アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

華厳の滝3

         単独であること

クリシュナムルティ あなたの知る通り、十回のトークが此処で行われます、そして、それら全てのトークの後で何らかの議論を行います、ですから、我々には一緒に物事を話し合う十分な時間があります。
 私は、今朝、自由の途方もない重要性を指摘することで始めたいと思います。ほとんどの我々は自由であることを欲しません。我々は我々の家族を手にしています、我々の責任、我々の義務を手にしています―それらの中に我々は留まっています。我々は社会的な法律やある種の倫理的規範に取り巻かれています、そして、我々は日常的なトラブルや問題を背負っています、そして、もし我々が何らかの慰めやそのようなあらゆる争いや悲惨から逃げる何らかの手立てを見つけることができるなら、我々は容易く満足します。ほとんどの我々は自由であることを実際に全く欲しません、いかなる方向にも、いかなる深さにも、自由であることを欲しません、それでも、私には思えます、生の中の最も重要なものの一つが、完全に余すことなく自由であることをいかにして自分自身で明らかにすることであると。そして、人間にはおよそ可能なことでしょうか、それほど深く条件づけられていて、それほどその日常の狭い労働に囚われていて、それほど恐れや不安を抱えていて、それほど未来が不確かで、絶えず安全性を追い求めている中で―そのような精神がそれ自身の中に根本的な変質をもたらすことが果たして可能でしょうか、そして、それは完全な自由の中でのみ生じえます。
 私は思います、我々の一人ひとりがこの問題に本当に関心を持つべきであると、少なくとも、此処にいる三週間はそうすべきであると。我々は関心を持つべきです―ただ単に言葉ではなく、言葉や言語的な分析を通じてでも、我々は我々自身の中により深く入っていくべきです―自由であることが可能であるのかどうか明らかにすることです。自由なしに人は何が真実で何が偽りであるのかを発見できません、自由なしに生に深みが生じません、自由でないと我々はあらゆる形の影響に晒された奴隷です、あらゆる社会的な圧力の下にいる奴隷です、我々が絶えず直面している数知れない社会的要請の奴隷です。
 それでは、あなたは、個人として、あなた自身を実際に検討できますか、非常に深く、容赦なく、そうできますか、そして、我々の一人ひとりが完全に自由であることが可能かどうかを明らかにすることができますか? 確かに、自由の中にのみ変化がありえます。そして、我々は変化する必要があります、表面的ではなく、あちこちを単に少し剪定するのではなく、精神自身の正に構造の中に我々は根本的な変質をもたらす必要があります。それが私の変化について話すことのとても重要であると感じる理由です、そのことを議論することです、そして、我々の一人ひとりがどれだけこの問題を深く検討できるのかを見て見ることです。
 あなたは私の変化という意味が分かりますか? 変化するということは全く異なる仕方で考えることです、それは精神に何らかの状態をもたらすことです、その中にはどのようなときにもいかなる不安もありません、いかなる争いも生じません、何かを成就しようと格闘することもありません、何かでいる、あるいは、何かになることもありません。それは恐れから完全に解放されていることです。恐れから解放されることが何を意味するのかを明らかにするためには、私は思います、人は教える者と教えられることのこの問題を理解する必要があると、そうすることによって、学ぶことがどういうことであるのかを発見する必要があると。此処には、教える人はいません、そして、教えられる人もいません。我々はみな学んでいます。そのように、あなたは誰かがあなたに何かを教えようとしているという観念を完全に取り除く必要があります、あるいは、誰かがあなたに何をすべきかを告げているという観念を取り除く必要があります―それは話し手とあなたの関係性が全く異なることを意味します。我々は学んでいます、つまり、あなたは何かを教えられているのではありません。もしあなたがあなたは誰かに教えられるために此処にいるのではないことを本当に理解するのなら、あなたに何かを教える教師は此処にはいないことを、あなたを救う救済者は此処にはいないことを、何をすべきかをあなたに告げるグルは此処にはいないことを理解するのなら―もしあなたが本当にこの事実を理解するのなら、そうすると、あなたはあらゆることをあなた自身で行う必要があります、そして、それには途轍もないエネルギーを要します。
 エネルギーは散逸します、腐敗します、余すことなく消失します、教える者と教えられる者の関係性が生じるときに、ですから、此処でのトークの間、そして、その後の議論のとき、私は望みます、そのようないかなる意味の関係性も生じないことを。それは本当に驚くべきことでしょう、もし我々がそのようなことを完全に払い除けて、ただひたすら学んでいることが生じているなら。
