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クリシュナムルティ これが最後のダイアログです、我々の対話です、我々は、今朝、何について話し合いましょうか?
質問者(Q) (聞こえず)
K あなたは嫉妬と苦しみについて話そうとするのでしょうか?
Q あなたは気を付けることと気づきについて話そうとするのでしょうか?
K 気を付けることと気づき。
Q 我々は瞑想のことを続けるべきでしょうか?
K 我々は、我々が、昨日の朝、話していたことを続けるべきでしょうか―瞑想です、そして、頭脳の繰り返すプロセスではない何かですか?
Q あなたは愛と慈しみについて話せますか?
K あなたは愛と慈しみについて話せますか。
Q あなたは、昨日、音について話しました、あなたはそれを検討しますか?
K おーっ、はい、我々は、昨日、音について話しました。あなたはそれを検討するのでしょうか? 宜しいでしょうか、それで十分です、ちょっと待って下さい。愛と慈しみ、気づきと気を付けること、空間と音の重要性、そして、瞑想です、我々が、昨日の朝、話していたことです。
このことを言っても宜しいでしょうか、初めて此処に来ている人たち、その人たちの問題は差し迫っているそれかもしれませんが、どうか、宜しければ、そのことを話したり、介入したりすることを控えていただけませんか、なぜなら、我々はすでにほとんどのことを議論してきたからです、嫉妬、怒り、暴力など、それら全てです。再び、それらに立ち返る価値はありません。そのように、初めて、好奇心から、あるいは、真剣な思いで此処に来られた方々は、どうか、宜しければ、控えていただけませんか?
そのように、恐らく、もし我々が、我々の、昨日、話していたことを一緒に話し始めるなら、それは、つまり、瞑想の意味とは何かです、それは行う価値がありますか、そして、瞑想的な精神とは何か、それは何らかの経験を含むのかどうか、それは、この世界の中で、現実の世界の中で、行為しうるのかどうかです。それが我々の、昨日、話していたことです。我々はそのことを検討しましょうか? それで宜しいでしょうか? そして、気づき、気を付けること、愛そして慈しみもまた含まれます。
空間の問題について一緒に話し合いましょう。私は考えます、それは我々が検討すべきかなり重要なことであると。外面的に、世界は人口過剰になっています、人は、益々、町の中に、都市の中に住みます、そこには空間がほとんどありません、人は、狭いアパート、集合住宅の中に住んでいます。そのように、空間が相当に乏しくなっています、外面的に、その結果、外面的に、空間がないとき、様々な問題が生じます、暴力、あなたの周りの何千もの人たちから逃れようのないプレッシャーです―千年前は何と素敵な世界であったことでしょう! そして、人が、他の人と非常に近いところで生活するとき、空間が生まれません、その生活の中に自由の感覚が生じません。私は知りません、あなたが、ほんの少しの間でも、ニューヨークあるいはロンドン、あるいは、それらどこかの地に住んでいたことがあるのかどうか。人は窮屈さを感じます、押し込められていると感じます。
そのように、外面的に、空間が、益々、乏しくなっています。そして、内面的に、我々はほとんど空間を手にしていません。私は知りません、あなたがこの現象を観察したことがあるのかどうか。我々は我々の問題を抱えています―嫉妬、妬み、十分なお金を手にしていないこと、絶望、孤独、あらゆる精神疾患的、神経症的な問題、そして、野望、情け容赦ない暴力です。それら全てが人自身の中に非常に狭小な空間をもたらします。宜しいでしょうか、我々は気づきについて話していました、人はそのような事実に気づくのでしょうか、人は人自身の中に非常に僅かな空間しか手にしていないと―通常の空間です、空虚です。人はそのことに気づきますか、人がとても多くの問題を抱えていることに、あらゆる次元で、意識的にも無意識的にも。そして、人の意識の中はとても窮屈になっていて、空間がほとんど生じません―人はそのことに気づくのでしょうか?
そして、我々が、先日、言ったように、思考がその中心を作り出してきました、そして、その中心が考えます、それは独立していると―私は、あなたがこれら全てに付いてきていることを望みます、そのことを聴いてきた人たちに、私は、再び、そのことをただ繰り返しているだけです―思考はその中心を作り出してきました、その中心が考えます、それは独立していると、そして、それは思考から自由であると、そのように、その中心は、それ自身のために、何らかの空間を作り出します―私と私の狭小な蛸壺、私と家族、それは、依然として、狭小な何かです―狭小で、大きな蛸壺などです、国家です。そして、そのような狭小な限られた空間の中で、我々は生きています。
そのように、人自ら、空間の意味とは何かを明らかにすること、一緒に学ぶことが重要です。なぜなら、窮屈な精神、息苦しくさせられた、押し込められた、囲い込まれた精神、そのような精神は、否応なく、暴力的になるに違いないからです。違いますか? そして、容赦なくもたらされる、暴力的にもたらされる、何かを成就するための衝動などによってもたらされる他の問題と共に、そのような狭小な空間の中を我々は生きています。それでは、何か他の種類の空間があるのでしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? そして、その問いを検討するためには、我々は音の重要性も理解するのでなければなりません。あなたが何らかのクラシック音楽に耳を傾けるとき、あらゆるポップミュージックではありません、それは結局のところ単なるノイズです、その幾つかは良いものです、勿論です、しかし、その他は正しくノイズです、あなたが何らかの偉大なクラシック音楽に耳を傾けるとき―もしあなたがその音に耳を傾けるなら―あなたはその音にただ耳を傾けることができるだけです、もしあなたがその音を受け取るための同じ空間を手にするなら。分かりましたか? 我々はお互いに理解し合っていますか、それとも、それは不可能でしょうか?
