アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

湯滝下

幼児のおしゃぶりと大人のおしゃぶりとは何でしょうか?

Achyut Patwardhan () 知覚の最大の障害は諸々の観念です。事実と事実についての観念との間の違いとは何でしょうか?
クリシュナムルティ) どのように専門家たちは知覚、見ること―その行為を考えているのでしょうか?
Radha Burnier () ベーダーンタでは、意識は感覚器官を通して働くと言われます。意識は対象の形を取ります、水が容器の形を取るように。それが知覚です。
 知覚とは、見ることとは、あなたにとってどういうことでしょうか? あなたは整理ダンスを見ます、そして、あなたは整理ダンスのイメージを抱きます、従って、あなたはそれを整理ダンスとして認識します。あなたがその家具を見るとき、あなたはそのイメージを最初に抱きますか、それとも、あなたは最初に見て、それからイメージを抱き、そして、認識しますか?
 即座に、イメージが生じて、我々はそれを整理ダンスと呼びます。
 見て、すぐに命名します。
 そうすると、私は最初にイメージを抱きません。見て、連想して、認識して、命名します。私は命名から、イメージからスタートしません。そのことは極めて簡単です。私は今朝あなたを見ます。私は昨日あなたを見ました、従って、あなたのイメージを抱いています。そのように、そのイメージがあなたです。知覚する物理的対象とその心理的イメージとの間に違いがありますか?
 その二つの間には違いがあります。何らかの対象の場合は、その形のイメージがあります、他方は単なる姿かたちではない何らかの反応によって作り上げられたイメージがあります。
 簡単な蛇の例と取りましょう、頭脳細胞は蛇に対して何らかの条件づけを抱いています、それらは知っています、蛇は危険であると。頭脳は子供の時から蛇の危険性に対して条件づけられています、そして、そのように反応します。ある子供はその危険性を認識していないで、いかなる反応も起こさないかもしれません、しかし、母親がやって来て、そのことを告げます。あなたが何かを命名するとき、何らかのイメージが頭脳の中に形成されます。頭脳は条件づけされていて、何らかの状況の中で、その命名されたものが思い起こされます。
 そうすると、問題が起こります―事実を見る前に、その事実についてのイメージが生じます、そして、それは必ずしも事実ではないかもしれません。
 あなたはこう言っているのでしょうか、人が怒りを感じているとき、その感情の命名がそれを強めると。
 私は私の兄弟と口論してきています、そして、私が彼と会うときはいつでも、私は用心します。そのように、私は本当の彼を見ることができません、私はただ私が彼に対して抱いているイメージを見ているだけにすぎません。
 頭脳細胞は傷ついたイメージを引きずります。
 怒りが生じます。怒るそのときには何も命名しません。数秒後に、私はその感情を怒りと呼びます。“怒り”の感情に名を与えることは、怒りの事実を記録することであり、その過去―その感情を怒りとして認識した記憶―を強めることです。
 それは命名とは異なります。
 我々はそこに歩を進めています。私は私が怒りを覚えている人に会います、そうすると、その反応が起こります。怒りの瞬間には命名は生じません、しかし、数秒後にそれが生じます。なぜ我々は命名するのでしょうか? なぜ我々はこう言うのでしょうか、私は怒っていると。それを言葉にする必要性はどこにあるのでしょうか? それとも、それは単なる習慣でしょうか、瞬時の反応でしょうか?
 防御する働きが機能し始めます。認識そのものは、私は争いたくないという状況を作り出しています。
 自己を守るプロセスとしての命名はその一部分です。なぜ人は何らかの反応に名を付けるのでしょうか?
 そうしないと、人は人が存在していると感じないでしょう。
 もし私が命名しないなら、継続性は生じません。
 なぜ精神はそれに継続性を与えるのでしょうか?
