クリシュナムルティ もし宜しければ、我々が先日ここで会ったときに話していたことを続けようと思います。我々は成熟と成熟に伴うそのようなエネルギーの必要性について話していました、精神の中に変質をもたらすためにです。そして、そのことを十分に検討するためには、我々は、私はそう思うのですが、行為とは何かを理解しなければなりません、そして行為を理解するとき、我々は自分自身でコミュニケーションとは何かとコミューニオンとは何かをも明らかにしなければなりません。
我々は、我々の日常生活の行為がとても矛盾しているのが、とても相反しているのが、とても偽善的であるのが分かります。我々は言うことと行うことが異なります。我々は何らかの方式を信じていながら、それらの方式に反することを行います。我々は芸術家、ビジネスマン、政治家、作家、詩人、教師であったりします。そして、我々の生活や存在のあらゆる次元で、このような矛盾する活動が生じます、つまり、理想と事実です。理想は事実とは何の関係もありません―例えば、暴力は非暴力とは何の関係もありません。しかし、それでも我々はこのような断片的な、矛盾する活動の中を生きています。ある次元では、我々は宗教的です―少なくともいわゆる宗教的です―そして他の次元では、我々はお互いを破壊し合っています、ビジネスの世界の競争や野心や欲望だけではなく、何らかの集団としても、何らかの人種としても、家族としてもそうしています。
これは我々の日常生活で起こっていることです。あらゆる行為がとても矛盾しています、とてもバラバラになっています、ある次元の行為が他の次元のそれと矛盾しています。そのような行為は、一様に、我々が日常生活の中で気づくように、大いなる無秩序、多くの悲惨や混乱や争いをもたらします。そして、それら全ての矛盾する行為から逃げるために、我々は崇高な行為を身に着けようと瞑想を試みたり、宗教的な経典を読んだりします、そして、それら全ては―それは他の次元へのもう一つの逃亡です―我々の日常の存在と全く矛盾します。そして、このような途方もなく断片的で的外れの行為に気づくと、人は自然に他の何かに向かうのではないのですか―思考を費やすのではなく、観念としてではなく、あるいは何らかの理論としてではなく―人は断片的ではない、偽善的ではない行為を検討することになるのではないのですか、蛸壺のように囲い込まれた何かではなく、水も漏らさない蛸壺のような何かではなく、その発見の中で、全体として機能する、生のあらゆる行為が全体として機能する何かを検討することになるのではないのですか?
人は自分自身でこの問いを発しなければならないと私は言っているのです、つまり、何らかの行為が、余すことのない何らかの行為が、それが行われるときはどこでも、余すことのないに違いない、矛盾することのないに違いないそのような行為があるのかどうかです。
それでは、宜しいでしょうか、我々はそのことを検討したいと思います。最初に、我々が話していることを理解するために、我々はコミュニケーションとコミューニオンとの違いを明瞭にしておかなければなりません。その二つは、私は思います、異なります、つまり、コミュニケーションと通じ合う働きのコミューニオンとは二つの全く異なるものだということです。コミュニケーションは言葉であれ、態度であれ、あるいは何らかの外形的な表現を要します、そのようにして話し手の意味することを聞き手に伝えます、あるいは聞き手のそれを話し手に伝えます―これが我々の意味するコミュニケーションです。人が話すとき、人は何らかの言葉をシンボルとして使います―それは何かを指し示すことを意味します。そのように、コミュニケーションは、もしそれがあなたと私が理解する明瞭で確かな言葉で表現されるなら、誤解を生むことはありえません。そうすると曖昧なことはありえません、誤解はありえません、それは明白で確かなことです。あなたと私は英語を理解します―もし我々が英語を正に理解するなら―そして、我々は何らかの特定の意味を伝える手段として言葉を使います、何らかの言葉で、何らかのシンボルや態度でそうします。そうすることで我々は伝え合おうとしていることを理解する状態にいます。それは、確かに、非常に明白です。
しかし、他方はもっとずっと困難です、つまり、それは通じ合う働きのことです。私が言ったように、それはもっとずっと困難です、なぜなら、ほとんどの我々は何かを通じ合うことが全くないからです。私はその言葉を辞書的な意味だけで言っているのではなく、さらに深いそれとしても言っています。何かと通じ合うことは―違いますか―あなたとあなたが見るものとの間に、あなたが注意を払うものとの間に、あなたが観察するものとの間に妨げになるものが何もないことを意味します。自然と通じ合うのです、それは鳥たちであったり、樹木であったり、川であったり、大地であったり、草原であったり、道路の汚れであったりします―もし人に何らかの抵抗感があったり、非難する思いや軽んじる思いがあったり、あるいは、それから目をそらすことがあったりするなら、人は自然と通じ合うことにはなりません。コミューニオンは観察者と観察されるものとの間に思考が割って入らないときに起こります。