Q ......
K ...... 宜しいでしょうか、あなたが音楽に耳を傾けるとき、その美が、そのロマンチシズムが、その思い出が生じます、あなたはそれを異なる場所でも聴いています、そして、それが何らかの連想をもたらします、その音楽を、あなたは誰かと共に聴いたこと、あなたがそれについて何かを語ったこと、評論家たちがそれについて話したことなどです。そのように、あなたの精神が何かで占められているとき、その空間は非常に狭小です。しかし、もしあなたが、いかなる連想も抱かずに、いかなるイメージも抱かずに、それに耳を傾けるなら、そうすると、その音楽それ自身が大いなる空間を作り出します。あなたはこのことに気づいたことがありますか? そうすると、我々はそのような空間を人工的に作り出そうとします、何らかの音を通して、何らかのノイズを生み出すことによって。ヒンドゥー教徒はこの音の問題を検討してきています、そのような音に耳を傾け、そして、その音がその中で持続しうるそのような空間を生み出すことです。私はあなたが私の話していることを分かるのかどうか知りません。あなたは私の話していることが分かりますか?
あなたは、自由は空間であると分かります、外面的に、そして、内面的に、とりわけ内面的に。そして、外面的な空間が、益々、困難になってくると、益々、窮屈になってくると、内的な空間の探究が重要になります、そうすると、人は薬物に、飲酒に、喫煙に、マリファナやスピードなどそれら全てに手を出します。そして、インドからやって来て、何らかの音声を通じての、何らかの言葉を繰り返すことによる超絶瞑想法について語る人たちがいます。それらは全て思考の活動であり、それは、耳で聴く何かが、それが何であれ、その中に、余すことなくあらゆる活動が存在するという空間を作り出そうと試みる思考の営みです。それは、何らかの空間を手にしたいと思う欲望によって生み出された人工的なプロセスです。私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。そうすると、言葉が非常に重要になります。そうして、彼らは何らかのサンスクリット語を導入します、あるいは、あなたはあなた自身の言葉を導入できます―コカ・コーラと言っても他の言葉と同じです(笑)、私は真剣です―あるいは、どうぞ他の言葉を唱えて下さい、それが何であろうと、それは問題ではありません、そうすると、あなたは分かるでしょう、もしあなたが自分自身を見守るなら、もしあなたがあなた自身に気づくなら、そのような音声が狭小な空間を作り上げると。そして、あなたは考えるのです、そのような空間が何かから超えて行く自由であると。
そのように、その中心の周りの空間は、思考の産物です、従って、それは、依然として、物理的であり化学的です、なぜなら、我々は言いました、思考は時間の中の活動であり、化学的でもあり物理的でもあると。違いますか? そして、狭小な空間の中を生きることは自由を否定することです、そうすると、絶えず、自由を無意識的に要求することが生じます、そのように、人は何らかのノイズを通して逃亡を図ります、そして、人はそれを超絶瞑想法とか何やらと称します、しかし、それは依然として思考の活動です。違いますか?
そのように、意識はその内容です。あなたの意識はあなたの考えることから成り立っています、あなたの感じることから、あなたの欲望から、あなたの恐れから、あなたの伝統から、あなたの文化から、あなたの要求から、あなたの物理的な必要性から成り立っています―それが、その全内容です、そして、その内容が、あなたの意識になります。そして、その内容が、その意識を限界づけます。お分かりでしょうか? あなたは分かるのでしょうか。従って、その中には空間がありません。我々は一緒に歩んでいますか?
