アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

渡良瀬川

     あなたの中に月は出ていますか?

クリシュナムルティ 私は思います、コミュニケーションとコミューニオンとの間には大きな違いがあると。コミュニケーションでは観念の共有があります、言葉を通じて、それが心地よくても不愉快でも、シンボルや態度などを通じて、観念が共有されます、そして、観念は思想的に解釈されます、あるいは、人自身の特異性や個性や背景に従って解釈されます。しかし、コミューニオンでは、私は思います、何か全く異なることが生じると。コミューニオンでは、観念の共有あるいは解釈は生じません。あなたは言葉でコミュニケイトしているかもしれませんが、あるいは、言葉でそうしていないかもしれませんが、あなたは直にあなたの観察しているものに関係しています、そして、あなたはあなた自身の精神、あなた自身の心と通じ合っています。人は樹木と通じ合うかもしれません、例えば、山と、あるいは、川と通じ合うかもしれません。私は知りません、あなたがこれまで樹木の下に座って、そして、本当にそれと通じ合おうと試みたことがあるのかどうかを。それは感傷的な何かでも、情動的な何かでもありません、あなたはその樹木と直に触れあっています。そこには途方もない親密な関係性が生じます。そのようなコミューニオンの中には何らかの沈黙が生じるに違いありません、深い静かな感覚が生じるに違いありません、あなたの神経、あなたの身体は鎮まっています、心臓自身がほとんど活動を止めます。いかなる解釈も生じません、いかなるコミュニケーションも生じません、いかなる共有も生じません。その樹木はあなたではありませんし、あなたはその樹木と一体になっているのでもありません、つまり、非常に深い沈黙の中にこの親密な感覚が生じているにすぎません。私はあなたがそのことをこれまで試みたことがあるのかどうか知りません。いつかそれを試みて下さい―あなたの精神がお喋りをしていないとき、あちこち彷徨っていないとき、あなたが独り言を言っていないとき、あなたがかつて行われたこと、あるいは、行われなければならないことを思い出していないとき。それら全てを忘れて、ただ山と通じ合うことを試みて下さい、川の流れと通じ合うことを、人と通じ合うことを、樹木と通じ合うことを、生の正に働きと通じ合うことを試みて下さい。そのためには、驚くほどの静かな感覚を要します、そして、気をつける独特の感覚を要します―それは精神集中ではありません、それは、楽に、心地よく、気をつけることです。
 宜しいでしょうか、私はあなたと、今朝、我々が先日議論していたことについて通じ合いたいと思います。我々は自由について話していました、そして、その質について話していました。自由は何らかの理想ではありません、遥か遠くにある何かではありません、それは牢獄に囚われている精神の観念的産物ではありません―それはただの理論にすぎません。自由は精神がもはやいかなる問題によっても無能にされていないときにのみありえます。問題を抱えている精神は決して自由と通じ合えません、あるいは、自由の途方もない質に気づくことはできません。

       “穂先”の“不動の動”とは何でしょうか?
       “穂先”はいかなる問題も抱えないのでしょうか?

