クリシュナムルティ ヨーロッパはそれ自身を多くの主権国家に分断してきていて、それぞれと戦い、そして、多くの領土を求めて、より多くの経済的拡張などを求めて互いに引き裂き合っています。それらは、最近の、人の記憶に新しい、二つの途轍もなく破壊的な戦争を起こしてきています。ナショナリズムは人々を分断してきています―イギリス人、フランス人、イタリア人。そして、今、あなたは、この国の中にあっても、ナショナリスティックになっています。ナショナリズムによって人間は結び付きうると期待されます。同じ旗を崇めます、それは単なる布切れです―それには何の意味もありません。(笑) どうか、笑わないで下さい。これは、何らかの演説でもないし、面白おかしいエンターテインメントの集まりでもありません。我々は非常に真剣です、我々は計り知れない問題に関心があります。
戦争はいつも破壊的です、正しい戦争と言うのは決してありません。そして、人類史には、私は信じます、一万四千六百以上のそれらが生じています。1945年から、四十もの戦争が生じています! 初めての戦争で、人々はこう言っていたかもしれません、“これが最後の戦争であることを願いましょう”と。母親たち、妻たち、夫たち、子供たちはそう叫んだに違いありません。そして、我々は依然としてそう叫んでいます、その時から五千五百年を経てもなお同じです。人々は戦争を生き方の一つとして受け入れてきました。この国でも、あなたは戦争を生き方の一つとして受け入れています―もっと兵器を、もっと将軍を、もっと兵士をと。そして、あなたが主権国家の政府を抱いている限り―つまり、ナショナリスティックな分離的な政府を、その軍隊を抱えた主権国家の政府を―あなたは戦争を引き起こすに違いありません。ベナレスでは、あなたの息子は殺されないかもしれませんが、あなたの息子はヴェトナムでは殺されるでしょう、息子がアメリカ人であろうと、ヴェトナム人であろうと同じです。そのように、主権国家の政府が存在する限り、戦争が生じるに違いありません。
そして、“私は殺さない”と言う人は何を行うことになるのでしょうか? お分かりでしょうか? この国では、幾世代もの間、ある階層の人々は殺さないように躾けられてきました、動物を、ハエを、傷つけないように育てられてきました。そして、それら全てのことは消え去っています。人々はインドが継承する精神的な何かについて多くの書物をものにしますが、実際の事実は、我々はその継承する全てを破壊してきています、我々は、ただ、現実ではない何かを繰り返し言葉にしているだけです。
そこで、我々は、二つの事柄を手にしています、つまり、このような国では、あるいは、ヨーロッパ、あるいは、アメリカでは、人が殺さないと主張するとき、人間は何を行うことになるのでしょうか? そして、奇妙なことに、この国では、何年も、恐らく、三十年ほども、人は非暴力を説いてきています―あなたは屋根に上って、そのことを叫んできています、そのことが、この国から西洋諸国に輸出されてきています―“殺すな”ということなどのそれです。今、あなたは一体になっています、戦争で一体になっています! 誰かが、昨日、私に、熱く、喜ばしく語りました、戦争がそれまでにないほどインドを一体化していると! 私はそのことを、幾つかの場所で、幾人かの人たちから聞かされてきました。宜しいでしょうか、このことは全く奇妙なことではありません。このことはイギリスで起こってきています、そこでは、階層的分断がここでのように強力です、人々はみな地下の寝床に入ります、人々はみな憎悪で結びついています! そして、あなたは、まやかしの議論を行うのです、つまり、あなたは何をしますか、もしあなたが政府の一員なら、あなたは、もしあなたが攻撃されたら、戦いますかと。明らかに、もしあなたが政府の一員なら、もしあなたが主権国家の長で、軍隊や、非人道的な諸手段を手にしているなら、あなたは、必ず、攻撃するか防御します。今日、誰も、攻撃されることや防御することについて語りません。あなたは正に戦争しています。戦争を正当化しないで下さい!