どうかこのことに少し気を付けて下さい、なぜなら、我々が今検討しようとしていることは、話し手と聞き手であるあなたとの間にこのコミューニオンを要するからです。そうでなければ我々が出会うことは全くないでしょう、我々は言葉でコミュニケイトできるでしょうが、我々はお互いに通じ合うことはないでしょう。そして、私には思われます、矛盾しない行為の本当の意義を理解することが必要であると。そのように、我々にとってコミューニオンとは矛盾しない精神の状態を意味します。そのように、我々にとってコミューニオンは帰納的に推論された精神の状態ではないことを意味します、それはあなたとあなたの耳に触れている何かとの間に何の障害物も存在しないことを意味します―それはあなたの信じることに反するかもしれません―それは、いかなる比較も、何らかの引用も、いかなる価値評価もせずに、実際に耳を傾けて明らかにしようとすることです。
宜しいでしょうか、人々の間にコミューニオンが存在します、あなたと自然との間に存在します、大いなる愛情が存在するとき―私はあなたが好きです、そして、あなたが私を好きなとき、あるいは、あなた方がお互いに好きなとき―それは大いなる共感や愛情が存在するという意味であり、そのときに、何らかの非難や比較や何らかの判断や価値評価をしないという意味です。そうすると、そのような状態の中で二人は通じ合う状態になります、それはその人たちが、同じ瞬間を、同じ次元で、同じ熱気で、通じ合うことです―それが、結局、愛と称されます。そのように、そのような精神のみが、あらゆる形の意見や判断、価値評価、比較などを脇へ除くことができます―そのような精神のみが自然と通じ合うことができるだけです、あるいは、他の人と通じ合えるだけです、あるいは、それ自身と通じ合えるだけです―しかし、それはさらにずっと難しいことです。
そして、このことを理解することは必要なことです、なぜなら、もしあなたがあなた自身と直に通じ合わないなら、従って、矛盾することのない行為の源泉と通じ合わないなら、あなたの生は否応なく矛盾するものになるでしょう、あなたが何を行おうと、あなたがいかなるパターンに従おうと、あなたがいかなる信念を持とうと、いかなる概念を抱こうと、あなたの生は矛盾するものになるでしょう―この国で見られるように、あなたは果てしなく不殺生を、非暴力を説いて、その反対のことを行います。あなたは平和の国、非暴力の国について話すだけであって、あなたは戦争の準備をします、他の国々よりもそうします―他の国々は非暴力を語りません。ここでは、あらゆる政治家、あらゆる人が精神分裂的であり、二重の存在であり、二重人格であり、裏表があります。
人は何らかの理想を抱きます、この上なく驚くべき理想です、それは日常の存在とは何の関係もありません。そのように、人は途轍もなく矛盾した、偽善的な生を送ります。そして、このような矛盾した生は、より多くの矛盾、より多くの悲惨、より多くの分断を事実と理論との間に生み出します。そうすると問題が生じます、つまり、事実と理論をどう結び付けるかです。そうすると、そこから果てしない探究が始まります、精神を何らかのパターンや概念に順応させるために精神に何らかの規律を課そうとする格闘が生じます、そうして、さらなる矛盾がさらに広がり、事実と理論との間のより深い分断が引き起こされます。宜しいでしょうか、このことはあなたの生の中で実際に起こっていることです。それは何らかの理論ではありません、私はそのことを非難しているのではありません。我々はただ言っています、“それを観察して下さい、それは事実です”と。
そうすると、もし人が本当に真剣なら、人は自分自身に問います、余すことのない行為とは何かと。そして生は真剣な精神のみに息づきます。非常に真剣な人のためにだけ生は深みを帯びます、意味をもちます、意義をもちます、活力を湛えます、エネルギーを帯びます。しかし、ほとんどの我々は真剣ではありません、我々の真剣さは断片的です、これやあれの真剣さです、それは余すことのない真剣さではありません。そのように、あなたは自分自身で余すことのない行為とは何であるのかを見つける必要があります、私に、話し手に言われることではありません―そうすると、それは何らかのパターンになります、何らかの理想になります、そうすると、あなたは再び矛盾に陥ります。もしあなたがあなたの理由を感情抜きに行使するなら、もしあなたがあなたの理解のための能力を、それが何であれ、行使するなら、あなたは自分自身でその余すことのない行為が何であるのかを明らかにするでしょう、それは個人的な行為や集団的な行為として分断されません、あるいは、社会が彼にもたらしたものを社会に還元する個人的な行為として分断されません―それら全ての分断は完全に消滅します、そして、そのような分断的行為の消滅が成熟の始まりです。
