ププル ジャヤカール(P) 昨日、あなたは言いました、最初の一歩が最後の一歩ですと。その発言を理解するために、私は思います、我々は時間の問題を探究するべきであると、そして、悟りの最終的な状態というようなものがあるのかどうかを探究するべきであると。我々の精神は悟りを最終的な状態と考えるように条件づけられているので混乱します。理解あるいは悟りは最終的な状態でしょうか?
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、我々がこう言うとき、最初の一歩が最後の一歩です、我々は時間を水平的あるいは垂直的な活動として考えていませんでしたか? 我々は平面的な活動を考えていませんでしたか? 我々は昨日言っていました、もし我々が垂直的そして平面的なものをすべて脇へ追いやることができるなら、我々はこの事実を観察することができると、つまり、我々がどこにいようと、我々の条件づけがどのような次元のものであろうと、真理に気づくこと、事実に気づくことは、その瞬間が最後の一歩ですと。
あらゆる惨めなことが起こる小さなオフィスの事務職員を例に取りましょう、職員は耳を傾けます、そして、その瞬間、見て取るのです。そのように見て取ること、そのように気づくことが最初の一歩であり最後の一歩です、なぜなら、その瞬間、職員は真理に触れたからです、そして、職員は何かを非常に明瞭に見て取るからです。その正に気づきが解放をもたらします。しかし、そのあとで起こることは、職員がそのような状態を育みたいと思うことです、職員がそれを永続したいと思うことです、それを何らかのプロセスにしたいと思うことです。従って、職員はそれに囚われて、気づきの質を全く失うのです。
我々が言っているのは、あらゆるメソッド、実践、システムが何らかのプロセスを意味するということです、それは水平的なものから垂直的なものへの活動であり、最終的なものへ向かいます、活動の止んだ地点へ向かいます。もし最終的なものという概念的な理想がないなら、プロセスは存在しないでしょう。
P 思考の全構造は水平的な活動に基づいています。
K 我々は書物を水平的に読むのに慣れています。
P あらゆるものに始まりと終わりがあります。
K そして、我々は考えます、最初の一章は否応なく最終章にまで至るはずであると、我々は感じます、あらゆる実践は何らかの最終的なものに至ると、解かれた何かに至ると、しかし、それらは全て水平的な読書です。我々の精神、目や態度は水平的に機能するように条件づけられています、そして、その最後に最終的なものがあると条件づけられています、そして書物は閉じられます。あなたは問います、真理あるいは悟りは成就された最終的なもの、それ以上は何もない最終的な地点であるのかどうかを。
P 何かが漏れ出しえない地点。私は一瞬その質に触れているかもしれません。そのすぐ後に思考が再び生じて、私は自分に言います、私は元の状態に戻っていると。私は問います、そのように触れることには何らかの根拠があるのかどうかを。私は私自身とそのような状態との間に距離を置きます、そこを中断して言います、もしそのことが真実なら、思考は生じないでしょうと。
K 私は何か途方もないことに気づきます、真実である何かに気づきます、そして、私はその気づきが永続するのを願います、それに継続性を与えたいと思います、そうすることによって、その気づきが私の日常生活の中で継続するのを願います。私はそこに間違いがあると思います。精神は真実の何かを見て取りました。それで十分です。そのような精神は明瞭な、傷ついたことのない無垢な精神です。思考はそのような気づきを日常生活の中で継続したいと思います。
精神は非常に明瞭な何かを見て取りました。それをそのままにしておきます。次の一歩は、それをそのままにしておくことが、最後の一歩です。そのように、私の精神は、次の一歩が、日常の活動の中の最後の一歩ですので、いつも新鮮であり、それはそれ自身を引き継がず、その気づきは知識になることがありません。
P 思考に関する、見ることに関する実行者としての自己は止みます。
K 真実である思考を死んでやり過ごすのです。そうでないと、それは記憶になります、そしてそれが思考になります、そして思考は問います、どのようにして私はそのような状態を永続させるのかと。もし精神が明瞭に見て取るなら、そして、それは見て取ることがその消滅であるときにのみ見て取りうるのですが、そうすると精神は初めの一歩が最後の一歩である活動をスタートしうるのです。その中にはいかなるプロセスも存在しません、いかなる時間的要素も存在しません。時間が這い入ってくるのは、それを明瞭に見て取ってから、それに気づいてから、それを携えて、それを次の出来事に応用しようとするときです。
P それを持ち越すというのは,それを見て取っていないことです、それに気づいていないことです。
K そのように、何らかのプロセスを提示する全ての伝統的な取り組みは、何らかの地点、何らかの結論、何らかの最終的なものを内に持っているはずです。それは駅へ行く道は沢山ありますと言うようなものです。駅は固定した地点です。しかし、何らかの最終的なもの―最終的な地点―を内に持つ何かは生きている何かでは全くありません。真理は最終的な何かですか? それはこういうことですか、いったん私が汽車に乗ると、何も私に起こりえない、汽車は私を私の目的地に運ぶでしょうと。つまり、いったん真理を成就すると、他のあらゆるもの―あなたの不安やあなたの恐れなど―が消え去るのですか? それとも、それは全く異なるあり方で働くのですか?
