uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

五月鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ) 我々は何を話しましょうか?
Jonas SalkJS) 私はあなたにあなたの最も深く興味のあること、あなたの最も関心のあることを私に話して欲しいと思います。
 それは言葉にするのが相当に難しいことです、違いますか、しかし、世界で進行していることを見てみると、私は思います、真剣な人なら、その未来について、人類に何が起ころうとしているのかについて関心を寄せるに違いないと。とりわけ、もしあなたに子供がいるなら、その子たちの未来は何であるのか、です。その子たちは、人間たちが、多かれ少なかれ、百万年も従ってきている同じ古いパターンを繰り返すことになるのでしょうか? それとも、その子たちの精神の中に、その子たちの全意識の中に、根本的な変化が起こることになるのでしょうか? それが本当の問いです―核戦争でも通常の戦争でもなく―人と人とが対立する必要があるのかどうか、ということです。

       ...他人とは何でしょうか?...

JS はい、あなたは、きっと、そのことについて何らかの意見をもっているに違いありません。
 私は私が何らかの意見をもっているのかどうか知りません。私は沢山のことを観察してきました、私の生の中で、多くの人たちと話し合ってきました、そして、非常に少数の人たちしか本当に関心を寄せていません、異なる生き方があるのかどうか、異なる地球規模の関係性が生じうるのかどうか、地球規模で人々が通じ合えることがあるのかどうかを発見しようと献身的になる人です、単に言葉の違いにつまずくのではなく、宗教的そして政治的分断などそれら全てのナンセンスにつまずくのではなく、我々が、この地球上で、お互いを果てしなく殺戮し合うことなく、平和に生きることができるのかどうかを、本当に明らかにしようとする人です。私は思います、それが我々のいま直面している本当のことであると。そして、我々は考えます、その危機は我々の外側にあると、しかし、それは我々の中にあります、我々の意識の中にあります。
JS そうすると、あなたはこう言っています、我々は、今、我々自身に向き合っていると。
 はい、我々自身に、そして、我々の世界との関係性に、外面的にも、内面的にも。
JS そうすると、我々が向き合う根本的な事柄は関係性であると、つまり、我々自身の関係性、そして、お互いの関係性であると、そして、私は、あえて、こう言おうと思います、世界そして宇宙との関係性であると。我々は、正に、我々の生の意味の永遠の問いに向き合っています。
 はい、その通りです。我々は我々の生に知的な意味を与えるのか、何らかの目的を見すえて、それに邁進するのかどうか、それはとても人工的になります、不自然になります、それとも、我々は我々自身の全構造を理解するのかどうかです。我々は、今、技術的に途轍もなく進歩してきています―人々が行っていることは、あなたの知る通り、驚くべきことです―しかし、他の場面では、心理的な領域では、我々は、ほとんどと言っていいほど、歩を進めていません。我々は、数えきれない年月を経てもなお、現にある通りの我々のままです。
JS 我々がAI(人工知能)と呼ぶものを発達してきても、我々自身に備わる自然な叡智をどのように使うのかを学ぶ必要性を認識しないできているということです。

  ...幼子のみなもの慈しむ”とは何でしょうか?...

 宜しいでしょうか、我々は自然な叡智を手にしていますか、それとも、我々はそれを破壊してきていますか?
JS それは生来のものです、そして、我々は、一人ひとりの中にそれが生まれるとき、それを破壊します。私は思います、我々は自然な叡智を授かって生まれていると。
 私は、正に、そのことを問いたいと思います、我々は自然な叡智を授かって生まれているのかどうかを。
JS 我々はそのための能力、潜在的な何かを授かって生まれています、それは言語能力を授かって生まれるのと同様です。しかし、それは、そうすると、生の経験を通して鍛えられ、発揮させられ、生み出されるのでなければなりません。そして、それが、その潜在能力を呼び起こすための、私が条件づけや環境として考えたいと思う何かを、我々が、本当に、理解する必要がある理由です。
 我々が条件づけられている限り...
JS 我々はいつも条件づけられます、それは我々の性質の中にある何かです。
 それでも、我々自身の条件づけを解くことは可能でしょうか、それとも、条件づけは続くに違いありませんか?
JS あなたはこう問うているのでしょうか、条件づけられてきている個人の条件づけを解くことは可能かどうかと。
 個人は、社会によって、言語、気候、文学、新聞など、個人を形作り、何らかの印象を植え付け、個人に影響を与えてきたあらゆるものによって条件づけられている個人は、その条件づけから、正に、抜け出すことができますか?
JS 非常に難しいです、なぜなら、それには、それが固定する傾向が備わっているからです、そして、それが、我々の若い人たちに注意を向けなければならない理由です、社会的な文脈の中で、それらの環境によって形づけられ、それらの中に投げ込まれる各々の新しい世代です。我々は、新しくて、まだ何かに形づけられていない、まだ形を成していない精神に、健康的な方法で、その人たちに何らかの影響を与える何らかの機会を手にしています。
 人は、もしそのことを言わせていただくなら、沢山の若い人たちと、何千もの若い人たちと触れ合ってきました。五歳から十二歳まで、それらの子たちは聡明で、好奇心にあふれ、鋭敏で、エネルギーに、活力に、そして、美に溢れています。その年齢をすぎた後、両親は、社会は、新聞は、その子たち自身の友人は、家族は、その子たちを飲み込んで、その子たちをひどく醜く、狂暴に仕立てるように思われる全てのことに責任があります。あなたは知っています、人種全体がそうなっていることを。それでは、その子たちを、それらとは異なるように教育することは可能でしょうか?
