アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

大間々

         空間と自由

クリシュナムルティ 十回のトークで我々は我々が人間として何世紀も背負ってきた様々な問題を多かれ少なかれ扱ってきました。我々は我々が物理的にも心理的にも経験する戦争や苦しみを、そして、我々の誰しもが日常的に直面する多くの複雑な事柄もまた全く解決することができないできました。我々は表面的に生きていて、何となく、いつか、それらの問題が解決されることを望んでいます。不幸にも、問題は我々がそれらと向き合うことがないなら、我々がそれらと真剣に取り組むことを知らなければ、我々がそれらを現にある通りに見ないなら解決されえません。我々は何世紀も何世紀も人間として全ての問題を避けるように、それらから逃げるように、それらを抑圧するように、それらから逃げ出すように、あるいは、それらに対して自己防御するように躾けられてきました、しかし、不幸にも、我々が逃げようにも、逃げ出そうにも、それらに対して防御壁を築こうにも、それらは依然として存在します。我々は非常に狡猾に逃げ道を網の目のように築いてきました。見たところ、我々は何ものも直に見ることができないでいます。我々は様々な意見を持ち合わせていて、それらが物事を現にある通りに見ることを妨げます。我々の精神と心は決して空虚になって観察すること、見ることをしません。
 我々は我々の解決できない問題を抱えるのか、我々は様々な政治的、社会的、宗教的活動などに献身的になっているのか、我々は我々自身の個別の神経症的なあらゆる複雑な問題を抱えるのかのいずれかです。何かに献身的である精神はいつも混乱しているに違いありません、そして、我々は混乱しています、我々はそれを自ら直に認めないけれども。我々は政治について混乱しています、宗教について、我々のなすべきことについて、我々の考えるべきことについて、何が正しい考えで何が間違っている考えなのか、正しい行動とは何かについて混乱しています。我々は完全に混乱しています、そして、我々が賢ければ賢いほど、我々は我々が全く混乱していることを、部分的にではなく混乱していることを自分自身に言い聞かせることができません。我々は考えます、我々は部分的に混乱していると、そして、我々が混乱していない瞬間があると、つまり、我々が混乱していない瞬間にはそれ自身の活動があり、我々が混乱しているときには別のタイプの活動があると。混乱していないときの活動は混乱しているときの活動といつも衝突します。双方が他方に反応します、そして、我々は我々が実際には完全に混乱していることを我々自身の中で決して認めません。もし我々がこのことを認めるなら、我々は混乱からいかに自由になるのかを明らかにするために歩を進めることができます、しかし、我々は、我々が何らかの公式やイデオロギー、献身事、心理的主張を堅持しているなら、決して明らかにすることはできません。我々は、通常、生涯を通して死に至るまで、混乱したまま、無残に、自分自身に説明することなく、疲れ果てた状態の中にいます。それが我々の運命です。我々は逃亡の網の目を築いてきました。我々は我々が陥る様々な罠を絶えず発明してきました。最も重大な罠の一つが我々は探して見つけなければならないという観念です。我々は我々が探しているものが何であるのかを実際には知りません。我々は言います、我々は真理を、愛を、神を見つけていると、それぞれがそれぞれの資質に従って見つけている多くのものがあります。我々は決して問いません、我々はそもそもなぜ探し求めるのかを、我々が探し求めているものは何なのかを、そして、請うて尋ねて、我々が探し求めるそのようなものが果たしてあるのかどうかを。
 もし我々が探し求めないなら、我々は分かるでしょう、生の中で最も重要なことは探し求めることでは全くないと、なぜなら、そうすると、我々は生と向き合うからです、そうすると、我々は我々が実際に行う必要なことに向き合うからです。ほとんどの我々にとって、見つけようとしないこと、何かを探し求めないことは極めて難しいことです。ほとんどの我々にとって、我々がこの場にいるのは、我々が何かを探し求めているからです。一般的に、我々が全く混乱しているので、我々は探し求めます。明晰な精神、生き生きとしている、活力に満ちた、エネルギッシュな精神、生を一瞬々々新鮮に見て取る精神は決して探し求めません。“探し求めるとあなたは見つけるでしょう”という観念は、私にとって、全く馬鹿げています。どうして、混乱した、取るに足らない、自己中心的な、狭量な精神が、それ自身の思惑を超えた何かを見つけられるでしょうか? 賢い人、気づく人は決して探し求めません。あなたが全く探し求めないとき、あなたは経験を招き入れません。そうすると、あなたはあなたの混乱を清算し始めています。ほとんどの我々は更に新しい経験を欲します、より多くの様々な経験です、もっとスリルに満ちたそれです、もっとビジョンに満ちたそれです、もっと明快なそれです、しかし、その“もっと”を要求している精神は、現にある通りのことを避けています。それらの逃げ道を育んで、我々は否応なく、極めて自然に、それらの中に逃げ去ります、しかし、もし人が真剣なら、その思いが本気なら、知的にではなく、言葉でではなく、実際にそうなら、その人の関心は正にあらゆる混乱や逃亡を追い払うことです。そうすると、探し求めることをしなくなります、請うことや更なる経験を招き入れることをしなくなります。