プロセスというのは固定的な地点を意味します。何らかのシステムやメソッドや実践は全て固定的な地点を提示します、そして、人に約束します、人がその目的を成就すると、人のあらゆるトラブルが消滅するでしょうと。本当に時間とは無縁な何かがありますか? 固定的な地点は時間の中です。それは時間の中です、なぜなら、あなたがそれをそうと仮定したからです、なぜなら、それは熟考された何かだからです、そして、思考は時間です。人はこのことに出会えますか、時間とは無縁な何かに、プロセスとは無縁な何かに、システムとは無縁な何かに、メソッドとは無縁な何かに、いかなる方法とも無縁な何かに。
......
首無しの赤い鳥居のカタルシスとは何でしょうか?
......
この精神は、とても水平的に条件づけられているこの精神は、それが水平的に生きていると知っているこの精神は、水平的でもない垂直的でもない何かに気づくことができますか? それは瞬時に気づくことができますか? それは気づけますか、見て取ることが浄化し消滅させることを。この中に最初の一歩と最後の一歩があります、なぜなら、精神は新しく見て取っているからです。
あなたの問い、つまり、そのような精神はトラブルから解放されているのですか、というのは間違った問いです。あなたがそのように問うとき、あなたは依然として最終的な何かとして考えています、あなたはすでに何らかの結論に達していて、従って、あなたは水平的なプロセスに再び戻っています。
P このことで微妙な点は、精神は根本的な問いを発しなければなりませんが、決して方法を問うのではないということです。
K その通りです。私は非常に明瞭に見て取ります、私は気づきます。気づくというのは光のことです。私はそれを記憶として携えます、思考としてそうします、そして、それを日常生活の中で応用します。従って、私は二重性、争い、矛盾を引き入れます。そこで私は言います、どのようにして私はそれを乗り越えるのかと。
気づきはこの精神にとって光です。それはもはや気づきには関心がありません、なぜなら、もしそれがそれに関心をもつなら、それが記憶になるからです。精神は、何かを非常に明瞭に見て取って、その気づきを消滅させることができますか? そうすると、その正に最初の一歩が最後の一歩です。精神は新鮮に見ることになります。
トラブルはそのような精神にとって消滅しますか? それはそのような問いを発しません。何が起こるのか見て下さい。私がこう問うとき、これはあらゆるトラブルを消滅させますか、私はすでに未来のことを考えています、従って、私は時間に囚われています。
しかし、私には興味がありません。私は気づきます。それで終わりです。従って、精神は決して時間に囚われていません。なぜなら、私は最初の一歩を踏み出して、私は最後の一歩も踏んでいるからです、いかなる瞬間も。
そのように、我々は分かります、あらゆるプロセス、あらゆるシステムが余すことなく否定されなければならないことを、なぜなら、それらは時間を永続させるからです、時間を通してあなたは時間とは無縁な何かに到達したいと望むからです。
P 私は分かります、あなたが使う手立ては見ることと耳を傾けることであるのを。それらは感覚的な働きです。正に感覚的な働きを通じて条件づけも生じます。一つの働きが余すことなく条件づけを解消して、他のそれがそれを強化するものは何ですか?