どうか、宜しいでしょうか、これら全てのことに耳を傾けて下さい、それはあなたの生です。人々は去りました、我々は去っていきます。この国では、その非暴力にもかかわらず、何千年にもわたって、殺さないことを説いてきたにもかかわらず、“我々は殺しません”と言ってきた一人の人間も存在してきていません。小声でこのようなキャンペーンが囁かれてきています、つまり、あなたと私は、我々は殺さないと我々の部屋で個人的に密かに互いに語り合おうと。しかし、公には、我々は決して壇上に登ってこう言いません、“私は殺しません”と、私は投獄されますと、あるいは、そう発言することで撃たれますと。体制に抗して立ち上がってきた一人の男子も女子も一人の人間も現れていません。非暴力を説くことが広く認知を得たとき、我々はみなそれを支持しました。今や、戦争が広く認知を得ています、あなたもそれに進んで与します。私はそのような個人たちのことを話しているのではありません。
人間は何を行うことになるのでしょうか、人は殺さないと言います。人は何を行うことになるのでしょうか? 人は何もできません、違いますか? 人は投獄されうるか、撃たれうるか、政府によって殺されうるか、なぜなら、人は反逆者だからであり、服従しないからです―あなたはそれら全ての言葉を知っています、政治家たちによって、そして、宗教=政治的な当事者たちによって作り出されるそれらの言葉を。どうか、あなた方自身を検討して見て下さい、つまり、インドでは、“それは悪いことです、殺すことは悪いことです”と言った一人の人間も存在しないできたことはなぜなのかを。政府としてではなく、人間として、なぜあなたはそれを言ってこなかったのでしょうか? あなたは挑戦されることになるに違いありませんか? 非暴力のために作り上げられたあらゆる様々な組織の下に、なぜ人々は立ち上がってこなかったのでしょうか? 何か非常に根本的な間違いがこの国では起こっています、人々が人々の信じることの確信をもちえないときに。そのように、ナショナリズムは秩序の乱れです、それは秩序の乱れを作り出します。戦争は秩序の乱れを作り出します。明らかに、宗教もまた秩序の乱れを作り出します。そのように、文明の下にある人間は、本当の人間は、主権国家の政府を受け入れません。お分かりでしょうか? あなたは言います、“私はインド人”ですと―あなたがインド人であろうと、中国人であろうと、あなたがあなた自身を何と呼ぼうと、それはどうでもいいことです。重要なことは、現にあるあなたが何であるのかということです、あなたのレッテルが何であるのかではありません。
そのように、もしあなたが、人間として、それら全てのレッテルから自由でないなら―社会主義者、共産主義者、資本主義者、アメリカ人、イギリス人、インド人、イスラム教徒―あなたがあなた自身に何らかのレッテルを張っているなら、密かにでも公にでも、あなたは世界の中に秩序の乱れを生み出しています。そして、また、あなたは秩序の乱れを内にも外にも生み出しています、あなたが何らかの宗教的集団に属しているとき、あるいは、何らかのグルに従っているとき、そうしています。なぜなら、真理は、誰かに従うことによって見出される何かではないからです、何らかのパターンに与して、あなたを非常に容易にさせる何かによって見出される何かではないからです、つまり、これを行いなさい、これに従いなさい、このように瞑想しなさい、このように規律正しくしなさいと。あなたは、そういうようには、それを手にすることは決してないでしょう。真理を見つけるためには、あなたは自由でなければなりません。あなたは独存するのでなければなりません、逆流(ぎゃくる)するのでなければなりません、戦うのでなければなりません。宜しいでしょうか、私は、先日、言われました、このインドが戦っている戦争は正当化されますと、なぜなら、バガバッドギータがそう言ったからですと! 私は、それはむしろ素敵なことだと思いました―あなたはそう思いませんか?