JS 私はそう思います。私は、以前、私が書いたものの中で言ってきました、我々には免疫作用を有する教育が必要であると。私の言う類似性は、深刻な病気に対する免疫の働きのことです。この例で、私は、単に、身体の深刻性ではなく、精神の深刻性を考えています。
 我々はそのことを少し検討できますか? 基礎的に―表面的にではなく―精神を深刻にしているのは何でしょうか? 基礎的に、です、もし問わせていただくなら、それは知識でしょうか?
JS 間違った知識。
 私は、“知識”という言葉を、それが正しかろうと間違っていようと、心理的な知識と言う意味で使っています。学問的な知識や科学的知識、コンピューターなどの技術を別にして、それら全てを別にして、人は知識によって内面的に助けられてきましたか?
JS あなたは経験からもたらされる知識の類に言及しているのでしょうか?
 はい、そのような知識は経験のあらゆる集積の結果です。
JS 私は二種類の知識を見て取ります、つまり、私は、言ってみれば、科学によってもたらされる知識の組織的な体系を見て取ります、そして、人間的な経験によってもたらされる知識の類を見て取ります。
 人間的な経験―ただ人間的な経験を取り上げましょう。我々は、恐らく、一万年も戦争をしてきています。そして、かつては、あなたは矢や棒で二人あるいは三人あるいはせいぜい百人を殺戮しました。今や、あなたは百万人単位で殺戮します。
JS もっとより効果的に行います。
 はい、あなたは上の空で、あなたはあなたが殺戮している人を知りません。それはあなた自身の家族かもしれません、あなた自身の友人かもしれません。そのように、何千年もの戦争の、そのような経験は、人に殺戮しないことについて何かを教えてきましたか?
JS それは何かを私に教えています。私はその中にいかなる意義も見て取りません、そして、その類の行為の馬鹿々々しさに気づいている人たちの数が増えています。
 一万年も経ています! お分かりでしょうか?
JS 分かります。
 我々は問うのでなければなりません、何かを学んでいるのかどうかを、あるいは、ただ、盲目的に彷徨っているだけなのかどうかを。一万年ほど経ても、人間は非常にシンプルなこと学んできていません、つまり、誰かを殺害するな、ということです、何ということでしょう、あなたはあなた自身を殺害しているのです、あなたはあなたの未来を殺戮しているのです。そして、それが学ばれてきていません。
JS それは少数の人たちによって学ばれてきましたが、我々皆ではありません。
 勿論、例外の人たちはいます。例外の人たちは置いておきましょう、その人たちはいつもそこにいます、幸運なことに。
JS 幸運なことに、それは非常に重要な点です。
 しかし、大多数は、戦争に、大統領に、総理大臣などそれら全てに一票を投じる人々は、一つも学んできていません、それらの人々は人間性を破壊しています。
JS 究極的な破壊はまだ起こっていません。あなたの言うことはその通りです、しかし、我々はそのような新しい危険に気づく必要があります、そして、何かが我々の中に、今、生じるのでなければなりません。
 宜しいでしょうか、私はそのことを検討したいと思います、なぜなら、私は問うているからです、経験は人に何かを教えてきたのかどうかを、もっと残酷に、もっと利己的に、もっと自己中心的に、もっと自分自身とその小グループに、その小家族や何やらに関心をもつことを除いて。民族意識が、国家意識として祭り上げられてきたそれが、我々を破壊しています。そうすると、もし、多かれ少なかれ、一千年の何かが人に殺戮を止めることを教えてきていないなら、何かが間違っています。
JS 私はあることを提案したいと思います、その問いの見方です。私はそれを進化的な見方から見たいと思います、そして、こう考えてみたいと思います、我々は時間的に進化していて、その中で、あなたが先ほど言及した例外の何かが、ある日、規範になると。それでは、それはどのようにして起こるのでしょうか? それは起こる必要があります、そうではないと、その後について話すべき何ものもないでしょう。
 勿論です。
JS 我々は、今、危機に直面しています。そのような危機は差し迫っていて、それは益々身近になっています。
 はい、そうです、それを我々は言ったのです。
JS そのために、我々は我々自身の領域へ意識的に入って行くのが良いでしょう。我々が十分に意識すると、その危機や危険に気づくと、何らかの努力がなされるに違いありません、何らかの方法が、全体としての世界意識を生じさせるために、それがいかに困難であろうとも、発明されるのでなければなりません。
 私はそれら全てを理解します、宜しいでしょうか。私は非常に多くの政治家たちと話し合ってきました、そして、その人たちの議論はこうです、あなたやあなたのような人たちがその領域の中に入るのでなければならないと。宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。我々はいつも何らかの危機を扱います、その危機をもたらした何かではありません。危機が生じると、我々の反応はこうです、その危機に対処しなさい、過去の経緯に煩わされるな、他の何ものにも煩わされるな、その危機に対処しなさいと。
JS それは間違っています。
 それが人々の全てが行っていることです。
JS 私は分かります。そして、それが人々のあなた自身のような人たちの知恵を必要としている理由です、未来を見る人たちです、不吉なことを見て取ることができる人たちです、そして、不吉なことが起こり始める前に行動を起こす人たちです。
 そのように、私の言っていることはこうです、我々はこれら全ての原因を検討すべきではないのかと。単に、こう言うことではないのです、今、危機が生じています、それに対処しましょうと。
JS はい、私はあなたに同意します。
 それが政治家たちの言っていることです。つまり、これら全ての原因は、明らかに、安全に生きようとする欲望です、守られていたい、内面的に安心していたいという欲望です。私は私自身を家族として分断します、人間の小グループなどとして分断します。
JS 我々は我々が全くの一つの家族であることを発見しようとしています。
 あーっ!
