クリシュナムルティ 我々はみな自分自身に問うてきたはずです、全く新しくなることは可能かと、再び新しくなることは可能かと、身体ではなく、精神です、心です。新しく生まれ変わることは可能でしょうか、若い男性や若い女性としてではなく、生を再び全く新しく始めることではなく、生を、その壮大なあらゆる複雑さを抱えた、その苦痛やその不安や恐れに苦しむ生を、まるで初めてそれを見るかの如く見ることは可能でしょうか、そして、それを解決して、その背負ったものを我々が死ぬまで抱え込まないことは可能でしょうか? 精神や心を生まれ変わらせることは果たして可能でしょうか、そうして、それらが生を全く異なって見ることは可能でしょうか? 私は、今朝、その問題について話したいと思います、そして、それについて何ができるのかを、新鮮な精神を、明晰で、混乱していない、何らかの心配事や様々な問題や我々が習慣にしているあらゆる労苦とは無縁の精神をもつことができるのかどうかを明らかにしたいと思います、そして、嫉妬とは無縁の、愛情と愛に溢れた心をもつことができるのかどうかを、そうして、我々が一日一日を全く新しく生まれ変わることができるのかどうかを明らかにしたいと思います。
その新しい状態を生み出しうる何らかのメソッド、何らかの決定的な行為、肯定的であれ、否定的であれ、そのようなものがありうるのでしょうか? 我々の多くはそのように問うてきたはずです、意図的ではなくても、従って、恐らく、むしろ漠然と、あるいは、もし我々が奇妙な感傷に神秘的に傾いているなら。そのような問いを自分に課してみると、我々はその問いを超えて自分自身で実際に明らかにするための十分なエネルギーや体力や活力を持ち合わせていないのか、それとも、我々はそれをひどく安易に、無頓着に、興味本位に問うのかのいずれかです。明らかに、人が全体的にまとまるためには、何らかの外面的な変化が経済的そして社会的に生じなければなりません、個人が褐色であろうと、黒色であろうと、白色であろうと、ロシア人であろうと、共産主義者であろうと、社会主義者であろうと何であれ。我々は、この現在の醜悪な状態を取り除くために、人種的に、社会的に、政治的に、国家的に存在するそれらの違いを取り除くために、活動的に携わる必要があります。我々は“宗教”と称するあの愚かな壮大な商いの発明も処分しなければなりません、それは聖職者たちやその階層社会によってコントロールされている大会社であり、それはその他の諸々の商いと同じです。それは人をプロテスタント、カソリック、ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒などに分断します。叡智の、明晰な、真剣な人なら、それを完全に払い除けて、それら全ての愚かなナンセンスに関わりません。その人は貧困の消滅に関心をもちます、世界の特殊な一か所だけではなく、アメリカやいわゆるEUやCMだけではなく、貧困がもたらすアジアの途轍もない貧困や腐敗など全てに関心をもちます。科学者たちは我々に請け合います、それは達成されうると、そして、それは達成されなければならないと、戦争を終わらせると、その不断の物理的な安全性の欠如に終止符を打つと。それら全てを、健全で合理的な思考の誰もが行おうとします。我々は“人道主義者”や社会改良家のことを話しているのではありません、なぜなら、慈善家も社会改良家も余すことのない物理的な革命をもたらすことができないからです。それでも、そのような革命が生じなければなりません。
世界とその危機やそのひどい悲惨に気づいている叡智の人によって行われるべき何らかの変化の必要性や緊急性を脇へ置くと、そのことに関わるより深い問いが生じます。何世紀も条件づけられていて、社会の心理的構造の中に囚われている、人が受け入れるように強いられている数多くの影響のもとにある精神と心は、新しく生まれ変わることができるでしょうか、将来のいつかではなく、全東洋世界が信じる別の世ではなく―この西洋世界の中にも存在する異なる形の同じ信念ではなく―新しく生まれ変わることが果たして可能でしょうか、それは今のことです、この現在の瞬間のことです。我々は我々自身を時間の中に閉じ込めていません、そうではなく、新しく生まれ変わる何かが、時間には全く依存しないで新しく再生する何かが必要とされます。それが我々の明らかにしようとしている問いかけです。