それでは、あなたはそのことについて何を行おうとするのでしょうか―インドとしてではなく、そうするのです。現にあるあなたのことです、人間として、この問題に向き合っているあなたです―あなたはそれについて何を行おうとするのでしょうか? この国には貧困があります、途轍もない貧困です―あなたは私と同様にそれを知っています。そして、この貧困がこの戦争のために増大しようとしています。雨不足があります、非効率性もあります、腐敗もあります、そして、国家内の分断があります。我々はある国からの食べ物を受け入れて、他の国からのそれらは受け入れません―全て政治です! そうすると、人間として、あなたは何を行うことになるのでしょうか? あなたは秩序の乱れを受け入れて、秩序の乱れの中の生を継続するのか、従って、非効率性、従って、戦争、従って、貧困、従って、飢餓を継続するのか、それとも、人間として、あなたはそれを余すことなく拒絶するのかです、部分的にではありません。あなたは何かを部分的に拒絶できません、あなたは毒薬をちょっとだけ拒絶しません、あなたはその全体を拒絶します。そして、それはあなたが独存する必要のあることを意味します。そうすると、あなたは社会から軽蔑されるでしょう。あなたは撃たれるでしょう。恐らく、この国では、それはまだ大して効果的ではありません、幸運にも。ヨーロッパでは、先の戦争のとき、多くの人たちが殺されました。我々が知っている母親には息子がいました、十八の青年です―あなたのように成人していません―彼は殺しに行くことを拒絶しました、そして、彼は撃たれました。その青年は、非暴力、不殺生、ギータ、殺さないこと、それらのいずれについても語りませんでした。彼は殺したくなかったのです、そして、彼は殺されました。
そのように、それら全てを見て取ると、外面的な秩序の乱れや内面的な秩序の乱れを見て取ると、単に平和主義者であることは答えになりません。答えはそれら全てよりもずっと深いのです。しかし、その答えを見つけるためには、人は明らかなことを拒絶する必要があります。あなたはあなたを毒している明らかなものを保持できません、そうすると、あなたはより深い何かを見て取ろうとします。あなたはこう言えません、“私は私のお気に入りのグルと共にいて、彼に従います、彼の言うことを受け入れて、瞑想します、そうして、より深い答えを見つけようと試みます”と。その二つは相容れません。あなたは余すことなく拒絶するか、そうではないかのいずれかです―人間として拒絶するのです、集団的な何かとしてではありません。なぜなら、あなたが集団的な何かになって拒絶するとき、そうすると、あなたは単に順応していて、あなたはあなたの背後にいる百あるいは百万の人々の援助を受けるかもしれません―それは単に誰かへの追随です、異なる形のそれにすぎません。しかし、完全に独存することです―それは、多くの人たちにとっては非常に難しいことです、なぜなら、人々は職を失うことを恐れるからです。あなたはそれら全てを知っています。
そうすると、我々自身と世界の中にあるこの途轍もない秩序の乱れを全て見て取ると、人は何らかの秩序をどのようにもたらすことになるのでしょうか? 我々が言ったように、秩序は、我々が秩序の乱れを理解するときに、我々がナショナリストを止めるときに、我々が、本当に、真理を、自由を追求するときに訪れます―何らかの組織によるのではありません、何らかの信念によるのではありません、どこかのグルによるのではありません。
宜しいでしょうか、何が我々一人ひとりを変えさせるのでしょうか―お分かりでしょうか? それが本当の問いです。何があなたを、ナショナリスティックなあなたを、あるいは、どこかのグルに途轍もなく献身的なあなたを変えさせるのでしょうか? 私にとって、“グル”という言葉は毒薬です、そして、誰かに従う人間の中には、醜悪な何かがあります。宜しいでしょうか、どのようにあなたはそれら全てをやり過ごすのでしょうか? どのようにあなたはあなたのヒンドゥーイズムを、あなたのグルを、あなたのナショナリズムをやり過ごすのでしょうか? どのようにあなたは独存するのでしょうか、どのようにして誰それの言うことに従わないのでしょうか? 何があなたを、人間として、このことを行わせるのでしょうか? これが本当の問題です。お分かりでしょうか? 何があなたを、それら全てを、一撃のもとに、一息で、追い落として、そして、こう言わせるのでしょうか、“私はそれら全てをやり過ごしている”と。恐らく、あなた方のほとんどは、それら全てを考えたことが全くありません。あなたは、あなた自身に、心の中で、決してこう言ってきませんでした、“なぜ私は誰も殺さないと涙を湛えて立ち上がってこなかったのか”と。なぜあなたはそうしてこなかったのでしょうか? 様々な理由を拵えないで下さい。なぜあなたそうしてこなかったのでしょうか?