JS そして、我々の最高の安全性は、我々の家族の中の他の人々を気遣うことからもたらされます。他の人々が苦しんでいることや、その人たちが、我々同様、その人たち自身にも何らかの脅威になることは、いかなるメリットもありません、そして、それが今の状況です。
 しかし、私は指摘しています、我々は苦しむことから学んできていません、我々は戦争の苦悶から学んできていません。そうすると、我々が学ぶのは、変わるのは何によるのでしょうか? その要因、その深みとは何でしょうか? なぜ人間は、これほど長く地上に生きてきて、この哀れな地球を破壊しているのでしょうか、そして、お互いを破壊しているのでしょうか? これら全ての要因とは何でしょうか? その要因についての思索ではなく、その実際の、深い人間的な要因です。もし我々がそれを見つけないなら、我々は、我々の残りの日々も、そのことを続けるでしょう。
JS 正にその通りです。そうすると、あなたはその要因を問うています。
 あるいは、人をこの現在の危機に追いやってきた因果関係です。
JS 私の見るところ、戦争は、人が、強迫的な環境下で生き残るために、その必要性を満足させる何かであると、戦争によって得られる何かがあるときそうなると。そこで、何も得られないときが来ると、そして、あらゆるものが失われるときが来ると、我々はそのことを考え直すかもしれません。
 しかし、我々は失ってきました、宜しいでしょうか。お分かりでしょうか? あらゆる戦争が喪失の戦争です。なぜ我々はそのことを学んでこなかったのでしょうか? 歴史家たちが、あらゆる偉大な学者たちが、それについて書物をものにしてきています。そして、人は部族=民族的で、取るに足らない自己中心性を抱えたままです。そうすると、何が人を変えるのでしょうか? 即座の変化です、徐々にでも、将来には、でもありません、なぜなら、時間は人の敵かもしれないからです。進化は敵かもしれません。
JS 敵? 進化が唯一の解決かもしれません。
 もし人がそれら全ての苦しみから学んできていないなら、そして、単に、そのことを永続させているなら...
JS 人はまだ十分に進化してきていません。諸条件が、いまだに、戦争が勃発する問題を都合よく解決するようには整備されてきていません。
 宜しいでしょうか、もし我々に子供がいるなら、その子たちの未来は何でしょうか? 戦争でしょうか? そして、私は、もし人が親なら、人はこれら全てをどのように見ることになるのでしょうか? どのようにして、人は、それら全てが進行することに、そして、我々の子供たちと、進行するそれら全てとの関係性に目覚めるのでしょうか、気づくのでしょうか? そして、もしそれらが変わらなければ、それは果てしなく続くでしょう。
JS 従って、何らかの変化が絶対に必要です。どのようにして我々はそれを生み出すのでしょうか? 
 それを私は問うています。変化が絶対に必要です。しかし、もしその変化が進化に依存するなら、それは時間やその他の全てを意味します、我々は我々自身を破壊しています。
JS しかし、私は思います、我々は進化的なプロセスを、意図的に、意識的に促す必要があると。今まで、我々は無意識的に進化してきていて、それが、あなたが正に表現した条件づけを導いてきています。新しい、異なる種類の変化が起こるのでなければなりません、我々の意識の中の変化です、その中で我々の叡智を我々は使っています。
 同意します。そこで、私は問うています、その要因とは何でしょうかと。もし私がその要因を見つけることができるなら、あらゆる要因には何らかの結末が控えています。もし私が人間を現在の状態に至らしめた要因や多くの原因を見つけることができるなら、そうすると、私はそれらを追求することができます。
JS 別の見方を言わせて下さい。議論を進める上で、こう仮定したいと思います、そのように導いてきた要因は、もし何らかの外側からの働きかけが、その方向性を変えるために注がれないなら、継続すると。こう言わせて下さい、それは人間の中にある肯定的な要素を見て取る可能性のことです、それらを強化する可能性です。
 それは時間を意味します。
JS 人間の領域の中のあらゆるものが時間の中で起こります。私は言っています、我々は時間を促すか、あるいは、縮めると、我々は、時間や偶然性にだけ頼らないと、我々は我々自身の進化の中に、ある程度、分け入って、そして、我々の進化の共同執筆者になると。
 私はそれを理解します。そこで、私は、恐らく、答えにならないことを問うています―私自身はそうすると思います―それはこうです、時間は消滅しえますかと。それはこういう考え方を意味します、あなたが私を殺害する前に、私に数日の猶予を下さいと。その数日の間に、私は変わらなければならないと。
JS 私は思います、時間は次のような意味で消滅すると、つまり、過去が消滅して未来が始まると。
 それはどういう意味でしょうか? 過去が消滅するためには―それは最も複雑なことの一つです―記憶、知識、欲望、希望、それら全てが消滅する必要があります。
JS 何かが消滅して、そして、何か新しいものが始まる様子をあなたに提示させて下さい。地球が丸く、平たんではないと観察されたとき、知覚に変化が生じました。同じことが、地球は太陽の周りを回っていることが明らかになったとき、起こりました。
 宜しいでしょうか、私の問いはこうです、時間は敵ですか、それとも、それは何らかの助けになるのですか、ということです。人間の頭脳は技術的に無限の能力を秘めています、しかし、我々はそのような能力を内面的に適用していないように思われます。
JS そのことに集中しましょう。それが中心をなす事柄です。同意します。
 はい、そのことを私は言っているのです。もし我々がその途轍もないエネルギーをこのことに注ぐなら、我々は即座に変わるでしょう。
JS 即座に、正にそれです。
 それでは、何をもって、人は、その能力を、そのエネルギーを、その動因を、この点に、人の意識の内容に向けるのでしょうか?
