私自身について何かを明らかにするでしょう。それを我々は議論しています、お金が我々をいかに条件づけるのかではありません。勿論、それは条件づけます、お金を手にしていない人はそのことによって条件づけられます、そして、お金を手にしている人もまた条件づけられます。我々はそのことを知っています,宜しいでしょうか。
Q (フランス語)我々には物質的なものが必要です、しかし、なぜ我々はそれらを欠くと虚しいのでしょうか?
K なぜ私は虚しいのか? いいえ、違います、宜しいでしょうか―我々は我々自身を学んでいます。私は自分自身に言っています、つまり、私は私自身を理解したいと思います、従って、私の様々な物事との、人々との、そして、様々な観念との関係性の中でのみ、私は私自身を理解しうると。恐らく、ただ一つの関係性があるのであり、それは様々な観念に関して私が築く関係性です、そして、それが重要な唯一のものです―様々な観念のことです。お分かりでしょうか? 食べ物ではありません、人々ではありません、そうではなく、そのイメージです、それは私が食べ物、衣服、住居そして人々について抱くシンボルのことです。違いますか? 衣食住には何の罪もありません、そうではなく、私がそれについて抱く観念のことです。そのように、私は何らかの関係性を築いています、それは、様々なものや人々との関係性ではなく、シンボルあるいは観念とのみの関係性です。そういうことでしょうか? あなたはそれを明らかにしますか?
Q 私は思います、宜しいでしょうか、我々は自分自身を様々なものと同一化して、そして、それらが我々の一部になります。
K はい、そうです、我々は自分自身を様々なものと同一化します、従って、それらが我々の一部になります。
Q 私が沢山のお金を自分のものとして手にするとき、私はそのとき大いなる快楽を覚えます、そうして、その快楽が消えると、私は他の何かを手にしようとしなければなりません。それは何らかのイメージがあるだけのように思われます、なぜなら、私が何らかのものを手にするとき、それは快楽を与え続けることになりません、そこで、再び、もっと快楽を得ようとする観念が起こるはずです、そして、そのことがひたすら続いて、それは決して満足することはありません。
K 私は学んでいます、本当に、様々なものや人々が重要であるのかと、そうではなく、計り知れなく重要なのは様々なものや人々についての私の観念なのかと。
Q 宜しいでしょうか、私の観念との関係は私と私自身との間の関係です、なぜなら、その観念は私自身の一部だからです。
K いえ、いえ。それは何らかの結論です。あなたはすでにあなたがあなた自身の表出する何かであると判断しています、従って、あなたはその表出された何かと同一化しています、従って、あなたはあなた自身を継続しています。しかし、それは私自身を理解する助けにはなりません。宜しいでしょうか、見方を変えましょう。私やあなたにとってこの上なく重要なものは何でしょうか? どうか、あなた自身を見て下さい。お金、食べ物、衣服そして家屋ではありません、それは何でしょう。宜しいでしょうか? あなたはそのことについて何らかのシンボル、イメージを抱いています―財産について、人々について。あなたは人々と関係していますか? 私は人々と関係していますか、私の友人と関係していますか、私の妻と関係していますか、私の夫と関係していますか? それとも、私は人々について私自身が作り上げてきたイメージに関係しているのでしょうか?
Q それは習慣です。
K 分かりました、それは習慣です。なぜ私はそのような習慣を作り上げているのでしょうか? なぜ私は様々なものと財産と―我々はとりあえずそう言います―人々と直に関係しないのでしょうか? なぜ私は様々な観念を抱くのでしょうか? そして、もしあなたがこう言うなら、“それは習慣である”と、それでは、どのようにその習慣は生じるのでしょうか? なぜ私はその習慣の奴隷でいるのでしょうか?
Q なぜなら、私は十分に生きていないからです。
K 言わないで下さい、私は十分に生きていないと。あなたと私は我々自身を理解しようとしています、ですから、どうかいかなる結論も下さないで下さい、あるいは、こう言わないで下さい、“私はそうすべきである、私はそうではないが、そうすべきである”と。それら全てには何の意味もありません。私自身を財産や人々との関係で学んでいると、私は分かります、途轍もなく重要なのは私であると。人々や財産よりもずっと重要なのはその観念、その感情、私がそれらについて抱く観念であると。違いますか?
Q (イタリア語:聞こえず)
K いいえ、そうではありません。それをもう少しゆっくり検討しましょう。なぜ様々なものそれ自体や人々自身ではなく、なぜ私はそれらのイメージ、思考、それらについて私が抱く観念により多くの価値を付与するのでしょうか? なぜですか? あなたはお分かりでしょうか? あなたは全く重要ではありません―重要なのは私にとって私が抱くあなたについての観念です、あなたについての私の観念です。なぜ私はそのようなイメージを作り出しているのでしょうか? もしあなたがこう言うなら、“それは習慣です”と、宜しいでしょう、それは習慣です。しかし、なぜ私はその習慣に囚われるのでしょうか、どのようにしてその習慣は生じるのでしょうか?