何があなたを変えさせるのでしょうか? これが本当の問題です。あなたはこう言うのかどうかです、“私は変わりたくありません、私は現にある通りのことを受け入れます。それで私には十分です、秩序の乱れがあります、貧困があります、飢餓が生じています、戦争が起こるでしょう。五千年以上にもわたって戦争が生じてきました、そして、我々は更に多くの戦争を生じさせるでしょう。それがどうだと言うのでしょうか? 世界はいずれにしてもマーヤー、幻影です、それが一体どうだと言うのでしょうか?”と。あなたはそれを受け入れます、あなた方のほとんどが、見たところ、そうするように。なぜなら、我々人間は何事にも順応する途方もない能力を持ち合わせているからです―神の名のもとに狭い部屋に住むことです、相部屋です、一日一食です、拷問を受ける精神です、あるいは、ぞっとする戦争の残虐な様々な条件です、ベナレスではなく、前線です、ヴェトナムです、それがアメリカ人であろうと、あるいは、ヴェトナム人であろうと。人間は自身を順応させることができます、何にでも、街の汚濁や汚穢にも、剥き出しの汚水溝にも、腐敗した自治体にも、人々は何にでも耐えることができます。結局、順応性は動物と人間との差異です―動物はそうできませんが、人間はそうできます。
そのように、我々は現にある通りのことを受け入れて、惨めに歩むのか、我々自身を拷問にかけるのか、不幸になり、殺し殺されるのか、何らかの成就を追い求めるのか、そして、欲求不満になるのか、リーダーになろうと願うのか、落ち着く暇もなく、不幸になるのか―それが我々の行っていることです。もしあなたがそれを受け入れるのなら、それ以上言うことはありません。お分かりでしょうか? あなたは言います、“それが私の生です、それが私の父の生き方でした、私の祖父の生き方でした、私の息子の生き方です。そして、この先、幾世代もそう生きるのです”と。もしあなたがそれを受け入れるなら、それは結構です。他の問題を持ち込まないで下さい。もしあなたがそれを受け入れないなら、愛情を抱いて、そのことを強く感じる人間として、そのあらゆる奇怪な事態を感じる人間として、そうすると、あなたは何を行うことになるのでしょうか? そのような人間はどう変わるのでしょうか? どのように人は自身の中に何らかの変質をもたらすことになるのでしょうか? そして、その変質は、恐らく、社会に影響するのかしないのか―しかし、それは筋違いの話です。社会はその秩序の乱れを欲します―戦争ではありません、しかし、それは貪欲さであり、嫉妬であり、競争であり、権力や地位の追求です。それが現にある通りの社会です。そして、あなたがそれら全てを見て取るとき、あなたはどう変わるのでしょうか? あなたは私の問いを理解するでしょうか? あなたはどう変わるのでしょうか?
―1965年 11月22日 バラナシ
クリシュナムルティ ほとんどの人間が、その意識の一部分で、心理的は勿論、生物的、物理的にも何らかの安全性を見つけたいと思っています。なぜなら、あなたは衣食住を確保しなければならないからです。それは絶対的な必要性です。しかし、また、我々は欲します、要求します、渇望します、我々は心理的な安全性を探し求めます。あらゆることについて心理的に確かなことです。あなた自身を見てみて下さい、観察して下さい、話し手を、もし指摘させてもらうなら、鏡として使って下さい。彼が使っている言葉は単なる表現です、しかし、表現はそれが表現しようとしているその当のものではありません。違いますか? 従って、あなたはあなた自身を見ています、そして、あなたの欲する、人間の欲する内奥の欲求が何であるのかを明らかにしています。そして、世界の全ての争いは、心理的にも物理的にも、安全性を見つけることです。違いますか? “安全性”という言葉は安全であることを意味します、あなたの物理的な永遠性であり、物理的に良好であり、物理的に継続し、発達し、成長することです、それが何であれ、そして、心理的に、内面的な安全性を見つけることです、永久的な何かを見つけることです、なぜなら、あらゆるものが、心理的に、もしあなたが非常に注意深く観察するなら、非常に非永久的だからです。あなたの関係性は、心理的に、ひどく不確かです。あなたは、一時的に、あなたの他の人との関係性の中で、男の人、女の人などその他の全ての人との関係性の中で、一時的に安全であるかもしれません。しかし、そのような一時的な安全性こそが、正に、完全に安全性を欠くことである、安全性を欠くことになる危険性そのものです。