  悲しみは人を助けてくれていません、より良きコミュニケーションは人を助けてくれていません、事実、何ものも助けてくれていません―神、教会、宗教、善き政治家、最近のグル、そのどれも助けてくれていません。
JS その通りです。
 そうすると、私はそれら全てを脇へ除けて、誰にも頼らないでいられますか、科学者、医者、心理学者、誰にも、です。
JS あなたの言っていることはこうです、あなたの抱いていることを成し遂げるための手立てはいまだに発明されていないと。
 私は、それは手立ての問題ではないと思います、手立ては目的を意味します。
JS 私はそれを受け入れます。
 従って、手立てを追い求めないで下さい。それらの人々があなたの助けに少しもなってこなかったことを見て下さい、反対に、それらの人々はあなたを間違った道へ導いてきました。ですから、それらの人々から去って下さい。
JS その人たちは手立てではありません。なぜなら、その人たちは我々の話している目的にそぐわないからです。
 外側の権威は手立てではありません、ですから、内面を見て下さい。それは、宜しいでしょうか、途轍もない―私はこの言葉を使いたくありませんが―“勇気”を要します、しかし、それは独存することを意味します、何ものにも頼らない、あるいは、執着しないことを意味します。そして、誰がこのことを行うのでしょうか? 単に、一人あるいは二人でしょうか? 
JS それが問題です。
 そこで、私は言います、後生だから、この点に目覚めて下さい、手立てではないと、目的ではないと。
JS 私は、どこに解決を見出すのか、そして、それが人間の直面してきた全てのものの中の恐らく最も困難なことであるという、あなたの見方に共感します。それがそれの最後に残った理由です。我々は容易な全てのことを行ってきました、人工知能(AI)を操るように、しかし、我々自身の叡智を発達させることなくそうしてきました。それは理解しうることです、なぜなら、我々は、ある意味で、原因と結果だからです。
 原因が結果になり、そして、結果が原因になるなどです、我々はその繋がりの中に留まります。
JS はい、我々は人類が絶滅しうる地点にいるので、私にはこう思われます、唯一の発明は、もし私にその言葉を使わせてもらうなら、我々が待ち望んでいるそれは、戦争に導いてきたあらゆる要因や条件や環境に自制をもって応える手立てを見つけることであると。
 そうでしょうか、これは筋違いかもしれませんが、お分かりのように、世界は快楽に心奪われています。あなたはそれを他のどこよりもアメリカで目にします、快楽へ、スポーツへ、エンターテインメントへ、年がら年中、途轍もなく駆り立てます。ここの学校では、子供たちが何らかのエンターテインメントを欲します、学ぶのを欲するのではありません。あなたが東洋へ行くと、そこでは、子供たちは何かを学びたいと思います。
JS それもまた快楽的になりえます。
 はい、勿論です、しかし、人は快楽を見つけて、それを継続することを促されます。それが見たところ歴史的プロセスになってきています、教会であろうと、ミサであろうと、宗教の名の下で行われるあらゆる騒動の快楽です、あるいは、サッカー場のそれです、全てが遥か昔から存在してきました。我々が享受する専門家たちの様々なエンターテインメントは我々の困難の一つです、宜しいでしょうか、それらエンターテイナーたちの全世界です。あらゆる雑誌がエンターテインメントの形です、あちこちに見受けられる少数の良い記事を加えてのそれです。そのように、人を駆り立てるものは恐れから逃れることだけではなく、快楽に駆り立てることでもあります。それらは手に手を取っていて、同じコインの裏表です。しかし、我々は一方を―恐れです―忘れて、そして、快楽を追求します。それがこの危機の差し迫っている理由の一つかもしれません。
JS 人種が絶滅するというのは初めてのことではありません。私は思います、我々は問うのでなければならないと、何らかの文化あるいは社会があるのかどうかを、それらが他のそれらよりも、あなたが注意を喚起してきた問題や弱点を超えるために必要とされる性格や属性をもつことにより、堪えうるそれらがあるのかどうかを。私には、あなたがひどく困難で危険なときを予言しているように思われます。そして、あなたは指摘しています、人々や文化や個々人たちの間に存在する困難を、そして、大破壊に耐えて生き残るかもしれない例外的な人々を。
 それは、一人あるいは二人、あるいは、十数人が、あらゆる大混乱から生き残ることを意味します。いいえ、私はそれに同意できません。
JS 私はそれを提示しているのではありません。私は単にそのような絵を描いているだけです、その数を、その質と量を、そうすることで、人々に、人々のその未来に関する責任に気づいてもらうために、そうしているだけです。
 宜しいでしょうか、責任はあなたの小家族に対するそれだけを意味するのではありません、あなたは人間として全人間性に責任があります。
JS 私は思います、私はあなたに提示したと、私がインドで行った講演のタイトルのことです、それはこうでした、“我々は善き先祖でしょうか?”です。我々は未来にとっての先祖として責任を負っています。私はあなたの見方に完全に共感します。そして、我々がこのことに気づいて、このことを差し迫った脅威として意識的に自分自身に取り組み始めるなら、早いほどより好ましいのです。
 再び、私は指摘したいと思います、例外的な人々は存在します、しかし、物事をそのように見ない大多数は、知事、大統領、総理大臣、あるいは、あらゆるものを抑圧している全体主義者に一票を投じます。そのように、大多数がそれらの人々を選挙で選んでいると、あるいは、少数がそれらに権力を集中して、他の人々に命令すると、我々はその人たちの思いのままです、我々はその人たちの手の中にいます、この上なく例外的な人々でさえもそうです。これまで、その人たちはそうしてきていませんが、その人たちはこう言うかもしれません、“あなたはここでこれ以上話すことはできません、あるいは、これ以上何かを書いたりできません、ここに来てはいけません”と。同時に、安全性を見つけるように駆り立てられることが生じます、何らかの種類の平和をどこかで見つけるように駆り立てられることが生じます。
JS あなたはこう言いたいのでしょうか、新しく政治を司る、リーダーとなる人々はどういうわけか知恵に欠けていると。
 おーっ、それは明らかでしょう。
JS あなたはこう言いますか、中にはリーダーとなってガイドするに足る知恵の持ち主がいると。
 いいえ、大衆が選挙で選んだ誰かに、あるいは、大衆が自ら選んでいない専制政治にガイドされることを願うときには。私が本当に問うているのはこうです、どのようにして人は、人間は、もはや“個人”ではない―私にとっては、個人性は存在しません、我々は人間です、我々は人間性...