そうすると、人は気づきますか―質問の一つは、その気づきと気を付ける問題を議論すること、一緒に話し合うことでした―人は意識のその窮屈な内容に気づきますか? そして、その意識の中に狭小な空間が生じます、狭小なそれが生じます、そして、我々はその狭小な空間の中を彷徨います。我々は、今、更に歩むことができますか? そうすると、人はそのことに気づきますか? 私の言う、気づいているという意味は、いかなる選択もせずに、いかなる区別立てもせずに―これは良い、これは悪い、こうすべきではない―観察することであり、ただ余すことなく、その意識のその内容に気づくことです、そして、それは無意識のそれでもあります。ここで、問題が生じます、つまり、人は、どのようにして無意識、より深いそれに気づきうるのか、ということです―それを誰もが話すことです。我々が話しているのは、もしあなたが余すことなく気づくなら、そうすると、そのような余すことのない中に、無意識も含まれるということです。私はあなたがこのことに付いてきているのかどうか知りません。
私はそのことを少し検討します。私は知りません、人は知りません、私は、なぜ無意識がそれほど途轍もなく重要になっているのか知りません。心理学者、分析家、教授たちが絶え間なくそのことについて語っています。その人たちは夢について、あらゆることについて―それは無意識のことです―これでもか、これでもかというほどに書物をものにしています。そして、意識の層を、その内容を、その暗示を、そして、無意識の仄めかしを暴くために、人は考えます、人は分析を通じて、分析をすることによって見ていくことが必要であると。違いますか? 我々はこれら全てに付いてきていますか? そして、分析は分析者と分析されるものを意味します。そこに二重性が生じます。そして、あなたは果てしなくそのような二重性を探究して、そして、決して何にものにも至りません。宜しいでしょうか、もしあなたが言われていることに耳を傾けるなら、分析者のことにも耳を傾けるなら―実際に、耳を傾けるなら、そうすると、あなたの表面的な意識を、その内容を知って、そうすると、そのように余すことなく気づく中で、あなたは意識の全体を見て取ります。私はそのことを説明します、なぜなら、あなたは困惑しているからです―あなたの表情を見ると、あなたは困惑しています。そこで、我々はそのことを検討します。
あなたは何かの全体性をどのように見て取りますか? お分かりでしょうか? あなたは樹木の全体性をどのように見て取りますか? もしあなたが何かのプロなら、製材業者なら、あなたはその樹木の全体性を見て取ることができません。あなたは考えます、どのような使い道があるのか、あなたはそれで何ができるのか、あなたはそれで幾つの家が建てられるのか、あなたはそれでどんな種類の紙を作れるのかなどと。そのように、あなたは何かの全体性を決して見て取ることができません、もしあなたがそれについて前もって何らかの結論を抱いているなら。違いますか? それはシンプルなことですか? それはかなりシンプルなことです、違いますか? そのように、私は私の意識の全体性が何であるのかを知りません。違いますか? それは事実です、推測ではありません。人々は無意識や意識について多くを語りますが、そして、多くの夢についてそうしますが―あなたはそれらのことが行われているのを知っています―実際に、あなたがあなた自身を見るとき、あなたはその全内容を見て取りますか、それとも、その一部を見るのですか? 宜しいでしょうか。あなたはその一部を見るだけです、違いますか? そのように、一部の観察は全体の否定です。あなたはそのことを見て取るのでしょうか。もし私が、私の問題、私の野望、私の国家、私の神、私のこれやあれなどに精神集中しているなら、私は全体を見て取ることができません。違いますか? 私は全体を見て取ることができるだけです、私が一部に気を取られていないとき―その一部はそこに含まれているけれども、しかし、私はその一部に気を取られていません。そうすると、そのような気づきの中に、一部は含まれているけれども、私はその全体性を見て取ります、それは、私の精神が、自由に観察することを意味します。そして、私がすでにそれについて何らかの結論に達しているとき、それは自由に観察することではありません。
宜しいでしょうか、我々は、一度、非常に高名な学者であり作家でもある人と話をしていました、非常によく知られた作家です、優れた文体の持ち主で、善き友人でした。そして、彼は言いました、“宜しいでしょうか、私は、それは酷く難しいことだと思います、なぜなら、私は相当に多くの書物を読んできたからです”と。彼は科学者であり、芸術家でした、彼はピアノを弾くことができます、彼は絵を描けます、彼は、ヴェーダンタ哲学、チベット仏教、地上のいかなるテーマについても語ることができます、彼はそうできます。そして、彼は言いました、“私は相当に多くの書物を読んできました、私の精神は、言葉、知識で満ち溢れています、そうすると、私はどのようにしてオリジナルな何かを経験しうるのでしょうか?”と。お分かりでしょうか? そのように、オリジナルな何かを見て取るためには、つまり、意識の全体性を見て取るためには、あなたの知識、あなたの連想、あなたの...を引き合いに出すのを止めて下さい―その全体を見て下さい。お分かりでしょうか? そのように、知識は危険な何かになります、それはあなたが全体を見て取るのを妨げます。知識は有用です。知識とは、人が英語を話すことなどを意味します、従って、英語の知識が生じることなどです、それは機械的なプロセスです。
