アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、我々の会話で我々は人間の変質の一般的な問題を探究してきました、何らかの変質は、あなたの言うように、知識や時間に依存しません。そして我々は関係性とコミュニケーションに関して極めて重大な問題に至りました。私は我々の会話の中で私にとってとても示唆に富む一つのことを思い出します、あなたは我々に思い起こさせました、重要なことは正しいスタート地点に立って始めることであると。そこでもしあなたが宜しければ、我々が今日コミュニケーションと関係性の問題から始めて、その問題を見ていき、それを解き明かすことを始めたら、それは有益であると思います。
クリシュナムルティ(K) 私は、宜しいでしょうか、その“コミュニケーション”という言葉は、本当はどういう意味なのかと考えるのです。それは言葉でだけではなく、何かを分かち合うこと、あなたや私の言うことを受け入れるのではなく、共に分かち合うこと、共に考えること、共に作り出すこと、それら全てがその“コミュニケーション”という言葉の中に含まれています。そしてその言葉の中には耳を傾けるということも意味されています。耳を傾けるにはある気をつけている質が要求されます、我々が会話を進めながら、一瞬一瞬、最後ではなく、始めから、本当に耳を傾けていて、本当の意味の閃きが起こっているという気をつけている質が要求されます。
A そのため我々は...
K ...同じ道をいつも一緒に歩いています。
A そうすると同時に起こる活動が生まれます。我々のどちらかが何かを言って、もう一方の人がそれについて考えて、“そうですね、私は同意します、私は同意しません、私は受け入れます、私は受け入れません、そしてそれらが私の受け入れない理由です、そしてそれらが私の受け入れる理由です”ということではなく、我々は共に歩んでいます。
K 同じ道を歩み、同じように気をつけていて、同じ熱気で、同じ時を共有する、そうでなければコミュニケーションは生まれません。
A その通りです。
K コミュニケーションは我々が一緒に歩み、我々が一緒に考え、我々が一緒に観察し、一緒に同じ次元で、同じ時を共有し、同じ熱気で分かち合うことを意味します。
A あなたはこの活動が一緒に話すことの基礎となると言うのか、それとも人が一緒に考えることを始めた後からこの活動に至ると言うのですか?
K 宜しいでしょうか、我々は問うています、耳を傾けるとはどういうものかと。耳を傾けることが意味するのは、あなたと私の間の言葉による理解だけではなく―我々は共に英語を話していて、それぞれの言葉の意味を知っているという事実があります―同時に我々は問題を共有してもいることです、テーマを共有してもいることです。もしあなたと私が共に真剣なら、我々はそれを共有しています。そのようにコミュニケーションの中には言葉によるコミュニケーションだけではなく非言語的なコミュニケーションもあります、そしてそれは人が誰かに本当に耳を傾けることを身につけるときに生まれます或いは起こります、そしてその中には受け入れることや否定することや比較することや判断することは起こりません、ただ耳を傾ける霊妙な働きがあるだけです。
A もし私がこのように言うとすると、私は正しく理解しているでしょうか、コミュニケーションと我々が“コミューニオン(霊的な交渉)”と呼ぶものとの間に何らの非常に深い関係があると示唆すると。
K コミューニオン(霊的な交渉)、はい。
A そのためもし我々が“コミューニオン”の中にいるなら、我々のコミュニケーションの機会は...