JS そうです、我々は種の一員です、我々は人間の細胞です。
 我々は人間性です、我々の意識は私のものではありません、それは人間の精神です、人間の心です、人間の愛です。それら全てが人間です。そして、その人たちが、今、行っているように、個人を強調することによって、あなた自身を充足させることによって―あなたの行いたいと思うことを行うのです―あなたはそれら全てのことを知っています、それは人間の関係性を破壊しています。
JS はい、それが根本的なことです。
 それら全ての中に、愛は存在しません、慈しみは存在しません。それは、希望のない方向へ蠢いている単なる大衆です、そして、それは、その人たちを導くように、それら途方もない人たちに投票している大衆です。そして、その途方もない人たちが大衆を破壊へと導きます。私の要点は、そのことが幾時間も、幾世紀も起こってきているということです。そして、もしあなたが真剣でないなら、あなたはお手上げです、そのことに背を向けます。私は私にこう言ってきた幾人かの人たちを知っています、“馬鹿なことを言うな、あなたは人を変えられない、去ってくれ、引っ込んでいてくれ、ヒマラヤ山脈へ行って、物乞いして、生きて死んでくれ”と。私はそのようには感じません。
JS 私もそう感じません。
 勿論です。その人たちは、それら全てを希望のないものとして見てきました。私にとって、私は、それを希望ある何かとしても、希望のない何かとしても見ていません。私は言ってきました、それが現状であると、それらは変わる必要があります。
JS それが現実です。
 そして、即座に変わるのです。
JS その通りです。分かりました、そのことに同意すると、我々はここからどこへ向かうのでしょうか?
 私は非常に遠くへは行けません、もし私が非常に近くからスタートしなければ。その非常に近くとはここです。
JS 分かりました、正にここからスタートしましょう、正にここから。我々は何を行うのでしょうか? 
 もし私がここからスタートしないで、他のどこかからスタートするなら、私は何もなしえません。そのように、私はここからスタートします。そこで、私は問います、これら全てに取り組んでいる“私”とは誰でしょうかと。 “私”とは誰でしょうか、自己とは何でしょうか?
 何が私にこう振舞わせるのでしょうか、なぜ私はこのように反応するのでしょうか? お分かりでしょうか?
JS おーっ、はい、分かります。
 そうすると、私は私自身を見始めます、理論的にではなく、私の妻や、私の友人との関係性の鏡の中に、私自身を見始めます、どのように私は振舞うのか、どのように私は考えるのか、そして、その関係性の中に、私は現にある通りの私を見始めます。
JS はい、あなたは、あなた自身を、他の人の中に反映しているあなたを通してのみ、あなた自身を見ることができます。
 関係性を通して。その中に、愛情があるかもしれません、怒りがあるかもしれません、嫉妬があるかもしれません。私は、それら全ての中に、私の中に隠されていた怪物を発見します、私の中に途方もなく精神的な何かがあるという観念も含まれます、それら全てを私は発見し始めます。それは、様々な幻想であったり、人がついてきた嘘であったりします。そして、その関係性の中で、私は見て取ります、もし私が変わりたいと思うなら、私はその鏡を破壊すると。それは、私が私の全意識の内容を打ち破ることを意味します。そして、恐らく、そこから、その内容を打ち破って、愛が生まれます、慈しみが生じます、叡智が働きます。慈しむ叡智を抜きに、叡智は生まれません。

...丹田の死んでやり過ごす慈しむ”とは何でしょうか?...

JS それでは、究極的な解決が可能であることに同意して、そして、人は、ここから、今、始める必要性があると同意して...