Q なぜなら、生が私には恐ろしいものになっているからです。
K 従って、私は抽象的な何かの中を生きています。違いますか? 真実の中ではなく、抽象的な何かの中です。従って、私のあなたとの関係性は抽象的な何かです。私は実際に関係していません。私は抽象的な何かの中を生きています、観念の中を、イメージの中を生きています、そして、私は言います、なぜ私はそのようにしてきているのかと、なぜ私はあなたについてそのようなイメージを作り上げてきているのかと。
Q 根本的な理由はこういうことでしょうか...
K 抽象的にならないで下さい、明らかにして下さい!
Q 宜しいでしょうか、私は検討しています。根本的な理由は、私が確信することです、ものを所有することで私は満足を得られるだろうと。
K いいえ、そうではありません。もう少し深く検討して下さい、そうすると、あなたは明かにするでしょう。そのことを静かに見て下さい。まだ言語化しないで、そのことをただ見て下さい。私は此処にいて、私は様々なものや人々に途轍もない意義を与えています、しかし、私にとってもっと重要なのは、様々なものや人々ではなく、私がそれらについて抱く観念です。そして、なぜ私は様々なものや人々よりもそれをより重要なものにしてきているのでしょうか?
Q 私自身を守るためです。
K よく見て下さい、待って下さい、宜しいでしょうか。二分間、そのことを見て下さい。私は私自身を学んでいます、これは何らかの試験ではありません。私は言います、“なぜ私だけではなく、全ての人間がそのようにしてきているのか”と。人がアジアに住んでいようが、西洋やアメリカに住んでいようが、なぜ人間はそのようにしてきているのでしょうか?
Q 宜しいでしょうか、私は思います、ものそれ自体、あるいは、人間は、我々にとって、理解するのにとても複雑すぎて、従って、我々は、もっとシンプルで、もっと容易で、もっと扱いやすいイメージを作り出すと。
K 私はあなたについて何らかのイメージを抱きます、なぜなら、そのイメージは非常にシンプルだからです、しかし、あなたは非常に複雑だからです。あなたは生きている何かです―じっとしていないで、活動していて、脈動しています―そして、私はあなたを理解できません、従って、私はあなたについて何らかのシンボルを作り上げます。あらゆる教会がシンプルで満たされます、なぜなら、シンボルは生きてはいないものだからです。私はそれを何らかの衣服で覆うことができます、私はそれを飾り立てることができます、私は私の好きなようにできます、しかし、私はそれを生きている何かにはできません。
Q 言葉はそれ自身がシンボルです。
K 勿論です。
Q 私があなたを見るとき、私は私自身のイメージを抱きます、そして...
K どうか、宜しいでしょうか、我々は我々自身を学んでいます。我々自身を学んでいて、我々自身を理解しようとしています、その理由は、我々自身を理解することなしに我々はいつも混乱した状態の中にいるに違いないからです。私自身を理解しないと私は暴力的になるに違いありません、私自身を理解しないと徳は生まれません。そのように、私は私自身を理解しなければなりません! そして、私は言います、私自身を理解するとき、様々なものについての私の観念以外に、他に重要なものは何もないと。違いますか?
Q (フランス語)我々は我々に適した“環境”を見つけなければなりません、そうすると、それによって我々は開花するでしょう。
K あなたは要点から逸れています。あらゆる人間にとって―私はそれを私自身の中に見ています、そして、私はそれをあなたの中に見ています―観念が様々なものや人々よりも遥かに重要であるということです。ナショナリズムは観念です! そして、そのことで私は進んで殺戮します、私自身を破壊します、そして、私の財産を失います。
Q 様々なものに重要性を与えるのは、実際にはそれらに付与された観念です。しかし、我々は実際のものにも重要性を与えます。
K 同じことでしょう、違いますか?
Q 我々は我々自身に言いません、観念が重要であると、我々は我々自身に言います、ものや人が重要であると、しかし、我々がものや人に与える重要性は観念です。
K 勿論です、それを我々は言っています。
Q あなたは様々なものの中にあなた自身の哲学を内包しますか?
K 私は哲学していません。もし私がそうしているなら、それは様々なものの中に含まれるでしょう―それは窓から投げ捨てられる代物です。宜しいでしょうか、あなたは絶えず逸れています。この点から逸れないようにしましょう。私は此処にいます、私は私自身を理解したいのです。それを理解するとき私は何かを発見しています、つまり、私にとって、人々は重要です、そして、それはその観念を含みます、そして、私はその観念に執着します。そこで、私は私自身に問います、なぜそのことが生じているのかと。
Q それは新しい何かに対する防御の一種です―私は様々なものを中性化します、それらを私の観念でカバーします...