どうか、それを検討して下さい、それを受け入れないで下さい、我々は一緒に思考しています、我々は論理的に考えています。そのロジックを見て取ることです、その論理性、その健全性を見て取ることです、話し手がそう主張するからではありません、彼が何らかの汚らわしい名声を得ているからではありません、なぜなら、その全ては、我々が、本当に、非常に、非常に、真剣な何かを検討するときには筋違いだからです。
そこで、人は問います、何ほどかの安全性が、心理的に、全く存在するのかと。つまり、人は、心理的に、安全性を家族の中に追い求めます。我々は、一歩一歩、それを検討します―家族の中です、家族とは妻であり、子供たちです。そこに、あなたは、妻の中に、安全な、永続する、永久的な、相対的に永久的な関係性を見つけようと努めます、なぜなら、いつも死が控えているからです。そして、いつも、それを見つけないと、離婚です、喧嘩です、そして、あらゆる悲惨、嫉妬、怒り、憎悪が生じます。あなたはそれら全てに気づいているに違いありません、どうでしょうか? そして、また、人は安全性を何らかのコミュニティの中に、何らかの集団の中に、コミューンの中に、それが大きかろうと小さかろうと、見つけようと努めます。人は、安全性を、世界の中に、国家の中に見つけようと努めます。私はアメリカ人です、私はインド人です、そのことが、何らかの集団と一体化しているという途轍もない感覚をもたらします、従って、安心です。どうか、我々が言ったように、そのことに耳を傾けて下さい、そのことを拒絶しないで下さい。そのことの背後には何らかのロジックがあります、あるいは、ないかもしれません、しかし、真剣な人は検討します、拒絶しません、あるいは、受け入れません。
そして、そうすると、もしあなたが国家の中に心理的な安全性を見つけようと試みるなら、従って―その国家は他の国家と異なります―自然と、分断が生じます、そして、国家間で分断が生じるとき―あなたは、心理的に、あなたの安全性をそこに託してきています―戦争が生じます、経済的な抑圧が施されます、分断が生じます―それが実際に世界で進行していることです。違いますか?
そして、もしあなたが何らかのイデオロギーの中に何らかの安全性を見つけるなら―共産主義思想、資本主義思想、宗教思想、何らかの結論、何らかのイメージ、十字形など世界中のその他の全て―再び、それは分断的であり、分断が生じます。あなたはあなたの好む何らかの理想を信じます、それがあなたに慰安をもたらします、その中に、あなたは安全性を追い求めます、その種のナンセンスを信じる集団と一緒に。そして、別の集団は他のことを信じます、そして、それは同じことです―人々は分断されます。宗教は人々を分断してきました。キリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、お分かりでしょうか、バプティスト派、分断です、再び、その人たちは互いに相対しています、それぞれが途方もない何かを、ロマンチックな何かを信じています、それは非現実的な何かであり、真実ではなく、事実ではありません。
そこで、これら全てを見て取ると、理論としてではなく、避けるべき何かとしてではなく、あるいは、傲慢あるいは知的になるのではなく、あるいは、情動的に固執するのではなく、それら全てを非常に明瞭に見て取ると、人は問います、心理的な安全性というものが一体あるのかと。宜しいでしょうか? あなたは私の問いを理解しますか? そして、もし心理的な安全性というものがないなら、そうすると、人間とは何でしょうか? それは途轍もない混乱です。違いますか? 人はそのアイデンティティを失います、なぜなら、人はアメリカと一体化してきたからです、人はイエスと一体化してきたからです、人は仏陀と一体化してきたからです、人は国家等々と一体化してきたからです。理性、ロジックがこう言うとき、それら全ては何て愚かなのかと、そうすると、人は絶望に陥りますか―どうか、このことに耳を傾けて下さい―あるいは、あなたはそれら分断的なプロセスの偽りを観察してきたので、それらのフィクション、神話、何の基盤もない幻想の非現実性を観察してきたので、その正に気づきこそが、それが叡智ではないのでしょうか? 頭の回転の速い、ずる賢い精神の英知ではなく、読書の知識がもたらす英知ではなく、明瞭な観察から生まれる叡智です。宜しいでしょうか?