それでは、今朝、我々は探究することによって自分自身で明らかにしていこうと思います、順応することによってではありません、それが何かを人に言われるのではありません、何らかの言語的なパターンを作り出すのではありません―パターンの全てが言語的です、青写真に描かれた技術的パターンを除けば。いかなるパターンも作り出さずに―イデオロギーのそれであろうと、矛盾したそれであろうと―我々は明らかにしてこうと思います、もしそれが可能なら、余すことのない行為があるのかどうかを、我々が何を行おうと、それが矛盾する行為を作り出さないで、従って、さらなる悲惨、さらなる悲しみ、さらなる混乱を生み出さない行為があるのかどうかを明らかにしようと思います。
もしそれが明瞭なら、私は思います、今朝、私が言ったことは詳細に検討するまでもないと。従って、最初に我々はコミュニケーションとは何かを考察する必要があります。人はそれを非常に明確に理解する必要があります、なぜなら、それを理解してから我々はコミューニオンの状態にある精神とは何かを検討して明らかにすることになるからです。しかし、コミュニケーションとは何かを理解することなしに、あなたはコミューニオンとは何かを理解することはできないでしょう。
我々がお互いに何かをコミュニケイトするとき、我々は言葉を使います。私が私はあなたが好きですと言うとき、あるいは、嫌いですと言うとき、私は言葉を使わなければなりません、あるいは、何らかの態度を表明します、そして、そのような態度や言葉や何らかのシンボルがその意味を伝達します、そして、あなたはそれをあなたの好悪に従って解釈します、あるいは、あなたの条件付けに従ってそうします、あるいは、あなたの恐れに従ってそうします。そのように、言葉によるコミュニケーションには限界があります、もし我々が、二人とも互いに同じ言葉を使わないなら、お互いに明白な意味の同じ言葉を使わないなら、我々はコミュニケイトする際に、言われていることが何なのかを理解しません。それは再び非常に明白ではありませんか? 我々が2+2は4というとき、それは非常に明白です。それが明白でないのは、あなたの精神状態が歪んでいて、見るのを拒むときです、精神がバランスを欠くときです、精神が何かにこだわっているときです、何らかの強固な意見や観念や結論を抱いているときです、それは言います、“いいえ、2+2は6あるいは5です”と。そうすると、そのような精神は事実を見ることを拒んで事実を否定します、なぜなら、それはすでにそれ自身の条件付け、それ自身の意見、それ自身の経験や信念に囚われていて、2+2が4である事実を見るのを拒むからです。
そのように、伝統的に―ほとんどの人々がそうであるように―その人自身の観念や意見や判断、その人の恐れ、その人自身の不適切で無益な思考、その人特有の、話し手の伝える意味とは違う言葉の使い方に縛られている人とコミュニケーションを取ることの困難を見て下さい。どうか、言葉によるコミュニケーションの計り知れない困難さを見て下さい。我々は規律のような何らかの言葉を使うことによって、我々はたちまち何らかのパターンに染まります。あなたは直ぐにその言葉をあなた特有の言い方で解釈します、あなた特有の経験に照らして解釈します、あるいは、規律に関しては、どこかの宗教的リーダーに従います、そのように、あなたは、話し手が与えているその特定の言葉の意味を理解するのを拒みます。そのように、あなたが何らかの立場を取る限り―知的立場であれ、言語的なそれであれ―そして、その立場から少しでも動くのを拒む限り、いかなる形のコミュニケーションも不可能です。それは再び非常に明らかです。