K それが意味するのは、あなたは中性化しています、あなたはブロックしています、あなたは生きているものを否定しています、しかし、あなたの観念ではありません―違いますか? あなたは生きている何かです―あなたの妻、あなたの夫、あなた―そして、観念とは無縁にあなたと生きることは、そのイメージとは無縁に生きることを意味します、私は絶えず自分の足で立っている必要があります。違いますか? 私はあなたを見守る必要があります。私はあなたについての何らかのイメージを持つことはできません、なぜなら、それはあなたを見守ることを妨げることになるからです。私はあなたの気分、あなたの話し方、あなたの歩き方を見守る必要があります、私はあらゆるものを見守る必要があります、そして、それは途轍もなく厳格で骨の折れることになります。従って、あなたについての私の観念にしがみつく方が遥かにシンプルです。
Q (フランス語)観念よりも様々なものの方が重要であるときがあります―何らかの危険に遭遇するときなどです。
K 分かりました、進めましょう。死んでいるものについてのみ、私はいかなる観念も抱きません、しかし、夫、妻、友人―それが何であれ―としてのあなたと私との関係性の中で、私は私を防御する観念を抱きます、なぜなら、あなたは私の手に余るほど活動的だからです。そうすると、何が生じていますか? 私はあなたについて私が築き上げたイメージを手にしています、そして、私はそのイメージに更に何かを加え続けます。違いますか? あなた自身を見て下さい! その状態の中で何が起こりますか? 私はあなたについてのイメージを手にしています、そして、私はそのイメージと共に生きます。あなたは何らかの抽象的な何かになります、あなたは真実ではありません。私のあなたについてのイメージが現実になります。そうすると、何が起こりますか? 私のあなたとの関係性とは何でしょうか? 私はあなたと何らかの関係性を手にしていますか?
Q あなたの話している中には破壊的な性質があります。
K いいえ、マダム、どうか、あなた自身を見守って下さい。私はあなたとの関係性の中を生きています―少なくとも、私は私があなたとの関係性の中を生きていると考えます―しかし、実際には、私は私があなたについて作り上げてきたイメージと共に生きています。そのように、私は過去の中を生きています。そしてまた、あなたも過去の中を生きています。なぜなら、あなたは私についてのイメージを手にし、私はあなたについてのイメージを手にし、それら二つのイメージが何らかの関係性を築いているからです。違うでしょうか? そうすると、何が生じますか、何が実際に生じますか?
Q 争いが生じます。
K 争い?
Q 争いです、観念と事実とのそれです。
K 質問者は言います、事実―あなた―と事実ではないイメージとの間に争いが生じると、そのために、争いが起こると。待って下さい、待って下さい、あなた自身を見守って下さい。あなた自身を検討して下さい。
Q 生は何らかの流れです、そして、イメージは固定的です。
K 分かりました、それはあなたの発見でしょうか?
Q はい。
K そうすると、どうなりますか? もしあなたがそのことを見つけたのなら、何が起こりますか? そうすると、あなたは言います、私は分かります、私はいつも過去の中を生きていると、そして、生は、それはじっとしていないで、生きていて、いつも現在の中にいるので、従って、私はあなたを死んだ目で見ますと。違いますか?
Q 必ずしも、死んだ目ではありません、なぜなら、もし私が何らかの肖像を理解したいと思うなら、私はそれを手に取って、回して見ますが、私はその全体を理解できません。私はいつもイメージのみを手にしています。
K はい、そうです、それを我々は言っています。
Q どのようにして人は過去に囚われた精神で何かを発見しうるのでしょうか?
K 我々は一歩一歩検討しようとしています。
Q なぜ私はあらゆるものについてイメージを作り上げる必要があるのでしょうか?
K それを我々は問うています。それは、我々が生きているそれを恐れているので、何らかのイメージを作り上げているのでしょうか? それを見守って下さい! あなたの中では、そういうことでしょうか?
Q 私が直に触れることに満足したらよいのですが、私は他の何かを願うように思われます。
K はい、更に進めて下さい。
Q もし私が現にある通りに様々なものにより深く触れることに満足を見出すように試みるなら、私はこの全世界が非常に苛立たしい何かであると分かるでしょう。
K 勿論です、それは私の飽き飽きする、恐れる...の一部です―それがその領域の全てです。それでは、なぜ私はこのことを行うのでしょうか? 少しより深く進みましょう。私は私がこのことを行っているのを認めます。なぜ私はこのことを行っているのでしょうか?
Q 一つは、それは快楽を追い求めているのです。もう一つは、それは実際に起こっていることを覆い隠す防御的カモフラージュを築き上げるプロセスですか?
K はい、そうです、その通りです。しかし、なぜ私はそのように行っているのでしょうか?
Q なぜなら、私は現在の中を生きることができないからです。
K はい、そうです。あなたは私に答えているのでしょうか? それとも、あなたはそのことをあなた自身で理解しているのでしょうか?
Q その質問はこうではないでしょうか、なぜ我々はいつも記憶を生かしておくのか、ということです。
K はい、そうです。なぜでしょうか?
Q 私が何かを考えるとき、それは過去か未来かの...に通じるでしょう。
K その通りです。
Q そのイメージは過去あるいは未来との関係性を与えます、現在とのそれではありません。
K その通りです。同意します、そうすると、どうなりますか? 私は、昨日、夕日を見ました、それは大いなる快楽、大いなる喜びでした、そして、それが何らかの痕跡を残していて、今宵、私は昨日の目で、昨日の記憶で丘の光を見ます。私は絶えずそうしています。なぜ私はそうしているのでしょうか? より深く進めて下さい、それを検討して下さい。それをすぐに単に言語化しないで下さい。
Q なぜなら、記憶なしには、人は何ものでもないからです。
K あなたが学んだのはそれでしょうか?