K ...もっとシンプルになります。宜しいですか、我々が互いに“コミューニオン”の中にいるためには、我々は共に同じ問題について同じ時を共有し同じ熱気で真剣でなければなりません。そうでなければコミュニケーションは生まれません。
A その通りです。
K もしあなたが言われていることに興味がないなら、つまり、あなたが他の何かを考えているなら、コミュニケーションは起こりません。そのように言葉によるコミュニケーションと非言語的なコミュニケーションがあります。それらは同時に働いています。
A 一方が他方に先んずるのでも一方が他方の後に続くのでもありません。彼らは一緒に歩みます。
K それは我々が互いに真剣であり、我々の問題に完全に気をつけていることを意味します。宜しいでしょうか、本当に真剣な人間が生きているのです、軽薄な人間あるいは単に楽しみたいと思っている人間は生きていません。
A 何かに真剣であるという一般的な考え方は普通何らかの苦痛に耐えるか、あるいは何か他のことを手にするために私は何かに真剣になるというものです。それら二つが普通は人々の真剣さについて想像することです。実際のところ、我々はこのような表現を時々耳にします、“そんなに真剣になるな”と。それは我々が真剣であることについて何かを恐れているかのようです。
K 宜しいでしょうか、真剣になってください! 我々が昨日言ったように、世界は混乱状態の中にあります、そしてそれはこの混乱を作り出してきた人間としてこの世界に生きる私の責任です、この問題の解決に真剣になる私の責任です。私は真剣です。それは、私が悲しい顔をしているとか、私は惨めであるとか、不幸であるとか、私はそれから何かを手に入れたいということなどを意味しません。これは解決されなければならない問題です。それはもし人が癌を患っているなら、人はそのことに真剣です、あなたはそれを弄んだりしません。
A そうするとこの真剣さに関する行動は即座に起こります。
K それは明らかです!
A このことが引き起こすのは―別の問題ということではなく、私は我々が取り組み始めたことを越えていくつもりはありません―つまり、時間が真剣な人にとっては真剣でない人にとってのそれとは恐らく非常に異なる何かを意味するということです。人は長引かされている何かを感じないでしょう、あるいは“差し込まれなければならない”時間を感じないでしょう。
K “差し込まれる”、なるほど。
A そのように、その中で“コミューニオン”がいつも生まれるこの同時生成的コミュニケーションの中では、そのような時間が圧迫することは決してありません。
K 全くその通りです。しかし、宜しいでしょうか、私は真剣であることが何を意味するのか見てみようとしているのです。余すことのない責任と行動の気概、それを駆り立てるもの、その感情であり、それを“行うこと”であって、“私は行います”ということではないのです。それら全てがその真剣さという言葉の中に意味されています。少なくとも私はそれら全てのことをその言葉の中に含めます。
A 我々はしばらくの間その中に含めたものの一つを見ることができますか? 責任です、応じることができる責任です。
K はい、どのような問題にも適切に応じることです。今問題なのは世界が騒乱や混乱や悲しみや暴力などそれら全ての中にあることです。このことを作り出してきた人間として私は適切に応じなければなりません。その適切さは、私が述べてきた意味で、私の真剣さにかかっています、無秩序の混乱をどのように私が観察するのかにかかっています、そして私の偏った見方や私の傾向や性向や快楽や恐れからではなく、私のその問題の解釈からではなく、その問題に私がどのように応じるかにかかっています。
A はい、私はただ考えています、あなたがこのことを誰かに伝えることは非常に難しいことであると言っているとき、その人がこれらの無秩序の混乱に適切に応じる方法は、それについて何らかのプランをあらかじめ作っておいて、それをその混乱に適用することであると考えるなら、それは非常に難しいことであると。そしてそれが我々の当然考えることです、そしてもしそのプランが上手くいかないと、我々は自分たちを咎めます...