 はい、宜しいでしょうか、今、変わるのです、進化があなたを奮い立たせるのを待つのではないのです。
JS 進化を、今、始めうる。
 もしあなたがそのように言いたければ。進化が、ここから動き出して、それを打ち破って、それを思考が思い描くことができない何かになるという意味で。
JS 私が、“進化は、今、始めうる”という言い方をするとき、私は変質する何かのことを話しています。
 変質。同意します。変質は進化ではありません。
JS しかし、私は私が重要だと考える別の要素を加えようとしています。私は信じます、幾人かの個人は、世界を、あなたと私がそう見るように、見ていると、更に、我々のみならず、あなたの話す問題と解決を見る他の人々がいると。それでは、例外的で、途方もないそのような個人たちに言及しましょう。我々はそれらの人たちを、もしそう言いたければ、異常な人、変質した人とさえ考えるかもしれません。
 生物的フリーク!(笑)
JS もしそう言いたければ。ある点で、奇異で、過去から相違しています。それらの人たちは集められえますか、それらの人たちは選別されえますか? それらの人たちはお互いを選別して一緒になりますか?
 はい、その人たちは一緒になります、お互いを選別するのではありません。
JS 私がその言葉を一緒になるという意味で使っているのは、何らかの認識があるからです、その人たちを一緒にする何かがあるからです、何らかのおのずから選別するメカニズムがあるからです。
 恐らく、少しあります。
JS あなたは違いを生む何か他のことを想像できますか?
 想像するのではありません、宜しいでしょうか。我々はこのように表現できますか? 死は生の中でこの上なく途方もない要因の一つです。我々はそれを見るのを避けてきました、なぜなら、我々は現にある通りのことを恐れるからです。我々は我々の知っている全てのことに執着します、そして、我々は、我々が死ぬとき、それを手放したくありません。我々はそれをそこへは持ち込めません、しかし...宜しいでしょうか、私が執着しているあらゆるものを死んでやり過ごすのです。死んでやり過ごすのです、それはこう言うことではありません、“もし私が死ぬと、何が起こるのでしょう、何か別の見返りが生じるのか”と。なぜなら、もし死ぬことと生きることが一緒でないなら...
JS はい、死は生の一部です。
 死は生の一部です。しかし、非常に少数の人たちしかその方向へ歩みません。
JS 同意します。我々は、今、同じ例外的な個人たちについて話しています。
 そして、それらの例外的な個人たち―私は悲観的でも楽観的でもありません―それらの人たちは人類に影響してきましたか?
JS 十分ではありません、まだです。私の論点はこうです、もし我々がそれについて何かをなすなら、意識的に、意図的に、我々はそれをより早くなしえるのか、ということです。
 しかし、意識的そして意図的というのは、自己中心的な別の継続性かもしれません。
JS それは我々が含めてはならない条件づけの一部です。それは排除されなければなりません。そのことは人種中心性に違いありません、もしそう言いたければ、人類中心性、人間中心性です。それは、あなたが、今、言及してきている自己中心性と同じはずはありません。それは変質する何かでしょう。
 はい、宜しいでしょうか、自己中心性の消滅です。あなたがご存知のように、インドの僧たち、尼僧たち、あるいは、托鉢者たちは、そのことを、瞑想を通じて、何らかの組織に入ることによって、世俗との縁を切ることによって試みてきました。かつて、私がカシミールにいたとき、私は僧の一団の後を歩いていました、十数人の僧たちです。それは美しい田舎でした、傍らに川が流れていて、花々が咲き、鳥たちが囀っていました、そして、上空は途方もなく青い空でした。あらゆるものが本当に笑っていました、地球は微笑んでいました。そして、それらの僧たちは、決して、決して、何も見ませんでした。彼らは頭を下げていて、サンスクリット語の何かを繰り返し唱えていました―私はそれらが何なのか分かりませんでした―そして、それが全てでした。彼らは遮眼帯を身に纏って言いました、“安全である”と。それが我々の行ってきたことです、宗教的に、政治的に。人は自分自身を途轍もなく欺くことができます。欺瞞は我々の要素の一つです。
JS 欺瞞、そして、否定、否認。
 宜しいでしょうか、我々は決して疑うことからスタートしません、仏教やヒンドゥー教も同様です。疑うことは途方もない要素です。しかし、我々はそれを使いません、我々は我々の周りで進行しているあらゆるものを疑いません。
JS それは非常に不健全です。健全な疑問は必要です、我々は我々に与えられてきた答えを受け入れるよりも、むしろ疑うのでなければなりません。
 懐疑主義、勿論です。そのように、他の誰も私の問題に答えられません。私は私自身でそれらを解決する必要があります。そのように、問題をこしらえないで下さい。私はそのことに立ち入りません。問題を解決するように躾けられた精神はいつも問題を見つけています。しかし、もし頭脳が問題を解決するように訓練され、教育されていないなら、それは問題から解き放たれています。それは問題に向き合うことができても、それは本質的にそれから自由です。
JS 幾つかの頭脳があります、言い換えれば、幾つかの精神があります、それは問題を作り出して、その幾つかは問題を解決します。あなたが、今、提起している問いはこうです、我々は我々が直面する究極的な問題を解決できるのか、ということです、つまり、“我々は種として継続できるのか”ということです、あるいは、我々は我々自身を破壊するのでしょうか?
 はい、それが私の先ほど死を取り上げた理由です、私が心理的に収集してきたものを死んでやり過ごすことです。
JS 我々はもはや価値のない過去のそれらの死を受け入れる必要があります、そして、新しい未来のために必要な新しいものの誕生を許す必要があります。私は過去が消滅するのでなければならないことに全く同意します。戦争は消滅するのでなければなりません。
 頭脳は、勿論、記録するのでなければなりません、しかし、頭脳は絶えず記録しています。それは記録しています、そうして、それはそのテープを再生します。
JS それは絶えず記録しています、そして、それは認識しています。それは認識しています。それはそれがすでに知っていることを再検討しています。そこで、我々は、その時、過去の中に起こったことを認識するのでなければなりません、そして、新しいあり方があるはずであることに気づくのでなければなりません。
 それは、記録するな、ということを意味します。なぜ私は記録するのでしょうか? 言語など、それらは除けておきましょう、しかし、なぜ私は心理的に何かを記録するのでしょうか? あなたは私を傷つけます、仮に。あなたは私に何かひどいことを言います、なぜ私はそれを記録するのでしょうか?
