歴史の中の中島晴美 
―素材相対主義の克服と工芸的造形の進展の中で―

金子賢治(東京国立近代美術館主任研究官)


1.スタジオ・クラフトと工芸的造形
 実用・量産の工芸制作の素材・技術・プロセスを用いて個人作家としての近代芸術を生み出そうとする新しい芸術の分野は、期せずして日本とイギリスでほとんど同時に起こった。1920年代、それもイギリスで学んだ富本憲吉、日本で富本と共に陶芸の手解きを受けたバーナード・リーチによって始められた新しい陶芸制作の試みがそれであった。
 最近欧米ではこれを、スタジオ・ポタリー、スタジオ・グラスなどの概念を経てそれらを取り込む形で総称的にスタジオ・クラフト(註1)と呼ぶようになったが、わが国の場合は工芸的造形と呼んでおきたい。
 この両者には最近顕著な変化が起きている。たとえば論客としても活動するイギリスの代表的陶芸家、アリソン・ブリトンは、「自己表現は純粋美術、実用品は工業デザイン」となってきた歴史の中で、「何故我々は未だに工芸を保持しているのであろうか」と自問し、他の分野の芸術と違う工芸の特質(つまりは「保持」していることの理由になるのだが)に「素材の制約の娯しみ」ということを「とりあえず上げておく」と述べている(註2)
 スタジオ・クラフト発祥より70年近くの年月を経てこの程度の認識である。結局これは、スタジオ・クラフトが、「純粋美術・応用美術・クラフト(スタジオ・クラフト)」という西洋近代美術概念の一構成部分としてのものである以上、ある意味では必然のものであった。
 つまりスタジオ・クラフトは近代美術作家性を持つものである以上、限りなく純粋美術化していくものであった。しかしそのことと「素材・技術・プロセスを用いる」事がどういう経過を辿っていくかということは、例えばスタジオ・グラス活動(註3)に典型的に現れている。
 1962年を起点とするこの活動は、ガラスが最もガラスらしく輝くことと「絵画的・彫刻的・建築的」(=純粋美術)課題をこなすことの二つを目標にして開始された。そして結局、両者は統合されることはなく、あげくの果てに「ガラスは純粋美術の素材として極めて不適切なものである」として、最近、「スタジオ・グラスの終焉」、スタジオ・グラス以前への回帰(註4)(器、工業デザインとしての実用品制作)という一種の敗北主義が唱えられるに至っている。


2.素材相対主義(註5)
 これは素材を限定して器物を作り出す世界(クラフト)と、素材を限定せず形と質感のみが先行する造形(純粋美術)の区別がつかないことから起こる必然である。クラフトの素材観で純粋美術をやろうとするからである。造形思考の根底に西洋近代美術概念を置くことの限界である。
 言い換えれば、素材を限定しない現代美術(純粋美術)と手法として「素材・技術・プロセスを用いる」こと、また「素材」を用いることと「素材のプロセス」を用いる(通す)こと、そういう根本的な区別できない(素材相対主義)ことによる。
 例えば陶芸で、土という素材に限定しておいて純粋美術としての立体制作など、いかなる意味においてもできるわけがない。だから「純粋美術の素材として極めて不適切なもの」とされ、それでもなお「工芸を保持しよう」とする器物制作という従来からのクラフトに回帰せざるを得ない。そこで工業デザインとしての器と違う、近代芸術作家としての制作の独自性を求めようとすると、「素材の制約の娯しみ」程度の袋小路のような領域しか見出すことができなくなるという構造である。