K どのように私はその質問に耳を傾けるのでしょうか? 初めに、私は知りません、私は学ぼうとしています。もし私が知識を得るために学ぶなら、その知識から私が行動を起こすなら、その行動は機械的なものになります。しかし、私が収集蓄積せずに学ぶとき、それは気づくことを意味します、何かを獲得せずに耳を傾けることを意味します、精神はいつも空虚です。
そうすると、質問とは何でしょうか? 空虚な精神は果たして条件づけられますか? そして、なぜそれは条件づけられるのでしょうか? 本当に耳を傾けている精神は条件づけされえますか? それはいつも学んでいます、それはいつも働いています―何かから何かへ向かう活動ではありません。その働きには始まりも終わりもありえません。それは生きて働いている何かであり、決して条件づけされません。機能するために知識を得る精神はそれ自身の知識に条件づけされます。
P それは両方の中で働いている同じ何かですか?
K 私は知りません。私は本当に知りません。知識に溢れている精神はその知識で、その条件づけで見ます。
P 宜しいでしょうか、見ることは明かりをつけるようなものです、それ自体は条件づけを受けていません。
K 精神はイメージや言葉やシンボルで一杯です、それらを通してそれは考えます、それは見ます。
P それは見て取りますか?
......
三種の神器の一つであるアマテラスオオミカミの鏡とは何でしょうか?
......
K いいえ。私はあなたのイメージを手にしています、そして、私はそのイメージを通して見ます、それは歪みです。そのイメージは私の条件づけです。それは依然としてその中に全てのものを含む壺と同じであり、そして、それはその中に何もない壺と同じです。その壺の中身は壺です。中身がないとき、壺に形はありません。
P そうすると、それは現にある通りに受け取ることができます。
K 気づきが唯一可能なのは、イメージが全く存在しないときです―いかなるイメージも、いかなる観念も、いかなる言葉も、いかなる形もないときです。そうすると、気づきは光です。私が光を見るのではないのです、光があるのです。気づきは光です。気づきは行為です。そして、イメージに溢れている精神は気づけません、それはイメージを通して見ます、従って、歪みます。我々が言ってきたことは真実です、それは論理的にそうなのです。私はこのことに耳を傾けてきました。耳を傾ける要因の中に“私”は存在しません、それを引き継ぐ要因の中に“私”が存在します。その“私”は時間です。
―『Tradition and Revolution』
......
クリシュナムルティ(K) 私は何が真理で何が現実であるのか、そしてその二つの間に何らかの関係があるのかどうかを考えていました、あるいは、それらは分離しているのかどうかを考えていました。それらは永遠に分かれているのか、それとも、それらは思考の描き出したものにすぎないのか、ということです。そして、もし思考が働いていないなら、現実は存在するのでしょうか? 私は考えました、現実は“res”に、“もの”に由来すると、そして、思考が働きかけるあらゆるもの、あるいは、拵えるあらゆるもの、あるいは、省察するあらゆるものが現実であると。そして、思考は、歪んだ、条件づけられた仕方で考える思考は、自己欺瞞であり、歪んだそれです。先日、私はそこまでにしておきました、なぜなら、私がそれを追究するよりも、そのことを議論して明らかにしたかったからです。
デイヴィッド ボーム(B) 思考と現実と真理の問題は何年にもわたって哲学者たちの関心事です。それは非常に難しい事柄です。あなたの言うことは基本的に真実であるように私には思われます、しかし、明らかにされなければならない多くのことがあります。その一つがこういうことです、つまり、もし現実が思考なら、思考の考えること、意識の中に現れるもの、それは意識を超えるのか、ということです。
K 意識の内容は現実ですか?
B それが問題です、我々は思考を意識―その基本的な形で―と同等なものとして扱えますか?
K はい。
B 私は、ただ完全を期するために、思います、我々は思考の中に感情や欲望や意志や反射的反応なども含むべきであるのかどうかを。私は感じます、我々はそうすべきであると、もし我々が意識、現実そして真理の間の何らかの結びつきを探究しているなら。
K はい。
B 私が取り上げたいと思う点の一つはこうです、思考が存在し、我々の意識が存在し、そして、我々の意識するものがあるという点です。そして、あなたがしばしば言ってきたように、思考はものではないということです。
K はい。
B 我々はその点をはっきりさせなければなりません、なぜなら、ある意味で、ものは思考から独立した何らかの現実をもつかもしれないからです、我々はそれら全てを否定することまではできません。それとも我々は、ビショプ=バークレイのような、何人かの哲学者たちが、全ては思考である、と言うところまで行くのでしょうか? そこで、私は、恐らく有益な区別を提案したいと思います、つまり、我々自身の思考によって、あるいは、人間の思考によって主に作り上げられたそのような現実と人がその思考から独立して存在すると考えうるそのような現実です。例えば、自然は現実であるとあなたは言いますか?