途方もない叡智をもたらす観察の中に、安全性が生じます、従って、それは、その正に叡智が安全であることを意味します。いいえ、どうか、あなたはそれを手にするのでなければなりません、私に同意するのではありません、あるいは、こう言うことではありません、“はい、それは途方もないことです、私はこれまでそのことを考えていませんでした”と、しかし、それはあなたの一部でなければなりません、それを見つけているのはあなたでなければなりません、それは、そのことを見て取って、それをあなたに語る私のことであってはなりません、そうすると、あなたはそれを受け入れるか、あるいは、拒絶するかのいずれかです。あなたはその違いが分かりますか?
最初に、我々が言ったように、私は此処に来て、話し手は此処に来て、あなたに何かを説得しているのではありません―私は何かのプロパガンディストではありません―私は私が考えるようにあなたも考えてほしいとは思いません、なぜなら、私は全く考えないからです。(笑) 私は真剣です。我々はそのことを後で検討します、なぜなら、それは途方もない事実だからです、思考とは無縁に観察する能力です、従って、そのような観察の中に途轍もない閃きが生じます、そして、そのような閃きは至高の叡智です、そして、その叡智が働きます―我々はそのことを検討します、我々が思考の全構造と性質を議論しているとき。
しかし、我々のほとんどは手放しません、そうしません、手放すことをとても恐れています、そして、安全性を見つけないのです。お分かりでしょうか? 私は手放すことができます、人は、カトリック教徒、プロテスタント教徒、共産主義者であること、それらナンセンスのその他の全てを非常に容易に手放すことができます。しかし、あなたが手放すとき、あなたがそれら全てを浄化してやり過ごすとき、あなたはそれを何らかの反応としてそうするのか、それとも、あなたは、あなたが叡智を働かせて、ホウリスティクに、大いなる明瞭性で、その愚かさ、その幻想性、その偽りを観察したのでそうするのか、ということです。そして、あなたはいかなる歪みとも無縁に観察するので、あなたはそれから何かを獲得するためにそうするのではないので―あなたは賞罰という観点から考えていないので―あなたは非常に明瞭に観察するので、そうすると、その正に気づきの明瞭性が叡智です。その中に、途方もない安全性が生じます、あなたが安全になるのではなく、叡智が安全なのです。
―1977年 4月2日 オーハイ
クリシュナムルティ そうすると、平和とは何でしょうか、そして、どのようにして我々はそれを確実にしえて、そして、我々が基礎とするその基盤を設えうるのでしょうか―我々は心理的に話しています。お分かりでしょうか、我々は一緒に話し合っています。私が指摘しているのではありません。話し手は権威ではありません、しかし、一緒に話し合うことで、物事が非常に明瞭になります。もし我々が、いかなる偏った見方もせずに、いかなる偏見も抱かずに、いかなる結論も用意せずに、平和とは何かの諸々の概念も抱かずに、一緒に話し合うことができるなら、そうすると、我々は一緒に検討することができます。しかし、もしあなたが平和について、あるべき平和について何らかの意見を持ちだすなら、そうすると、あなたの探究は止みます。
諸々の意見に価値はありません、全世界は諸々の意見によって動いているけれども。諸々の意見には限りがあります。あなたの意見、あるいは、話し手の意見、独裁政府の意見、あるいは、教会人そして政府などの意見、それらには全て限りがあります。価値を与えるあなたの判断や意見にはすべて限りがあります。私は我々がその言い方を理解するのを願います、それには限りがあるという意味です。あなたがあなた自身について朝から晩まで考えるとき、ほとんどの我々がそうするように、それには、非常に、非常に、限りがあります。あなたがあなたはスイス人であると言うとき、それには非常に限りがあります、あるいは、あなたがあなたは神に選ばれた人々であるかのようにイギリス人であることを誇りに思うとき、それにもまた限りがあります。
そのように、諸々の意見には限りがあります。人がこのことを明瞭に見て取るとき、そうすると、人は意見に固執しません、あるいは、意見が作り出した価値に固執しません。なぜなら、そうすると、他の意見に対するあなたの意見は平和をもたらさないからです。それは世界で起こっていることです。一つのイデオロギーが別のイデオロギーに相対します―共産主義者、社会主義者、民主党員などです。ですから、どうか、理解して下さい、繰り返し言わせてもらうなら、我々は一緒に話し合っています、そして、もしあなたがあなたの意見に固執するなら、そして、私が私のそれにこだわるなら、そうすると、我々は決して出会うことはないでしょう。そのように、意見から、そして、その価値から自由になるのでなければなりません。それは明瞭でしょうか?