3.工芸的造形の新動向
 一方、わが工芸的造形はどうか? 藤本能道らの擬似「前衛」陶芸に淵源する素材相対主義が次第に力を持ちはじめ、特に80年代後半大きくなり、作品の巨大化、インスタレーション化、いわゆる超少女現象をもたらした。
 こうした制作が何か新しいものをもたらすと言う造形思考は、スタジオ・クラフトを純粋美術化させようという、要するに西洋近代美術概念に基礎をおいたものと全く同じであり、その行き着く先は火を見るよりも明らかであった。全く意味のないところで作品は分割され連結されなければならず、そのことによる作品の視覚的不様さは空前のものであり(絶後とは言い切れない)、とうてい見るものをして納得させるものとはなりえないのである。
 要するに素材相対主義は欧米、日本を含めた半国際的な現象であったといえる。しかし日本では他方で、それとは別に「素材・技術・プロセス」を通して自己表現をする、純粋美術のようでもあり工芸のようでもあり、そのどちらでもない、「新しい造形の倫理」を実践する系列が確固たる流れを形成してきた。
 走泥社の制作を淵源とするこの造形論理は、西洋近代美術概念には納まらない、工芸の本性であった「素材・技術・プロセス」を通して純粋美術の根幹である自己表現を遂行するというものである。(註6)
 これは袋小路のスタジオ・クラフトとは対照的であり、今その論理的整理・整頓と実践的飛躍が強く求められている。90年代に入って素材相対主義に陥った不様な作品が少なくなり、落ち着いてきたことは確かであるが、今、論理的・実践的努力をしておかないと、またぞろ素材相対主義の亡霊が現れ、何時か来た道を繰り返し、袋小路へ閉じ込められかねないのである。


4.70年代の中島晴美
 中島晴美のこれまでの制作の軌跡は、こうした世界現代美術・工芸の展開と日本の工芸的造形の進展の典型的な例の一つである。
 中島の原点は走泥社にある。その陶の立体造形は彼に大きな刺激を与えた。70年代前半のことで、ちょうどこの頃は、八木一夫が黒陶の作風を確立し、その第二期とでも言うべき「環境の表裏」や「本」シリーズなどを発表している頃であり、熊倉順吉が「僧」や「僧の座」など、圧倒的な迫力を迫った塊量的作風を確立した頃であった。
 わずかな期間、器物作りを行った後、いきなり立体陶芸制作へ突き進んだ感のある中島は、当初、いくつかの柔らかく変形した球体を縦に重ねた「作品(→写真)」(73年)写真に見るように、走泥社風の作品を発表している。
 当時、走泥社の作家達が成し遂げつつあったのは、土にこだわることから発して、陶芸の伝統的秩序(土の構築―乾燥―施釉―焼成)を自己の芸術的方法として再認識し、「新しい造形の論理」として確立していくということであった。
 しかし、中島が走泥社を通じて感じ取ったのは、「用」の否定、陶器の立体造形化・現代美術化であった。つまり走泥社の作家達が作り出した作品の外形への関心であり、その内部で行われた、例えば陶芸の伝統的秩序との衝突のようなことは視野に入っていない。いわば限りなく外形の模倣に近い創造といえようか。


5.複合過程の模倣
 なぜ模倣に限りなく近いか?
 曲面と平面、堅いものと柔らかいもの、二次元と三次元、ピラミッドと茶室、物質と精神などなど。この時期彼が追及したテーマである。前記の「作品」(73年)も「曲面と平面・直線」という異質なものの出会いということで、その一連のテーマの一つであったという。
 これらは徹頭徹尾、素材を限定しない。テーマさえ実現できればなんでもいいのである。しかしその後で、これらが「土から陶へ」のプロセスに、あるいは「土から陶へ」のプロセスが主要部分を形成する造形に半恒常的に変換されねばならないとすると、そこには、意識するしかないにかかわらず、人間の認識過程おける二重の複合的過程が生じてくる。
 実際には一瞬のことであるが、図式的に言うと、素材を限定しない一旦意識内に出来上がったイメージを、陶のイメージに再変換しなければならないのである。ここでは「陶」であればいいので、「土から陶へ」である必要はない。と言うよりそうゆう意識の過程は経ない、あるいは経ることができないと言ったらいいだろうか。いきなりイメージ通りの陶の形ができれば事足りるからである。むしろ、形にはめ込んでいく過程で「陶から土へ」のプロセスはずたずたに分断される。
 これは模倣である。しかも具体的な物をこれからこれへ模倣するというのではない。いわば「美術」ということを模倣しているのである。厳密に言うと西洋近代美術概念による純粋美術を模倣しているのである。あるいは19世紀後半に西洋近代美術概念が出来上がってきて以来の、またそれを視覚的造形芸術の普遍的概念としての教育の場で学び続けてきた近代日本の文化を模倣しているといえる。
 だからここからの脱出口は「素材、素材」と言い立てるだけでは全く無意味である。なぜなら素材は限定しない、何でもいいといっているからである。また「素材の見直し」ということもその枠を超えるものではなく、いくらでも積み重ねられていく。素材の新しい表情も何もない。それがどんなものであろうと、「限定されない素材」の中に無限に取り込まれていく。