そのように、自由は空間を意味します。そして、そのような空間が否定されます、従って、自由が、政治家たちによって、独裁者たちによって、全体主義的社会主義によって、聖職者たちによって、あなた自身の信念によって、あなた自身の快楽や貪欲などの追求によって否定されます。そのように、自由は意識からその内容を無にすることを意味します。いいえ、どうか、お願いします、これが本当の瞑想です。あなた自身を誤魔化さないで下さい、あなたはそれについて何一つ知りません。人の意識はその内容です。違いますか? それは明白です。インド語、英語、宜しいでしょうか、文化的、倫理的、経済的、個人的なあらゆるものが、その内容を抱えた意識のその空間の中にあります。違いますか? そのような意識は広がりもすれば収縮もします、しかし、それは依然としてその...の中です、それは依然としてその内容によって囲われています―その内容で維持されています。人はそれら全てに気づきます、言葉でではなく、実際に。違いますか? つまり、人はキリスト教徒です、人は仏教徒です、人は共産主義者です、人はとても多くの意見、判断、価値基準、問題、セックス、要求を抱いています―お分かりでしょうか?―それで満ちています。そして、その内容の中には、空間と自由がありません。違いますか? 人はそれを見て取りますか? どうか、宜しいでしょうか。あなたは気づきますか、その限られた意識の中には、自由はないと、従って、空間はないと。そして、空間がないと、その不可避的なプロセスは、思考がその空間を満たすことです。あなたはこのことを見て取るのでしょうか。あなたはこれまで気づいたことがあるのでしょうか、あなたが一人でいるとき、あるいは、森の中を静かに歩いているとき、あなたの精神、それが何も考えていないとき、いかなる思考も生じていないとき、途方もなく、深く、広く、穏やかな空間が生まれることを。そして、思考はその空間を恐れます、なぜなら、それは不確かな何かだからです、そこで、それはその空間を満たし始めます。あなたはこれら全てに気づいたことがありますか?
そこで、我々の問いはこうです、意識の心理的な内容を空にすることができるのか、ということです。あなたは私の質問が分かりますか―その問いです、その答えではありません。そこで、我々は明らかにしようと思います、我々はそれについて一緒に学んでいます、もしあなたがこのことに興味を抱くなら、我々は一緒に歩みます。我々が、昨日、言ったように、我々の頭脳は確かな領域の中で、安全な領域の中で機能しうるだけです。それは明らかです。それは不可知なものを恐れます―死です、明日、何が起こるのかです、不可知な何かです。そのように、それは既知の領域の中で―それが伝統です、古かろうと新しかろうと―機能し、働き、生きます。そして、既知の領域の中には、ほとんどいかなる空間も生まれません。あなたはこのことを見て取るのでしょうか。違いますか? 先へ進んでも宜しいでしょうか? どうか、これはあなたと私の対話です、あなたも話すのでなければなりません。私はただ私自身に語りかけているのではありません。
そうすると、精神は、どのようにして空間を、人工的にではなく、作り上げうる、もたらしうるのでしょうか、なぜなら、人工的というのは、思考の活動だからです。そうすると、我々は元の何かに戻ります、慣れ親しんだ何かです、従って、それには価値がありません。そうすると、それ自身を空にする意識―その内容―の可能性があるのでしょうか? お分かりでしょうか? 宜しいです。仮に、私の意識が、私のプライドで、私の傲慢さで、それの行ってきたことで、それの成し遂げてきたことで、それが...―宜しいですか、それが収集蓄積してきたことで、伝統で、ナショナリティで、文化で満たされているとします、それら全てが私の意識を占めているとします。従って、その意識の中には、非常に少しの空間しかありません、従って、そこには自由がありません。そして、私は自分自身に問います、この意識は自然に消え去りうるのかと。違いますか? 自然にです、押し出されるのではなく、追い出されるのではなく、意図的に消されるのでなく、あるいは、何かに取って代わられるのではなく、それは、自然に、それ自身のその内容を空にしうるのでしょうか? あなたは質問が分かりましたか?
宜しいでしょうか、我々は明らかにしようと思います。最初に、私はそれに気づいていますか―私の内容に気づいていますか? 私はナショナリストです、私はヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒です、あるいは、共産主義者、社会主義者です、そして、私は様々な問題を抱えています、セックス、快楽、野望、貪欲、私は美しくなければならない、私はもっと知っていなければならない、私はそれほど良くはない、理想、結論―お分かりでしょうか?―それら全てです。それら全ては、洗い流されえますか、空にされえますか? あなたはこれまでそのように問うたことがありますか? 我々はそれを、今、問うています。どのように私はそれを始めるのでしょうか? 宜しいでしょうか? 私は私の意識の内容を知っています、そして、私の意識の内容はあなたの意識の内容です。お分かりでしょうか? 私の内容はあなたの内容です、なぜなら、あなたは野心的であり、貪欲であり、嫉妬深く、暴力的であり、愚かであるなどそれら全てだからです。そのように、我々の意識は、深いところで、あなたのそれと同じです。そして、私は問うています、この内容は即座に消滅しうるのかと、徐々にではありません、なぜなら、徐々にというプロセスで、私は収集蓄積しているからです。あなたは私の言う意味が分かりますか? もし私が井戸を徐々に空にしようとしているなら、常時、その水は満ちてきます。お分かりでしょうか? もし私が、徐々に、一つずつ、問題を一つずつ、理想を一つずつ、片づけるなら、それには時間を要して、その時間の中で、他の要因が生じ、それが問題を更に複雑にします―人々が政治の世界でそう行っているように。そのように、私の問いはこうです、つまり、それは即座に消滅しうるのか、ということです、そうではないと、それには意味がありません。あなたはそのことが分かるのでしょうか。宜しいでしょうか?