 ほとんどの人々が何らかの様々な問題を抱えています、そして、人々はそれらにただ我慢しているだけです、人々はそれらの問題に慣れていて、それらを人々の生の一部として受け入れます。しかし、それらの問題はそれらを受け入れたり、それらに慣れたりすることによっては解決されません、そして、たとえあなたがその表面を弄っても、それらはそこにあって、依然としてくすぶり続けています。そして、ほとんどの人々がそのような状態の中を生きています―常時、次から次へと問題を受け入れています、次から次へと痛みを受け入れています―そこには幻滅する思いがあります、不安や絶望感があります、そして、人々はそれを受け入れます。
 宜しいでしょうか、もし我々が単に問題を受け入れて、それらと共に生きるなら、我々は明らかにそれらの問題を全く解決していません。我々は言うかもしれません、それらは忘れ去られたと、あるいは、それらは問題ではありませんと、しかし、それらは正に問題です、際限なく、なぜなら、それらは精神を歪曲するからです、気づきを歪めるからです、そして、明晰さを破壊するからです。もし我々が何らかの問題を抱えるなら、ほとんどの我々にとって、その問題が我々の生の全領域を占めます。それはお金の問題かもしれません、セックスのそれかもしれません、無教養のそれかもしれません、あるいは、自己成就欲や有名欲かもしれません、それが何であれ、我々はその一つの問題をとても気にかけて、それが我々の存在を消耗させます、そして、我々は考えます、それを解決することによって、我々は我々の全ての悲惨から自由になると。しかし、狭量なちっぽけな精神がそれ自身特有の問題を、生の全活動に関しないそれを解決しようと努めている限り、それは決して問題から自由になりえません。あらゆる問題が別の問題と関連しています、そして、もしあなたが単に一つの問題を取り上げて、それを断片的に解決しようとするなら、あなたの行っていることは全く役に立ちません。それは、農地の一か所を耕して、あなたが全ての農地を耕したと考えるようなものです。あなたは全農地を耕す必要があります、あなたはあらゆる問題を見る必要があります。
 私が先日言っていたように、重要なことは問題の解決ではなく、その理解です―どんなに辛くても、どんなに手がかかっても、どんなにその問題が急を要したり、差し迫っていたりするかもしれなくても。私は教条的になっているのでも断定的に言っているのでもなく、私には思えます、一つの問題だけに関心を持つことは非常に取るに足らない狭い精神であることを示していると、そして、それ自身の特有の問題をひっきりなしに絶えず解決しようとしている非常に取るに足らない精神は、決して問題の出口を見つけることができません。それは様々な方法で逃げることができます、それは辛辣に、シニカルになりえます、あるいは、それはお手上げになって絶望しえます、しかし、それは決して存在の全問題を理解することができません。
 そうすると、もし我々が問題を扱うことになるなら、我々は問題が生じる全領域を扱わなければなりません、ただ一つの特殊な問題ではなく。どの一つの問題も―いかにそれが複雑であっても、どんなに手がかかっても、あるいは、差し迫っていても―他のあらゆる問題と関連しています、従って、その問題を断片的に考えないことが重要です、そして、それはそれを行うのが最も難しいことの一つです。我々が、急を要する、辛い、執拗な問題を抱えるとき、ほとんどの我々は考えます、我々はそれを例外的に解決しなければならないと、その問題のあらゆる関連性を考慮せずに。我々はその問題を断片的に考えます、そして、断片的な精神は実に狭量な精神です、それは―その言葉を使わせてもらうなら―ブルジョア的な精神です。どうか、私は貶しているのではありません、私はその言葉を軽蔑的に使っているのではなく、単に、そのような精神が実際に何なのかを示すものとして言っているにすぎません。凡庸な精神こそが特定の問題を例外的に解決したがります。嫉妬に取りつかれた人は即座に行動を起こしたがります、それについて何かをしたいと思います、その嫉妬を抑えようとするか、それとも、復讐をしようとするかです。しかし、その特定の問題は他の問題と非常に深く関連しています、そのように、我々は全ての事柄を考慮する必要があります、その単なる一部分だけではなく。
 我々が問題について議論しているとき、理解されていなければならないことがあります、それは、我々が何らかの問題の答えを見つけようとしているのではないということです。私が指摘してきたように、問題の答えを見つけるための単なる探究はその問題からの逃亡です。そのような逃亡は心地よいかもしれませんし辛いことかもしれません、それは何らかの知的な能力などを要するかもしれません、しかし、それが何であれ、それは依然として逃亡です。もし我々が我々の問題を解決しようとしているのなら、もし我々がそれらから自由になろうとしているのなら、それがもたらすあらゆるプレッシャーから解放されて、精神が完全に鎮まり、何かに気づけるようになろうとしているのなら―なぜなら、それは自由の中にのみ気づけるからです―我々の最初の関心は、問題をいかに解決するのかではなく、それをいかに理解するのかでなければなりません。理解することは問題を解決することよりも遥かにずっと重要です。理解することは、様々な形の分析的な知識を獲得してきて、何らかの特定の問題を分析できる精神の能力や賢さのことではなく、理解する精神が問題と通じ合うことです。通じ合うことはその問題と一体化することではありません。私が言ったように、樹木と、人間と、川と、自然の途方もない美と通じ合うためには、何らかの静けさがなければなりません、何らかの独存する感覚がなければなりません、物事から遥かに離れている感覚がなければなりません。

          あなたの中に月は出ていますか?