K ...あるいはそのプランを変更します。しかし我々はその問題に正に応じていません。我々はその問題についての我々の結論に従って応じます。
A その通りです。
K 従って、このことは実際に、もし我々がそれをもう少し検討するなら、観察者が観察されている当のものだということを意味します。
A 従って、その変化は、もしそれが起こるなら、余すことなく起こって部分的ではありません。人はもはや人が働きかけているその当のものの外側にはいません。
K その通りです。
A そしてその人が働きかけているものはその人自身の外にあるのではありません。
K もちろんです。我々が昨日言ったように、もし我々がそれを少し深く見ていくなら、それは非常に興味深いのです、世界は私であり、私は世界であることです。それは知的な何か、感情的な何かではなく、それは事実です。宜しいですか、私が問題に取り組むとき、夥しい混乱や悲惨さや苦しみや暴力などそれらに取組むとき、私は私の結論を抱いて、私の恐れを抱いて、私の絶望を抱いて、それに取り組みます。私は問題を見ていません。
A それをこのように言えると思いますか、人は問題に他の余地を与えません。
K はい、そのように言えます。宜しいでしょうか、このことを見てみましょう。人間として人はこの悲惨を作り出してきました、社会と呼ばれる我々の生きているそれです、完全に非道徳的な社会です。人間として人はそれを作ってきました。しかしそれを見ているその人間は自分自身を分離して言います、“私はそれについて何かをしなければならない”と。“それ”が“私”なのです。
A ある人たちはそのことにこのように応えます。彼らは言います、“宜しいですか、私は本当に真剣であると仮定します、私には本当に責任があると仮定します、私がこのように行って私と世界との間にこの包括的で余すことのない関係性が生じると仮定します、それでもそこで起こっていることは、言わば、私の住んでいるところから二千五百マイル離れたそこで起こっている残虐な全てのことは、止みません。従って私は、世界が私であり、私が世界であると、どのように言えばよいのですか”と。このような反論が繰り返し繰り返しなされます。私はあなたがそのことにどう応えるのか興味があります。
K 宜しいでしょうか。我々はイギリス人、フランス人、ドイツ人などその他のすべての何々人にかかわらず人間です。アメリカやインドに住んでいる人間は関係性の問題、苦しみの問題、嫉妬、妬み、貪欲、野望、模倣、体制順応の問題を抱えています。それらは我々全ての問題です、我々全てに共通する問題です。
A はい。
K そして私が世界は私であり、私は世界であると言うとき、私はそれを現にそうであるものとして見ています、概念としてではありません。宜しいですか、もしその問題に対する私の責任が適切であるとするなら、それは私がそう考えるからではなく、その問題がそのように存在するからでなければなりません。
A はい、それは分かります。私は、あなたがそう言っているとき、私が持ち出した質問に対する可能な答えを考えていました、私がその質問をしたのは単純に、私の知っている何人かの人たちがこのことを本で読むかもしれなくて、その人たちはそれを問うて、我々の会話の中に参加したいと思うだろうからです。私は、人がその質問をそのようにするや否や、その人はすでにその問題から離れているとあなたは言ってきたのかどうかを考えたのです。
K その通りです。
A それは実際的な見地から、その質問はあなたの言っている活動の中には全く入る余地のない口出しです。
K はい、その通りです。
A そうすると、これは非常に興味深いことです、なぜなら、それはその人がその人の不信を棚上げにしなければならないからです。
K あるいはその人の信念を。
A あるいはその人の信念を...
K ...そして起こっていることを観察するのです。
A ...そして起こっていることを観察する。
K それはもし観察者が観察されるものと異なっているなら不可能です。
A それでは、私としばらくの間この実際的な様相を検討しませんか? 人々はここで言うと思います、“はい、そうです、しかし私はそれを抑えられません、私はあなたの言うことが分かると直感します、しかし私が何かを自分自身で行うや否や、私が何かを自分自身で始めるや否や、それら全てが私に押し寄せてくるように思えます。私の望んでいたことが起こらないように思えます”と。もし私があなたを正しく理解しているなら、彼らは彼らが自ら主張して行おうとしていることを実際には行っていません。
K その通りです。宜しいでしょうか、その質問を違う言い方で言えませんか? この苦しみの問題、無秩序の問題、我々の周りで進行しているそれら全ての問題に直面している人間は何をしたらよいのかと。人は何をしたらよいのでしょうか? 人は一般的に何らかの結論を抱いてそれに取り組みます、人はそれについて何をすべきかと。
A そしてこの結論が人と...との間に差し挟まれます。
K はい、その結論が分離の起こる要因です。
A そうです。
K 宜しいですか、人はこの混乱の事実を、何の結論も抱かずに、何のプランも持たずに、この無秩序の混乱から抜け出すいかなる方法もあらかじめ考えることなしに、観察することができますか? なぜなら、あらかじめ下された結論や考え方などは全て過去から導き出されたものであって、そしてその過去がその問題を解決しようとするからです、従って人はそれを人のそれまでの結論に従って解釈し行動します、しかし事実はあなたがそれを見ることを要求します、事実はあなたがそれを観察することを要求します、あなたがそれに耳を傾けることを要求します。事実それ自身がその答えを持っています、あなたがその答えを導き出す必要はないのです。私は明瞭に言っているでしょうか。
A はい、私は非常に非常に真剣に耳を傾けています。もしここで何らかの変化があるとするなら、それは徹底的な変化であるはずです。それでは私はスタートしなければなりません。私は何を行うのですか?