6.80年代の中島晴美
 中島は、「異質なものとの出会い」というテーマが無限に続いていったとき、

こうなると、私がやきものをはじめた原点から、逸脱してしまいます。私の原点は、あの手の中でグニュッとする土の魅力であり、やきもの独自の質感であったはずだ」(註7)

と思ったという。
 ここで中島は、素材を限定しない現代美術(純粋美術)から比べるとよほど土という素材を回復してきている。80年代の「N氏はメンデルを引用して答えた」、84年の「うふふ」(→写真)、86年の「コスモスの羽を持つ鳥」などから、89年の「風吹くままにそれぞれの旅立ち」に至る一連の作品は、原点に戻った中島が様々に土とのつながりを模索した里程標である。
 特に「コスモスの・・・」シリーズは、ピンク・水玉・突起など、これ以降今日までの中島の作家としてのイメージを決定した重要な作品群である。同時に、こうした様式的特質のみでなく、この焼物としては極めて特殊なフォルムから見て取れる、「土から陶へ」のプロセスに対する並々ならぬ対決の姿勢、統御力を見逃してはならないだろう。後にそれは大きな力を中島に与えるのである。
 しかしまたこれから一連の作品で回復された「素材」は、「素材」と「素材のプロセス」が区別された上での「素材」ではなかった。素材は「見直された」が、「限定されない素材」の中に無限に取り込まれる危険に満ちみちたものであったことも事実である。
 中島の原点たる焼物としての質感、技術、「土から陶へ」のプロセスの統制。こうした点での飛躍的な親展は見られたが、それはまた複合過程の模倣の新形式でもあった。言い換えれば、「土」をあるいは「土から陶へ」を、あるいは「陶」を現代美術(純粋美術)の単なる一造形素材として限りなく相対化する(素材相対主義)過程でもあった。
 それは「風吹くまま・・・」シリーズでも現れている。この作品群は「焼物である意味」を改めて問い始めていた中島が、

「やきものは、例え口が塞がっていても中が空(うつろ)である。走泥社の作家たちが轆轤成形の器の口を塞いでオブジェにしたという、私には伝説的な出来事があるんですが、では私は、そのオブジェの口を開けてみようと思ったのです。」(註7)

という意図を持って、前記のピンク・水玉・突起などを踏襲して制作された口を開いた鞄型のものである。
 走泥社の作家達の「壷の口を塞ぐ」は轆轤上の「土から陶へ」のプロセスを意図的に分断して、そこに立ち現れてくる焼物の新しい表情・意味を観察しようとするものであった。中島の鞄の口はそうゆうものではない。ただ口の開いた形を作ったにすぎない。
 しかしこの鞄の重要なことは、具体的なフォルムを取ることによってかえって複合過程の模倣を回避していることである。つまり意識内イメージと陶のイメージが限りなく親和しようとしている。「原点」に立ち戻ってからの中島が踏み締めてきた里程標は、この一点に絞って突き進んできたものであると言っても過言ではない。


7.「苦闘する形態」の誕生
 中島の原点の原点、走泥社の作家たちへの改めてのオマージュが実を結びつつあったのである。だからこの鞄シリーズに終止符を打つ弁は明快である。