 我々は一般的に勉強して学びます、書物を通して学びます、経験を通して学びます、あるいは、教えられて学びます。それらが通常の学び方です。我々は何をすべきか、何をすべきでないかを記憶します、何を考えるべきか、何を考えるべきではないかを記憶します、感じ方や反応の仕方を記憶します。経験して、勉強して、分析して、探究して、内省的に検討して、我々は記憶としての知識を蓄積します、そして、記憶が新たな課題や要請に応えます、そこから更に多くを学びます。そのようなプロセスを我々はよく知っています、それが我々の学ぶ唯一の方法です。私はどのように飛行機を操縦するのか知りません、そこで私は学びます。私は教えられます、私は経験を手にします、その記憶が保持されます、そして私は飛行します。それが我々のほとんどが知っている唯一の学ぶプロセスです。我々は勉強して、経験して、教わって学びます。学んだことが知識として記憶されます、そして、その知識が何らかの課題の持ち上がるときにいつでも働きます、あるいは、我々が何かを行う必要のあるときはいつでも働きます。
 宜しいでしょうか、私は思います、全く異なる学び方があると、そして、私はそのことについて少し話そうと思います、しかし、それを理解するためには、そして、その異なる仕方で学ぶためには、あなたは完全に権威というものを取り除かなければなりません、そうでないと、あなたは単に教えられるだけで、あなたの聞いたことを繰り返すだけでしょう。それが権威の性質を理解することの非常に重要な理由です。権威は学ぶことを妨げます―学ぶことは記憶として知識を収集蓄積することではありません。記憶はいつも様々なパターンの中で反応していて、そこに自由はありません。知識を背負っている人は、教えられたことを背負っている人は、その人の学んだことが重く圧し掛かっている人は決して自由ではありません。その人はこの上なく並外れて博学かもしれませんが、その人の知識の収集蓄積はその人が自由であることを妨げます、従って、その人は学ぶことができません。
 我々は様々な形の知識を収集蓄積します―科学的、心理学的、技術的などの知識です―そして、そのような知識は人の物理的な安寧には必要です。しかし、我々は安全であるためにも、混乱を起こさないで機能するためにも、我々自身の知識の領域内でいつも活動して安心を覚えるためにも知識を収集蓄積します。我々は決して不確かであることを欲しません―我々は不確かさを恐れます―従って、我々は知識を収集蓄積します。そのような心理的な収集蓄積について私は話しています、そして、そのことが正に自由を完全に妨害します。
 そのように、人が自由とは何かを探究し始めるや否や、人は権威だけではなく知識をも問う必要があります。もしあなたが単に教えられているだけなら、もしあなたが単にあなたの聞くことを、あなたの読むことを、あなたの経験することを収集蓄積しているだけなら、あなたはあなたが決して自由ではありえないことが分かるでしょう、なぜなら、あなたはいつも既知のパターンの中で機能しているからです。それがほとんどの我々に実際に起こることです、それでは、人は何をすれば良いのでしょうか?
 人は頭脳や精神がどのように機能するのか分かります。頭脳は動物的で、進歩的で、進化するもので、それ自身の経験、それ自身の知識、それ自身の希望や恐れの壁の中にいて活動します。それは絶えずそれ自身を守り保護するように活動します―そして、ある程度、それはそうしなければなりません、そうでなければ、それは直ぐに破壊されることでしょう。それはある程度の安全性を手にしなければなりません、そこで、それはあらゆる種類の情報を収集することによって、あらゆる種類の教えに従うことによって、生きるために何らかのパターンを作り出すことによって、それ自身に習慣的な安寧をもたらします、従って、それは決して自由ではありません。もし人が人自身の頭脳を観察したのなら、人自身の全機能を観察したのなら、人はその存在のパターン的な有様に気づきます、そこにはいかなる自発性も全くないことに気づきます。
 そうすると、学ぶということはどういうことでしょうか? 異なる種類の学びがあるのでしょうか、収集蓄積的ではない学びがあるのでしょうか、様々なパターンを作り出して自由を妨害する、単なる背景としての記憶や知識に陥らない学びがあるのでしょうか? 重荷にならないで、精神を機能不全にしないで、反対に、それに自由を与える学びの種類があるのでしょうか? もしあなたがそのことを自分自身に問うたことがあるなら、表面的にではなく、深く問うたことがあるなら、あなたは知るでしょう、人は、精神がなぜ権威にしがみつくのかを明らかにする必要があることを。それが教える人の権威であろうと、救済者の権威であろうと、書物の権威であろうと、あるいは、人自身の知識や経験の権威であろうと、なぜ精神はそのような権威にしがみつくのでしょうか?