K そうです、はい。
B そして、それは我々自身の思考ではありません。
K はい、明らかに違います。
B 樹木、全地球、星々。
K 勿論です、宇宙。痛みは現実です。
B はい。先日、私は考えていました、幻想は現実であると、それが本当に進行している何かであるという意味で、幻想の状態の中にいる人にとってはそうです。
K その人にとっては、それが現実です。
B しかし、我々にとって、それもまた現実です、なぜなら、その人の頭脳は電気的化学的活動の何らかの状態の中にあるからです、そして、その人はその人の幻想から現実的に振舞うからです。
K 現実的に、歪んだ仕方で。
B 歪んでいるけれども、それは現実です。そこで、私が思うのは、人は言いうるのです、誤りでさえも現実であると、しかし、それは真実ではないと。このことは重要なことであるかもしれません。
K 分かります。例えば、キリストは現実的な何かですか?
B キリストは彼を信じる人たちの精神の中では確かに現実です、我々が議論してきた意味で。
K 我々は真理と現実の区別を明らかにしたいと思います。我々は言いました、思考が考えるものはあらゆるものが、理性的であろうと非理性的であろうと、現実であると。それは歪められているかもしれないし、理性的に明白かもしれません、それはそれでも現実です。そのような現実は、私は言います、真理とは何の関係もないと。
B はい、しかし、我々はなお言わねばなりません、何らかの仕方で、現実は単なる思考以上の何かを含むと。実際にある何かという問題もあります。ものは実際にある何かですか?
その存在は実際の事実ですか? 辞書によれば、事実は実際に行われた何かを意味します、実際に起こる何かを、実際に知覚された何かを意味します。
K はい、我々は我々が事実として意味していることを理解しなければなりません。
B 事実は実際に起こっている活動です。仮に、例えば、あなたが暗い道を歩いていて、あなたは何かを見るとします。それは現実かもしれませんし、それは現実ではないかもしれません。一瞬、あなたはそれが現実であると感じます、そして、次の瞬間、それは現実ではないと。しかし、そうすると、あなたは突然それに触れます、そして、それはあなたの手の動きに抵抗します。この行動から、あなたが触れた現実的な何かが瞬時に明らかになります。もしそのように触れないなら、あなたは言います、それは現実ではないと、それは恐らく幻想であったと、あるいは、少なくとも現実として間違えた何かであると。
K しかし、勿論、それは依然として思考が考える現実です。そして、現実は真理とは何の関係もありません。
B しかし、宜しいでしょうか、その“もの”の議論を深めましょう。宜しいでしょうか、“もの”の英語の語源は本質的にドイツ語の“bedingen”、条件づけること、条件を課すこと、あるいは、決定することと同じ意味です。そして、実のところ、我々は同意します、ものは必然的に条件づけられることを。
K それは条件づけられます。それは受け入れましょう。
B それがキーポイントです。いかなる形の現実も条件づけられています。そのように、幻想は依然として条件づけられている現実の何らかの形です。例えば、人の血液は、バランスのとれた状態にないので、異なる組成になるかもしれません。その人は何らかの歪みを抱えています、その人はとても興奮しているかもしれません、そして、それがその人の幻想に囚われている理由になりえるかもしれません。そのように、あらゆるものが何らかの条件によって決定されます、そして、それもまたあらゆる他のものを条件づけます。
K はい、そうです。
B あらゆるものが我々の影響と称するものによって相互に条件づける仕方で相関関係にあります。物理学では、それは非常に明白です、惑星は全て互いに影響し合っています、原子は互いに影響し合っています、そして、私は言いうると思うのです、恐らく、思考と意識はこのような影響し合うあらゆる繋がりの一部であると。
K 正にそうです。
B そうすることによって、あらゆるものが意識に影響しえます、そして、それが今度は影響し返して、我々が物を作る段になって、ものの形に影響します。そうして、あなたは言いうるのです、これら全てが現実であると、思考は従って現実でもあると。
K 思考は現実です。
B そして、現実の一部が幻想の別の一部に影響します。
K そしてまた、幻想の一部が幻想の別の一部に影響します。
B はい、しかし、今、我々は注意する必要があります、なぜなら、我々は言いうるからです、人によって、人間によって拵えられるのではないそのような現実があると。しかし、それには依然として限界があります。宇宙は、例えば、我々によって観察される限り、我々自身の経験によって影響されるので、従って、限界づけられます。
K なるほど。
B 我々が見るいかなるものも、我々は我々自身の経験を通して、我々自身の背景から見ます。そのように、現実は、恐らく、人から全く独立することはありません。
K はい。
B それは相対的な独立かもしれません。樹木は相対的に独立している現実です、しかし、それは樹木を思い描く我々の意識です。
K あなたはこう言っているのですか、人の現実は何らかの影響と条件づけの産物であると。
B はい、相互的な関連と反応です。
K そして、人のあらゆる幻想も人の産物です。
B はい、それらは全て互いに交わりあっています。
K そして、正気で、理性的で、健康で、余すことのない人の現実と真理との関係はどうなるでしょうか?