それでは、それはどのようにして消滅するのでしょうか? そのプロセスとは何でしょうか? 私は言いました、私は意識のその全活動に気づいているのか、私はそれに気づいているのかと。そうすると、もし私が気づいているなら、その気を付けているという意味は何でしょうか? 宜しいでしょうか? そうすると、観察者が生じないとき、余すことなく気を付けています。そうすると、観察者とは何でしょうか? お分かりでしょうか? 観察者は過去です、収集蓄積された知識です、連想です、記憶です、それら全ては過去です、それは時間です。そうすると、観察している、そして、気を付けようとしている観察者がいる限り、気を付けることは生じません。違いますか? 我々は理解しましたか? もし私が気を付けることを実践しようとしているなら、多くの人たちがそうしているように、そうすると、それは依然として思考のプロセスです、つまり、その中心がそれ自身に言います、“気を付けることがこの上なく役に立つ、だから、私はそれを実践します”と、そして、それは依然として思考である現実の領域の中です。あなたはそのことを見て取るのでしょうか。そのように、我々は言っています、気を付けることは、観察者がいないときに生じると。違いますか? そのことをよく考えて下さい、そのことを見て取って...その観察者について学んで下さい。つまり、あなたを観察している私です、私の何らかの偏った見方で、あなたを観察している私です、そうすると、私は決してあなたを見ていません。私は私の結論であるスクリーンを通してあなたを見ています。そのように、私はあなたをいかなる結論も抱かずに、つまり、その観察者とは無縁に見ることができますか? それは、観察するだけで、従って、余すことなく気を付けることを意味します。
それでは、次のステップに行きましょう―これはステップではありません、これは余すことのない理解です。もしあなたがそのことを余すことなく理解するなら、そうすると、あなたはそれを部分に分解できます、しかし、あなたは部分を通じてその余すことのない何かに至ることはできません。どのようにして私は何かを余すことなく見て取れるのでしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? 私は私自身を余すことなく見て取りたいのです、つまり、物理的、心理的、知的などの断片としてではなく、情動的な断片としてではなく、私自身を余すことなく見て取りたいのです。どのようにして私は明らかにするのでしょうか? 宜しいでしょうか、それはあなたの問題です。あなた方は、ひょっとして、呆然としているのでしょうか?
Q 全体の知覚に感受性がどう関わるのでしょうか?
K 全体の知覚に感受性がどう関わるのか。明らかに、もしあなたが...もしあなたが鈍ければ、あなたは見て取れません。あなたは相当に感受性豊かな身体をもつのでなければなりません、感受性豊かな知覚です、目です、感受性豊かな感情です、お分かりでしょうか、あらゆることが感受性豊かでなければなりません。それは必要なことです、しかし、そのことは脇へ置きましょう。
あなたは全体を正に見て取りますか? あなたはあなた自身を全体として見て取りますか、断片的な人間としてではなく。
Q ...私は全体を見て取れません。
K 我々は明らかにしようと思います、宜しいでしょうか。明らかに、“私”、その中心は、全体を見て取れません。宜しいでしょうか、どうか、ただ耳を傾けて下さい。私はあなたに問います―もし宜しければ―あなたは全体としてあなた自身を見て取りますか? 今、あなたはその発言を聴きました―宜しいでしょうか―あなたはその発言をどのように受け取りますか? あなたはそれを抽象化して何らかの観念に変えますか? 注意して、耳を傾けて下さい、お願いします。私はこう発言しました、あなたはあなた自身を全体として見て取りますかと。あなたはその発言を聴きました、そして、あなたはその発言にどう応えるのでしょうか? あなたはこう言うのでしょうか、“私はその問題を私自身に決して問いかけてきませんでした”、あるいは、“私は私自身を全体として見て取れません、なぜなら、私はいつも断片の中を生きてきたからです”、あるいは、あなたはその発言を聴いて、あなたはその発言を何らかの観念に変えるのでしょうか? 宜しいでしょうか? そうして、その観念に順応しようとします、あるいは、その観念を持ち出して、こう言います、“どのようにして私はそれを成し遂げるのか”と―お分かりでしょうか? あなたはその発言を聴くと、あなたはこう言うのでしょうか、“私は本当にその質問を私自身に決して問うてきませんでした”、あるいは、あなたはあなた自身にこう言うのでしょうか、“どのようにして私は私自身を全体として見て取れるのか、私が断片の中を生きてきて、そのように機能しているとき”と、あるいは、あなたはそれを聴いて、そして、それに正に耳を傾けることによって、それを何らかの結論―それは可能である、可能ではない―に、何らかの観念にしてしまうのでしょうか? それでは、あなたはそのどれを行っているのでしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? いいえ、待って下さい、どうか、お願いします、私に答えないで下さい。