我々は、我々の送る通常の生の馬鹿々々しさを、中流階級やブルジョアや共産主義者の生の馬鹿々々しさを、何らかのパターンを果てしなく繰り返している生の馬鹿々々しさを我々が見て取ったときにのみ、そのように問うことができます。我々はいつもコピーしています、模倣しています、我々は、新しい気づきや新しい活力そして新しい存在をもたらすことのない過去を継続しています。我々がそのような問いかけをするとき、我々の意図が非常に明確でなければならないだけではなく、我々は、誰もその問いに答えることができないことを十分に気づいていなければなりません。いかなる権威も我々に答えられません、時間的な産物である精神が、あるいは、躾けられて、文明化されて、磨かれてきた頭脳が、それでも動物に留まっている頭脳が、そのような状態を生きられるのかどうか答えることはできません―ただの一瞬の気づきではありません、そのような状態を継続するのではありません、そうではなく、それを生きることです。
我々が我々はそのような状態を継続することができるのかどうかを問うや否や、我々はもはや生きてはいません。十全に明瞭に生きている人は明日に関心がありません。関心が全く生じません、その人は生きていて、未来的な継続には目をやりません。いかなる形の継続も、技術の知識を除いて、新しいことに対しては全く破壊的です。継続するのは習慣であり、記憶であり、快楽や苦痛のパターンの繰り返しであり、欲望のパターンの繰り返しです。いかなる習慣の継続も、いかなるパターンの継続も、全く新しくて、若々しくて、決然としている、生き生きとした、過去に苛まれない精神の状態をもたらすことはできません。それが最初に認識することです、もし我々がこの問いかけを探究しようとするなら、それは、精神がそれ自身を新しくできるのかどうか、毎日新しくなりうるのかどうか、新鮮になりうるのかどうか、何ものにも汚染されずにいられるのかどうかということです。いかなる形の継続も、知識や技術を除いて、新鮮な精神にとっては、新たに生まれ変わることにとっては極めて有害であり、障害になります。継続するのは自己中心的な活動であり、ほとんどの我々がそれに囚われます―野心であり、欲望や嫉妬、快楽の追求、苦痛の排除、模倣、追随などその当の中心が担うその他の全てです。その当の中心はその継続性の産物であり、我々は言えません、“私はその継続性を私の意志や決意、欲望で終わらせます”と、しかし、我々がその継続性の中に含まれるあらゆる意味を見て取るとき、把握するとき、理解するとき、それはそれ自ら消え去ります。我々はそのことに気づくことができます、知的にではなく、情動的にではなく、実際に、事実の何かとして、それは、我々が、新しい精神の誕生の、新鮮な心や無垢の誕生のこの問いかけを探究するときにのみ可能です、なぜなら、死んでやり過ごすことがその継続性の消滅だからです。
ほとんどの我々にとって、死は我々の知っている何かの消滅です、我々の経験してきた何かの、あるいは、獲得してきた何かの消滅です、そして、我々は過去の何かの最終的な消滅を恐れます。我々は身体的な死をそれほど恐れません、なぜなら、我々は身体が毎年こうむる変化を知っているからです。それらの変化を精神はコントロールできません。物理的に、我々は朽ちていきます、病によって、事故によって、様々な不適切な生き方によってそうなります。我々は恐れます、死を超えた先の不可知の何かではなく、むしろ、我々が手にしているものを失うことを、既知のものを継続できないでいることを恐れます。我々は言えません、“新しく生まれ変わるために、新しい精神を、新鮮な心を手にするために過去を進んで消滅させる”と。我々はそれを成就できません、我々は、それを成し遂げるために意図して何らかのシステムを実践できません。何らかのシステムの実践は正にそれ自体が過去の継続です、従って、新しいものは何もありません。
もし人が耳を傾けるなら、話し手にだけではありません、あらゆる示唆にも、苦悶する世界のあらゆるものにも、快楽を享受する世界にも、戦争する世界にも耳を傾けるなら、その正に耳を傾ける行為が、この上ない奇跡です、この上ない神秘的な何かです。もし人が耳を傾けることができて、人の耳を傾ける内容を解釈しないなら、あるいは、人の聞く内容を言い変えて解釈しないなら、あるいは、非難しないなら、あるいは、判断しないなら、あるいは、自己中心的な働きである思考が行うその他の全ての干渉を引きずらないなら―もし人が実際に耳を傾けることができるなら、そうすると、人は自分自身で分かるでしょう、人は何らかのことができるけれども、政治的な状況を変えることや経済的なまとまりをもたらすことや貧困を一掃することなど、人はそれら全てをできて、人はそうすべきであるけれども、人は他のことについては何一つできないと。分析したり、詳細に調べたり、自分自身を露わにしたり、人の存在の状態を全て検討したりしても、それは、ただ更なる混乱、更なる悲惨、更なる争いに行き着くにすぎません、しかし、もし人が耳を傾けるなら、人があの水の流れに耳を傾けるように、静かに、何かを獲得する感覚とは無縁に、何かを保持したり、あるいは、何かを拒絶したりする感覚とは無縁にそうするなら、人は分かるでしょう、その正に耳を傾けることが自己中心的な活動に終止符を打つと。