 そうすると、我々が此処で行おうとしていることは、問題といかに通じ合うのかを学ぶことです。しかし、あなたはこの発言の中にある難しさを理解しますか? 誰かと通じ合うとき、“私”という考えは存在しません。あなたがあなたの愛する人と通じ合うとき、あなたの妻やあなたの子供と通じ合うとき、あなたが友人の手を握るとき、その瞬間には―もしそれが単なる偽りの感傷や感覚など、愛と称される、その他の全てでなく、全く異なる何か、活力のある、躍動する、本当の何かであるなら―思考的プロセスを伴う、”私“の全メカニズムが全く存在しません。同様に、問題と通じ合うことは完全な、同定化をしない観察です、違いますか? あなたの神経、あなたの頭脳、あなたの身体―全存在が鎮まっています。そのような状態の中で、あなたは問題を同定化することなく観察できます。そして、それが問題を理解するこのできる唯一の状態です。

最晩年、J.クリシュナムルティはインドから成田を経由して米国へ向かう機内で、成田から同乗した高橋重敏氏の手をずっと握り締めていました―高橋氏・談

 宜しいでしょうか、いわゆる芸術家は樹木を描くかもしれません、あるいは、それについて詩を書くかもしれませんが、私には思えます、その人は本当にその樹木と通じ合っているのかと。そのようなコミューニオンの状態の中では、いかなる解釈も生じません、いかなるコミュニケーションの感覚も生じません、表現の仕方を探すことは生じません。あなたがそのようなコミューニオンを言葉で、カンバスで、あるいは、石で表現しようとしまいと、それはほとんど重要ではありません、しかし、あなたがそれを表現したいと、それを見せたいと、それを売りたいと、有名になりたいなどと思うや否や、自己の重要性が紛れ込んできます。
 そのように、私が先日言っていたように、問題を理解するためには―あらゆる問題です―あなたは欲望の全プロセスを理解する必要があります。我々は心理的に自己矛盾しています、従って、我々の行動の中に自己矛盾が生じます。我々はあることを考えて他のことを行います。我々は自己矛盾の状態の中を生きています、そうでなければ、いかなる問題も生じないでしょう、そして、自己矛盾は欲望を理解していないときに生じます。いかなる種類の争いとも無縁に生きるためには、人は欲望の構造と性質を理解する必要があります―それを抑圧するのではありません、それをコントロールするのではありません、それを破壊しようとするのではありません、あるいは、単にそれに耽るのではありません、ほとんどの人たちがそうするように。それは目を塞ぐことを意味しません、無為に過ごすことを意味しません、そして、あらゆる堕落した生を受け入れることを意味しません。それが意味するのは、自分自身で、あらゆる形の争い―それが人の妻や夫との諍いであろうと、共同体や社会との諍いであろうと、それが何であろうと―が精神を堕落させることを、精神を鈍く、鈍感にさせることを見て取ることです。
 私が先日言ったように、欲望そのものは矛盾の状態の中にはありません―それは欲望の対象です、欲望のそれらの対象に対する反応、それが矛盾を生じさせます。欲望が継続性をもつのは、思考がその欲望と一体化するときのみです。観察するためには何らかの感受性がなければなりません、人の神経、人の目や耳、人の全存在が生き生きとしていなければなりません、それでも、精神は鎮まっていなければなりません。そうすると、人は美しい車を見ることができます、美しい女性を、壮麗な家を見ることができます、あるいは、途方もなく生き生きとしている、明晰な顔を見ることができます―人はそれらを観察することができます、それらを現にある通りに見て取ることができます、そうすると、問題は終了します。しかし、一般的に何が起こりますか? 欲望が生じます、そして、思考が、それ自身をそのような欲望と一体化して、それに継続性を与えます。
 私は知りません、私が自分自身を明瞭にしているのかどうかを。我々は少し後でこの点を議論するでしょう。