そのように、コミュニケーションは可能です―私は“コミュニケーション”という言葉を使っています、“コミューニオン”ではありません―話し手が英語を使っているとき、あなたもそれをその言葉の次元で理解しているときのみ可能です、あるいは、話し手が与えている意味をあなたがその言葉に同じように与えていて、それをあなた特有のサンスクリット語―それにはそれ特有の思考様式があります―の言い回しに解釈しない限り可能です、そうすると相互のコミュニケーションが可能です。宜しいでしょうか! 例えば―“規律”という言葉、“努力”という意味です。私は“規律”という言葉を実際の意味で使います、それは英語です、そしてその言葉の語源は“学ぶこと”です。しかし、それはあなたにとって全く異なる意味をもちます。あなたがその言葉を聞くや否や、あなたはそれを解釈します、それは順応すること、抑圧すること、コントロールすることを意味します、誰かに―シャンカラであれ、他の誰であれ―追随して規律を課すことを意味します。そうすると、あなたと私とのコミュニケーションは即座に終了します。そうではありませんか? 言語的なコミュニケーションの場合でさえ、それを成立させるためには、あなたはその言葉が話し手にとって何を意味するのかを明らかにしようとする状態にいなければなりません、あなた特有の定義に従うのではありません。
そのように、言語的次元でさえコミュニケーションを成立させることは非常に難しいのです、そしてお互いがコミューニオンの状態にいることはもっとずっと難しいことです、それは驚くべきエネルギー、驚くべき非分断の感覚を要する何かについてであり、それはお互いが同じものを、同じ時間に、同じ次元で、同じ熱気で見て取ることを要します。
それでは、我々は“行為”という言葉を使おうと思います。行為は行うことを意味します、あるいは、行ったこと、あるいは、行おうとすること、行為しようとすることを意味します―何らかのパターンに従うのではありません、何らかの理想に従うのではありません、バガバッドギータに書かれていることや仏陀やシャンカラが言ったことに従うのではありません。私は行為のことを話しています、誰かに従うのではありません、人自身が抱く行為の概念に従うのではありません。なぜなら、概念は行為ではないからです、観念は行為ではないからです。“行為”とは“行うこと”であると私は言っています。そのように、我々は正しい行為とは何かとか間違った行為とは何かという観念には関心がありません、あるいは、何らかの概念や方式には関心がありません、我々は混乱の種や矛盾の種を生まない、それを内に含まない余すことのない行為を明らかにすることにのみ関心があります。そうすると、あなたと私は余すことのない完全な行為とは何かを明らかにしようとするコミューニオンの状態の中にいるでしょう。
そのように、最初に、人は我々の行為の中の生が矛盾を作り出す活動を生むことを実際に見て取る必要があります、なぜなら、生は何らかの活動であり、そしてその活動は行為だからです。あなたは行為することなしに生きられません、たとえそれが知的な行為や感情的な行為や物理的な行為であろうと、あるいは、あなたの妻や子供たちや夫や社会との関係性の中の行為であろうと。生は何らかの活動です、そして、その活動は行為の中に何らかの矛盾を作り出します、生の活動が科学的活動や人間的活動、宗教的活動、官僚的活動、政治的活動、社会改革的活動などに断片化されるとき矛盾を作り出します。そして、あなたがそのように区分けされた蛸壺の中で機能するとき、何らかの活動をするにしても、そのような活動は矛盾を作り出します、矛盾を生み出します、矛盾をもたらします、そして、そのような矛盾から精神は何らかの理想の旗印の下に逃げ道を探し出します、あなたが崇高な理想と考える非暴力などの旗印の下で逃げ道を探し出します。
そのように、最初に、我々は気づかなければなりません、我々の生は矛盾を作り出して、さらなる争いやさらなる悲惨を生み出す断片的活動にバラバラにされているという事実に。それからいかにして逃れるのかではなく、それについて何をなすのかではなく、最初に、我々はその事実を見て取る必要があります。我々はその事実を見て取りますか? そうすると、あなたはその事実をどのように見て取りますか? あなたはその事実を嫌悪して見て取りますか、こう言って“それは何てひどいことだ”と。あなたが“それは何てひどいことだ”と言うや否や、あなたはすでにそれを理解することを止めています。宜しいでしょうか、事実はあなたの意見やあなたの判断を求めません。太陽は毎日上がってきます、あなたがそれを好もうと好むまいと、あなたが頭痛を抱えていようが、あなたの寝起きが悪かろうが、あなたが空腹であろうが、あなたがあれやこれであろうが―事実は事実です。同様に、あなたはこの事実に気づく必要があります、どうあるべきかではなく、現にある通りに認める必要があります。
そうすると、あなたが事実に気づくや否や、そして、その事実をあなたの意見に照らして解釈しないなら、あるいは、それについて何をすべきかと解釈しないなら、そうすると、あなたの精神は完全に事実に気を付けていて、その事実をあなたの条件付けに従って解釈していないので、あなたはその事実と通じ合っています。私は明瞭に話しているでしょうか?
