アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ
時間の外に逆流(ぎゃくる)する丹田の今とは何でしょうか?
Achyut Patwardhan(A) あなたは言っていました、頭脳細胞自身は過去によって条件付けられていると―生物的そして歴史的過去によって―そして、あなたは言いました、頭脳細胞の構造は変化しうると。我々はそれを検討できますか? 頭脳細胞にはそれ自身の活動があるように思われます。
クリシュナムルティ(K) 私は、今朝、問おうと思っていました、専門家たちは頭脳細胞のことをこれまで語ってきたのかどうかを。
Radha Burnier(R) インドの哲学者たちは頭脳細胞に言及しません。
K なぜですか? それは、彼らが精神のことを話すとき、彼らは頭脳細胞を含めるからですか?
A 彼らは言います、精神は“もの”であると。彼らはそれ以上話しません。
K あらゆることが頭脳細胞に記録されます、あらゆる出来事、あらゆる印象が頭脳の中に刷り込まれます。人は自分自身の中に途轍もない数の印象を観察できます。あなたは問います、どのようにしてそれを乗り越えることができるのかと、どのようにして頭脳細胞を鎮めることができるのかと。
A 普通は、あなたは考えるでしょう、頭脳は知力の装置であると。
K しかし、知力は他の何かであるというよりも頭脳の装置ではないのですか?
A そうですか?
K それを検討しましょう。理性的に考えたり、比較したり、計ったり、判断したり、理解したり、検討したり、合理的に考えて行う能力は全て記憶の一部です。知力は観念を形成して、そこから行為が生じます。
A 唯物論的な見方では、思考と頭脳の関係は胆汁と肝臓の関係になります、そして、現象的な表れは非現象的な働きの結果であるとされます。伝統的な人たちが言うのは、死ぬとき頭脳の完全な停止が生じますが、頭脳が完全に停止するとき、微妙な仕方で、何らかの痕跡が残ると。
K それは思考ですか?
A 死んだ頭脳とは別に何らかの痕跡が残ると。従って、それは別の何かを作り出します。その働きから新しい何かが生じます。
K 頭脳細胞は記憶の貯蔵庫です。記憶の反応が思考です。思考が記憶から独立することはありえます。それは石を投げるようなものです、石はそれを投げる手から独立しています。その思考が具体的な形を取るというのは別の問題です。
A 私がコップ一杯の水を手にし、それをバケツの中に注いで、その水を再び取り出します。しかし、それは私が注いだ同じ水ではありません、それは私が注いだものよりももっとずっと多いのです。
K このことは非常にシンプルなことです。あなたは何を言おうとしているのでしょうか?
R 頭脳細胞とそれらの活動はそれら全ての誤った働きの究極的な源泉ではありません。
A あなたは我々に行動を促します。宜しいでしょうか、我々はいつも何らかの行動に関りがあります。あなたと議論していると、我々は分かります、何らかの活動が害悪に導かれると。このことを見て取るのが行為の始まりです。我々はそれを頭脳細胞の次元で受け入れるのか、それとも、頭脳の活動を促す痕跡の次元でそうするのかということです。
R 伝統的な表現ではこうです、私は私の手で食べます。食べ物の香りがします。私は手を洗いますが、その香りは残ります。そのように、生の経験は何らかの印象の痕跡を残します。肉体は死にますが、経験した香りは残ります、そして、それは更なる経験を求めます。
A あなたは言っています、知力自身は頭脳の活動の結果であると。しかし、知力で、私は記憶としての過去の収集蓄積が私にもたらした何らかの結果が分かります。知力がこのことを見て取るときでさえ、頭脳細胞の働きが生じます。
K あなたはこう言おうとしているのでしょうか、頭脳細胞はいつも何かを受け取っていると、それらはいつも記憶していると、寝ているときでも起きているときでも。そのように記憶することは何らかの独立した働きです。そのような独立した働きが考えたり合理的に振舞ったりする能力を作り出します。知力はそうすると思考の活動の働きを観察できます、それは思考がいかにそれ自身を作り出すのかを観察できます。そして、それは再び頭脳細胞の全構造の一部です。問題は何でしょうか?