JS 私はそれを私の言う“忘れやすさ”に分類しようと思います。
 いいえ、なぜ私はそれを記録するのでしょうか? あるいは、誰かが私を持ち上げます、なぜ私はそれを記録するのでしょうか? 同じ古いパターンで反応するのはうんざりです!
JS それは自分自身を記録します、しかし、それは他の何かに分類されるのでなければなりません。
 いいえ、それをよく見て下さい、それが全く記録しないことが可能かどうかを。心理的にです、車の運転や何やらを記録することを言っているのではありません、そうではなく、心理的に、何かを記録しないことです。
JS あなたはそうできますか?
 おーっ、はい。
JS あなたはあなたが記録することとあなたが記録しないことを差別できるのでなければなりません。
 記憶は選択的です。
JS はい、そして、それが私のユーモラスな言い方をした理由です、つまり、あなたは選択します、何かを記憶の中に留めて、そして、他の何かを“忘れやすさ”の中に分類します。我々は我々が選ぶものを選択しています。
 私は車の運転の仕方を、あるいは、言語の話し方を記録する必要があります。もし私が何らかの技術を学ぶ必要があるなら、私はそれを記録する必要があります。物理的な世界では、私は此処から私の家あるいはパリへの行き方を記録する必要があります、私は様々なことを行う必要があります、私はそれら全てを記録する必要があります。しかし、私は問うています、なぜ、自己、“私”、自己中心的な行為などその他の全てを強調する心理的なことを記録することが生じるのかと。
JS さしあたり、そのことに取組みましょう、なぜなら、それがあなたの言っていることの正に中心をなすと思われるからです、そして、私が先に“自制”という言葉を使ったときに私が意味していたことに通じると思われるからです。私は思います、我々は同じ現象的カテゴリーを話していると、我々を執念深くする経験から、過去に我々を傷つけたかもしれないそれらの人々に我々が共に関係し合うことを難しくする生の中のそれらの経験から、我々自身を恐らく解き放つ必要性を話していると。そして、我々は、そのことを、今、国家間の中に、宗教的集団やその他の中に見て取ります、それらは、歴史的に永続している事柄とは何の関係もない今の世代を許すことができません。
 はい。
JS そこで、我々は、今、私が先に問うた問題に取り組み始めています、つまり、我々が避けたいと思う結果の原因と取り組むために、我々の行わなければならないことは何なのか、我々は、今、何を行うことになるのか、ということです。あなたはそれらを心理的な何かと、人間の精神の中にある何かと同一視しています。
 私が最初に言いたいのは、あなた自身をいかなるものとも同一視するな、ということです―何らかの集団、国家、神、イデオロギーです。同一視してはいけません。なぜなら、あなたが同一視するものは守られなければならないからです―あなたの国家、あなたの神、あなたの結論、あなたの経験、あなたの偏った見方。その同一視は自己中心的な行為の形です。
JS こう仮定しましょう、議論を進めるために、物事や人間同士が互いに関係する必要性が存在すると。それが宗教にとっての基礎です―“宗教”という言葉の意味は結び合うということです―そして、関係性のために人間はそれを手にする必要があります。それでも、人間は害する関係性に陥りがちです、それは、事実、自己破壊的です。それでは、今、害するそれらを我々が放棄するように我々に仕向けるそのような類の関係性を、もしそのように発達しうるなら、我々に勧めることが可能でしょうか? 例えば、最も根本的な関係性は我々自身に対するそれです、自己中心的な意味ではなく、種の一員として、そして、お互いに対するそれです。
 それは、私の、人間としての、全人間との関係性です。宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。関係性は二つを意味します、つまり、私のあなたとの、他の人との関係性です。しかし、私は人間性です、私は海を隔てた私の兄弟から分離していません。
JS 分離していません。
 私は人間性です。従って、もし私がこの愛の質を抱くなら、私は何らかの関係性を確立しています、何らかの関係性が生まれます。
JS 私はそれが存在すると思います。私はあなたがそれを抱いていると思います、そして、海を隔てたあなたの兄弟たちもそれを抱いていると思います、世界のあらゆる国で、それは存在すると思います、しかし、我々は憎むことも教えられています。我々は互いに憎み合うことを教えられています。我々は我々自身を他と分離することを教えられています。
 宜しいでしょうか、教えられているだけではありません、安全性と快楽を内に含むこの所有感が存在するのではありませんか? 私は私の財産を所有します、私は私の妻を所有します、私は私の子供たちを所有します、私は私の神を所有します。私は言おうと思います、この分離感が我々の中でとても強いので、我々は我々自身をそれから抜け出すように仕向けません。私は言います、あなたは全人類ですと、後生だから、それを見て取って下さいと!