 宜しいでしょうか、権威は多くの形を取ります。書物の権威があります、教会の権威があります、何らかの理想の権威があります、あなた自身の経験の権威があります、そして、あなたが収集してきた知識の権威があります。あなたはなぜそのような様々な権威にしがみつくのでしょうか? 技術的には様々な権威の必要性があります―それは単純で明らかなことです。しかし、我々は精神の心理的な状態について話しています、それは技術的な権威とは全く別です、なぜ精神は心理的な意味で権威にしがみつくのでしょうか?
 明らかに、精神はそれが不確かさや安全性の欠如を恐れるから権威にしがみつきます、それは不可知を恐れます、明日起こるかもしれないことを恐れます。そして、あなたと私はいかなる権威とも無縁に生きることができますか―支配や主張、教条主義、攻撃性、成功願望、名声願望、社会的に認知される人間になりたいという意味などの権威です。我々はこの世界を―会社へ行くなどその他の全てを―完全な謙虚の状態で生きることができますか? このことを明らかにすることは非常に難しいことです、違いますか? しかし、私は思います、正に完全な謙虚の状態の中でのみ―それはいつも進んで知ろうとしない精神の状態です―人は学ぶことができると。そうでないと、人はいつも収集蓄積しています、従って、学ぶことを止めています。
 それでは、人は一日一日そのような状態の中を生きることができますか? 私の質問が分かりますか? 確かに、実際に学んでいる精神はいかなる権威も手にしませんし、権威を追い求めることもしません。なぜなら、それは絶えず学んでいる状態の中にいるからです、外側のものからだけではなく、内側のものからも学んでいるからです、それはいかなるグループ、いかなる社会、いかなる人種や文化にも属しません。もしあなたが収集蓄積せずに絶えずあらゆるものから学んでいるなら、どうして何らかの権威や教師が存在しえますか? どうしてあなたが誰かに従うことがありえますか? そして、それが唯一の生き方です―書物から学ぶのではありません、そうではなく、あなた自身の要求から学ぶのです、あなた自身の思考の働きから、あなた自身の存在から学ぶのです。そうすると、あなたの精神はいつも新鮮です、それはあらゆるものを新しく見ます、知識の飽き飽きする眼差しではなく、経験の飽き飽きするそれではなく、それがこれまで学んできたそれではなく、そうするのです。もし人がこのことを理解するなら―実際に、根本的に―そうすると、あらゆる権威は止みます。そうすると、話し手は全く重要ではありません。
 真理が明らかにする途方もない状態、真実の計り知れなさは他の人によってあなたにもたらされえません。いかなる権威も、いかなるガイドもいません。あなたは自分自身でそれを発見しなければなりません、そうすることによって、我々が生と呼ぶこの混沌の中に何らかの意義をもたらします。それは完全に単独で、同伴者なしに、妻も同伴せず、夫も同伴せず、書物も携帯せずに遂行されるのでなければなりません。あなたがこの歩みを遂行できるのは、あなたが本当にその真理を見て取るときだけです、つまり、あなたは完全に単独で歩む必要があるという真理です―そうすると、あなたは単独です、悲痛な何かからではありません、シニシズムからではありません、絶望からではありません、そうではなく、あなたはその事実を見て取るからです、つまり、単独であることが絶対的に必要であるという事実です。この事実こそが正に、この事実に気づくことが正に、人を自由にして単独で歩かせるのです。書物、救済者、教師―それらはあなた自身です。そのように、あなたは自分自身を探究する必要があります、あなたは自分自身について学ぶ必要があります―それはあなた自身についての知識を収集蓄積することを意味しません、そのような知識であなた自身の思考の働きを見ることを意味しません。お分かりでしょうか?