A どのように頭脳細胞の構造は変わるのでしょうか?
K それは全く異なる問題です。頭脳細胞はいつも記憶しています。知覚したもの、デザイン、色彩―あらゆるものが記憶されています。一つの要素が途轍もなく重要になります。そして、頭脳細胞は、絶えず何らかの印象を受け取っていて、意識的にも無意識的にもそうしていて、考える能力、合理的に振舞う能力を作り出しています。そのような合理的に振舞う装置が知力です。その二つ―頭脳細胞と知力―は分離していません。
A 知力なしに、合理的な振る舞いは生じるでしょうか?
K 合理的に振舞う能力は頭脳細胞と独立していますか? それとも、頭脳の一部なので、それは正に独立しうるのでしょうか? あなたは独立して合理的に振舞えません、なぜなら、頭脳細胞と知力は因果関係の一部だからです。
知力は頭脳である記憶の背景を観察できますか? 私は信じます、科学者たちが記憶を含む様々な細胞を分離し、それらの細胞を覗いて、顕微鏡下でそれらを探究しようと試みていることを。
もし知力が頭脳の産物なら、知力はいつも記憶や知識に条件づけられているに違いありません。それは非常に遠くまで思い描くことができますが、それは依然として何らかの足かせを纏っています。知力は自由を追い求めることができます、しかし、それは決してそれを見つけることはできません。それはそれ自身の足かせを纏っての自由にしかなりえません、それはそれ自身が限界づけられています。そして、自由は知力の能力を超えた何かでなければなりません、それはその領域の外の何かでなければなりません。
それでは、この全現象に気づくのは何でしょうか―知力は決して自由になりえないこのことに気づくのは何でしょうか? それはそれが自由であると考えることはできます、そして、それは何らかの観念を思い描くことができます、しかし、それは自由ではありません、なぜなら、それは記憶の痕跡である頭脳細胞の産物だからです。知力がそれ自身の“蛸壺”から抜け出せないのに気づくのは何でしょうか? 私はあなたがその問いを理解しているのかどうか分かりません。
A 知力自身はそのことに気づけます。
K 私は知りません、私は問うています。
R 知力は断片です。
K その領域の中に自由はありません。従って、知力は言います、その領域の外に自由があるはずであると。それは依然として合理的に振舞っているので、その外側の探索は依然としてその“蛸壺”の中からです。そうすると、その全領域に気づくのは何でしょうか? それは依然として合理的な何かでしょうか?
A いいえ。
K そのような記憶があなたの言う知力という装置を作り上げてきました、それは探究する、探索する、批判する能力をもっています。知力は見て取ります、その領域の中には自由はないと、そして、自由はその外にあると。そうすると、知力は自由をそれ自身の外側に求めます、そして、それは考えます、それ自身の領域の外へ行くと。
A 仏教徒たちは言います、そのプロセスは、何らかの原因で生まれてきたそれは終了すると(即ち、それには行き詰まりがあるという気づきです)。彼らは主張します、何ものも永遠ではないことを見て取ることは、そして、転生はPudgala(エゴ)の本当の性質を知らないが故であると見て取ることは、そして、いかなる執着とも無縁にそれら全てを観察することは行き詰まりに気づくことであると。人が行うのは全て熟考することです、いかなる執着とも無縁に、何らかの原因から生じたあらゆるものは永遠ではないと熟考することです。仏陀自身は病や老年や死を一度だけ目の当たりにしました。一度それを目にして、彼は決して振り返りませんでした。クリシュナムルティ少年もまた決して振り返りませんでした。仏陀は言いました、あらゆるものが永遠ではないことを見て取りなさい、そう見て取るとき何の努力も要りませんと。クリシュナムルティはただ言います、御覧なさいと。
K そうすると質問は何でしょうか? どのようにしてそれらの記録する装置がそれら自身の能力やそれら自身の活動と共に切り替わって、異なる次元に、たとえ短期間にでも、入っていくのでしょうか? あなたはウパニシャッドに戻れません。その中には何らかの権威があります。
A 我々は理解します、知力が何を行おうと、それはその領域の中であると知力は分かると。それからどうなりますか?