ほとんどの我々は何かと決して通じ合っていません。あなたはあなたの妻と、あなたの夫と、あなたの子供たちと通じ合っていません、あなたはあなたの妻のイメージと、あなたの妻の記憶と、その妻やその夫の性的な快楽と通じ合っています。あなたが通じ合っているのはその記憶であり、あなたに妻や夫がいるという事実ではありません。同様に、もし人が本当にこの行為の途方もない問いを深く検討したいと思うなら―社会的行為や個人的行為や集団的行為ではありません、社会に対して私は何をすべきかではありません―人は理解する必要があります、そして自分自身で発見する必要があります―あるいはむしろ、発見して、そうすることで理解する必要があります―この余すことのない行為が何を意味するのか、それは何を意味するのかを。人はそのことに通じ合う必要があります。そして、人は、人が言語的なコミュニケーションとそのコミュニケーションに伴う困難を理解したとき、それと通じ合えるだけです。
そして、あなたが言語的コミュニケーションを理解すると、あなたは次の段階に行けます―段階ではありません、その続きではなく、それは自然な成り行きです―それはあなた自身と通じ合うことです。なぜなら、結局、それが全ての行為の源泉だからです、違いますか? あなたの欲望、あなたの憎悪、あなたの野望、あなたの貪欲―それがあなたの全ての行為の源泉です、そして、あなたはそれと全く通じ合っていません。あなたは否応なく生の活動に従います、あなたがコミュニケーションの意義を理解するとき、そうして、それを理解したので、あなたは次の問いに向かいます、つまり、“何ものにも通じ合うことは可能なのか? あるいは、あなたはあなたの過去の記憶を抱えていて―その過去が千年前のものであろうと、昨日のそれであろうと―それらの記憶がいつも干渉するので、あなたは決して何ものにも通じ合っていないのか?”と。 結局のところ、もしあなたが何ものにも通じ合っていないなら、あなたは死んでいる人間です。
あなたは川と、鳥たちと、樹木たちと、途方もない夕日と、川面の朝日と通じ合う必要があります、あなたはあなたの隣人と、あなたの妻と、あなたの子供たちと、あなたの夫と通じ合う必要があります。私は“コミューニオン”を過去が全く干渉しないという意味で言っています、従って、あなたはあらゆるものを新鮮に見ます、新しく見ます―そして、それが何かと通じ合う唯一のあり方です、そうすると、あなたは昨日のあらゆるものを死んでやり過ごします。それは可能ですか? 人はこのことを明らかにしなければなりません、“私はどのようにすればよいのか”ではありません―それはとても馬鹿げた質問です。人々はいつも尋ねます、“私はどのようにすればよいのですか”と―それはその人たちのものの見方を表明しています、その人たちは理解していません、その人たちは何らかの結果を残したいだけです。
そうすると私はあなたに問いかけています、もしあなたが何かに正に触れているなら、そして、もしあなたがあなた自身に正に触れているなら―あなたの高位の自己や低位の自己にではありません、人が事実から逃げようと作り出してきた数知れない全ての分断にではありません。そして、あなたは明らかにしなければなりません―人から言われるのではありません、この余すことのない行為にどのように至るのかではありません。“どのようにして”やメソッドはありません、あなたは教えてもらえません。あなたはそれに取り組まなければなりません。違いますか? 御免なさい。その“取り組む”という言葉は正しくありません、つまり、人々は取り組むのが好きです、それは我々が何か結果を残すために取り組まなければないという我々の夢想の一つです。あなたは取り組めません、あなたがコミューニオンの状態のとき、取り組むべき何ものもありあません、それはそこにあります、香りはそこに漂っています、あなたは取り組む必要はありません。