K 二つのことが含まれています、違いますか? 一つは、わたしがその問題から学ばねばならないことです、それは私が謙虚の質をもつ精神をもたなければならないことを意味します。人はそれに相対して、“私はそれについて知っている”と言わないことです。人が知っていることは合理的であろうと非合理的であろうと単なる説明にしかすぎません。人は合理的あるいは非合理的解決策を頭に思い描き問題に相対します。従って人はその問題から学んでいません。問題は数知れない多くのことを露わにします、もし私がそれを見て、それについて学ぶことができるなら。そしてそのことのためには、私が謙虚な気持ちでいて“私は知りません。このことは途轍もない問題です。私にそれを見させてください、私にそれを学ばせてください。”と言わなければなりません。私の結論を抱いてそれに相対するのではありません、それではそれは私がその問題から学ぶことを止めたということを意味してしまいます。
A あなたはこのような行動は問題それ自身が自らを露わにするのを待つことであると言っているのですか?
K それ自身を露わにするのを。その通りです! 従って、わたしはそれを見ることができなければなりません。もし私が何らかの考え方や観念や想念やあらゆる種類の結論を抱いてそれに相対したなら私はそれを見ることはできません。私はそれに相対して、“さあ、それは何なのか”と言わなければなりません。私はそれから学ばねばなりません、どこかの教授や心理学者や哲学者に従って学ぶのではないのです。
A ある人たちは人がこのような能力を持つことに疑問を呈します。
K 私は誰もがそれを持っていると思います。宜しいでしょうか、我々はそれをとても無駄にしているのです。
A しかし能力のあることが行わなければならないことを行っているという意味にはなりません。
K 宜しいですか、学ぶことは行うことです。
A その通りです、はい。私はその点を明らかにしたいと思いました、なぜなら、もし私があなたを理解してきているなら、我々はおかしな考え方で自分自身を慰めます、つまり我々は何らかの可能性を持っていると考えます、そして我々がその可能性を持っているので、我々はそれがいつか恐らく実現すると考えるのです。
K その通りです。
A しかしもし私が正しいなら、その可能性は実現しえません、そして実際にそれは決して起こりません、しかしどういうわけかそのように信じられています、違いますか?