私はあなたに何かを行うように請うているのではありません、ただ耳を傾けるように言っているのです。私は何らかの観念や理論、空想的な何か、神秘的な何か、あるいは何らかの概念に携わっているのではありません。私はただ現にある通りのことを指摘しているにすぎません。もしあなたが何ものにも傾倒していない開かれた心と精神で耳を傾けているのなら、ただ耳を傾けているのなら、その正に耳を傾けることが何らかの行為になります、そして、それが、そのいわゆる継続性に、何らかの要求や追求を繰り返すそのプロセスに、その模倣的なプロセスに終止符を打つ唯一の行為、唯一の働きです。あなたは自分自身で非常に明瞭に見て取れます、継続するものは新しい何かに決して気づいたり理解したりできないと。何かを死んでやり過ごすときにのみ、新しい何かが生まれます。我々自身を死んでやり過ごすこと、その“我々自身”がこの継続性の正に中心を形作ります、既知を死んでやり過ごすこと、既知から自由になること、それが精神の新しい再生です。それが何らかの新鮮さをもたらします。そうすると、あなたは、あの山、川、樹木、女性、男性、子供たちを全く異なる何かとして、新しい何かとして見て取ります。
それがほとんどの我々の請うていることです、要求していることです、なぜなら、人が知的になればなるほど、人が気づけば気づくほど、人が世界について知らされればされるほど、それ自体を絶えず繰り返している歴史の全てを知れば知るほど、人は人が新しく生まれ変われるのかどうかを、新鮮に生まれ変われるのかどうかを請います、そうやって、人は異なる種類の生を生きられるのかどうかを、異なる行動をなしうるのかどうかを、異なる存在に気づけるのかどうかを問います。それが我々の、毎日、探し求めている全てです。我々は日ごとに年齢を重ねます、若い人たちでさえ年齢を重ねます、そして、もし我々の誰もがそれら全てのことに気づくなら、問うに値する唯一の質問は、“新しく生まれ変わることは可能なのか、そうして、精神と心が新しく、新鮮で、そうして、それらがそれら自身を新しくできて、それらがいつも新鮮で、いつも若々しく、いつも生き生きとして新しくいられるのか”ということです。それには大いなるエネルギーを要します、しかし、それは争いや暴力や何らかの意図、何らかの努力によって引き起こされたエネルギーではありません。それら全てにはそれら独自のエネルギーがあります、しかし、我々は自分自身で見て取っています、毎日新しくなるためには、毎日新しく生まれ変わるためには、あらゆる既知を毎日死んでやり過ごすためには、そうして、新鮮な何かが、新しい何かが生まれて、その中を生きるためには、それを維持するのではなく、その状態の中にいるためには、争いによって引き起こされるエネルギーではない驚くべきエネルギーを要すると。
我々はこのエネルギーが何であるのかを探究しなければなりません。もし我々が健康で、強靭で、活力があるなら、我々は大いなる身体的なエネルギーを手にして、それは何らかの攻撃性や暴力のために使われ、どこかへ行こうとしたり、何かを行おうとしたりします。争いによって大いなるエネルギーが生み出されます、そして、我々の関係性のほとんどは何らかの争いです。我々は毎日会社へ行くためにエネルギーを必要とします、我々は学ぶために、行うために、振舞うためにエネルギーを必要とします。快楽や何かの獲得や名声を追い求める精神によってもたらされた、作られた、生み出された、引き起こされたエネルギーが新鮮な精神や若々しい精神を生むことは決してないでしょう。我々は、精神が知覚してきた、見てきた、観察してきて蓄えてきたあらゆるものを毎日葬るエネルギーが何であるのかを探究する必要があります。そのためには、我々が獲得してきたものを、我々が蓄積してきたものを死んでやり過ごす必要があります、我々の知識として手にしてきたものを、記憶してきたものを、収集蓄積してきたものを死んでやり過ごす必要があります。毎日経験を重ねる精神の死には、生のあらゆる活動に反射的に反応する頭脳の死には、我々全ての中の動物性の消滅には―それら全てにはエネルギーが必要です。それは知的なものではありません。知性は、必要とされるそのようなエネルギーを決して生み出せません。それは行動するときエネルギーを作り出します、何かを行うとき、何らかの観念に従うとき、何かを収集蓄積するとき、そして、その収集蓄積されたものを行動に移すときエネルギーを作り出します、しかし、それは我々の話しているエネルギーではありません。我々は、毎日死んでやり過ごす新鮮で新しい精神と心のために必要なエネルギー、活力、力のことを話しています。