それでは、あなた自身に問うて下さい、もし宜しければ、あなたが何かと通じ合っているのかどうかを自分自身で明らかにするために問うて下さい、つまり、あなたが樹木と通じ合っているのかどうかです。あなたはこれまで樹木と通じ合ったことがありますか? あなたは樹木を見ることの意味が分かりますか、思考を働かせないでそうすることです、あなたの観察に記憶が全く干渉しないことです、あなたの感性に、あなたの感受性に、あなたが気を付けていることに干渉しないことです、そうすると、樹木だけが存在します、その樹木を見ているあなたではありません。恐らく、あなたはこのことを行ったことが一度もありません、なぜなら、あなたにとって樹木は何の意味もないからです。樹木の美は全く意味をもちません、というのも、あなたにとって美は性的なものだからです。そのように、あなたは樹木や川や人々を排除します。そして、あなたは何ものにも触れません、自分自身にさえも触れません。あなたはあなた自身の観念に触れます、あなた自身の言葉に触れます、灰に触れる人間のように。あなたはあなたが灰に触れるとき何が起こるのか分かりますか? あなたは死んでいます、あなたは燃え尽きています。
そのように、最初に人が気づかなければならないのは、余すことのない行為とは何かを明らかにすることです、それは人の存在のいかなる次元でも矛盾を作り出さないそれです、通じ合うということは何なのか、あなた自身と通じ合うとは何なのかです、あなたの高位の自己とではないのです、アートマンや神などその他の全てとではないのです、そうではなく、あなた自身に実際に触れることです、あなたの欲望や嫉妬、野望、残虐性、偽りなどに触れることです、そして、そこから歩むのです。そうすると、あなたは自分自身で明らかにするでしょう―明らかにするのです、人に言われるのではありません、それには何の意味もありません―余すことのない行為は、そこから行為が生じる精神の完全な沈黙が存在するときにのみ生まれると。
宜しいでしょうか、ほとんどの我々の場合、精神はノイズに満ちています、絶えず自分自身にお喋りしています、独り言を言っています、あるいは、何かについてお喋りしています、あるいは、それ自身に語りかけようとしています、それ自身を納得させようとしています、それはいつも活動しています、ノイズに満ちています。そして、そのようなノイズから我々は行動します。ノイズから生まれたいかなる行為もさらなるノイズ、さらなる混乱を生みます。しかし、もしあなたがコミュニケーションの意味やコミュニケーションの困難さ、非言語の精神―つまり、通じ合うこと―を観察して学んだなら、そうすると、生の何らかの活動として、あなたは、あなたの行為の中で、自然に、自由に、容易に、いかなる努力とも無縁に、あのコミューニオンの状態に歩を進めるでしょう。そして、そのコミューニオンの状態の中に、もしあなたがさらに深く探究するなら、あなたは見つけるでしょう、あなたは自然と通じ合うだけではなく、世界と通じ合うだけではなく、あなたの周りのあらゆるものと通じ合うだけではなく、あなたは自分自身とも通じ合っていることを。
あなた自身と通じ合うということは完全な沈黙を意味します、そうすると、精神はそれ自身と沈黙して通じ合うことができます、あらゆるものについて通じ合うことができます。そして、そこから余すことのない行為が生まれます。空虚からのみ余すことなく創造的な行為が生まれます。
宜しいでしょうか、恐らく、我々は議論できます、あるいは、問うことができます、一緒に我々が今朝話してきたことを探究できます。
質問者(Q) 我々は矛盾と通じ合うことはないのでしょうか?
クリシュナムルティ(K)あなたは矛盾していませんか? あなたは矛盾と通じ合っていませんか―それが我々の存在の根本原因ですか? あらゆる思考、あらゆる進化が矛盾をもたらします。あなたは理論化しているのですか、それとも、もし宜しければお聞きしますが、あなたは事実から話しているのでしょうか? もしあなたが事実から話しているなら、あなたは何が矛盾の原因であるのかを明らかにしましたか? 矛盾の原因は何でしょうか? どうかそれを非常にシンプルに見て下さい。それについて思考を巡らさないで下さい、矛盾の原因とは何かを明らかにして下さい。あなたのためにそれを探究しましょうか?
矛盾の原因の一つは何ですか? 私は歩を進めながらそれを明らかにします。しかし、私と共に歩を進めて下さい、一歩一歩です。矛盾の原因の一つは何でしょうか? 矛盾の主な原因の一つは何らかの理想を抱くことです。
Q 主な原因は何でしょうか?