K そう思います。宜しいでしょうか、それは本当にとても単純です。世界中にこの悲惨さ、混乱、計り知れない悲しみ、暴力などそれらがあります。人間がそれを作り出してきました、人間がこのような無秩序の混乱を繰り返す社会の構造を築き上げてきました。それは事実です。そこで、私はそれに相対します、人間はそれに相対して、それをそのプランに従って、その偏った見方、その性向や知識に従って解決しようとします、そしてそれは人がすでにその問題を理解したことを意味します、しかしながらその問題はいつも新しいのです。従って私はそれを始めて見るかのようにそれに相対しなければなりません。
A 聖典の研究を含んだ毎日の仕事の一つとして何年も私が気にかけてきたものの一つに私が出くわす、しばしば劇的な形で私が出くわす、繰り返される発言があります。例えば、イエスの預言者的な聖職者たちについてイエスは言います、彼らは聞いているけれども彼らは耳を傾けていないと、彼らは観察しているけれども彼らは見ていないと。
K そして行っていないと。
A しかしそのとき彼は“そこへ至るためには、こうしなさい”と言っていないように思えます。言っていません。それに最も近いのは、彼が子供とのアナロジーで小さな子供のように信じることについて話す点です。信じるということでここに意味されていることは信仰に入るために恐らく適切である何かではなくて、子供とのアナロジーが暗示する何かです、子供は何かをしていて、ある意味で言うとそれがその途中でどこかへ消えてしまうということです。私は彼が大人と子供との間に完全な継続性があると言ったのではないと思います。しかしなぜ何世紀にもわたって人はこのことを繰り返し何度も言ってきたのでしょうか、つまり、あなたは耳を傾けていない、あなたは見ていない、そう言っておいて彼らはどうすべきかを指摘しません、彼らは何らかのアナロジーを指摘します。彼らの幾人かはアナロジーさえも指摘しません、彼らはただ花を手にして掲げるだけです。
K 宜しいでしょうか、我々は言葉で生きています。ほとんどの人が言葉で生きています。人々は言葉を超えていきません。そして我々が話していることは言葉だけではなく、言葉の意味だけではなく、言葉を使って生じるコミュニケーションだけではなく、非言語的なコミュニケーションでもあって、それは閃くことです。それが我々のこれまでずっと話していることです。
A はい。
K つまり、精神は、もしそれが耳を澄ますことができるなら、閃きを生じうるだけです。そしてあなたは、危機があなたの足元に迫っているとき、耳を正に傾けます。
A そこで、私は私がこの確かな地点にいると思います。我々は絶えずそこにある危機に近づかないようにしているのではないですか? それは他人事の危機ではありません。
K はい、危機はいつもそこにあります。
A 我々はそれから眼を塞ぐために何かをしています、違いますか?
K あるいは、我々はそれにどのように相対してよいのか知りません。我々はそれを避けるか、我々はそれにどう相対するのか知らないか、それとも我々は無関心なのかのいずれかです、我々はとても鈍くなっています。それら全てが、それら三つが危機に相対しないことの中に含まれています。人は恐れているので、人は言います、“おお! 私はそれにどう対処してよいのか分かりません”と。そうして人は分析家のところや聖職者に会いに行くか、それがどのように解釈されうるかを知るために書物にあたります。人は無責任になります。
A 時々人々は事が上手くいかなかった落胆の表情を表します。そこで、何か新しいことをやってみようということになります。
K はい、もちろんです。
A そしてこれがことを和らげるための緩衝装置でしょう。
K はい、それが私の言っていることです。避けることです。避けるためのとても沢山のやり方があります、賢いやり方、狡賢いやり方、表面的で非常に巧妙なやり方です。それら全てが事を避ける中に含まれます。そこで我々が言おうとしていることは、違いますか、我々が昨日言ったように、観察者は過去であるということです。観察者は危機が生じると過去に従って解釈し行動します。危機はいつも新しいのです。そうでなければそれは危機ではありません。問題は新しいはずです、新しいのです、いつも新しいのです。しかし人はそれを過去に従って解釈します。それでは、人はそのような問題を、そのような危機を、過去が応えるのではなく、見ることができますか?