 なぜ我々は“より多く”を探し求めるのでしょうか、なぜ我々は新しい何かを探し求めるのでしょうか? それは我々の精神が狭小で、浅薄で、虚しくて、怠惰だからで、我々はそれら全てから何としても逃れたいと思っているからです。それが我々の主要な関心事です。我々は我々の神々を手にしています、あるいは、我々は言います、我々は新しい方向性を探し求めていると、あるいは、あらゆる宗教が同じあれやこれやに通じると。我々は様々な指導者たちから、いわゆる精神的な存在たちから収集しています。それら全ては、取るに足らない、狭い、限られた精神を指し示しています。そのような精神にはそれ自身の中に空間がありません、そして、更に更に多くの混乱が生じます、より少なくなるのではありません。我々は言います、“これは正しい道です、私はそれに従っていきます”と。神経症的な、不確かな人のみがそのように主張します。宗教と称される全ての組織的な商いはことごとく敗北しています、それらにはもはやいかなる意味もありません。もし我々が探し求めないなら、そして、もはやいかなる幼児的な組織にも信を置かないなら、我々は現にある通りのこと、我々自身に向き合います。もし我々が自己の中心を解決できないなら、生の壮大な領域のその狭量な一隅を解決できないなら、我々は果てしなく生と争うことになります。
 人があらゆる心理的、宗教的、精神的組織、いわゆる“真理へ通じる道”を捨てると、この狭量な当のもの、この人が育んできた、気遣ってきた、格闘してきた、そして、人がそれで生の壮大な働きと格闘してきた狭量な一隅を解放する問題が生じます。人はどのようにしてそれを解き放たすことができるのでしょうか、そうして、“私”や“私のもの”と称するこの愚かな狭量な当のものが消え去るのでしょうか? 人はそれを解放できますか? 我々が話しているのは、人は会社へ行くべきかどうか、人はこれやあれをなすべきかどうか、人はもっと多くのお金、あるいは、より少ないお金を手にすべきかどうか、もっと多くの衣服、あるいは、より少ない衣服を手にすべきかどうかなど、それら全ての類のことではありません。それら全ては非常に明確に答えられるでしょう、いかなる矛盾もなく、いかなる混乱もなく、その当の心理的状態が一掃されているとき、その壮大で複雑な存在の中の狭量な一隅が、個人であり、家族であり、“私”や“私のもの”であり、それ自ら何らかのナショナリティや特殊な集団や特殊な観念と同一化するその当の狭量な一隅が一掃されるとき―全てが答えられるでしょう、その当の狭量な一隅が、その全ての美やその栄光やその極度の繊細さと共に消滅するとき。
 その当の中心を解決し理解するのが唯一可能なのは、いかなる逃亡もしないときです、我々が自分自身を非常に明瞭に見ることができるときです、いかなる非難も正当化も否定もせずにそうするときです。非常に明瞭に見るためには、我々に空間がなければなりません。樹木を非常に、非常に明瞭に見るためには、我々の妻や夫、我々の隣人を見るためには、あるいは、夕空の星々を明瞭に見るためには、あるいは、山々を明瞭に見るためには、空間がなければなりません、しかし、我々が“空間”と称するそれは我々が作り出した空間です、我々が知る空間は観察者と観察されるものとの間のそれです。時間としての空間だけではなく、距離としての空間もあります。我々は、我々全ての存在の中で、我々全ての活動の中で、そのような空間を保持しています。観察者はいつも観察されるものと距離を取っています。その狭小な空間の中で我々は経験しています、判断しています、価値評価しています、非難しています、探し求めています。