K 宜しいでしょうか、行き詰った人はそう言って、そこで終了します。しかし、別の行き詰った人は言います、私はもっと何かを手にしなければならないと、そうすると、アートマンが這い入ってきます。
A 仏教徒たちは言いました、霊魂は存在しません、腐敗するものは終了します、それは消滅しますと、執着しないで下さい、それがあなたのできる全てですと。その立場は空に、あるいは、空性sunyataに通じます。
R ベーダーンタ哲学者たちも同じことを言いました。
A 彼らは彼らの合理性の全てを内に組み込んだマーヤー(幻影)を発明しました。
K その二つを区別するものは存在しません。知力自身は言います、自分の活動はその領域の中ですと。何か他の活動がありますか? それは言いません、あるともないとも。それは合理的に言えません、なぜなら、もしそれがあると言うなら、それは同じ領域へ戻っています―肯定するとか否定するとかの領域です。
そうすると、問題はこうです、この活動の他に何らかの活動があるのか、ということです―というのは、もしないなら、自由は存在しないからです。何らかの中心から機能するもの、それ自身の“蛸壺”から―それがいかに大きかろうと―機能するものは決して自由ではありません。
(間ができる)
自由とは何でしょうか?
A 他の活動があるのかどうかを問うているのが知力なら、私はそれが存在するのかどうか知りません。
K 私はこの“蛸壺”が牢獄であることを知っています、そして、私は自由が何であるのか知りません。
A あなたは一つの結論を取り除きました、即ち、全てはマーヤー(幻影)であるという結論です。伝統はそれを一つの結論にしてきました。
K 私の問いかけはこうです、自由という何かが一体あるのか、ということです。伝統は言うでしょう、はい、moksa(解脱)がありますと。それは全てとても未熟なことです。
A この問いに向き合うとき、私はそのことを扱ういかなる手立ても今完全に持ち合わせていません。
K いいえ、あなたは合理的に振舞う方法を手にしています、それが知力です。私は問うています、この問いかけに何らかの正当性があるのかどうかを。もしその領域の中に自由が全くないなら、自由とは何でしょうか?
A 知力は決して知りえません。
K それは知りえないと言わないで下さい。知力はその領域内の自由を知りえるだけです、牢獄内の自由を知る人のように。そうすると、それは問います、自由とは何かと。もしこれが自由でないなら、それは何なのですかと。そのようなものが本当にあるのですかと。そして、もしそのようなものがないなら、これを最大限利用しましょうと。人は決して自由になりえないので、牢獄の内装をもっと完全なものにしましょう―もっとトイレを、もっとハンガーを、もっと部屋を完全なものにしましょうと。
しかし、知力は自由が全くありえないという可能性を拒絶します、なぜなら、それはこの牢獄には出口がないことを想像できないからです。狡猾な頭脳はマーヤーやアートマンやブラフマンを発明します。
宜しいでしょうか、私は自分自身に問うています、もし自由が全くないなら、精神は永久にこの領域の中を生きるように運命づけられているのかと。それら全ての要点は何でしょうか? 共産主義者たちや唯物論者たちは言います、あなたは抜け出せないと。
―(間ができる)―
私は分かりました、私は頭脳細胞が変わるのかどうかには関心がありません。私は見て取ります、この自由についての関心、何らかの方式ではない自由、何らかの結論ではない自由、このような関心は自由ではないと。宜しいでしょうか?