Q 宜しいでしょうか、私は私が真実を知っているとは思いません。私はいつも物事をイメージを通して見ます、従って、私は真実が何であるのかを本当は知りません。
K はい。なぜでしょうか? どうか、我々は十分に説明しました、数分立ち止まって、なぜあなたはこのことを行っているのかを明らかにしましょう。人は言います、それは快楽であると、他の人は言います、それは“空虚”であると。ある人は言います、それは恐れであると、他の人は言います、“それは習慣である”などと。しかし、言葉の背後に進みましょう、瞬時の発見や理解の背後を見てみましょう、その背後に進みましょう。
Q もしあなたが子供を見守るなら...
K 私は子供を見守りたくありません。私は此処にいます。
Q 一分間、あることに満足して、それから、別の...
K それは分かります。
Q 私はもっと複雑な仕方で同じことを行います。
K なぜ私はそれを行っているのでしょうか、なぜ私はイメージを築き上げているのでしょうか? なぜ私は生きているものと絶えず生きられないのでしょうか―生きているものはじっとしていません、活動しています、それが誤りであろうと、正しかろうと、しかし、なぜ私はそれと共に生きられないのでしょうか?
Q 誰がそのイメージを作り上げているのでしょうか?
K 私はそこへ歩を進めています。最初に、見守って下さい、ゆっくり歩を進めて下さい、そうすると、あなたは自分自身でそれを見届けるでしょう。
Q 誰かがそこにいますか? 築いている誰かがいますか?
K あなたは明らかにしようとしています。
Q 生きているものは私にとってイメージとは全く無縁に存在しうるのでしょうか?
K どうか、この質問に耳を傾けて下さい。生きているもの―あなた―は、もし私があなたについて何のイメージも抱かないなら、存在しえますか? 何と素早くあなたは答えるのでしょう! あなたの妻は、あなたの彼女についての観念とは無縁に生きますか? 勿論、彼女はそうします。
Q しかし、私にとってはそうではありません。私は彼女について何か別の認識をするのでしょうか?
K あなたは話し手について何らかのイメージを抱いています、違いますか? あなたは抱いています、不幸なことに。それでは、なぜあなたはそのようなイメージを抱くのでしょうか? そのイメージは、名声、プロパガンダ、それら全てで築かれます。なぜあなたはそのようなイメージを手にするのでしょうか? なぜあなたは話し手と直に関係性を築けないのでしょうか? なぜあなたは彼についてのイメージを手にしなければならないのでしょうか? マダム、耳を傾けて下さい。我々は何と息を継ぐ暇もないのでしょう! なぜあなたは少し辛抱して見守れないのでしょうか?
Q なぜなら、もし私がイメージを抱いて、あなたが変化していると、それはとても難しい...
K 我々はそのことを言いました。それは生きているものに対する防御的な反応です。しかし、なぜ我々はそうしているのでしょうか?
Q イメージは思考です。
K なぜ思考はそのようなイメージを築いているのでしょうか? あなたはあなた自身を学んでいます、あなたは私からの答えを待っていません。
Q 私の思考ができることの全てはそれだけです、それがそれの行う正に全てです。
Q 我々が何らかの断片から見て、何かを経験している限り、我々はそのイメージを生かし続けます。しかし、もし我々がその全体性を見て取ることができるなら、我々はそれから自由になるでしょう。
K いいえ、そうではありません、それは私の質問ではありません―何かから自由になることです。私は自分自身に問うています、なぜ私は絶えずそのようにしているのかと。
Q 私はイニシアティブとして何かを使いたくありません。
K 宜しいでしょうか、あなたは私の質問に答えていません、あなたはあなた自身で発見していません、あなたはあなた自身を学んでいません。
Q しかし、真実に直に向き合うことは耐え難いことでしょう。
K 我々はそのことを言いました、宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。私はなぜ私がそのようにするのかを明らかにしたいのです。なぜ、私が、今日、夕日を見るとき、過去の夕日が私の精神の中に入ってくるのでしょうか、そして、私があなたを見るとき―夫、妻、子供たち、兄弟、それが誰であれ―私はあなたを私があなたについて抱くイメージを通して見ます―衣服について、食べ物について、あらゆるものについて。私は何らかの抽象性の中を生きています、そして、私は私自身に言います、私はそのことを知っています、しかし、なぜ私はそうしているのでしょうかと。それでは、どのようにして私は明らかにするのでしょうか?
Q 我々自身を見守ることによって。
K どのようにしてあなたはあなた自身を見守るのでしょうか?
Q あなたの反応、あなたの思考...