我々はそこから歩むことができますか? あなたは、実際には、あなたの諸々の意見を保持して、それらを斧として使って、互いに叩き合ったり、互いに殺し合ったりしていません、そうは言っても、私が抱く諸々の意見には限りがあります、従って、それらは否応なく争いをもたらすに違いありません。もしあなたがあなたの結論に固執するなら、そして、あなたの結論もまた限りがあるのなら、そして、他の人がその人の結論、その人の経験―それらもまた、いつも限りがあります―を保持するなら、そうすると、争いだけではなく、戦争、破壊などその他の全てが生じるに違いありません。もしあなたがそのことを非常に明瞭に見て取るなら、そうすると、諸々の意見は、非常に、非常に、表面的になります、それらには全く意味がありません。そのように、どうか、あなたが平和とは何か、そして、あなたは平和に生きることができるのかどうかを検討しているとき、それについての何らかの意見を持ちださないで下さい。自由に探究して下さい、そして、そのような探究の中で行動して下さい。その正に探究が行動です、あなたが、初めに、探究して、その後に、行動するのではありません。しかし、探究するプロセスの中で、あなたは行動しています。私は再びこのことが明瞭であることを願います、自由があるのでなければならないということです。それが正に平和の基礎です。諸々の意見の全ての価値から自由でなければなりません、そうやって、我々は、一緒に、実際に、理論的にではなく、事実として、あなたと話し手は意見を保持していないと見て取るのです、それは途轍もない要請です、なぜなら、我々は意見を糧に生きているからです。あらゆる新聞、雑誌、書物が諸々の意見に基づいています、つまり、誰かが何か言います、あなたは同意します、そして、それがあなたの意見でもあります。別の人は別の書物を読みます、そして、そこで意見をものにします。そのように、どうか、平和の本当の意味を、その深さを、その美を、そして、その質を明らかにするためには、いかなる偏見も生じてはなりません。明らかに、それが最初に要請されることです―あなたは平和に信を置くのでなければならない、ということではないのです、あるいは、平和に生きることをあなたの生の目的にすることではないのです、あるいは、書物から、他の人たちから、平和とは何かを追求することではないのです、そうではなく、あなたの全存在が平和に生きることができるのかどうかを探究することです。
行動は気づきと分離していません。あなたが真実な何かを見て取るとき、その正に気づきが行動です。あなたは、知覚し、あるいは、理解し、そして、行動するのではありません。それは知的な概念です、そして、あなたはその概念を行動に移すのです。見て取ることが行動です。見て取ることです、世界が種族的にバラバラになっている事実です―イギリス人、ドイツ人、ヒンドゥー教徒、仏教徒、スイス人―それらは諸々の種族です。その事実を見て取ることです、それらは諸々の種族です、国家として美化されたそれらです、そして、その種族意識が世界に大混乱を引き起こしています、世界に戦争をもたらしています、それぞれの種族が、それ自身の文化を他の文化と対立しているそれと考えます。しかし、種族意識が根幹にあります、その文化ではありません。そうすると、そのことを観察するとき、その事実を観察するとき、頭脳を種族意識の条件づけから自由にする行為が存在します。それは明瞭でしょうか? 我々はこのことを我々自身の中で明瞭にしていますか?