B はい、我々はそのことを考察しなければなりません、しかし、初めに、我々はこの真理の問題を検討できますか? 私は思います、言葉の由来を調べることは時に非常に有益であると。“真実”という言葉はラテン語では“verus”であり、“現にある何か”を意味します。それは英語の“was”や“were”であり、ドイツ語の“wahr”です。宜しいでしょうか、英語では、“真実”という言葉の語源は正直や誠実を意味します、宜しいでしょうか、我々はしばしば言います、描かれた線は真実である、あるいは、機械は真実であると。私がかつて読んだ話の中に真っすぐに伸びている糸のことがありました、それは真っすぐに伸びている糸の紡ぎ車のイメージを使っていました。
K なるほど。
B そして、今、我々は言えるのです、我々の思考、あるいは、我々の意識は、もしそれが真っすぐに伸びているなら、もし人が正気で健康なら、現にあるものに対して真実であると。そして、そうでないと、それはそうではなく、それは誤りです。そのように、意識の誤りは間違った情報というだけではなく、それは実際に現実として歪んでもいます。
K そうすると、あなたはこう言っています、人が正気で、健康で、全体的で理性的である限り、その人の糸はいつも真っすぐであると。
B はい、その人の意識は真っすぐに伸びた糸の上にあります。従って、その人の現実は―
K ―その糸が歪んでいて、その人が非理性的で、神経症的である現実とは違うと。
B 全く違います。恐らく、後者は正気ではありません。あなたは正気でない人がいかに異なるのか見て取れます―その人たちは時には同じ現実を全く見ることさえできません。
K そして、正気で、健康で、全体的で、聖なる人、その人の真理との関係はどうなりますか?
B もしあなたがその言葉通りに受け取るなら、もしあなたが真理は現にある通りのものであると言うなら、現にある通りのものに真実に向き合っているとも言うなら、あなたはその人がそれら全てであると言わなければなりません。
K そうすると、あなたはこう言うのでしょうか、正気で、全体的なその人は真理であると。
B その人は真理です、はい。
K そのような人が真理です。その人は現実と思われることを考えるかもしれませんが、その人が真理です。その人は非理性的に考えることができません。
B 宜しいでしょうか、私はそのように言うつもりはありません、その人は誤りを犯しうると私は言いたいと思います。
K 勿論です。
B しかし、その人はそれに固執しません。言い方を変えれば、誤りを犯しても、それを認めて、それを変える人がいます。
K はい、その通りです。
B そして、誤りを犯して、その人の精神が真っすぐではなく、従って、その人はそれを続ける人もいます。しかし、我々はこういう問いに戻る必要があります、つまり、真理は特定の人を超えていくのか、それは他の人々を含むのか、そして、自然も同じように含むのか、ということです。
K それはそれら全てを含みます。
B はい、そうすると、真理は一つです。しかし、現実の領域の中には多くの異なるものが存在します。それぞれが条件づけられています、現実の全領域が条件づけられています。しかし、明らかに、真理それ自体は条件づけられえません、あるいは、ものに依存しえません。
K そうすると、真理の人の現実に対する関係性とは何でしょうか?