 重要なことは、思考を持ち出さずに観察することです。宜しいでしょうか、この発言から問題を作り出さないで下さい。言わないで下さい、“どのように私は観察するのでしょうか、どのように私は思考を干渉させずに見たり感じたりするのでしょうか”と。もしあなたが自分自身で欲望の全プロセスに気づくなら、そして、その対象によってもたらされた矛盾に気づくなら、そして、思考が欲望に与える継続性に気づくなら―もしあなたがその成り立ちの全てを見て取るなら、そうすると、あなたはそのような質問をしないでしょう。
 宜しいでしょうか、車の運転の仕方を学ぶためには、それについてただ言われるだけでは十分ではありません。あなたは運転席に座って、車をスタートさせ、ブレーキの踏み方、ドライブの全ての動作を学ぶ必要があります。同じように、あなたは思考と欲望の途方もない繊細なメカニズムを知る必要があります、あなたはそれについてただ教えられるのではありません。あなたはそれを見る必要があります、それについてあなた自身で学ぶ必要があります―そして、それには繊細なアプローチを要します。
 そのように、重要なのは問題の解決ではなく、問題の理解です。問題は、矛盾や争いがあるときにのみ生じます、そして、争いは努力を意味します、違いますか?―何かを成就しようとする努力です、何かになろうとする努力です、これをあれに変えようとする努力です、あるものをできるだけ近くに置き、他の何かを遠ざける努力です。このような努力は欲望を出自とします―思考が継続性を与えてきた欲望です。そのように、あなたはこの全プロセスを学ぶ必要があります―学ぶのです、ただ話し手によって教えられるのではありません、それには全く価値がありません。あなたが電話機で聞くことは心地よいかもしれません、あるいは、それは不愉快かもしれません、それは真実かもしれません、あるいは、それは愚かなことで、完全に誤りかもしれません、しかし、あなたの聞く何かが正に重要であって、その道具それ自体ではありません。ほとんどの我々は重要性をその道具に託します。我々は考えます、その道具が我々に何かを教えようとしていると、そして、私は絶えずそのような愚かさに警告を発してきました。
 あなたは学ぶために此処にいます、そして、あなたは耳を傾けています、単に話し手にではなく、あなた自身に耳を傾けています。あなたはあなた自身の精神と通じ合っています、あなたは欲望の働きを観察しています、そして、欲望がどのように生じるのかを。あなたはあなた自身と親密になっています、そして、その親密さは、あなたが問題に非常に静かに取り組むときにのみ、深く感じうるのです、あなたは言いません、“私はこの汚らわしいことを解決しなければならない”と、そして、そうすることによって高揚したり、興奮したりしません。あなたは問題がどのように生じるのかを明らかにしています、そして、思考がその特定の欲望に継続性を与えることによって、どのように思考がそれを永続させるのかを。そのように、我々は問題が生じることについて学んでいます、そして、その問題の消滅についてです―時間をかけてそれを熟考するのではなく、その即座の消滅です。
 問題が何であれ、思考はそれに継続性を与えます。もしあなたが何か心地よいことを私に言うなら、思考がそれ自身をその心地よさと一体化させて、その中を生き続けたいと思います、従って、私はあなたを私の友人と見なします、そして、私はしばしばあなたに会います。しかし、もしあなたが私を侮辱する何かを言うなら、何が起こりますか? 再び、私はそれについて考えて、その特定の感情に継続性を与えます。あなたの言ったことは真実かもしれませんが、私はそれを好みません、従って、私はあなたを避けます、あるいは、私はあなたに反撃したいと思います。それが正に問題を作り出して、それらを継続させるメカニズムです。
 私は思います、このことは極めて明白であると。何かについて絶えず考えることによって、人はそれに継続性を与えます。あなたは知っています、あなた自身やあなたの家族についてあなたの考える面倒なこと、全ての楽しい記憶、そして、あなたがあなた自身について抱く幻想―あなたは絶えずそれら全てについて考えます、従って、それは何らかの継続性をもちます。宜しいでしょうか、もしあなたがその全プロセスを理解し始めて、自分自身で継続性の有様を学ぶなら、そうすると、問題が生じるとき、あなたはそれと完全に通じ合うことができます、なぜなら、思考が干渉しないからです、従って、その問題が即座に消滅します。お分かりでしょうか?