「 1989年より、内なる自己をテーマに、鞄シリーズを制作してきた。それは自己の内側にあるロマンティックなものへの執着だけであった様な気がする。
生きていることも生きることも、もっとリアルに、もっと真実に迫りきらなければ救われなくなってきた。そんな自問の末、このシリーズに終止符を打つこととした。
今、私は土そのものに自分を見い出し、人間の苦闘する内面を表現したい。そしてそれを私の存在証明としたい。」(註8)
 
 こうして最近の「苦闘する形態」シリーズが誕生するのである。このシリーズの制作手法、工程は、これまでの複合過程の模倣、あるいは鞄シリーズのそれとも全く違ってきている。
 まず、大抵の場合長さ20cmほどの円筒を作る。その円筒の一部を円形に切り抜きそこから半球体を立ち上げていく。半球体は様々な大きさをとり、その数も様々である。だがいずれにしても、円筒は何度も切り抜かれ、ほとんど原型を止めない。
 そしてその切り抜かれた円形の任意の一つから、突如、別の新しい円筒が立ち上がっていく。そしてまた円形切抜き→半球対→円筒と、繰り返していくのである。
 円筒と半球体。この、一見、形も役割も全く違う二つの要素は、その実、一貫・連続した制作工程を構成している。
 これらはすべて手捻(輪積み)で制作される。その際、初めにスケッチがあって、それに無理やり土を押し込むのではなく、その反対に、少しずつ土地を積んでいき、その過程で一つ一つイメージが変化し膨らんでいくという方法をとっている。その時々の気分・感情と土の手触りが相互浸透し合い、土の構築のプロセスに刻々と乗り移っていくのである。
 だからその時々で、同じ円筒とはいっても、歪んだり曲がったり、微妙に形態が移ろっていく。その意味では半球体も同じなのである。「一貫・連続」とはこのことである。
 それは「別の円筒」がどこから発生するかということにも貫かれる。立ち上がっていくのは半球体か円筒か、それもその時々の判断による。「突如」とはこのことである。
 そうした過程の中で、従来の制作のようなエスキースは用いず、例えば「悶えるようにウニウニとねじれながら登っていく感じ」とか、「地をヌタヌタと這いつくばっていく感じ」というふうに、意識の中の全くの抽象的イメージを手に伝え、土の形に置き換えていくのである。
 ここでは、「素材」が「素材・技術・プロセス」の一貫した中で捉え直されている。「素材」と「素材のプロセス」が区別され、「素材・技術・プロセス」を通して彼のいう「人間の苦闘する内面」が形にまで高められていくのである。
 だからそれはあたかも苦闘しているようなフォルムに土をはめ込んで行くのとは全く違う造形論が打ち立てられている。「土そのものに自分を見出し」といっているように、苦闘が土の構築のプロセスに何の媒介物もなくそのまま伝えられていき、形になっていくのである。
 ここには前記の「新しい造形の論理」が、その言葉の完璧な意味で実現されている。それは、素材相対主義の中での文字通り長い苦闘を通じて獲得されたものであり、国際的な工芸的造形の進展をリードする新しい動向の一つであることは確実である。



1. 金子『「スタジオ・クラフト」と戦後日本の工芸』(「グラス・アンド・アート」11、1995年11月)参照
2. Alison Britton,"Craft:Sustaining Alternatives" in Martina Margetts(ed.
), International Crafts,London:Thames and Hudson,1991
3. 金子「現代日本ガラス芸術論―スタジオ・グラス三十年」(「グラス・アンド・アート」10、1995年8月)参照
4. 例えば、ヘルムート・リケ「危機の時代のガラス芸術」(「第5世界現代ガラス展」カタログ、1994年、北海道立近代美術館)
5. 素材相対主義については、金子「スタジオ・クラフトを介してアバカノヴィチから橋本真之へ―素材相対主義の系譜と克服―」(「東京国立近代美術館研究紀要」5、1996年)参照
6. 以上、藤本能道、走泥社については金子「越境物語(または正統の陶芸)1」(「工芸現想」創刊号)参照
7. 中島晴美「“やきものであること”を考える 大阪芸術大学特別講演より」(「炎芸術」41、1995年1月)→読む
8. 「陶 Vol.74 東海編」、1993年、京都書院