A あなたの本から一か所読んでもよいですか? 私はここが我々の話していることに正に直に関係するかもしれないと思うのです。それは私がそれを読んだとき私をとらえて離さなかった箇所です。“否定することで、それのみが肯定的であるものが生まれる”というものです。否定することで何かが明らかに行われます。
K その通りです。
A はい。そうすると我々は、言葉は全く重要ではないので私は何か非言語的なことを行う、あるいは、私は非言語的なものとは決して通じ会えないので私は何かを言葉にする、と我々が言うようなところにその意味を置いているのではありません。そのようなことはそれとは何の関係もありません。何かがなされなければなりません。何らかの行動が起こります。
K その通りです。生は何らかの行為です。
A 私は読者のためにこれは“叡智の目覚め”の中の個所であると言うべきです、それは“自由”の章の中の196ページです。“否定することで”―私はそれがこの行動のための言葉であると思います―“それのみが肯定的である”―“のみ”という言葉が何か独特な力で私に迫ってきました。
K はい、そうです。
A 他の何かと継続しない何か。否定することで、それのみが肯定的であるものが生まれる。時間的に途切れることがここにはありません、従って我々は我々の以前の会話の中で我々が知識と時間に依存しないことについて話し始めたところに戻ります。我々は一緒にこの否定をしばらくの間見てみることができますか? 私はもし否定が永続する活動でないなら、コミューニオンやコミュニケーションや我々が話している関係性は決して達しえないのではないかと感じます。それは正しいですか?
K はい。このように言ってもいいですか? 私は否定しなければなりません、つまり私は知的にではなく或いは言葉でではなく、実際に私は生きている社会を否定するということです。社会の中に存在する、そして社会がその上に築かれている非道徳に関わるもの、私はそのような非道徳を余すことなく否定しなければなりません。それは私が“道徳的”に生きることを意味します。その非道徳を否定するときの肯定的なものが“道徳的”なものです。私は成功という観念を余すことなく否定します。通俗的な世界の中だけではなく、お金や地位や権威の世界で何かを成し遂げるという感覚だけではなく―私はそういうものを完全に否定しますが―私はいわゆる精神的世界の中の成功をも否定します。
A なるほど、それは誘惑です。
K どちらも同じです。ただ私がそれを精神的と呼ぶだけです、私がそれを物理的、道徳的、世俗的と呼ぶにすぎません。そうすると、何らかの成功や成就を否定するとき、何らかのエネルギーが生まれます。否定することで成功や模倣や順応などそれらの領域の中にはない、それらとは全く異なる行動をする途轍もないエネルギーが生まれます。そのように、否定を通じて―観念的ではない実際の否定のことですが―非道徳的であるそれらの実際の否定を通じて“道徳”が生まれます。
A それは道徳的であろうとすることとは全く異なります。
K もちろんです、道徳的であろうとすることは非道徳です。
A はい。このことをもう少し踏み込んで行ってもいいですか? 私はここで否定の二重の姿を直観します。これをあなたも感じるのかどうかを見てみたいと思います。私の成功願望それ自体は我々が話していた問題から私自身を遠ざけます、そしてそれ自体が一つの否定の形です。私は私自身を見つめることを否定しました。私は否定しました、別の言い方をすれば、私はそれ自身を露わにしたいとする何かに暴力を振いました。そうすると私は観察者としての私の否定を否定しようとしています。
K 全くその通りです。我々が“否定”という言葉を使うとき、一般的に理解されているように、それは暴力的な行為を意味します。しかし我々はその否定という言葉を暴力的な意味で使っているのではなく、成功というものが意味することの理解として使っています。“私”の、あなたと分離している“私”の成功願望あるいは成功欲が私を何らかの権威ある地位へ、権力を持つ地位へ、名声を得た地位へと導きます。そのように、成功を否定するとき、私は私の権力欲を否定しています、そしてそれは私が成功を遂げる中に意味されている全プロセスを私が理解したときにのみ私が行うことです。成功を遂げることは冷酷さ、愛情の欠如、他を思いやる気持ちが限りなく欠けていること、順応する感覚、模倣する感覚、社会構造の容認を意味します、それら全てが含まれます、従って、私が成功を否定するとき、それら全ての理解があります。それは暴力的な行為ではありません。それどころか、それは途轍もなく気をつけている行為です。
A 私は私の中の何かを否定しました。
K 私は私自身を否定しました。
A はい、私は私自身を否定しました。
K “あなた”と分離している“私”です。
A その通りです。
K 従って、私は暴力を否定しました、それは分離があるときに生じます。
A あなたは自己否定という言葉をここで使いますか、通常の意味ではなく、人はその言葉をあなたの言う意味で使うことができますか?