私はあなたの分析者ではありません。私はあなたに問うています―もし宜しければ―あなたはそのどれを行っているのかと、つまり、“私は私自身を全体として見ることを決してしてきませんでした、私はその意味が分かりません、なぜなら、私は決して...私はいつもバラバラにされた部分の中を生きてきたからです、つまり、“私”と私の快楽、“私”と他の何かです―お分かりでしょうか?―バラバラになっています。あるいは、私は、その発言に耳を傾けることによって、何らかの結論を導き出し、その結論に従って生きようとします。違いますか? それでは、私はこのプロセスに気づきますか―その断片的な知覚です、決して自分自身にその問いを発しないことです、その問いから何らかの結論を導き出してきたことです―私はこのプロセスに余すことなく気づきますか?
Q (聞こえず)
K 最初に、私は知りません、私はそのことを今まで検討したことは決してありません。お分かりでしょうか? あなたは、今、即座に、答えられません、なぜなら、あなたはチャレンジされていて、そして、あなたは依然としてそのことをこう見ているからです、つまり、あなたは何らかの結論を導き出しているのかどうか、あなた自身にその問いを決して発しないで、いつも、断片の中を生きているのかどうかと。お分かりでしょうか? あなたはその活動に気づいていますか? もしあなたが気づいているなら、そうすると、あなた自身の全体を見て取るとはどういう意味でしょうか? お分かりでしょうか? あなたはあなたの思考と分離していますか? あなたの欲望はあなたと分離していますか? あなたの怒りはあなたと分離していますか―あなたの野望、あなたの貪欲、あなたの暴力、傲慢さなど、それはあなたと分離していますか? それとも、あなたがそれでしょうか? 違いますか? 正しく、あなたがそれです。宜しいでしょうか、もしあなたはそれであると見て取るなら、そうすると、観察者はいません。それまでは、伝統的に、私は言いました、“私は私の怒りと異なります”と―違いますか?―“私は私の思考をコントロールできる”と―思考がその中心を作り出してきました、その中心は思考から独立していると、そうして、その中心は言います、“私は思考をコントロールする”と。そのまやかしを見て下さい。そのように、あなたがこの断片的な生を送るプロセスに気づくとき―あなたの会社での生とは異なる家庭での生です、家庭では、あなたは愛します、あるいは、悪態をつくなど家では様々なことが起こります、そして、会社では、お分かりでしょう、あなたは非常に注意深く事に当たらなければなりません、そうでないと、あなたはそこで働けなくなるなどのことが生じます。そのように、我々は断片の中を生きています―何と、それらが全てです。そうすると、あなたはこの断片的な生き方に気づきますか、そして、あなたは、あなたが新しい何か、新しい発言を耳にするときはいつでも、あなたがそれから何らかの結論を導き出して、それを何らかの観念に変え、そして、その観念―その発言ではなく―の理解に努めることに気づきますか? 宜しいでしょうか? それでは、今、あなたはこのことに気を付けていますか? あなたが気を付けているとき―それは観察者のいないことを意味します―あなたはその全活動を見て取ります、違いますか? あなたはこのことを見て取るのでしょうか。あなたはその全活動を見て取ります―どのようにあなたが断片的に生きているのかを、新たなチャレンジに対して、いつも、あなたは目を逸らすのかを、そして、様々なチャレンジはいつも新しいのです、そうではないと、それらはチャレンジではなく、何らかの結論を導き出す何かです。それが思考の全活動です。違いますか? そして、あなたは、今、その全体を見て取りますか、なぜなら、それはとても明瞭だからです。
宜しいでしょうか、同じように、あなたはあなたの意識を余すことなく見て取ることができますか、部分ではなく。そして、あなたはそれを余すことなく見て取ることはできません、もしあなたの観察の中に何らかの種類の選択が生まれているなら―私はこれが好きです、私はそれを保持します、私はその他のものは好きではありません、私はそれを取り除きます―その意識の中の何かに何らかの執着が生じるなら。それでは、そうすると、あなたはあなたの意識を余すことなく見て取ります、従って、その全体の中に、部分が、無意識が、そこに含まれます、それは明らかです。あなたは無意識を探究するために、あらゆる種類の惨めな何かに意を決して飛び込んで検討する必要はありません、それはそこにあります。違いますか?