K 我々はそのことを見てきました。宜しいでしょうか、私はなぜ私がそのようなイメージを作り上げるのかを明らかにするために私自身を見守っています。
Q なぜなら、我々はそれに固執するからです。
K いいえ、そうではありません。それを見守って下さい。
Q 私はそれを続けているように思われます、なぜなら、私は私がイメージを拵えているのに気づかないからです。
K 最初に、私は私がそのイメージを築いていることに気づいていません、しかし、私が気づくとき、そうすると、私は私自身に問います、なぜ私はそうしているのかと。どうか、宜しいでしょうか、二分間、静かに耳を傾けていただけますか? 私はその質問をしてきています、そして、それは、私が明らかにするのは非常に難しいのです。あなたは私のためにそれを答えられません。私は自分自身で明らかにする必要があります。それでは、どのようにして私は明かにするのでしょうか?
Q イメージそれ自体が私に指し示します。
K マダム、私は言いました、私に耳を傾けて下さいと。私に、二分間、話させて下さい。明らかにすることは私にとって非常に重要です。私はあなたに何としても告げてもらいたくありません、なぜなら、もしあなたが私に何かを告げると、私はこう言うからです、それはそうであるかもしれません、そして、私はそれを模倣するか、あるいは、それに従うかもしれません、そして、こう言うかもしれないからです、あーっ、それに違いありませんと。私はあなたのいかなる提案も欲しません。私は自分自身で明かにしたいと思います、あなたがあなた自身でそうしなければならないように。どのようにあなたはそうしますか? 最初に、私は私のお喋り同様あなたのお喋りに耳を傾けるのを止めなければなりません。違いますか? 私はあなたに耳を傾けるのを止めねばなりません―あなたの全ての提案です―そしてまた、私は私の全ての策謀、私の作り事にも耳を傾けるのを止めなければなりません。あなたは同意しますか? それの意味するのは何でしょうか?
Q 見ることでしょう。ただ見ることです。
K どのように私は見るのでしょうか? 私の言い方を引き合いに出さないで下さい。どのように私は見るのでしょうか? 私が極めて静かなときに、私は見ることができるだけです。私自身に問うて、そして、こう言ってから、“私はなぜ私がそのようなイメージを作り上げるのかを明らかにしなければならない”、そうすると、私は静かにしているのか、それとも、私は答えを休みなく探し求めているのでしょうか?
Q もしあなたが見守っているなら、宜しいでしょうか、そうすると、思考は決して干渉しません。
K 宜しいでしょうか、どうか、私を許してください。私は私が気づいていなければならないことを知っています。私は私が観察しなければならないことを知っています。しかし、観察するためには、気づいているためには、私は極めて静かにしていなければなりません、違いますか? それが全てです。私はこう問いました、“なぜ私はそれらのイメージを築き上げるのか”と。そのように問うてから、私は静かにしていなければなりません、違いますか? 我々は―あなたは―静かにしているでしょうか? それとも、あなたは誰かがあなたに告げるのを待っているのでしょうか? もしあなたが静かにしていて、そして、あなたがその静けさの中で気づいているなら、あなたの反応とは何でしょうか?
Q シンプルに気づくのでしょうか?
K しかし、私はなぜ私がそのイメージを築き上げてきたのかを理解していません。
Q それは、あなたがあなたの問いに答えようとしうる唯一の人であるように思われます。
K そうではありません! 私はその責任を負いたくありません。私は自分自身でそれに答えるでしょう。
Q 宜しいでしょうか、思考は干渉し続けないかもしれません、その思考は我々の記憶であり、我々の条件づけです、そして、もし我々がそのことに気づいているなら―我々自身に気づいているなら―そうすると、我々は、“私”は、もはや存在していないのでしょうか?
K 宜しいでしょうか、ここで問題が生じます、例えば、数学的な問題です。私はなぜ私がそうするのかを明らかにするためにあらゆる方法を探し求めてきました、あらゆる領域でそうしてきました、そして、私は答えを見つけることができません、私は何を行うのでしょうか?
Q 私はそれから離れます。
K あなたはそれから離れます、あるいは、私はそれから離れたくないので、私はそれをただ単に放り出したくありません、私は、今、明らかにしたいのです。
Q あなたは一息入れなければなりません。
K はい、あなたは一息入れなければなりません、あなたは待たなければなりません。あなたはそのようにしていますか?
Q そのためのものは何もありませんが、人はそれについて何も知らないことを悟ることです。
K 今、我々は離れています。あなたは一息入れますか、あなたは静かにしていて、見守りますか?