K 私はその言葉は明瞭ではないと思います。自己否定は犠牲、痛み、理解の欠如を意味します。なぜあなたはこのことを理解したとき他の言葉を使うのですか?
A 人と意味を通じ合わせるためです。
K それでは我々が共に自己否定の意味を理解するためにその言葉を変えてください。つまり、全ての宗教がその活動を自己否定に基礎をおいてきました、自己犠牲、欲望の否定、女性を見ることを差し控えること、富の否定、貧しさの誓いなどです。あなたはそれら全てを知っています、貧しさの誓い、独身の誓いなどです。それら全ては一種の罰であり、純粋な知覚を歪めることです。もし私が何かをありのままに見るなら、その行動は瞬時のものです。そのように否定することは気を抜かずに気をつけていることです。気を抜かずに気をつけていることは成功に付きまとう事実に完全に気をつけていることを意味します。私の全存在をかけて、この場合は、成功と称するものに気をつけていることによって、そのように気をつけている中で、成功にまつわる全容が露わになります。
A その全ての恐れと共に。
K それが含むあらゆることと共に、そしてそうするときにのみ、見ることが行うことになります。そこでそれは決着がつきます、精神が成功と称するするものに後戻りすることはありえません、従って精神が辛辣になることや、それら成功にまとわりつく全てのものになるはずがありません。
A あなたが言っているのは、このことが一度起こると、後戻りすることはないということです。
K それは終了しました。
A それは人が続ける必要がある何かではありません。
K もちろんです。
A はい、私は我々がそれをはっきりさせたので嬉しいのです。
K それでは実際の例を挙げましょう。1928年たまたま私はある途轍もない組織の、ある宗教的組織の長でした、そして私は自分の周りにある様々な宗教的組織や宗派、カトリックやプロテスタントなど全てが真理を見つけようとしているのを見ました。そこで私は言いました、“いかなる組織も人間を真理に導くことはできない”と。そこで私はそれを解散し、その財産、その途轍もない活動を消滅させました。私がそれに戻ることは決してありえません。あなたが何かを毒と見ると、あなたはそれを再び手に取ることはないでしょう。それは、あなたが“おお、私は間違った、私は戻って...すべきだ”と言うことではありません。それは、宜しいでしょうか、危険に遭うようなものです。あなたは危険に遭うと、あなたはそれに再び決して近づきません。
A ここで私が再びある言葉について話すのを気にしないでいただきたいと思います。宜しいですか、あなたの発言するとても沢山のことが普通の言葉に新しい光を注いでいます。例えば、練習を積めば完全になる、と言う英語のことわざがあります。それではもし我々が練習ということで何かを繰り返すことを意味するなら、これは明らかにこのケースとは違います。しかしもしあなたが練習ということで、行動と直に関係するという意味の、繰り返すことではなく、行動と直に関係するという意味のギリシャ語の“練習”を意味しているのなら、それが完全になると言うとき、それは時間に全く関連しません。それは行動に移されると時を待たずにすぐさまそれが完成されるということです。
K はい。しかし我々は関係性の中の自由と責任の問題へ今戻る、あるいは先へ進むことができますか? そこが昨日我々の止めたところです。はじめに、我々は責任があるとはどういうことかの質問を検討できますか? なぜなら、私はそれが我々のこの世界で、今起こっていることの中で見失っていることだと思うからです。我々は責任を感じません。我々は我々に責任があると感じません、なぜなら我々にとっては権威をもつ人々が政治的そして宗教的に責任があるからです。我々ではありません。それが世界中の一般的な感情です。
A なぜなら、そこにいるそれらの人々は何らかの仕事をするように我々の代表として送られているからです。