そこで、我々は問うています、空間がないかぎり、暴力が生まれるに違いないと、それが外面的に起こっていることです、外面的に、世界で。独裁政権が世界を支配するとき―それらが頻繁に起こっています―それらは空間を否定しようとしています、なぜなら、空間は自由だからです、そして、それは彼らにとって死活の問題です(笑)。私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか知りません。そのように、空間が内面的に生じるのでなければなりません、そして、そのような空間は自然に生じうるだけです、思考によって発明されるのではありません、あるいは、思考によって促されるのではありません、それは自然に生じます、完全な観察が生じるときに、全内容を見て取るときに。
そこで、我々はそこから歩を進めて、こう問うことができます、つまり、愛とは、慈しむとはどういうことかと。我々の手にする愛は空間的でしょうか? そうすると、それは善き何かです! それとも、それは酷く限られた何かでしょうか? 慈しみには境界がないのでしょうか、従って、それは無限の空間でしょうか? そのように、我々はそれを検討しようと思います。我々が現実世界の中で手にする愛、その愛は快楽です。違いますか? あなたはそのことを認めますか、それとも、あなたはそれを、殊の外、神聖に扱いますか?
Q 我々の愛し方は感傷的です。
K 感傷的な何か。愛は感傷的な何か、ロマンチックな何か、快楽的な何かと称されます、そして、そのような快楽の追求が愛と称されます。違いますか? 私はあなたを愛します、なぜなら、あなたは私に性的な満足をもたらすからです、あるいは、あなたは私に慰安をもたらします、あなたは私を支えます、あなたは私の孤独を満たします、私はあなたに依存します、情動的に、心理的そして物理的に。そのように、私はあなたに執着します、そして、何らかのトラブルがあなたと私の間に起こるとき、何らかの反目が生じます、嫉妬が生じます、傷つきます、憎悪が生じます。それら全てを我々は愛と称します、そして、我々は言います、“私は非情に敏感になっている”と。(笑) そのように、その愛の中の、我々がそう称するように、それは神聖でもあれば神聖ではなくもありますが、その神聖な愛は思考の発明です―私はあなたが...どうか知りません―宜しいでしょうか。そして、我々は言っています、その愛の中には、空間がないと。違いますか? 空間がないので、その中に暴力が生じます。
そのように、そうすると、慈しみとは何でしょうか? そして、愛は快楽でしょうか? 愛は欲望の成就でしょうか? あなたはこれら全てのことに付いてきていますか? 私はあなたを愛しています、そして、その中に、快楽が生じます、そして、もし、その愛の中に、何らかの混乱が生じるなら、嫉妬が生じます、反目などその他の全てが生じます。そして、その愛の中には、空間がありません、なぜなら、私は何かを堅持しているからです―私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません―私が何かにしがみついているからです。違いますか? 私はそれら全ての馬鹿げたことを検討する必要はありません。違いますか?
そのように、いわゆる愛には空間がありません、従って、その愛は実に無責任です。そして、責任が生まれるのは、慈しみが生まれるときのみです。あなたのための慈しみではありません―慈しみです。太陽のように、それはあなたのためだけに輝いているのではありません。そのように、広大な空間があるところに、慈しみが生まれます。そして、そのような広大な空間は、もし“私”という中心が生じているなら、生まれえません。違いますか?