我々は、一緒に、そのエネルギーが何であるのかを明らかにしようと思います。それは話し手があなたに言うことではありません。我々は我々の探究を共に行っています。我々は我々が手にしなければならないその途方もないエネルギーに踏み込んでいこうとしています。我々は自分自身に問うています、精神を若くしているその力が何なのかを。私は知りません、あなたがそれにどのように答えるのかを、あなたの答えが何なのかを知りません、たとえあなたが何らかの答えを手にしていても。我々一人ひとりにとって、我々は答えられるのを待っているのかどうか、誰かが答えるのを我々は待っているのかどうかを明らかにすることは非常に重要です。それを誰も答えません、それを答えるのはあなたの神々でも、あなたの聖職者たちでも、とりわけ共産主義者でもありません。その人はそれに興味がありません。あなたはどのようにこの問いに答えるのでしょうか、あらゆる既知を毎日、経験したあらゆるものを毎日死んでやり過ごすというこの問いにどのように答えるのでしょうか? 正に死んでやり過ごすなかに新しさが生じます。
複雑などのような問題もシンプルに取り組むのでなければなりません。人間の抱えるあらゆる複雑な問題には特にシンプルに答えねばなりません。その“シンプル”という言葉には様々な意味が纏わりついています。シンプルとは何なのかの様々な概念があります。もしあなたが東洋で育っているなら、シンプルとは一日一食や単衣のことです、そして、それは明らかにシンプルに取り組むこととは違います。ここ西洋では、その言葉はそれとは異なる意味合いをもちます。我々は、その“シンプル”という言葉を、複雑にさせない、観念や概念で押しつぶさせないという意味で使っています。単にシンプルであることは非常に難しいことです。いかなる動機とも無縁で、いつもそれ自身を新しくしているそのようなエネルギーのことを明らかにするためには、我々は途方もなくシンプルになる必要があります。そのようなエネルギーとは何でしょうか? 我々はその答えを一言で言えますが、その言葉にはとても様々な意味が纏わりついていて、それが何世紀も繰り返され、それは疲弊し、その真実の美を失っています。その言葉は愛です。ただそれに耳を傾けて下さい、愛と称されるものの断片にではありません。我々は愛を性愛としてだけ、身体的な愛としてだけ知っています、嫉妬や恐れに取り巻かれた愛です、神を愛することです、人を愛することです。それが我々の愛と称するものです。我々はその言葉を、我々が他の人と、性的に、あるいは、単に身体的に触れ合って、途轍もなく親密になるときに使うだけです。我々はそれを、二人の人間の間に何らかの関係性が存在するとき、その中で争いや支配や執着が生じないときに使います。我々は、その言葉を、我々がその途方もない感情を抱くその瞬間使います、しかし、その感情は次の瞬間に消え去ります。思考が介入して、その継続を要求します、その快楽の繰り返しを要求します。そして、思考のあらゆる装置が機能し始めます。
我々は事実ではない言葉のことを話しています。言葉やシンボルは決して事実ではありません。我々は、その中にいかなる断片化もない、“他者”の感覚が存在しない、観察者が全く存在しなくて、従って、観察されるものがもはや存在しない言葉のことを話しています。このことを我々は非常に深く理解しなければなりません、そうでないと、その言葉は非常に僅かの意味しかありません、通常のブルジョア的意味を除いて。言葉ではないその愛、そのエネルギーが精神と心を新たに生まれ変わらせます、そうして、それらはいつも新鮮です。そのエネルギーのみが精神を新鮮にします、それは時間の中ではありません。どのような経験であろうと、どのような印象であろうと、獲得されたどのような知識であろうと、それが生じるや否や、それは消え去ります。それは生じて、経験されて、そして、消滅します、全て瞬時に起こります。あなたは言葉を超えているものを獲得できません。あなたはそれを実践できません。その“実践する”という言葉はひどい言葉です。何かを獲得するために毎日毎日何かを行うということは、この上なく醜悪な、ブルジョア的な、悲痛なことです。
あなたは、努力とは無縁で、あなたが非常に穏やかでいるとき、あなたの部屋で、バスの中で、あるいは、あなたが一人で森の中にいるとき、その途方もない変化が生じるのに気づいたことがありますか? 精神はとても充実していて豊穣なので、それは考えていません、見ていません、観察していません。それは正に余すことのない何かです、なぜなら、それは観察者でも観察されるものでもないからです。そのような状態だけが愛です、それは我々が話してきた通常のそれではありません。そのような愛のみが継続性に終止符を打てます。そうすると、生が意味をもちます、なぜなら、継続性が消滅しているからです。
質問者 我々の周りの他の人たちの生に耳を傾けるためには、通常の物理的習慣を継続することが必要なことではないのですか?