 どうか単に耳を傾けたり、単に言葉を聞いたりしないで下さい。もしあなたが単に言葉を聞いていて、知的にこう言うなら、“それは明らかです”、そうすると、あなたは実際には事実に向き合っていません。知性はこの上なく欺瞞的なものです。知性は、正常に、合理的に、健全に考えるためには絶対的に必要です、しかし、生の全体は情動や感傷同様知性ではありません。もしあなたが話し手の言っていることに耳を傾けているなら、あなたは実際の事実を、空間の実際の現実を見て取るだけではなく、しかし、もしあなたがそれを更に推し進めるなら、あなたは、その空間が存在する限り、争いが起こるに違いないとも見て取るでしょう。そのような空間は矛盾しています、そして、矛盾が生じるところには争いが起こるに違いありません。それは虚しくて、孤独で、満たされない人のようです、その人にとって生には何の意味もありません。その人は何らかの未来を思い描きます、その中でその人は何かを成就するでしょう、文学を通じて、絵画を通じて、音楽を通じて、何らかの種類の経験や関係性を通じて。その成就がその目的です、そして、その成就者がその観察者です。観察者と観察されるものはいつもその間に空間を作り出します、従って、いつもそのような争う感覚が生じます。
 もし人がそのことに気づくなら、知的にではなく、実際に気づくなら、人は何を行うのでしょうか? 空間が必要です。空間なしに自由はありません。我々は心理的に話しています。自由は対社会的な反応ではありません、ビートニクやビートルズになることではありません、あるいは、長髪になることではありません―それらは全て自由ではありません。自由は全く異なる何かです、そして、自由は計り知れない空間があるときにのみ生まれえます、それは人が知るような、観察者と観察されるものとの間に存在する空間ではありません。それはただの非常に狭小な空間にすぎません、そして、そのようなただの狭小な空間が生じているときには、触れることが叶いません。人が触れるときにのみ、観察者と観察されるものとの間に空間がないときにのみ、人は余すことのない関係性の中にいます―例えば、樹木とのそれです。人はその樹木と一体になるのではありません、その花と、女性と、あるいは男性や何であれ、それと一体になるのではありません、しかし、観察者と観察されるものとしての空間が完全に消滅するとき、壮大な空間が生まれます。その空間の中にはいかなる争いも生じません、その空間の中に自由があります。
 自由は何かに対する反応ではありません。あなたは言えません、“さあ、私は自由だ”と。あなたがあなたは自由であると言うや否や、あなたは自由ではありません、なぜなら、あなたはあなた自身が何かから自由であると意識しているからです、従って、あなたは樹木を見ている観察者と同じ状況の中にいます。その人は空間を作り出しています、そして、その空間の中に、その人は何らかの争いを生じさせます。このことを理解するためには知的な同意や不同意を要しません、あるいは、“私は理解しません”と言う必要はありません、むしろ、それは現にある通りのことに直に触れることを要します。それが意味するのは、あなたのあらゆる行動、一瞬一瞬の行動が、観察者と観察されるものを出自としていることを見て取ることです、そして、その空間の中に何らかの快楽、苦痛や苦しみ、何かを成就しようとする欲望、有名になろうとする欲望があることを見て取ることです。その空間の中では、いかなるものにも触れることができません。触れることや関係性は、観察者がもはや観察されるものと分けられていないとき全く異なる意味をもちます。そのような途方もない空間があります、そして、自由が生まれます。
 この空間を理解することが瞑想です。それを深く理解すること、それを感じること、それを出自とすること、それを生きて、それを我々の一部として働かせること、その空間の中にいることは全く異なる何かです。我々はいつ、どのように、そして、何を行うのかを理解し始めます。我々は何らかの対象のせいで空間を知るのみです。このテントが作り出す空間があります、テントの内側の空間とその外側の空間、我々とあの山との間の空間です。我々の知る空間は観察者と我々が夕刻に見る星々との間のそれです、その距離であり、何マイルかであり、そこに至るに要する時間です。我々はその空間を受け入れます、その空間の中を生きます、その空間の中で我々のあらゆる関係性を築きます、そして、我々は決して自分自身に問いません、異なる次元の空間があるのかどうかを。我々は宇宙飛行士の空間について話しているのではありません、希薄な重力の中を歩く人たちの空間について話しているのではありません。それは私たちの話している空間では全くありません、それは依然として時間を出自としています、観察者と観察されるものを出自としています。我々は観察されるものとしての対象が存在しない空間のことを話しています。そのことを明らかにすることは非常に重要です、言葉でではありません、なぜなら、それはシンボルになるだろうからです。言葉やシンボルは真実ではありません。“空間”という言葉は実際の空間ではありません。我々はその途方もない空間を明らかにして、それを露わにして、それを感じなければなりません。