Q 私は、その問いを発しているとき、どのように静かにしていられるのでしょうか? それは依然として私を困惑させます。
K 耳を傾けて下さい。あなたはその問いを発しました。そして、どのようにしてあなたはその答えを見つけるのでしょうか? あなたは問うて、問うて、問い続けることはできません。あなたは言います、“はい、私はそれを問いました、今、私はその答えがどこにあるのかを見たいと思います”と。宜しいでしょうか? そこで、あなたはその問いから離れます。あなたは言います、“今、答えを見つけるために、見るために、私は一息入れなければならない、何らかの間隙が生じるのでなければならない、見るための静けさが生じるのでなければならない”と。
Q しかし、その間隙の中のどこにその問いがあるのでしょうか? 私はその問いを忘れています。
K 私は? 私はそのことを終了しています。私は問うてきて、私はこう言います、“私はなぜ私がそのようなイメージを作り上げるのかを明らかにしたいと思います”と。私はそのように問うてきました。私は問い続けることはできません。どのようにして私は明らかにしようとしているのでしょうか? 誰が私に告げようとしているのでしょうか? もしあなたが私に告げるなら、それは私にとって真実でしょうか? もし私が自分自身で明らかにできるなら、それが唯一の真実です、そして、自分自身で明らかにするためには、いかなるバイアスも、いかなる偏見も、いかなる緊張も、“答えはこれである、あれである”と言ういかなる発言もあってはなりません、従って、私は静かにしているのでなければなりません、違いますか? それは、思考が干渉してはならないことを意味します! 思考がそのようなイメージを作り上げてきました。違いますか? そして、思考が作り上げてきたそのようなイメージは古いのです、なぜなら、思考はいつも古いからです。従って、私はそれを見て取り、こう言います、“思考が干渉するや否や、私は本当の答えを見るけることはないでしょう”と。
Q 思考の代わりに、我々は愛で満たされるべきでしょう。
K 私は私が私自身を愛で満たすことはできないと思います、私はそれが何を意味するのか知りません。
Q 分かりました、私は我々があなたの言うこの点まで歩を進めてきたと思います。
K 宜しいでしょう! それでは、進めましょう。私は見て取りました、思考がそのようなイメージを作り上げていると、そして、思考が干渉していると、従って、それは現にある通りことの発見を、なぜ私がそのようなイメージを作り上げているのかの発見を妨げていると。宜しいでしょうか? なぜ思考は干渉するのでしょうか? そこで、私の問題は、なぜ精神がそれらのイメージを作り上げるのかではなく、なぜ思考は、そのイメージの作り手であるそれが絶えず干渉するのか、ということです。
Q そこで、思考はエゴを形成します...
K 思考はイメージを形成します、新しい言葉を持ち出さないで下さい、そうすると、それは複雑になります。我々はシンプルに言っています。思考はイメージを作り上げてきました、私があなたとの関係性の中で築き上げてきたイメージです、そして、思考はそれ自身に言います、今、私はなぜ私がそのようにしているのかを明らかにしなければならないと。思考は活動的です。宜しいでしょうか? そうして、思考は考えます、それは明らかにすると―待って下さい、、ゆっくり進んで下さい―そうして、思考は言います、私はそれを築き上げてきました、私はなぜ私がそれを築き上げてきたのか知りませんと、しかし、今、私は明らかにしなければならないと。思考は考えます、それは明らかにすると。それが明らかにするのは、それが過去の経験から描出したイメージです、従って、それは発見ではありません、それは単なる思考の活動です。
Q 思考は答えを手にすることができません。
K はい、そうです、それを我々は言いました。あなたは思考を静かにしておけますか? 思考はそれ自身にこう言えますか、何と、私は害悪を及ぼしてきました、今、私は静かにしているでしょうと。
Q 宜しいでしょうか、もし我々が本当にそのことを検討するなら、我々は見て取るでしょう、思考は答えを見るけることができないと。
K しかし、なぜあなたはそのことを見て取らないのでしょうか? 私はあなたについて考えることによって何らかのイメージを作り上げてきました、心地よくも、あるいは、あなたが私に苦痛をあたえてきたことによっても。思考はあなたについてそのイメージを作り上げてきました、快楽を通しても、苦痛を通しても。そこで、私は私自身に言います、なぜ私はそうしているのかと。私はそのように問います、そして、そのような問いが思考によって問われます、思考はその問いに答えようとします。そうすると、思考は―もしそれがその問いに答えるなら―イメージと同様のカテゴリーの中に入るでしょう。違いますか?
Q しかし、思考は単独で働いていません、それは我々の感情、我々の全ての精神と共に働いています。我々は非常に安易に言うかもしれません、我々の思考は我々の感情によって指図されていると―そのことはしばしば起こります。
K はい、そうです、我々はそれら全てのことを言ってきました。
Q 宜しいでしょうか、我々は、今、もう少しゆっくり進めませんか?
K 私はそうしているのです。
Q 思考がそれはイメージと同じだと発見するとき―我々はそれをもっと注意深く見ることができますか?
K 私はそうしています。例えば、私があなたと結婚しているとします、そして、私はあなたについて何らかのイメージを築き上げてきています―性的な快楽、あるいは、あなたが私に対して言ってきた侮辱的なこと、小言、へつらい、傷つくこと―それら全てがあなたについての何らかのイメージを築き上げることに作用してきました。それを行ってきたのは誰でしょうか? 性的な快楽について考えている思考、侮辱について考えている思考、へつらいについて考えている思考、つまり、あなたは言います、“今日のあなたは何て素敵なのでしょう、私はあなたの容姿が好きです! 私はそう言うあなたを尊敬します!”と―そのように、私はそれら全てを収集蓄積してきて、私はあなたについてのイメージを作り上げてきました。“私”はその思考です。宜しいでしょうか? 待って下さい。そのように、思考はそうしてきていて、そして、思考は抽象的な何かです、一方、あなたはリアルな何かです。イメージは抽象的な何かです、リアルではありません、しかし、あなたは非常にリアルです。そのように、私は抽象性の中であなたから遠ざかります。そうして、私は傷つきます、なぜなら、あなたが他の誰かに目をやるからです。そこで、今、私は私自身に言います、“なぜ私はそれら全てを行っているのか”と、なぜ思考はそれら全てを行っているのでしょうか―何らかのイメージを作り上げ、そのイメージに何かを更に付け加えたり、そのイメージから何かを取り去ったりしています、そして、こう問うています、“なぜそれはそうしているのか”と―そして、誰がそれに答えようとしているのかと。思考がそれを答えようとしているのでしょうか?