 それが存在していると感じるためです。
 何が存在しているのでしょうか―怒りの感情でしょうか? なぜ命名することがそれほど重要になるのでしょうか? 私は私の家に名を与えます、私は私の妻を私の妻と命名します、私は私の子供を私の子供と命名します。命名することで“私”が強化されます。もし私が私の感じる怒りに名を付けないなら、何が起こるでしょうか? その怒りは消滅します。
 なぜ継続性が生じるのでしょうか? なぜ精神は継続性の中で機能するのでしょうか? なぜこの絶え間ないお喋りが生じるのでしょうか?
 お喋りは痕跡を残します。
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    幼児のおしゃぶりと大人のおしゃぶりとは何でしょうか?
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 しかし、なぜ我々はそうするのでしょうか? 怒りの感情に継続性を与えるのは、その感情を終わらせないのは習慣かもしれません。それが指し示すのは、精神は何かに占められている必要があるということです。宜しいでしょうか、なぜ精神は何かに占められることを要求するのでしょうか―セックス、神、お金などです。なぜでしょうか?
 精神には刺激が必要です。刺激がなくなれば、それは眠りに落ちます。
 そうでしょうか? その絶え間なく何かに占められていることは精神を眠らせていませんか?
 そうすると、なぜ精神はそれが何かに占められていないとき、弛緩しないのでしょうか?
 反対です、我々がなぜその絶え間なく何かに占められている必要性が生じるのかを問い始めるや否や、精神はすでに生き生きとしています。
 単に何かに占められていないことは、精神を生き生きとさせるには十分ではありません。
 勿論です。何かに占められていないで日々を愈々怠惰に過ごす多くの人たちがいます。しかし、問題はこうです、なぜあなたの精神は絶えず何かに占められていることを願うのですか、ということです。それは、もしそうでないと、それが眠ってしまうからでしょうか? それとも、それは、空虚になることを恐れるので精神は何かで占められていたいと思うのでしょうか?
 私は問うています。何かに占められていない精神のみが正に問うことができるのでしょうかと。問うているとき、精神は覚めています。ほとんどの我々は見てみることをしない習慣に堕しています、つまり、私はヒンズー教徒です、そして、私は生涯ヒンズー教徒でいます、あなたはイスラム教徒です、そして、あなたは生涯イスラム教徒でいます。しかし、もし私がなぜ私はヒンズー教徒なのかを自分自身に問うなら、私は問いかける扉を開けます。命名することは、どうしてよいのか分からないこの恐れから、ある部分、生じるのかもしれません。
 既知の岸辺から去ることの恐れです。
 それでは、精神は怒りと称されるその反応を観察することができるでしょうか、それを命名しないで、従って、それに終止符を打つことができるでしょうか? もし精神がそうするなら、そうすると、その怒りを引きずることはありえません。私が“怒り”と命名したその反応が次に生じるとき、それは全く異なる意味をもちます、異なる質をもちます。
 我々の困難はこうです、我々は怒りに様々な観念を抱いて向き合うことです。
 なぜ我々は何らかの観念や方式を抱くのでしょうか? 再び始めましょう。我々は条件づけられた反応やその命名などを知っています。今、我々は分かります、命名することが怒りに継続性を与える要因であることを。私はその真理が分かります。従って、私は命名しません。私が蛇の危険性を見て取って、それに触れないように、私はそれにも触りません。そのように、命名することをやり過ごすと、怒りが何らかの変化を遂げます。
 それは、我々が怒りを観察できている間、怒りが消滅するかのようです。怒りは、我々が観察できないときに存在します。
 いいえ。あなたは私を愚か者と呼びます、そして、私はあなたが私を愚か者と呼ぶことを嫌うので、私は怒ります。私はそれが分かります。私はその命名の偽りが分かります。そうすると、私は何らかの反応を起こしていますか? 命名する代わりに、このことが即座に生じます。従って、少しも傷つきません。我々は最初に何らかの観念を抱いて、それから我々は知覚し行動します。
 知覚する行為の代わりに、我々には深い条件づけがあります。文化的な、社会学的な、人類学的な条件づけが結び合わさり、我々に安全性を与える既存の関連する枠組みを作り出します。
 あなたはなぜそうするのでしょうか?