 瞑想は重要です、どのように瞑想するのかではありません、瞑想の実践ではありません、何らかのビジョンを保持する方法ではありません、そのような子供じみた、ままごとではありません、それは不幸にも東洋から西洋にもたらされました。あなたは大いに疑ってかからなければなりません、そして、私は願います、あなたが大いにそうしていることを、あなたが言われていることに耳を傾けているとき、此処で、あるいは、他の場所で、そうすると、あなたは自分自身で明らかにするでしょう。もしあなたがこれらの集まりに何か新しい、素敵な、神秘的な状態を経験しようと足を運んでいるなら、それは相当に子供じみたままごとです。それはあなたが何らかの薬物で容易に達成できることです。もしあなたが真剣な思いをして自分自身で明らかにしようとしているなら、探し求めるのではなく、全く新しい何かを見て取ろうとしているのなら、新しい花について、あなたがこれまで決して見たこともない草の葉について明らかにしようとしているのなら、それが生えている道をこれまで何百回も何千回も歩いたかもしれなくても、そうすると、あなたは新たに生まれ変わる何かを発見します、それは過去とは無縁です、あなたの精神は若く、新鮮に、無垢になります。瞑想は重要です、なぜなら、瞑想する精神のみに、見て、聞いて、耳を傾ける、観察する、あらゆるその反応やその微妙な振る舞いに気づいていて、決して非難せず、決して正当化せず、決して有名になろうとせず、ただ見守っているそれのみに―そのような精神にのみ意義があります。誰もあなたのためにあなたの問いに答えません。もしあなたが正しい問いを発するなら、その問い自身の中に答えがあります、しかし、もしあなたが別の人に問うて、その他の人の言うことを受け入れるなら、あなたは愚かな人間になります。そうすると、あなたは信心や希望に生きて、あなたは絶望、不安そして恐れを招き入れています。しかし、もしあなたが歩きながら、振る舞いながら、活動しながら観察するなら、あなたは自分自身で存在の全意義を発見します。それは、その観察している、耳を傾けている状態があるときにのみ発見されえます。それは決して抵抗しないことを、決して抑圧しないことを、決して防御しないことを意味します。精神が脆く繊細なとき、頭脳がもはやその欲望や嫉妬、野望、攻撃性などの動物として機能していないとき、それは余すことなく耳を傾けることができます、従って、それはそれ自身で発見しています、見て取っています。
 あなたの発見するのは、あなたが発見したいと思うものではありません。何世紀も、何千年も、シュメール以前から、エジプト以前から、インド以前から、ギリシャやローマ以前から、人間はその途方もない状態をいつも探し求めてきています。人はそれに多くの名を与えてきています、その空想や文化に従ってそうしてきています、神や創造主やブラフマンなどです。人はいつもそれを渇望してきました、なぜなら、人は認識したからです、生それ自身はとても短いと。人の生は、生そのものではなく、人の個別の狭量な一隅は、非常に僅かの意味しか持たないそれは、人がそれにしがみついているそれは、とても短いと。死が存在することを知って、人は願っています、時間や空間や知識を遥かに超えた何かを発見することを。そのようなことは精神と心が既知から自由なときだけです、従って、壮大な空間が存在するときだけです。そのような空間の中にのみ平和と自由がありえます、そして、そのような状態の中でのみ人は気づいて、そうではないときには、何をどうしようと見つけられない何らかの次元に耳を傾けることができます。人はそこへ自然に、そっと、“欲する”ことなく、赴くことができるだけです。人はそれを見つけるかもしれません、そして、人がそこへ赴くとき、それで十分です。それは生涯続くかもしれませんし、一秒かもしれません、しかし、その一秒は壮大な、時間とは無縁の空間です。
 認識する重要なことは、知的にではなく、あるいは、言葉でではなく、実際に認識する重要なことは、人は全く混乱しているということです、それは明らかな事実です。どの新聞や雑誌を読んでも、どの教会へ行っても、どの政治的な話を聞いても、人がいかにひどく混乱しているのを見ると、人は本当に全く絶望します。もし人が人はそのような実際の事実から決して逃れられないことに気づくなら、人は人がどのように人の現にある通りの事実を見ているのかを自分自身で発見するでしょう、それは人が何をすべきかを人が考えることではないのです、そうすると、それは再び何らかの逃亡になります。そうすると、人は自分自身で発見するでしょう、人はそれを観察者と観察されるものとして見ていると、そうして、空間を作り出して、その空間の中に果てしない争いや矛盾を招き入れていると。人がそれら全てに気づくとき、人の精神は瞑想の状態にあります。個人の精神はローカルの精神です、クシュタート人の精神、スイス人の精神、イギリス人の精神、ロシア人の精神などです、しかし、人間の精神は個人の精神ではありません。個人の精神にはそれ独自の居場所があります、人は会社へ行かなければなりません、人は自分の銀行口座を持たなければなりません、人には人のささやかな家族があります、しかし、個人の精神は人間の精神には決してなりえません。人間の精神は一万年以上を生きてきた計り知れない当のものであり、その労苦の中にいる人間の精神こそが、全く新しい、既知の触ることのできない次元を理解できます。