B その人はあらゆるもの見て、そうする中で、その人は現実を理解します。“理解する”という言葉は、あらゆるものを包含することを意味します。
K その人は現実を分離しません。その人は言います、“私はそれを理解します、私はそれを手にします、私はそれを見ます”と。
B はい、それは現実の全一的な領域です、その人自身とあらゆるものです。しかし、それはその中に条件づけられたものを有していて、そして、その人はその条件づけを理解します。
K そして、その人は条件づけを理解するので、その人は条件づけから解放されています。
B そうすると、我々のあらゆる知識は、思考に基づいているので、実際に、現実のその一つの条件づけられた領域の一部であることが明らかになるように思われます。
K そこで、別の問いがあります。仮に、私が学者であるとすると、私はそのような条件づけられた、そして、条件づける知識で満ちています。どのようにして私は、全てを包含する意味で、真理を理解するのでしょうか?
B 私はあなたが真理を理解するとは思えません。
K 言ってみれば、私は全生涯を通じて研究してきました、私は私の全生活を知識に捧げてきました、それは現実です。
B はい、それもまたより大きな現実についてです。
K そして、仮に、あなたがやって来て言います、“真理は他のどこかにあります、それはそれではありません”と。私はあなたを受け入れます、なぜなら、あなたが私にそれを示すからです、そこで、私は言います、“どうか、私をここからそこへいくのを助けて下さい”と。
B はい。
K なぜなら、一度、私がそこへいくと、私はそれを理解するからです。もし私がここで生きていくなら、私の理解はいつも断片化された何かです。
B はい。
K 従って、私の知識は私に言います、“これは現実であり、それは真理ではない”と。そして、仮にあなたがやって来て言います、“はい、そうです”と。そして、私は尋ねます、どうか、どのようにしてここからそこへいくのか教えて下さいと。
B 宜しいでしょうか、我々は正に言いました、我々は行くことができない...
K 私は簡潔に言っています。私はどうしたらよいのでしょうか?
B 私は思います、私は知識のその全構造が否応なしに誤るということを見る必要があると、なぜなら、私の現実は歪んでいるからです。
K あなたは私の意識の内容が知識であると言うのでしょうか?
B はい。
K どのようにして私はそのような意識を空にするのでしょうか、しかし、それでもなお、私は歪んでいない知識を維持しているのでしょうか―そうでないと、私は機能できません―私は何らかの状態へ、それが何であろうと、現実を理解する何かへ、どのようにして達するのでしょうか? 私は私が明瞭に話しているのかどうか分かりません。
B はい。
K 私が問うているのはこうです、私の人間の意識はその内容です、それは知識です、それは非合理的な知識と正しいそれの混乱した集合体です。そのような意識は真理を理解できますか、あるいは、真理をそれ自身にもたらすことができますか、ということです。
B いいえ、それはできません。
K 従って、この意識は真理に到達できますか? それもできません。そうすると、どういうことでしょうか?
B この意識の中で誤りに気づくことがありえます。この意識は誤りです、それが真実に向き合わないという意味で。その混乱した内容のせいで、それは真実に向き合いません。
K それは矛盾しています。
B それはものごとを混乱させます。
K いいえ、ものごとを混乱させるのではなく、それが何らかの混乱です。
......
三種の神器の一つであるアマテラスオオミカミの鏡とは何でしょうか?
......
B それが混乱です、はい、それの働く姿がそうです。宜しいでしょうか、そうすると、混乱の主な要因は、意識がそれ自身を顧みるとき、このような性格が潜むことです、つまり、それはまるで鏡を見ているようで、意識は鏡を通してそれ自身を見ているかのようです、そして、その鏡は、それは意識ではなく独立した現実であるかのように、意識を映し出しています。
K はい。
B 従って、意識がとる行動は誤りです、なぜなら、それは見かけの上で独立している現実を強化しようとするからです、それにもかかわらず、そのようにすることは、事実上、ただの混乱にすぎません。
私はこのように言いたいと思います、全意識はより深いエネルギーに繋がっている何らかの装置であると。そして、意識がそのように繋がっている限り、それはその間違った行動を持続します。
K はい。
B そうすると、その意識がそれ自身を思考から独立しているものとして間違って思い描くのを見るとき、要請されることは、どうにかして意識のエネルギーを断絶することです。全意識が断絶される必要があります、そうすると、それは、言わば、エネルギーなしにそこにあることになるでしょう。
K あなたは言っています、それに餌を与えるなと。私の意識は何らかの混乱です、それは混乱しています、矛盾しているなどその他の全てです。そして、その正に矛盾が、その正に混乱がそれ自身のエネルギーを生み出します。
B 宜しいでしょうか、私は思います、そのエネルギーは意識から実際にもたらされるのではないと、そうではなく、そのエネルギーが生み出される限り、意識は混乱を続けると。
K それはどこから生まれるのでしょうか?