 我々はそのように育てられてきました。
 それでは十分な説明にはなっていません。あなたは我々がそのようにする理由を知っていますか? 我々は知っています、それが経済的にも社会学的にも有益であると。同族的忠誠心が依然として根強いのです、それが途轍もなく重要です。諸々のパターンや方式―ヒンズー的なそれやイスラム的なそれ―からはみ出すと、あなたは何が起こるのか分かります。個人的には私は何の方式も抱いていません。なぜあなたそれらを保持するのでしょうか? 明らかにして下さい。
 諸々の方式が―それらは様々なパターンですが―我々に安全な行動様式を与えます。我々は、我々が行動するときに従う行動様式を作り上げます、そして、その中には何らかの安全性が用意されています。そのように、安全性を欠くことの不安が我々の諸々の方式や観念を保持する理由です。精神は確かな何かを欲します、頭脳細胞は完全な安全性が維持されるときにのみ完全に機能します。私は思います、あなたが自分自身で気づいたことがあるのかどうかを、頭脳細胞は何らかの秩序が維持されるときにのみ機能するということを。そして、何らかの方式の中に秩序が維持されます。
 あなたは、我々には、秩序をもたらすための何らかの必要性が身体的に組み込まれていると言うのでしょうか?
 身体的に言っても、身体組織は、もしあなたが何らかの秩序の形を維持しなければ、反抗します。秩序は重要です。あなたは気づくことがありませんでしたか、寝る前に、頭脳が秩序をもたらそうとして、こう言うのを、私はあれをすべきではなかった、私はそうすべきではなかったと。そして、もしあなたが寝る前に秩序をもたらさないなら、頭脳はそれ自身の秩序を作り出します。それらは全て事実です。
 諸々の方式は、秩序が乱れることなく人の生を安全にやり過ごす最も安全な方法の一つです。それらは秩序を欲する精神にとって、秩序を見つけようと願う精神にとって必要です。何らかの安全性を様々なグルや様々な形の同族的忠誠心―ブラフマンのそれやヒンズーのそれやインドのそれ―の中に見出す精神に何が起こるのでしょうか? 自分自身をインド人と称することは安全であることを意味します。エホバに属することは何らかのグループに属するものとして扱われることを意味します。私が何らかのセクトに、何らかのグルに属する限り、私は安全です。何が起こりますか、私が私の方式を堅持し、あなたがあなたの方式を堅持するとき、私がヒンズー教徒で、あなたがイスラム教徒であるとき、何が起こりますか? 分断が生じて、従って、安全性が失われます。
 頭脳は秩序を要求します、それは安全性を要求します、そうでないと、それは正しく機能できません。それは諸々の方式を秩序のための手段として使います。秩序を何らかの方式を通して追い求めることは、分断と秩序の乱れを作り出します。一度、私がそれら全ての中の本当の危険性を見て取ると、何が起こりますか? そうすると、私は諸々の方式の中に安全性を追い求めません、そうして、私はどこか他の方向性に安全性があるのかどうかを問います、そして、そもそも何らかの安全性というものがあるのかどうかを問います。
 しかし、頭脳には安全性が必要です。
 頭脳は安全性を維持しなければなりません。
 秩序は安全性ではありません。
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        叡智とは何でしょうか?
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 秩序は安全性です、秩序はハーモニーです。しかし、秩序を探し求めると正に秩序の乱れに陥ります。これらを見て取って、私は全ての方式を捨て去ります、私はもはやヒンズー教徒ではありません、仏教徒ではありません、イスラム教徒ではありません。それら全てを捨て去ります。捨て去るのが叡智です、その正に捨て去る中で、精神は叡智的になっています。叡智が秩序です。私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。
 悟る中に秩序が生じます。頭脳は完全な条件の中で機能します、そして、関係性が異なる意味をもちます。
 頭脳は秩序の乱れの中に秩序を追い求めています。それは秩序の乱れの性質を見ていません。頭脳が諸々の方式を拒絶するとき、それが同族的忠誠心を拒絶するとき、その正に拒絶の中に叡智が生まれます。そして、叡智が秩序です。              ―『Tradition and Revolution