そうすると、精神は言います、もしこれが自由ではないなら、自由とは何でしょうかと。再び、それは言います、私は知りませんと。しかし、それは見て取ります、その知らないという中に知ることになる期待があると。私がこう言うとき、私は自由が何かは知らないと、そうすると、明らかにするために待機して期待する何かが生まれます。精神は、それは知らないと本当にそのように振舞っているのではなく、それは何かが起こるのを待っています。私はそれを見て取って、私はそのことを捨て去ります。
―(間ができる)―
そのように、私は本当に知りません、私は待機していません、私は答えが外側から働きかける何かによってもたらされることを期待していません。私は何一つ期待していません。そこです。そこに手がかりがあります。私はここに自由がないのを知っています。改革があります、しかし、それは自由ではありません。改革は決して自由をもたらすことができません。
...
首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
...
人は人が決して自由になりえないという考えに抵抗します、人がこの世界を生きるように運命づけられているという考えに抵抗します。抵抗するのは知力ではなく、全細胞組織であり、全知覚です。違いますか? 従って、人は言います、これが自由でないなら、私は本当に自由が何なのか知りませんと。私は本当に知りません。
その知らないということが自由です、知っているというのは牢獄です。これは論理的に正しいことです。私は明日何が起こるのか知りません。私は従って過去から自由です、その蛸壺から自由です。その蛸壺の知識は牢獄です、その蛸壺の知識の欠如もまた牢獄です。そのように、知らないという状態を生きる精神は自由な精神です。
伝統的な人たちが執着するなと言うとき、その人たちは間違っていました。宜しいでしょうか、その人たちはあらゆる関係性を否定しました、その人たちは関係性の問題を解決できませんでした、従って、その人たちはあらゆる関係性を断ち切って孤立しました。この蛸壺の知識の中を生きるのは牢獄です、そして、その牢獄を知らないこともまた自由ではありません。そのように、既知の中を生きる精神はいつも牢獄の中です。それが全てです。精神は言えますか、私は知らないと。それは昨日が消滅していることを意味します。というのは、継続する知識が正に牢獄だからです。
A そのことを追究するには容赦しない何かを要します。
K “容赦しない”という言葉を使わないで下さい。反対です、それは途轍もない繊細さを要します。私がこう言うとき、私は知りません、私は本当に知りません。それで終わりです。それの意味することを見て取って下さい。それは本当の謙虚な感覚、厳格な感覚を意味します。そうすると、昨日は消滅しています。過去を消滅させた人が本当に再び始動します。その人は従って厳格でいる必要があります。私は本当に知りません―それは何と驚くべきことでしょうか。私は私が明日死ぬかどうか知りません、従って、いかなる結論も持ち合わせていません、いついかなるときにも持ち合わせていません、それはいかなる重荷も決して背負わないことを意味します。重荷とは既知のことです。
A 人はそこに至って、そこに留まることができますか?
K あなたはどこにも留まる必要はありません。
A 精神には戻る方法があります、言葉があなたをある地点まで導くだけです。
K ゆっくり行きましょう。そのように言わないで下さい。あなたは超俗を語る人を目にします、そして、あなたはアートマンを語る人を目にします。私がやって来て言います、宜しいでしょうか、両方とも誤りですと。この蛸壺の中には自由はありません。そうすると、あなたは問います、自由というものはないのですかと。私は言います、私は本当に知りませんと。それは私が過去を忘れ去ったことを意味しません。私は知りませんという中には、いかなる過去も含まれません、過去の放棄や過去の利用などです。それは全てこう言います、過去の中には自由は存在しないと、過去は知識であると、過去は収集蓄積であると、過去は知力であると―それら全ての中に自由は存在しません。人がこう言うとき、その問いについて、つまり、自由は全くないのですか、という問いについて、私は本当に知りません―その人は既知から自由です。
R しかし、頭脳細胞の構造は残ります。
K それらは途方もなく柔軟になります。柔軟なので、それらは何らかを拒絶もすれば受容もします、そこには何らかの働きが生じます。
A 我々は活動を決して拒絶できません。通常の活動は継続するはずです。
K あなたは問うているのですか、知らない人にどのような活動が存在するのかと。知っている人は知識から行動します、従って、その人の行動は既知の領域の牢獄内のそれです。その人はその牢獄の未来図を描きます。宜しいでしょうか、知らないという他方の人にとっての行動とは何でしょうか? その人は問うことさえしません、なぜなら、その人は行動しているからです。その人は昼食をとるでしょう、その人は夕方散歩するでしょう―それを除くと、他の全ての行動はそのような人にとっては余すことなく活動の非在です。
あなたは何かを見逃しています、それは、明日があるのかどうかを知らないことです。宜しいでしょうか、何らかの活動家は何かに献身的です、その人は何かに関わっています、従って、その人の行動はいつも何らかの害をもたらします。既知の領域の中の何らかの関係性にまつわる行動は執着−超然や支配−服従の関係です。そして、生は関係性です。専門家たちは関係性について語ってきましたか?