 宜しいでしょうか、非常にありふれた問題を取り上げましょう、安全であることを欲望することです。ほとんどの我々は安全でありたいと願います―それが人間の動物的な要求の一つです。明らかに、あなたには物理的な意味で何らかの安全性を手にしなければなりません。あなたは生きる場所を持たなければなりません、そして、あなたはあなたの次の食事をしようとする場所を知っていなければなりません―もしあなたが東洋で生きていないなら、そこでは、あなたは物理的な安全性を欠いたところで遊ぶことになります、村から村へ彷徨するなどのことをすることになります。幸運にも、あるいは、不幸にも、あなたはここではそうすることにはなりえません、もしあなたがそうするなら、あなたは浮浪罪で牢獄へ送られるなどその他の全てが起こるでしょう。
 動物には、赤ん坊には、子供には、物理的に安全であることへの衝動が非常に強いのです。そして、ほとんどの我々は心理的に安全であることを要求します、我々の行うこと、考えることや感じることの全てにおいて、我々は安全であること、確かであることを願います。それが我々のとても競争的である理由です、それが我々の嫉妬深い、貪欲な、妬まし気な、残酷な理由です、それが我々のとても些細なことを気にする理由です。そのような心理的安全性の執拗な要求は何百万年も存在してきました、そして、我々はそのことの真理を決して探究せずにきました。我々は我々が心理的な安全性を我々の家族との関係、我々の妻や夫との関係、我々の子供たちとの関係、我々の財産との関係、我々が神と呼ぶものとの関係の中で手にしなければならないことを当然のこととしてきました。何としても、我々は安全であることを感じなければなりません。
 宜しいでしょうか、私はこの心理的な安全性を求めることに通じたいと思います、なぜなら、それが本当の問題だからです。お分かりでしょうか? 心理的な安全性を感じないことは、ほとんどの我々にとって、理性を失うことを意味します、あるいは、神経症に、奇妙な何かになることを意味します、あなたは多くの人々の顔の中にこの奇妙な表情を見ることができます。私はこのことの真理を明らかにしたいと思います、私はこの安全性の全要求を理解したいと思います、なぜなら、それが、嫉妬や不安を生む関係性の中に、ほとんどの我々が生きている憎悪や悲惨を生む関係性の中に、安全性を欲望する理由だからです。そして、何百万年も安全であることを追い求めてきて、精神は、とても条件づけられているそれは、どのように安全性の真理を明らかにするのでしょうか? その真理を明らかにするためには、明らかに、私はそれと通じ合っている必要があります。私は誰かにそれについて告げられることはできません―それはとても馬鹿げていることでしょう。私は自分自身でそれについて学ぶ必要があります。私はそれを探究する必要があります、明かにする必要があります、私はこの安全性の要求に完全に親密に通じ合う必要があります、そうでなければ、私はそのような安全性があるのかないのか決して分からないでしょう。このことは恐らくほとんどの我々にとって大きな問題です。もし私が安全性というものはないと発見するなら、問題は生じません、違いますか? そうすると、私は安全性のこの戦いから抜け出します、従って、私の関係性の中の行為は全く異なります。もし私の妻が去りたいと思うなら、彼女は去ります、そして、私はそれを問題にしません、私は誰も憎みません、私は嫉妬しません、妬みません、苛立つなどその他の全てが生じません。
 私は、あなたが、今、聞き耳を立てているのが分かります、宜しいでしょう! あなたはこの種のことを私より非常にずっと身近に感じています。個人的には、私は安全性を問題にしません、私は私の生の中でいかなる種類の問題も作り出したくありません―経済的、社会的、心理的なそれです、あるいは、いわゆる宗教的なそれです。私は非常に明瞭に見て取ります、問題を抱える精神は鈍くなると、鈍感になると、そして、感受性の高い精神にのみ叡智が生まれると。そして、この安全性の叫びが我々の一人ひとりの中にとても深く生じて、絶え間ないので、私は安全性の真理を明らかにしたいと思います。しかし、このことを探究するのは非常に難しいことです、なぜなら、子供の時からだけではなく、有史以来、我々はいつも安全であることを願ってきました―仕事上の安全性、我々の思考や感情の中の、我々の信念や我々の神の中の、我々の国家の中の、我々の家族や財産の安全性です。それが記憶の、伝統の、過去の全背景が我々の生の中で途方もなく重要な役割を演じる理由です。
 宜しいでしょうか、あらゆる経験が私の安全観に追加されます。お分かりでしょうか? あらゆる経験が記憶の中に蓄積されています、起こったことの貯蔵庫に追加されます。その収集蓄積された経験が、私の生きている限り、私の永久の背景になります、そして、その背景によって私は更に経験します、従って、あらゆる更なる経験が私の安心安全と感じる記憶の背景に追加されて強化されます。お分かりでしょうか? そのように、私は私のこの条件づけの全ての途方もないプロセスに気づく必要があります。それは私の条件づけからどのように自由になるのかの問いかけではなく、それといかに一瞬一瞬通じ合っているのかのそれです。そうすると、私は安全性を欲望することを見ることができて、それを何らかの問題にしないでいられます。
 このことはここまで明瞭でしょうか? あなたはこの点について質問したいと思いますか?