JS あなたの言っているのは、我々は個人であっても、全人類と関係していると。
 いいえ、私は言います、あなたは個人ではありませんと。あなたの思考はあなたのものではありません。あなたの意識はあなたのものではありません、なぜなら、あらゆる人間が苦しむからです、あらゆる人間が地獄を、混乱を、不安を、苦悶を経験するからです、あらゆる人間が、西であろうと、東であろうと、北であろうと、南であろうと、そのことを経験するからです。そのように、我々は人間です、こう言うことではありません、“私は他の人間たちと関係している分離した人間です”と、私は全き人間性です。そして、もし私がその事実を見て取るなら、私は他の人を殺しません。
JS それでは、そのことを、今、存在することと比較して下さい。
 今、何が存在しますか? 私は個人です、私は私自身の欲望を成就しなければなりません、私自身の衝動を、私自身の本能を、私自身のそれが何であれ、それを成就しなければなりません、そして、それが大混乱を引き起こします。
JS そこで、我々は一つの状態を別のそれへと変えたいと思います。
 あなたは変わりえません。
JS 分かりました、あなたは何ができるのでしょうか?
 変わります、変質します。あなたは一つの形を別の形に変えることはできません。その真理を見て下さい、あなたは実際に全人類です。宜しいでしょうか、あなたがそのことを見て取るとき、あなたがそれを内に感じるとき―もし私にその言葉を使わせてもらうなら―あなたの肝に、あなたの血の中に感じるとき、そうすると、あなたの全行為、全性向、全ての生き方が変わります。そうすると、あなたは、二つのイメージが互いに争う関係性ではない関係性を手にします。生きている、生き生きとした、何かが溢れている、美の関係性です。しかし、再び、我々は例外に戻ります。

...丹田の死んでやり過ごす慈しむ”とは何でしょうか?...

JS その人たちは存在します。それでは、そのことに集中しましょう。
 仮に、あなたは例外の一人です―ただ単に、言わば、仮定しています、宜しいでしょうか。あなたの、ただの通常の人間である私との関係性とは何でしょうか? あなたは私と何らかの関係性をもちますか? 
JS 我々は同じ種です。
 はい、しかし、あなたはそこから抜け出してきています、あなたは例外です。それを我々は話しているのです。あなたは例外です、そして、私はそうではありません、宜しいでしょうか? あなたの私との関係性とは何でしょうか? あなたは何らかの関係性をもちますか? あるいは、あなたは外側から私を助けようとしています。
JS いいえ、私はあなたと何らかの関係性をもちます、そして、責任を負います、なぜなら、あなたの幸福は私の幸福に影響するからです。我々の幸福は同じ一つのものです。
 しかし、あなたは例外です、あなたは心理的にものを収集蓄積していません。あなたはそのカテゴリーの外にいます、そして、私はいつも収集しています、お分かりでしょう、その類の全てです。途轍もない分断があります、牢獄の中にいる人と自由との間の分断です。
私は自前の、そして、政治家たちや書物などその他の全てが作り上げた牢獄の中にいます。私は牢獄の中にいます、あなたはそうではありません、あなたは自由です。そして、私はあなたのようになりたいと思います。

 “蛸壺”を死んでやり過ごす内面の“アウトサイダー”とは何でしょうか?

JS 私はあなたを助けて、あなたを解き放したいと思います。
 従って、あなたの関係性とは何でしょうか? 助ける人でしょうか? それとも、あなたは本当の慈しみでしょうか、私のためのそれではなく、その炎です、その香りです、その深さです、その美です、その活力そして慈しむ叡智、愛です。それが全てです。それはあなたが私を助けようとするあなたの決意よりももっとずっと効果的な何かでしょう。
JS 我々はここで完全に同意しています。それが私の例外的な人を見て取る見方です。私は見て取ります、例外的な個人は慈しみの質をもつと。
 そして、慈しみは言葉にできません。
JS それは存在します。
 しかし、私が私の心の中で何かを憎むとき、私が誰かを殺したいと思うとき、私が私自身に向かって叫び声をあげるとき、どうしてそれが存在しえますか? それ以前に、それら全てから解き放たれるのでなければなりません。
JS 私は、今、例外的な人に注意を集中しています。そして、例外的な人は、その人の心の中に憎しみを抱きますか?
 宜しいでしょうか、それは太陽のようです、太陽の光はあなたのものでも私のものでもありません。我々は共にそれにあずかります。しかし、それを私の陽光にするや否や、それは子供じみたものになります。そのように、あなたのなりうる全ては、太陽のような何かです、私を慈しみ、愛します、叡智を働かします、他に何もありません―言わないで下さい、これをしなさい、あれをしてはいけませんと―そうすると、私は、全ての教会、宗教の犯してきた罠に陥ります。自由は、宜しいでしょうか、その牢獄から抜け出すことを意味します―人が自分自身のために築き上げてきた牢獄です。そして、自由であるあなたは、そこにいます。それが全てです。あなたは何もすることができません。
JS 私は、あなたが非常に肯定的なことを、非常に重要なことを、非常に意義深いことを言うのを聞きます。私は、あなたが、人々のいることを、個人のグループがいることを、それらの人たちが全人類を助けうる何かを発する質をもっていることを言うのを聞きます。
 しかし、宜しいでしょうか、そのような全き概念が存在します―私はそれを検討しようとは思いません、それはとても場違いです―あなたを助けて、ガイドするのではありません、何をすべきかをあなたに告げる人々がいるというそれです、そうすると、それは全てとても馬鹿げたことになります。むしろ、それはシンプルに太陽なようなものです、光をもたらす太陽です。もしあなたが日の光の下に腰を下ろしたいなら、あなたはその中に腰を下ろすのです、もしあなたがそうしないなら、あなたは影の中に座るのです。
JS そうすると、それはその種の悟りです。それは悟りです。
              ―1983年 3月7日 オーハイ
              ―『Questioning Krishnamurti