R いいえ。
K その人たちにとって関係性は執着を意味しました、そして、従って、その人たちは言いました、超然としていなさいと。それが恐らくインドの超脱信仰が精神を反復的で愚かにしてきた理由かもしれません。しかし、人はこの世界を生きなければなりません。ヒマラヤ山中においてさえ、私には食べ物が必要です、人々がそれを私に運んでくれます、そこには何らかの関係性が存在します。
A 最初の説法で仏陀は言いました、執着も超脱も下劣であると。その二つは俗世間から離脱するヒンズー的観念を代表しました。
K なぜその人たちは関係性を考慮しなかったのですか? 托鉢僧は俗世間を離れても、彼は関係性を絶つことはできません。彼は女性と交わらないかもしれませんが、彼は関係性を絶つことはできません。私は自分自身に問うています、もし私が関係性を否定すると、私の行動は意味を失いはしないかと。関係性が欠落した行動とは何でしょうか? それは機械的な何かですか?
A 行動は何らかの関係性です。
K 関係性は第一義的なものです。そうでないなら、何が存在しますか? もし私の父が私の母と交わっていなければ、私は存在しないでしょう。そのように、関係性は生の基本的な働きです。しかし、知識の領域の中の関係性は命取りであり、破壊的であり、腐敗です。それが世俗性です。
それでは、行動とは何でしょうか? 我々は行動を関係性から切り離してきました、社会的活動、政治的活動などですが、我々はこの関係性の問題を解決してきていません。我々はそれを退けています、なぜなら、それを議論するのは危険すぎるからです。もし私が私の妻と私の関係性を議論するなら、数え切れない様々なことが起こるかもしれません。そのように、私はそれを議論したくありません。私はひたすら言います、私は超然としていなければならないと。
もし我々があらゆる生は関係性であると受け入れるなら、行動とは何でしょうか? 技術の機械的な働きがあります、機械的な行動は関係性を機械装置の運転に貶めます。そして、それが我々の愛を否定してきた理由です。
A 我々は我々の自然との関係性を検討できますか?
K 私の自然との関係性とは何でしょうか―鳥たちや空や樹木や花々や水流との関係性です。それが私の生です。我々は我々のあらゆるものとの関係性を議論しています、単に男性と女性との関係性ではありません。それら全てが生の一部です。私はあらゆるものとの関係性を話しています。
私は言葉に縛られますが、水流には縛られません。宜しいでしょうか、我々はあらゆることを見誤っています、なぜなら、我々は言葉と“もの”を混同しているからです。
A それは気づく感受性を新たにすることですか?
K いいえ。問題は、関係性とは何かということです。あらゆるものと関係するとはどういうことでしょうか? 関係性は気を遣うことを意味します、気を遣うことは気を付けることを意味します、気を付けることは愛を意味します。それが関係性のあらゆるものの基礎である理由です。もしあなたがそれを見誤ると、あなたはあらゆるものを見誤ります。はい、宜しいでしょうか、ここは牢獄です。知ることは牢獄です、そして、既知の中を生きることもまた蛸壺の牢獄です。
―『Tradition and Revolution』