質問者 精神は“私”を背負うので、コミューニオンはありえません。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、私はあなたに問うています。私は問うています、コミューニオンとは何でしょうかと。宜しいでしょうか、あなたがこの問いを聞くとき、何が起こりますか? あなたの条件づけられた精神の全メカニズムが発動します、そして、あなたはそれに答えます、しかし、あなたはその問いに本当は耳を傾けていませんでした。あなたはそのことについてこれまで考えたことがあるかもしれませんし、ないかもしれません。あなたはそれについて何となく考えたことがあるかもしれません、あるいは、恐らく、あなたはそれについてあれやこれやの書物で読んだことがあるかもしれません、そして、あなたはあなたの読んできたことを繰り返すのです。しかし、あなたは耳を傾けていません。話し手があなたにこう言うとき、“樹木と通じ合うようにして下さい”、確かに―もしあなたに紛れもなく関心があるなら―あなたは最初にそれの意味することを明らかにする必要があります。 樹木の下に行って下さい、あるいは、川のそばに行って下さい、あるいは、山の裾野に行って下さい、あるいは、ただあなたの妻を、あなたの子供を見て下さい。通じ合うとはどういう意味でしょうか? それの意味するのは、観察者と観察されるものとの間に思考の干渉がないことです。観察者はその樹木と一体になっているのではありません、その人物と、その川と、その山と、その空と一体になっているのではありません。単に干渉するものが何もないのです。もし“あなた”がいるなら、その複雑な思考や不安を抱えた“あなた”がいるなら、それがその樹木を観察しています、そうすると、その樹木と通じ合うことは生じません。誰かあるいは何かと通じ合うためには、空間そして沈黙を要します、あなたの身体、あなたの神経、あなたの精神、あなたの心、あなたの全存在が穏やかでなければなりません、完全に鎮まっていなければなりません。言わないで下さい、“どのように私は鎮まるのでしょうか”と。鎮まることを別の問題にしないで下さい。ただ見て取って下さい、もし思考のメカニズムが発動していると、コミューニオンは生じないと―それはあなたが眠ってしまうことを意味しません!