あなたが実際に見て取るとき、理論的にではなく、あるいは、観念的にではなく、事実として―種族意識、それにはその中に何らかのメリットがあったと―しかし、それは、美化された国家としての存在が、正に、その事実が、戦争の原因の一つです。それは事実です。戦争の原因は他にもあります、経済的など―我々は...その原因の一つは種族意識です。あなたがそのことを見て取るとき、それに気づくとき―それは平和をもたらすことができないと―その正に気づきが、頭脳をその種族意識の条件づけから解放します。我々はこのことで歩みを共にしていますか? 我々は一緒に話し合っています。話し手はあなたを説得しているのではありません。彼はあなたに何かを確信させようとしているのではありません。彼はいかなる種類のプロパガンダも行っていません。しかし、我々は現にある通りの物事に向き合っています、正面から。そして、世界中の争いの要因の一つは宗教です。あなたはカトリック教徒です、私はアラブ人です、イスラム教徒などです。それは何らかの観念に基づいています、二千年のプロパガンダです、そして、三千から五千年にわたるヒンドゥー教徒や仏教徒がいます、我々はコンピュータのようにプログラムされてきています。どうか、その事実を見て下さい、そのようなプログラミングが、大建築を、偉大な絵画を、偉大な聖歌を、何らかの音楽をもたらしてきました、しかし、それは人類に平和をもたらしてきていません。あなたが、あなたはいかなる宗教にも属していないという事実を見て取るとき―あなたはヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、キリスト教徒でもありません、何ものでもありません。あなたが、同じ地に半ダースのグルがいるとき何らかの分断が生じると見て取るとき―あなたはお分かりでしょう、彼らが行っていることを、宜しいでしょうか―彼らは悲惨を、矛盾を、争いをもたらします。あなたのグルは私のそれより優れている。私のグループはあなたのそれより是認されている。私は伝授されている、あなたはそうではない。あなたは、それら全てのナンセンスが進行しているのを知っています。そうすると、あなたが、それら全てを実際の事実として見て取るとき―それはあなたの周辺で進行しています―そうすると、あなたは、いかなる集団にも、いかなるグルにも、いかなる宗教にも、何らかの観念に基づくいかなる政治的公約にも与しません。どうか、このことは非常に真剣なことです、もしあなたが本当にそう願うなら、そして、平和に生きることの切迫性を感じるなら、それら全てから自由でなければなりません、なぜなら、それらが、不和の、分断の要因だからです。真理はあなたのものでも私のものでもありません。それはいかなる教会にも、いかなる集団にも、いかなる宗教にも属していません。頭脳はそれを発見するために自由でなければなりません。そして、平和は、この偽りから自由になるときにのみ存在しえます。我々はここまで一緒に歩んでいますか―たとえ、それが知的であっても、です。宜しいでしょうか、我々のほとんどにとって、物事について、とても根本的であることは非常に難しいことです、なぜなら、我々は、幻想の物事の中に、事実ではない物事の中に、安全性を見て取ってきたからです。そして、それらを手放すことは非常に難しいことです。それは意志を働かせることではありません、あるいは、何らかの決断をすることではありません―“私はいかなるものにも属しません”―それは別の誤りです。我々は何かに献身的になります―何らかの集団に、何らかの観念に、何らかの宗教的いかさまに、なぜなら、我々は、我々のために何らかの安全性があると考えるからです。そして、それら全ての中に安全性は存在しません、従って、平和は存在しません。頭脳は安全でなければなりません。そして、頭脳はその思考を働かせて幻想である物事の中に安全性を追い求めてきました―違いますか?
そのように、それからの自由です。あなたはそうできますか? あなたは、本当に、真剣に、人は平和の中を生きるのでなければならないと願いますか、渇望しますか、要求しますか? あるいは、今朝だけ、話し手に恐らく促されて、あなたはこう言うのです、“はい、私はそれら全てを理解します、しかし...”―しかし、しかし、しかし!
そのように、我々は、一緒に、二人の友人として、話し合っています、そして、そのことが、二人の友人として、行われていることです、あなた方が沢山ここにいるけれど、我々は友人です、あなたと話し手です。そして、説得もしていないし断念もさせていない、あれやこれに献身的になるよう、お互いに問うているのでもない二人の友人として―それらは、そうすると、友人ではありません。二人の友人として、互いに問うています、つまり、人は人の生の全存在を平和に生きることは可能かと。ときおりではありません、あなたが何もすることがなくて、テレビやコンピュータに没頭しているときではありません―それらは表面的なリラクゼーションです。しかし、微塵の争いもなく、微塵も問題を抱えることなく生きることです。問題がないということではありません、問題は生じます。しかし、それらの問題は解決されません、なぜなら、我々がそれらの問題の作り手だからです。私はあなたがそれら全てを理解するのかどうか分かりません。
―1983年 7月10日 ザーネン