Q 思考は答えを与えられません。我々はこのことを見て取らねばなりません。
K もしあなたがそれを理解するなら、何が生じますか?
Q そうすると、沈黙が生じます。
K “沈黙”という言葉を使わないで下さい。ただ何が生じるのかを見て下さい―それは、あなたがいかなるイメージも抱かないことを意味します。それが生じていることです。思考がこう言うとき、私はそれを築いてきました、そして、私はなぜ私がそれを築いてきたのかを明らかにしようとしていますと、そして、そのような問いの馬鹿々々しさを見て取るとき、そうすると、あらゆるイメージ造りが終了します。違いますか? あなたはそうしていますか? そうすると、私はあなたを―私の妻あるいは夫を―イメージとは無縁に見ることができます。このことへ歩を進めて下さい。このことをもう少し深く検討して下さい。もうイメージが生じないとき、何が起こりますか?
Q そうすると、観察者がいません。
K いいえ、そうではありません、それを検討して下さい、それを矮小化しないで下さい。ゆっくり進めて下さい。
Q 本当の関係性が生じます。
K 私はその意味が分かりません! ここまで、宜しいでしょうか、私は一つのことのみを発見しています、つまり、思考がそのイメージを作り上げてきました、そして、その理由の答えを探し求めている思考が、それに囚われる別のイメージを作り上げると。それは思考の悪循環です。違いますか? 私はそのことを発見しました。従って、思考はもはやイメージを作り上げていません。そうすると、私の関係性とは何でしょうか―どうか、このことに歩を進めて下さい―私の様々なものとの、人々との関係性とは何でしょうか?
Q 直の気づきです。
Q 思考が止むとき、本当の私、自己が、ある意味でもっと明らかになります。
K その思考とは無縁の本当の私があるのでしょうか? 宜しいでしょうか、あなた自身の言葉に囚われないで下さい、気をつけてください。
Q 私は現にある通りのあなたを見ます。
K いえ、いえ。私はあなたに関心がありません。何が起こるのでしょうか、私があなたについてのいかなるイメージも抱かないとき、そのような関係性とは何でしょうか?
Q 死んでいる人が生きているものになる...
K 宜しいでしょうか、私はあなたがそうすることを願います、実際に、つまり、あなたが私について抱くイメージを払い除けるのです、あるいは、あなたの妻について、あるいは、誰か他の人についてのそれを払い除けて、見守るのです。そうして、そのような関係性が何であるのかを明らかにするのです。
Q (フランス語)もし私がそのような関係性の中にいるなら、そうすると、私はその人の気分や思考について行けます。
K それは私の問うていることではありません、すみません。我々は問うています、もし私がお金について、財産について、あなたについて―私の妻あるいは夫あるいは友人について―いかなるイメージも抱かないなら、そのような関係性とは何でしょうか?
Q そのように問うことは思考に戻ることです。
K いいえ、マダム、ただそのことを見て下さい。私はあなたについていかなるイメージも抱きません―そして、それは私が発見した途轍もないことです。そこで、私は私自身に言います、“私の関係性とは何か、この関係性とは何か、もし私がいかなるイメージも抱かないなら”と。
Q その関係性は終了します。
Q 宜しいでしょうか、それは検討するに極めて困難な質問です、なぜなら、我々が明らかにしようとするとき、それを言葉にしようとするとき、思考が発動するからです。
K 宜しいでしょうか、それを非常にシンプルにしましょう。あなたは私の友人です、私はあなたについて何らかのイメージを抱いています。宜しいでしょうか、私はあなたについていかなるイメージも抱きません。(私に答えないで下さい。)私はあなたについていかなるイメージも抱きません。私の中で何が起こりますか? 私のあなたとの関係性の中ではなく、私の中で何が実際に起こっていますか? 私は知りたいと思います、私の中で何が実際に起こっていますか?
Q あらゆる瞬間が新しいのです。
K おーっ、違います。どうか、マダム、あなたの言っているは全て推測です。これは謎解きゲームではありません。
Q あなたは事実です、あなたはもはや観念ではありません。
K おーっ、いいえ。あなたはそれを検討していません。私があらゆるものについてイメージを作り上げていないとき、私の中で何が起こっていますか? あなたは検討する時間を手にしていません、そして、あなたは直ぐに答えようとしています! どうか、あなた自身を見て下さい。もしあなたがこのことを行ったなら、何が起こるのかを明らかにして下さい、もしあなたがもはやイメージ、その当のものでないなら、何が起こっていますか?