 あなた自身について学ぶためには、あなた自身を知るためには、あなたはあなた自身を新鮮に、自由に、観察しなければなりません。あなたはあなた自身について学ぶことができません、もしあなたが単に何らかの知識を持ち出しているのなら、つまり、あなた自身をあなたがどこかの教師から学んだもので、何らかの書物から学んだ観点から、あるいは、あなた自身の経験から学んだもので見ているのなら。
 “あなた”は途方もない何かです、それは複雑で、活力のある何かで、途轍もなく生き生きとしていて、絶えず変化していて、あらゆる種類のことを経験しています。それは巨大なエネルギーの渦です、そして、それについてあなたに教えることができる人はどこにもいません―誰もできません! それが認識すべき最初のことです。あなたが一旦そのことを認識すると、その真理を本当に見て取ると、あなたはすでに重い荷物から解放されています、つまり、あなたはあなたに何をすべきかを告げる他の誰かに目を向けることを止めています。そこにはすでに途方もない自由の香りが漂い始めています。
 そこで、私は自分自身を知る必要があります、なぜなら、私自身を知ることなしに、何らかの争いに終止符が打てないからです、何らかの恐れや絶望に終止符が打てないからです、死を理解できないからです。私が私自身を理解するとき、私は全ての人間を理解します、人間の全関係性を理解します。自分自身を理解することは身体について学ぶことです、そして、神経組織の様々な反応について学ぶことです、そして、それは思考のあらゆる働きに気づくことです、それは嫉妬や暴力と称されることを理解することです、そして、愛情とは何か、愛とは何かを発見することです。それは“私”や“あなた”である全てのことを理解することです。
 学ぶことは知識の基礎を築くプロセスではありません。学ぶのは一瞬々々です、それはその働きの中であなたがあなた自身を際限なく見守っていることです、決して非難したり、決して判断したり、決して価値評価したりしないで、ひたすら観察することです。あなたが非難するや否や、解釈するや否や、あるいは、価値評価するや否や、あなたは何らかの知識や経験のパターンを手にしています、そして、そのパターンがあなたの学ぶことを妨げます。
 精神の根源的な変質はあなたがあなた自身を理解するときにのみ可能です、そして、そのような変質がなければなりません、何らかの変化がなければなりません。私はその“変化”という言葉を、社会や気候や経験の影響下にある変化という意味で使っていません、あるいは、何か他の形の圧力の下にある変化という意味で使っていません。何らかの圧力や影響はあなたを何らかの方向へ単に追いやるだけでしょう。私の意味する変化は努力とは無縁に生じるそれです、なぜなら、あなたはあなた自身を理解しているからです。確かに、その二つには大きな違いがあります、つまり、何らかの強制による変化と自発的に、自然に、自由に生じる変化との間の違いです。
 宜しいでしょうか、もしあなたが紛れもなく真剣なら―私は思います、もしあなたが真剣でないなら、この暑さの中、大変な不快な思いをして、これらのトークに参加するために遥々やってくることはとても馬鹿げていると―此処でのこの三週間は学ぶための、本当の観察のための、深い探究のための非常に良い機会を提供するでしょう。なぜなら、宜しいでしょうか、私は感じます、我々の生はとても表面的であると。我々は沢山のことを知っていて、沢山のことを経験してきています、我々は非常に賢く話すことができます―そして、我々には本当の深みがありません。我々は表面的に生きています、そして、表面的に生きていながら、我々はそのような表面的な生活を非常に真剣なものにしようと努めます。しかし、私は単なる表面的な次元ではない真剣さについて話しています、人自身の存在の深奥に入り込む真剣さです。ほとんどの我々は本当に自由ではありません、そして、私は感じます、もし我々が自由でないなら―心配事からの自由、習慣からの自由、精神身体的不自由からの自由、恐れからの自由―我々の生はひどく薄っぺらで空しいままです、そして、そのような条件づけの中で我々は老いて死ぬのです。