B 我々はこう言う必要があります、恐らく、それはどこか深いところから生まれると。
K もしそれがどこか深いところから生まれるなら、そうすると、我々は神々や外側から働きかける何かなどの全領域へ入っていきます。
B いいえ、私は、そのエネルギーは外側から働きかける何かから生まれるとは言いません。私は、それは、ある意味で、私から生まれるとむしろ言いたいと思います。
K そうすると、その“私”はこの意識です。
B はい。
K そうすると、その内容がそれ自身のエネルギーを作り出しています。あなたはそのように言いますか?
B ある意味でそうです、しかし、分からないのは、その内容がそれ自身のエネルギーを作り出すことは不可能のように思われることです。それは、その内容がそれ自身のエネルギーを作り出すことができると言っています。
K 実際に、その内容はそれ自身のエネルギーを作り出しています。宜しいでしょうか、私は矛盾しています、そして、その正に矛盾が私に活力を与えます。私は対立する欲望をもっています。私が対立する欲望をもつと、私にエネルギーが生まれて、私は戦います。従って、その欲望はそのエネルギーを作り出します―神やより深い何かではありません―それは依然として欲望です。それはとても多くの人が陥るまやかしです。その人たちは言います、外側から働きかける何かが、より深いエネルギーがあると―しかし、そうすると、人は旧来の領域へ戻っています。しかし、私は悟ります、矛盾のエネルギー、欲望のエネルギー、意志のエネルギー、追い求めるエネルギー、快楽のエネルギー、私の意識の内容であるそれら全て―それは意識です―がそれ自身のエネルギーを作り出していると。現実はこれです、現実がそれ自身のエネルギーを作り出しています。私は言うかもしれません、“私は私のエネルギーを深いところから引き出す”と、しかし、それは依然として現実です。
B はい、仮に我々がそれを受け入れるとして、問題は、その真理を見て取ることは...
K ...それが私の突き止めたいと思うことです。そのエネルギーは真理のエネルギーと異なりますか?
B はい。
K それは異なります。
B しかし、このように言ってみましょう、現実にはエネルギーの多くの次元があるかもしれないと。
K はい。
B しかし、そのエネルギーのある部分は真っすぐな線から逸脱しています。こう言いましょう、頭脳は思考の全てのプロセスにエネルギーを供給していると。そうすると、もし、どういうわけか、頭脳が、混乱している思考のプロセスにエネルギーを供給しないなら、物事は真っすぐになります。
K その通りです。もしそのエネルギーが真っすぐな糸に沿って働くなら、それは矛盾とは無縁の現実です。それは終わりのないエネルギーです、なぜなら、それには摩擦がないからです。そうすると、そのエネルギーは真理のエネルギーと異なるでしょうか?
B はい。それらは異なります、そして、我々がかつて議論したように、より深い共通の源泉があるはずです。
K 私は確かではありません。あなたは言っています、それらは共に同じ源泉から湧き出していると。
B それを私は言っています。しかし、さしあたり、真理のエネルギーが理解しうるのは現実と...
K ...その他は理解できません。
B はい、できません、しかし、何らかの繋がりがあるように思われます、真理が現実を理解するとき、現実が真っすぐになるという意味で。そのように、少なくとも、一方からの繋がりがあるように思われます。
K その通りです、一方通行的な繋がりです―真理はそれを愛します、それは真理を愛しません。
B しかし、いったんそれが繋がると、現実は真実として働いて、エネルギーを浪費しません、あるいは、混乱しません。
K 宜しいでしょうか、そこに瞑想の働きがあります。一般的に瞑想はここからあそこへということであり、何らかの実践やその他の全てです。ここからあそこへと歩を進めることです。
B 一つの現実から別の現実へ歩を進めるのです。
K その通りです。瞑想は実際に現にある通りに見ることです。しかし、一般的に瞑想は一つの現実から別の現実へ歩を進めることだと受け取られています。
―『Truth and Actuality』