K はい。そして科学者たち、政治家たち、教育者たち、宗教的な人たち、彼らには責任があります、しかし私はそれについて何も知りません。私はただ従うだけです。それが正に世界中の一般的態度です。
A 人は罰を免れると感じます、なぜならそれは他の人の過ちだからです。
K はい。そのようにして私は自分自身を無責任にします。責任をあなたに預けることによって私は無責任になります。ところがしかし今我々は言っています、あなたの他はだれも責任を負いません、なぜなら、あなたは世界であり、世界はあなただからです。あなたがこの酷い混乱を作り出してきました、あなただけがこの混乱を治めることができます、従って、あなたには余すことのない、全くの、完全な責任があります。他の誰かではありません。宜しいですか、そのことが意味するのは、あなたが自分自身の光でいなければならないことです、どこかの教授や分析家や心理学者の光を灯すのではなく、あるいはイエスの光やブッダの光を灯すのでもありません。あなたは全くの闇になっている世界の中であなた自身の光でいる必要があります。それはあなたが責任を引き受けることを意味します。それでは、その言葉は何を意味するのでしょうか? それはあらゆる難問に本当に余すことなく適切に応じることを意味します。あなたはもしあなたが過去に根ざしているなら適切に応じることは恐らくできません、なぜなら問題はいつも新しいからです、そうでなければそれは問題ではありません、危機は新しいのです、そうでなければそれは危機ではありません。もし私があらかじめ思い描いたプランで危機に応じるなら、それは共産主義者たちが行うことであり、カトリック教徒たちやプロテスタント教徒たちなどが行うことですが、そうすると彼らは問題に余すことなくそして適切に応じていません。
A このことは私に私が非常に密接に関係していると思うことを思い起こさせます、それはバガヴァッド・ギーターの中の軍人とクリシュナ王との劇的な対面の場面です。陸軍大将であるアルジュナがクリシュナに言います、“何をすべきかはっきりと私に言ってください、そうすれば私はそうします”と。そうすると次の節で、クリシュナは振り向かないで彼に言います、“私はあなたに何をすべきか言うつもりはありません”と。そのときクリシュナ王はアルジュナに何をすべきか全く言いません、そして偉大なサンスクリット学者の一人は詰問して言いました、それは教える者としては無責任な対応ではないのかと。しかしもし私があなたを正しく理解しているなら、彼はそうする他はなしえなかったはずであると思うのです。
K 大将がそのように問うとき、彼は無責任からそう問うています。
A もちろんです、責任を取ることの拒絶です。その通りです! 責任を取ることの拒絶です。
K それが、宜しいでしょうか、責任というものは問題に余すことなく献身的になること、危機に適切に、完全に応じることを意味する理由です。責任という言葉はそのことを意味します―応じることです。私は、もし私が怯えていたら完全に応じることはできません、あるいは、私は、もし私が快楽を追い求めていたら完全に応じることはできません、私は、もし私の行動が決まりきっていて、繰り返しの、伝統的で、条件づけられたものなら余すことなく応じることはできません。そのように、問題に適切に応じることは、“私”が、過去である“私”が消滅しなければならないことを意味します。
A そしてそのとき、アルジュナはただそれが順次継続されることを願います。
K それは誰もが願うことです。政治的に、この国で起こっていることを見てください、そして他でも起こっていることを見てください。我々は責任を感じません。我々は我々がどのように我々の子供たちを育てているかに責任を感じません。
A 我々の次の会話で、私は我々が時々使う“我々の行動に責任をもつ”という言い方の観点からこのことを続けたいと切に思います。しかしそれはあなたが言っていることを言っているでは全くないように思えます。実際のところ、それは全くの的外れであるように思われます。
K その通りです。―1974年 2月19日