K 待って下さい、私はそこに歩を進めます。あなたは主な原因を願って、あなたは最初の原因となるものから始めようとさえしていません。私は自分自身に言っています、“なぜこの矛盾が生じるのか”と―究極の原因ではありません、私は最初の原因を知りたいと思うのです。私は分かります、矛盾の原因の一つは何らかの理想を抱くことであると。我々は検討しています、我々は我々がそうすべきであるとかそうすべきでないと言っているのではありません。我々はなぜ我々が非暴力を説くのか分かります―少なくとも、あなたは分かります―そしてまた我々が暴力的であることも分かります。この矛盾はなぜですか? この矛盾は明らかです。
私は分かります、矛盾の主な原因の一つは何らかの理想を抱くことであると。私はあなたが同意しないのを知っています。あなたは恐らく私に言葉では同意するでしょう、しかし、実際には、あなたはここを去るとき依然として何らかの理想を抱いているでしょう。あなたは何らかの理想に縛られています、息が詰まっています。そこで私は言います、矛盾の第一の原因は理想をもつことであると。なぜあなたは理想をもつのですか? あなたは言います、もしあなたが理想をもたないなら、あなたは事実をどのように処理してよいのか分からないでしょうと、そして、理想は事実を変えるのに役立つでしょうと。つまり、もしあなたが非暴力という理想を抱かないなら、あなたは暴力にどう対処してよいのか分からないだろうと、そして、あなたは暴力的であろうと。あなたは考えます、理想が何らかの梃子になって暴力を駆逐する手助けになると。非暴力という理想はあなたを暴力的ではないようにしますか―暴力とは野望のことであり、支配のことです。宜しいでしょうか、私はそれをあなたに説明しています、私はそれをあなたに示しています。このことが意味するのは、話し手が誰であろうと、あなたは矛盾を理解することには関心がありません、それから自由になることに関心があるのではなく、あなたは何らかの観念に関心があるのです。
それでは、なぜ我々は理想をもつのですか? 最初に、我々は願います、何らかの理想をもつことによって、我々は事実を取り除いたり、変更したり、修正したり、変えたりできるでしょうと。私は暴力的です、そして、私は非暴力という理想を使って、私の暴力を取り除くのに役立てようとするのです。宜しいでしょうか、何が起こっているのかを見て下さい! 事実は私が暴力的であることです、そして、理想は事実では全くないことです、それは言葉にされた事実であり、何らかの観念です、そして、その観念で私は私が私の暴力を取り除けると願うのです。理想が作り出されます、なぜなら、私はその事実から逃れたいからです、そして、私は矛盾を作り出しました、一方、もし私が事実を見るなら―事実は私が暴力的であることです―私はその事実に向き合うことができます、違いますか? 私が暴力を好もうと好むまいと。そして、ほとんどの人々は暴力を愛するので、その人たちはそれを手にしたままです。そして、もしあなたがそれを好むのが事実なら、それは仕方がありません、あなたはそれを手にしていて、暴力的です、そして、平和やその他の全てを語るのです、しかし、そうすることで、あなたは他の人たちやあなた自身を欺いているのが分かります。しかし、もしあなたがそれを嫌うなら、なぜ理想をもつのですか? もしあなたがそれを嫌うなら、あなたはそれに今向き合うことができます。
宜しいでしょうか、あなたはどのように矛盾が生じるのか分かりますか? なぜ私は暴力的なのですか? 最初に、私の教育、私の社会、気候、食べ物、社会構造、社会現象、経済構造などその他の全て―それら全てが私の中で暴力意識を生み出します。そしてまた心理的に私は暴力を好みます。私は暴力的なので、私はそれから逃れるために非暴力という観念を発明して、そうすることで、それを引き延ばして、私が、徐々に、いつか良い頃合いに、非暴力になることを願うのです。しかし、もし私が理想をもたないなら―理想をもつことは成熟を欠きます―精神は事実に向き合って成熟します。成熟した精神は理想を全くもちません。それは事実に向き合って、それを処理します、従って、事実の中に矛盾が生じません。私は暴力的です、私がそれを好もうと好むまいと。もし私がそれを嫌うなら、わたしはそれを放り出します―それはとても簡単なことです。しかし、あなたはそれを放り出しません、もしあなたがいつも理想的に非暴力であることを装っているなら。
あなたは事実に向き合う必要があります、そうすると、あなたは事実を処理することができます。そして、それが我々の生の全てです。私は安全でないことを恐れます、私は死を恐れます、私は世評を恐れます―多くのことを私は恐れています。なぜ私は私の妻を恐れるのですか? なぜあなたはあなたの上司を恐れるのですか、あるいは、あなたの夫を、あるいは、あなたの隣人を。なぜなら、その人たちはあなたを傷つけるからです、その人たちはあなたから何かを奪い去るからです。私は私の妻や夫を恐れます、その人たちは私の所有物だからです。法的にも、倫理的にも、野蛮にも、私はその人たちを所有しています、そして、私は恐れます。もし私の妻が他の人に目をやるなら、私は嫉妬します、そして、その嫉妬が生じないように、私は彼女の周りに様々な倫理的な法を巡らします。そうすると、このようなことが生じます、つまり、彼女は私から去るのではないかという恐れです、彼女は私の望む性的快楽を拒むかもしれないという恐れです。
Q それは我々の中に内在している何かでしょうか?