質問者 私は、観察者と観察されるもののない空間の意義を理解したいと思います。
クリシュナムルティ 我々は一つの空間を知るのみです、観察者と観察されるものとしての空間です。私はこのマイクロホンを観察者として見ます、そして、マイクロホンであるその対象があります。観察者と観察されるものとの間に空間があります。その空間は距離であり、時間である距離です。観察者がいて、その人と星との間に距離があります、その人と山との間に距離があります。その距離をカバーするためには、我々は時間を必要とします。我々がより早く進めば、我々はより素早くその空間をカバーします、しかし、それは依然として観察者がその観察されるものに向かって移動しています。
 あなたはそうではない他の空間とは何かを問うています。私は答えられません。私はあなたにこう言えるだけです、観察者と観察されるものとしてのその空間が存在する限り、他の何かは存在しないと。話し手はこうも言ってきました、観察者を解放するすべがあると、いつも観察者と観察されるものとしての空間を作り出しているそれを解放するすべがあると。どれほどあなたがその狭小な空間を拡大しようと、それはいつも存在するでしょう。頭上に飛行機が飛んでいます。あなたは、観察者として、聞き手として、その音に耳を傾けています。あなたは聞き手です、そして、その轟音が響いています。そこにギャップがあります。そのギャップが時間的な間隙です。それは徐々に、徐々に、徐々に遠ざかっていって、宇宙に広がります。いつも観察者がいます、そして、いつも観察されるものがあります、あなた―あなたの妻、あなた―あなたの家、あなた―あの川、あなた―あなたの国家、あなた―政府、共産主義者あるいはイスラム教徒などとしての私―非共産主義者、無神論者、野蛮人。その空間が存在する限り、矛盾が存在する限り、争いが生じるに違いありません。精神から観察者を解放するためには、いかなる逃亡もありえません。逃げないで下さい、探し求めないで下さい。現にある通りのあなたの事実に向き合って下さい、あなたの考えるあなたという観点から、あなたはこうあるべきという観点から解釈しないで下さい。あなたが現にある通りのあなたの事実に向き合うとき、逃げることなく、それを言葉にすることなく、言葉とは無縁にそうするとき、事実は全く異なる何かになります。あなたがあらゆるあなたの反応に対して、あらゆる思考の働きに対してそうするとき、観察者から自由になります、そうすると、空間の全く異なる次元が生じます。
質問者 どのように人はその空間の異なる次元を経験できるのでしょうか?
クリシュナムルティ あなたはそこに立っています、そして、私はここに座っています、それが全てです。あなたの知る全ては、あなたと、そこに立っているあなたと私の間の空間です、あなたとあの山、あなたとあなたの妻、あなたと樹木、あなたとあなたの国家です。あなたがその空間を知るとき、あなたはあなたが何ものにも決して触れることはないと知ります。あなたは孤立しています。観察者としてのあなたと観察されるものとしての私の間に、そのような関係性が生じないとき、あらゆる生が触れ合います。それが全てです。
質問者 あなたはあなたが成熟するとき自由が生じると信じますか?
クリシュナムルティ 最初に、私はいかなるものも信じません。(笑) 笑わないで下さい、お願いします、私の言っていることは非常に真剣なことです。なぜ人は何かを信じるのでしょうか、空飛ぶ円盤さえも。なぜ人は神が存在するとかしないとか信じるのでしょうか? 存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。なぜ人は信じるのでしょうか? もし人がそれを見たなら、人は途方もない精神を獲得します。自由はその相応しい瞬間に生まれるのでしょうか? 自由は見つけ出そうと本当に真剣な人のために生まれます。時間とは無縁です、成熟とは無縁です、それは年齢を重ねて成熟する問題ではありません、何らかの正しい行動をしてそれを成就する問題ではありません。成熟は年齢によって生じるのではありません、身体の成長によって生じるのではありません。それは、人が本当に真剣で、人は恐らく逃げることができないと理解したときに生じます。人が生を現にある通りに見て取るとき、人が自分自身を現にある通りに見て取るとき、そこから人は歩を進めることができます。
                   ―1966年 7月31日 ザーネン