クリシュナムルティ 継続することで何かに正に耳を傾けますか? 我々は言いました、人は物理的に継続しなければならないと、人はただ単に湖に向かって飛び込むことはできないと、しかし、それが他の誰かに耳を傾ける助けになりますか? その問いの背後にあるのは何でしょうか? あなたはカトリック教徒に耳を傾けました、そして、それによって何かを手にしました。あなたは仏教徒に耳を傾けました、そして、それによって何かを手にしました。あなたは共産主義者たちに耳を傾けて何かを収集しました。様々な生に耳を傾けてそれらが収集蓄積されました。あなたはそれらを収集してきて、それらが何らかの継続性になります。我々は言っています、全ての収集蓄積が正に葬られなければならないと。あなたが収集するのは美術館にあるそれです、しかし、美術館は絵画そのものを決して描きません。絵画は、美術館や画廊あるいは画廊の持ち主にはもはや関心をもたない人によって描かれます。その人は絵画のもたらす何らかの感覚に関心があります。もしその人に何らかの能力があるなら、その人は描きます、しかし、描くこと、表現には僅かの価値しかありません。それが価値をもつのは、それによって金銭を生み出す収集者だけです。もし絵描きや音楽家が金銭やそれを収集することに関心をもつなら、その人は絵描きや音楽家を止めています。
質問者 私は私の毎日の生活が重要ではないと感じています、私は何か他のことを行っているべきだと感じています。
クリシュナムルティ あなたが食事をしているときは食事をして下さい。あなたが散歩しているときは散歩して下さい。言わないで下さい、“私は何か他のことを行っていなければならない”と。あなたが読書しているとき、それに完全に気をつけていて下さい、それが探偵小説であろうと、雑誌であろうと、聖書であろうと何であれ。完全に気をつけることは完全な行為です、従って、“私は何か他のことを行っていなければならない”ということは全く生じません。我々が気をつけていないときにのみ、我々は、“本当に、私はもっと良い何かを行っていなければならない”と感じます。もし我々が食事をしているとき、我々が完全に気をつけているなら、それが行為です。重要なことは、我々が行っている何かではなく、我々は余すことなく気をつけることができるかどうかです。私がその言葉で言う意味は、学校あるいは職場で、精神集中して学ぶ何かではなく、我々の身体で、我々の神経組織で、我々の目で、我々の耳で、我々の精神で、我々の心で気をつけることです―完全に。もし我々がそのように行うなら、我々の生の中に途轍もない危機が生じます。そうすると、何かが、我々の全エネルギー、活力、気をつけることを必要とします。生はそのように気をつけることを一瞬一瞬要求します、しかし、気をつけないことが我々の習い性なので、我々はいつも気をつけることから気をつけないことへ逃げようとしています。我々は言います、“どのようにして私は気をつけるのでしょうか、私は怠け者です”と。怠け者でいなさい、しかし、その怠け者に余すことなく気をつけていて下さい。あなたが完全に気をつけていないことを知って下さい。そうすると、あなたがあなたは余すことなく気をつけていないことにあなたが気をつけていると知るとき、あなたは気をつけています。
―1966年 7月28日 ザーネン