K 何ものも内在していません、動物を除けば―動物の中には、何かが内在しています。しかし、我々は依然として動物ですので、我々の大部分は依然として動物的なので、我々は恐れます。我々は事実を扱っています。しかし、それが事実であると言うことは、それに満足することは、依然して動物的です。宜しいでしょうか、動物は争います、同様に人間も争います、しかし、人間は、依然として動物であっても、動物から二百万年進化してきていると思われています。
Q あなたは変質の道を切り開いてきました。同じような変質の例が他にありますか?
K 宜しいでしょうか、我々は他の何かを今話しています、ですから、我々は変質のことからはさしあたり離れます。
あなたは“学ぶ”ということがどういうことなのか知っているでしょうか? それはどういう意味でしょうか―学ぶということです。何かについて学ぶためには、とりわけ心理的な、相当に深くて繊細な事柄について学ぶためには、人は極めて自由でなければなりません、そして、途方もない好奇心がなければなりません、それは何かを受け入れることでもなければ、何かを否定することでもありません。そうするときのみ、あなたは学ぶことができます、そして、あなたは学ぶのです、話し手からだけではなく、あなたはあらゆることから学ぶのです。しかし、ほとんどの我々は学ぶことを欲しません、なぜなら、我々はとても沢山の知識を収集蓄積してきているからです、我々の関心の全ては我々がすでに知っていることにさらに知識を加えることです。
私は指摘しようとしています、私に耳を傾けている人たちに、学ぶことがいかに難しいのかを、いかに必要であるのかを、そして、知識を収集蓄積しないことを。私は分かりません、なぜ我々がそれほど知識を収集蓄積するのかが―それは全て書物の中にあります。なぜ書物の中のそれを書棚に置いておかないのでしょうか? なぜそれをあなたの頭脳の中に留めているのですか? あなたが何かについてシャンカラの言ったことを知りたいときは、それが書いてある書物に当たって下さい。なぜあなたはそれをあなたの頭脳の中に仕舞っておくのですか? あなたはそれを頭脳の中に仕舞っておきます、なぜなら、そのことがあなたに何らかの目覚ましい重要な感覚をもたらすからです、なぜなら、あなたはあなたが他の人よりもより多く知っていることを誰かに確信させうるからです。しかし、そのような精神は学んでいません。
人は学ぶ必要があります。生は何らかの活動です、私が指摘したように。あなたは一瞬一瞬学ぶ必要があります。そして、若い、生気に満ちた、無垢の、明瞭な、善き精神のみがいつも学んでいます、学んでいます、学んでいます、決して収集蓄積していません。それでは、宜しいでしょうか、もしあなたが学びたいのなら、あなたは知らなければなりません、コミュニケーションとは何なのか、そして、コミューニオンの状態にあるとは何なのかを。学んで、それを自分自身で発見して下さい。
そして、あなたが言葉はそれが伝えようとするその当のものではないことを知るとき、言葉は重要ではなくなります。言葉にはその重要性があります、しかし、それはこの途轍もない重要性ではありません、それは今ほとんどの人々について言える重要性です。そうすると、精神が言葉から自由になるとき、それは樹木を言葉とは無縁に見ることができます。あなたはそれをいつか試みます、そうすると、あなたは樹木の途方もない美を学ぶでしょう。そして、あなたが言葉の十分な意味と意義を学ぶと、その同じ働きが、さらに、より深く、より広くなります。つまり、精神はそうするとコミューニオンの状態になります。そして、コミューニオンの状態にある精神のみが、我々の存在のあらゆる次元で、余すことのない行為とは何かを自分自身で理解し発見することができます。
―1964年 11月22日 ヴァーラーナシー