 そこで、この三週間の間、我々は我々がとても注意深く育んできたこの表面的な存在を打ち破ることができるのかどうか明らかにしましょう、そして、もっと深い何かを探究しましょう。そして、その探究するプロセスは何らかの権威の下でのそれではありません、それはどのようにそうすべきかを誰かに言われることではありません―というのは、あなたに何かを告げることができる人はいないからです。我々が此処で行おうとしていることは、それら全ての中で何が真実であるのかを一緒に学ぶことです、そして、一旦、あなたが真実は何であるのかを本当に理解すると、権威に目をやることが全て止みます。そうすると、あなたはいかなる書物も必要としません、あなたはいかなる教会や寺院にも行きません―あなたは追随者であることを止めています。自由の中に大いなる美があります、大いなる深みがあります、大いなる愛があります、今、我々はそのことを全く知りません、なぜなら、我々は自由ではないからです。そこで、我々の最初の関心は、私にはそう思われます、この自由を探究することです、言葉あるいは言語的な分析だけではなく、言葉から自由になってでもそうすることです。
 非常に暑いです、しかし、私は思います、我々はこのテントの中が極めて涼しくなるようにできるだけのことを行ったと。我々はこれらの集まりをもっと早い時間に行うことはできません、なぜなら、多くの人たちが遠くからやって来ているからです、ですから、我々はこの暑さを不快なことの一部として耐える必要があるのです。
 宜しいでしょうか、人は自分自身を律する必要があります―何かを課することによってではなく、あるいは、厳格にコントロールすることによってではなく、律することの全ての問題を理解することによって、それについて学ぶことによって、そうする必要があります。我々が感じているこれを例に取ります、この暑さです。人はこの暑さに気づくことができます、そして、それに煩わされないでいられます、なぜなら、人の興味は、人の探究は―それは正に学ぶ働きです―その暑さや身体の不快よりもずっと重要だからです。そのように、学ぶためには律することを要します、そして、正に学ぶ行為が律することです、従って、課された規律の必要はありません、技巧的なコントロールの必要はありません。つまり、私は耳を傾けたいのです、言われていることだけではなく、それらの言葉が私の中に呼び起こすあらゆる反応に耳を傾けたいのです。私は思考のあらゆる働きに、あらゆる感情のそれに、あらゆる動作のそれに耳を傾けたいのです。それ自体が律することです、そして、そのように律することは途方もなく柔軟な何かです。
 そこで、私は思います、最初にあなたが発見しなければならないことは、あなたが―何らかの文化や共同体の中に生きる人間として―本当に自由を欲するのかどうかです、あなたが食べ物やセックスや慰安を求めるように、そして、自由であるために、あなたが、どれほど遠くまで、どれほど深くまで、進んで歩を進めるのかどうかです。私は思います、それが我々の最初のトークでできる唯一のことです―あるいは、むしろ、それが我々のこの三週間の間にできる唯一のことです、なぜなら、それが我々の共有する唯一のことだからです―それです、他に何もありません。お分かりでしょうか? なぜなら、他のあらゆるものが単なる感情的な、献身的な、感激的な何かになるだけだからです、それはとても未熟なことです。しかし、もしあなたと私が本当に自由であることの意味を一緒に調べているのなら、探究しているのなら、学んでいるのなら、そうすると、そのような充溢する何かの中に、我々は全て共有できます。
 最初に私が言ったように、此処には、教える者はいません、教えられる者はいません。我々の一人ひとりが学んでいます―他の誰かについてではありません。あなたは話し手について学んでいるのでもなく、あなたの隣人について学んでいるのでもありません。あなたはあなた自身について学んでいます。そして、もしあなたがあなた自身について学んでいるのなら、そうすると、あなたは話し手です、あなたはあなたの隣人です。もしあなたがあなた自身について学んでいるのなら、あなたはあなたの隣人を愛することができます―そうでなければ、あなたは愛せません、それら全てが単なる言葉に留まります。あなたはあなたの隣人を愛せません、もしあなたが何かを競っているのなら。我々の全社会構造―経済的、政治的、倫理的、宗教的なそれ―は競争に基づいています、そして、また同時に、我々は言います、我々は我々の隣人を愛しなければならないと。そのようなことは不可能です、なぜなら、競争が生じるところに愛は生まれえないからです。
 そのように、愛が何であるのかを、真理が何であるのかを理解するためには、自由がなければなりません―誰もあなたにそれをもたらすことはできません。あなたは自分自身で骨を折ってそれを見つける必要があります。
                   ―1964年 7月12日 ザーネン