そのように、慈しむことなしには瞑想は生じません。お分かりでしょうか? なぜなら、慈しむことなしには―それはあらゆるものに対する熱気です、あらゆるものを気遣うことです、あらゆるものを敬うことです―慈しむことなしには、聖なるものは決して見出されません。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、我々は作り出してきました―思考は聖なるものを作り出してきました―寺院、教会、様々なシンボル―そして、我々はそれらのシンボルを崇拝します、そして、それらを聖なるものと称します。しかし、それは時間と計ることを宗とする思考の活動です。そのように、それは聖なるものではありません。かつてインドにいるとき、私は問われました...話し手はガンジー氏の信奉者たちから問われました、そして、その一人が言いました、“全ての人たちが入れます、人間社会のあらゆる階層の人たちがその寺院に入って行くことができます、と言うのも、神はあらゆる人のためにそこにいるからです”と。そして、彼らは私に問いました、“その問いにあなたは何と答えるのでしょうか”と。私は言いました、“誰でも入れます、誰が入るのかは問題ではありません、なぜなら、神はそこにはいないからです”と。お分かりでしょうか? 神は思考によって作り上げられた観念です。しかし、人は、永遠の、不滅の、聖なる何かを見つける必要があります。そして、それは慈しみが生じるときに生まれうるだけです。それは、あなたが苦しむことの全意義を理解したときを意味します―あなた自身の苦しみだけではなく、世界の苦しみです。世界の苦しみは真理です、それはそこにあります。それは思考の感傷的な、ロマンチックな取り乱しではありません。それは実際にそこにあります、我々の中にあるように。そして、その苦しみと共に生きるためには、それから逃げないで、その正に行き着くところまで行くためには、あなたが逃げないとき、あなたはその苦しみに向き合うための途轍もないエネルギーを手にします。そうするときにのみ、あなたはそれを超えて行きます。そこから慈しみが生まれます。
そのように、瞑想は、そうすると、伝統的に、インドから、あるいは、海外から、この国にもたらされてきているそれらのいずれでもありません、それらは全て思考の活動です。瞑想は、そうすると、思考の活動の余すことのない理解です、それに、その相応しい場所、正しい場所を与えることです。思考にはそれの正しい場所があります、そして、その正しい場所は、あなたが思考の活動を余すことなく理解するとき―そのあらゆる活動、そのあらゆる狡猾さ、その欺瞞、その幻想―理解されうるだけです、あるいは、見て取られうるだけです、あるいは、閃きうるだけです。そうすると、あなたが快楽を理解するとき、恐れの全意義を理解するとき、そこから、苦しみと称されるものが生じます、人がどうしても解決できないできたそれが生じます。キリスト教はそれをパロディにしてきました。我々はそれをどうしても解決できないできました、従って、我々は慈しむことなくきました。そして、慈しみは、あなたが苦しみのあらゆる意味を理解したときにのみ、そして、もはや、苦しまないときにのみ、生まれます、従って、そこから、慈しみます。慈しむ精神のみが、正に、瞑想できて、永遠に聖なる何かを見つけることができます。
Q あなたがそう言うとき、自家撞着が生じるのではないのですか、つまり、それは“私は理解します”の“私”のことです、なぜなら、その“私”は観察者のようだからです。しかし、もし観察者がいないなら、“私”はいないからです。私は気づけません、私は理解できません。
K 宜しいでしょうか、私はあなたに言いました、私は言いました、宜しいでしょうか、“私”は、その中心は、思考によって作り出されている、拵えられていると。違うでしょうか? あなたはそのことを見て取りますか? それは真実です、違いますか? 一歩一歩、進めましょう、宜しいでしょうか、私はあなたにそのことを示します。安全性を要求する思考が、その中心を作り上げてきました。宜しいでしょうか? 同意しますか、宜しいでしょうか。そうすると、その中心は思考から独立しています。違いますか? それでは、その中心はこのプロセスに気づきますか? その中心は、思考がそれを作り上げていること、そして、その中心がそれから独立していて、それが思考をコントロールしようと、形作ろうとしていることに気づきますか? その中心は、この活動に気づいて、それは独立していると考えないのですか?
Q しかし、それは思考自身です。
K 待って下さい、待って、私はそれを検討しようと思います。それは中抜きになります。(笑) 我々はこのことを見て取りますか、宜しいでしょうか、思考がその中心をもたらしていること、そして、その全プロセスをもたらしていること、あなたはそれに気づきますか、その中心がそれに気づきますか?
Q (聞こえず)
K いいえ、宜しいでしょうか。私はただ非常にシンプルな問いを発しているだけです。人は気づきますか、その中心が思考のその活動に気づくのですかと。もし人が気づくなら、そうすると、問いはこうです、誰が気づくのか、ということです。観察者がその中心を見ていて、こう言うのでしょうか、“私は気づいている”と、あるいは、中心それ自身が思考の活動に気づくのでしょうか、中心を作り出してきたのは思考です。もしそれが気づくなら、そうすると、こう言う当のものは誰でしょうか、“私は思考がそうしているのに気づきます”と。それは依然としてその中心です。違いますか? それでは、あなたはそのことに気づきますか?
Q それは依然としてその中心です!
K そうすると、次はどうなりますか? その中心はいつも何やら反応しています、観察しています、正しています、識別しています、叱責しています。違いますか? それら全てが思考の活動です。人はそれら全てに気づきますか?
Q それはその中心です。
K あーっ、いえ、いえ。宜しいです。その中心がそれに気づきますか?
Q 多分。
K “多分”ではありません。
Q 私は知りません。
K それなら、放っておいて下さい。もしあなたが知らないなら、それを見守って下さい、それについて学んで下さい、その中心が、それ自身に、思考の活動に気づけるのかどうかを見て取って下さい。
Q 依然として、観察者がいます。
K いいえ。宜しいでしょうか、あなたはこのテントに気づきます、気づきませんか? 気づきますか? あなたはテントではありません、違いますか?
Q 私は知りません。
K おーっ!(笑) もしあなたがテントなら(笑)、そうすると、グラフ氏は非常に喜びます、なぜなら、そうすると、彼はお金を集める必要がなくなるからです!(笑)(拍手)
―1975年 8月3日 ザーネン