Q 我々は知ることができません、なぜなら、もし我々が知るなら、我々はそれを概念化するでしょう。我々は依然としてそのイメージを手にしています。
K 宜しいでしょうか、私は言いました、もしあなたがいかなるイメージも抱かないなら―そして、我々はイメージを作る全てのプロセスを経験しました―もしあなたがそれをもう行わないなら、何が起こりますか?
Q そのイメージがあったそのスペースはそのイメージとは無縁です。
Q 宜しいでしょうか、我々は一歩後退しているように思われます、なぜなら、我々はあなたと一緒に歩んでいないからです。我々は恐らく直前のステップに戻れますか?
K 直前のステップはこうです、そのイメージを―快楽によって、苦痛などその他の全てによって―作り上げてきた思考はこう問うています、“なぜ私はそのようにしているのか”と。そして、思考は言います、私はこういう理由でそうしていると―従って、それは別のイメージを作り上げます。違いますか? そのように、思考が働いている限り、その機能はイメージを作り上げることです。我々は言いました、“私はそれを理解します、私はそれを発見しました”と、そうすると、そのような理解の中で、思考は停止します、静かになります。そこで、私は私自身に言います、何が生じているのかと。思考が完全に静かなとき、そして、いかなるものについてもイメージを築いていないとき、何が生じているのでしょうか?
Q (聞こえず)
......
死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?
......
K シンプルに。思考は何度も何度も繰り返しその尻尾を追いかけてきています。そして、思考は言います、“何て馬鹿なことを私はしているのか”と、そして止みます。違いますか? そうすると、何が生じるのでしょうか?
Q 私はそれを止めることができません。
K それでは、そうして下さい、尻尾を追いかけて下さい。
Q 宜しいでしょうか、そうすると、思考は終了します、それが、今、我々の知っている全てです。
K 私はあなたに示しています、もしあなたがそれを自分自身で行うなら、それは非常にシンプルなことです。思考はそれ自身の尻尾を追いかけてきました。違いますか? 今、思考はそれがとても愚かなことだと悟ります、従って、それは止みます! そうすると、何が生じるのでしょうか? どうか、そうして下さい。
Q あなたのイメージが生じないその瞬間、私自身のイメージは生じません。
K いいえ、そうではありません。それは私が問うていることではありません。思考がその尻尾を追いかけるのを止めるとき、そのとき、その瞬間に何が生じるのでしょうか?
Q 我々は知りません。
K もしあなたが知らないなら、あなたは尻尾を追いかけるのを止めていません。
Q 思考者がいなくなります。
K 宜しいでしょうか、あなた方はみな答えるのにとても性急すぎます。あなたはあなた自身を本当は見守ってきていません。あなたはあなた自身を見守るのにたった一分間さえも費やしてきていません。もしあなたがそうしてきたのなら、あなたは否応なくこの点に行き着きます、つまり、思考は絶えずそれ自身の尻尾を追いかけているということです。そうすると、思考それ自身が悟ります、それは何て愚かなことだと、従って、それは止みます。それでは、それが止むとき、何が生じるのでしょうか?
Q 我々は非常に静かでしょう。
K 我々は答えるのに性急すぎます、違いますか! 我々はこのゲームを諦めますか? それがあなたの行っていることです、謎解きゲームです。宜しいでしょうか! このことに耳を傾けて下さい。思考がそれ自身の尻尾を果てしなく噛むのを止めるとき、それが止むとき、何が生じるのでしょうか?
Q あなたは...にオープンになります。
K 私はあなたが向き合うのを拒んでいることを問うています。それはとてもシンプルです、思考がそれ自身の尻尾を噛むのを止めると、あなたはエネルギーに溢れます―違いますか? なぜなら、それを追いかけていると、あなたのエネルギーが消散してしまうからです。違いますか? そうすると、あなたは非常に熱気を帯びます。違いますか?
Q (聞こえず)
......
首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
......
K 非常に熱気を帯びた精神に何が生じますか、何らかの緊張感の下ではなく、思いつめた何かではなく、熱気です。何が生じますか? あなたはこれまで何かについて熱気を帯びたことがありますか、どうでしょうか? もしあるなら、何が生じますか?
Q そうすると、あなたは...いません、...である限り。
K 待って下さい、待って下さい、あなたが何かを言います、そして、それは消散します。あなたが熱気を帯びるとき、何が生じますか? 問題が生じません、従って、あなたはいません。争いが生じるときにのみ、あなたはいます。
Q そうすると、あなたはドアーの外です。
K 宜しいでしょうか、あなたは言語化しています。どうか、そうしないで下さい、我々は非常に深いことを検討してきています。せめても、あなたにそれを検討してほしいのです。そのような熱気の中には、観察者も観察されるものも存在しません。宜しいでしょうか、あなたが愛するとき―それを検討して下さい、あなたが愛するとき、観察者がいますか? 観察者は愛が欲望や快楽のときのみ存在します。欲望や快楽が愛と結びつかないとき、愛は熱気になります、違いますか? それは毎日新しい何かです、なぜなら、思考がそれに触っていないからです。
―1967年 8月5日 ザーネン