 恐らく、あなたはこのことを行ったことが決してありません、あなたは決してあなたの妻や夫と、あなたと一緒に寝床を共にし、呼吸をし、一緒に食事をし、子供たちを持つなどその他の全てを一緒に行う人と通じ合ったことがありません。恐らく、あなたはあなた自身と通じ合ったことが決してありません。もしあなたがカトリック教徒なら、あなたは教会へ行き、いわゆるコミューニオンと称するものを受け入れます、しかし、それはそれではありません。それらは全て未熟な何かです。
 我々がこのように自然と、山々と、お互いと通じ合うことについて話すとき、ほとんどの我々はそれの意味することを知りません、そこで、我々はそれを想像しようとします。お分かりでしょうか? 我々はそれについて憶測します、そして、我々は言います、“私”こそが正にそのコミューニオンを阻んでいると。後生ですから、コミューニオンを別の問題にしないで下さい! あなたはすでに十分に問題を抱えています、ですから、ただ耳を傾けて下さい。あなたは私と通じ合っています、そして、私はあなたと通じ合っています。私はあなたに何かを言っています、そして、それを理解するためには、あなたは耳を傾ける必要があります。しかし、耳を傾けることは努力とは無縁に気をつけることを意味します、あなたの神経を休ませるのです、それはこう言うことではありません、“私は気をつけなければならない”と、そうして、あなたはあなた自身を締め上げて、あなたの神経を引き締めます。それは、あなたが、心地よく、楽に、言葉を発することなく沈黙して、耳を傾けることを意味します、そうして、あなたは話し手の伝えたいことが何なのかを明らかにします。彼の話していることは全くのナンセンスかもしれません、あるいは、それは本当の何かかもしれません、そこで、あなたは明らかにするために耳を傾ける必要があります―しかし、それはあなたの最も難しいことの一つのように思われます。本当は、あなたは耳を傾けていません、あなたの精神の中で、あなたは私と議論していて、言葉の障害物を構築しています。
 私は言っています、それら全ての中で重要なことは、あなた自身と、心地よく、和やかに、通じ合うことを学ぶことであると、そうすることによって、あなたは、あなたがその流れに従うとき、あなた自身の思考や感情のあらゆる細かな働きに付いてゆくのです。思考のあらゆる働きを、感情のあらゆる働きを見て下さい、それを正そうとせずに、それが良い悪いと言わずに、それら全ての愚かなこととは無縁に、取るに足らない狭量な精神のブルジョア的判断とは無縁にそうして下さい。ただ観察して下さい、そして、観察するとき、あなた自身をいかなる思考や感情とも―心地よかろうと不愉快であろうと―一体化しないでいるとき、あなたは分かるでしょう、あなたがあなた自身と通じ合えることを。
 ほとんどの我々は心理的に安全であることを願います、我々はそれを強く主張します、そして、それが家族の悪夢となる理由です、それは恐ろしいことになります、なぜなら、我々はそれを我々自身の安全性の手段として使うからです。そうすると、国家が正に我々の安全性になります、そして、我々はあらゆる愚かな国家的な物事を経験します。家族は宜しいでしょう、しかし、それが安全性の手段として使われるとき、それは恐ろしい毒になります。
 安全性の真理を明らかにするためには、あなたは安全であることの根源的な欲望と通じ合う必要があります、それは絶えず様々な形でそれ自身を繰り返しています。あなたは安全性を追い求めます、家族の中だけではなく、記憶の中にも、他の人の支配や影響の中にも。あなたはあなたを喜ばす何らかの経験や関係性の記憶の中に戻ります、それはあなたに希望や確信を与えます、そして、その記憶の中に、あなたは庇護されます。賢いことの安全性があります、知識のそれがあります、名声や立場の安全性があります。そして、能力の安全性があります―あなたはフィドルが弾けます、あるいは、あなたに安心感をもたらす何か他のことができます。
 宜しいでしょうか、一旦、あなたがあなたに安全性を追い求めるようにさせる欲望と通じ合うと、そして、この欲望こそが正に矛盾を作り出すと気づくと―なぜなら、安全なものはこの世に何一つないからです、あなた自身を含めて―あなたがそのことを明らかにして、そのことについて単に告げられたりしないで、問題を完全に解決すると、そうすると、あなたはその矛盾の全領域から抜け出して、従って、恐れから自由です。
 今朝は、これで十分でしょうか? 
 私はあなたがあなた自身の中で言葉を発せずに正に沈黙しているのかどうか知りません。あなたが通りを歩いているとき、精神は完全に鎮まっていて、思考とは無縁に観察しています、そして、耳を傾けています。あなたが車を運転しているとき、あなたは道路を見ています、樹木を見ています、通り過ぎる車を見ています、あなたはただ認識とは無縁に、思考が働くあらゆるメカニズムとは無縁に観察しています。思考のメカニズムが働けば働くほど、それは精神を疲弊させます、それは無垢のための空間を残しません、そして、無垢のみが正に真実を見ることができます。
                   ―1964年 7月16日 ザーネン