炎芸術NO.41
“やきものであることを”考える
大阪芸術大学特別講演より

中島晴美


 私は美濃焼の中心地・多治見市から車で30分ほど離れた恵那市で、作陶をしています。主に陶による立体造形を制作しています。
 作家が話をしますと、とかく自分の作品の話題が中心になり、コマーシャルになりがちですが、今日は母校ですので少し我慢をしていただいて、私が作品制作をしてきた過程の中で考えたことを、スライドを交えてお話したいと思います。
 私は1969年に、ここ大阪芸術大学のデザイン科に入学しました。二年生から陶芸を専攻したのですが、ちょうどその時期、70年代といえば、やきものの世界には大きな盛り上がりがあった時代です。50年代から陶芸の新しい道を開拓してきた走泥社の作家たちはもちろん、走泥社に属さない、たとえば柳原睦夫、中村錦平、鯉江良二といった先生方がガンガンと自分の世界を押し広げ、個性的な仕事を展開していた時代です。
 そんな時代背景の中で、私も「オブジェでっせ!」となった次第です。田舎の子は、すぐに感染するんです(笑)





 はじめは曲面のフォルムに赤土の焼締めや、灰を掛けたりすることに関心をもって制作していましたが、そのうちに造形的な緊張感がほしくなり、曲面のフォルムに平面や直線を入れたりしました(→図)。 異質なものの出会いというヤツです。これが結構おもしろくて、どんどんやったわけです。しかし、どんどんやっていくうちに、造形的なことばかりが気になって、つい、焼き物を忘れてしまったようです。
 曲面と平面、堅いものものと柔らかいもの、二次元と三次元、ピラミッドと茶室、物質と精神・・・・・とエスカレートしていきました。そして現代アートでなくちゃ格好良くないジャンと、いわば暗示のようなものにかかってしまい、アートの粉末を土にパッパッと振りかけて、はい!一丁出来上がりとなったのです。
 こうなると、私がやきものをはじめた原点から、逸脱してしまいます。私の原点は、あの手の中でグニュッとする土の魅力であり、やきもの独特の質感であったはずだと、そう思ったのです。私の原点は理屈ではなく、やきものをやろう、オブジェがやりたい、と思ったそのことだけなのです。
 で、コンセプチュアル・アートは止めにして、まあ、とりあえず学生時代の課題で作った卵でもやるか、となったわけです。
 型起しで作った卵形に、円筒を何本もくっつけたんですが、これがなにか植物の発芽のように見えるんで、この『発芽シリーズ』を何作か制作して発表しました。私のいつものパターンで、ここでもエスカレートしてしまうんですが、発芽なら種、種なら空豆と進んで、これに円筒にくっつけたんです。ところがこの空豆というやつが曲者で、よくよく眺めてみるとこれがえらくエロチックに見えてくるんです。見えてくるというより、ある一部分がえらくエロチックなんです。今度、是非じっくりと観察してみて下さい。ものすごくエロチックなんやから。もっとも私の友人にいわせれば、「そんなもん、見る人間の品格の問題や、お前にかかりゃ電信柱でも、ポリバケツでもみんなエロチックにならぁ」となりますが。でもやっぱり、品格があってもエロチックです(笑)。
 いよいよここから顰蹙の時代に入るわけですが(笑)、要するに空豆のエロチックな分部にピンクの化粧をして、そこだけ強調して他の部分を変化させたり(→図)、異質なものの出合の続きで、円筒をくっつけたりしていたのです。この仕事も結構長くやったんですが、そのうちだんだん作品が大型化してきて、部品をくっつけることが作業上、難しくなってきたんです。
 で、くっつけた形をあらかじめ想定し、手捻りで捻り出して、形を作りました。そしてここで、ささやかな発見をしたんです。まぁ、私にとっては大きな発見だったんですが、要するに、捻り出すとくっついた感じではなく、生えてくる感じがするんです。くっつくことと、生えてくることは違うんだと気付いたんです。本体がもともと内包しているものか、または本体そのものが形を変えたり、質を変えたりして外へ突き出てくる感じなんです。
 それでいろんな形態を生やしたんですが、最後はピンクの大きな棗の作品(→図)となって、この仕事を何年か続けました。 この間、加飾として化粧の掛け分けとか、上絵とか、イングレーズとか色々なことをやってみましたが、基本的には大きな空豆が、大きく変化してその中から棗が突き出てくる、生えてくるという仕事です。
 1987年にギャラリーマロニエ(京都)でこのピンクの作品で個展を開いたんですが、その時、深見陶治さん(陶芸家)がみえて「中島君、なんかイライラすんねん」と、棗の先っぽを指で撫でながらいわれたんです。 要するにもっとピィーンとやらなきゃってことなんですが、これは完成度に対する目的意識と、作家の資質の問題で、深見さんは作品の完成度に対して、かなり厳しい姿勢をもっていて、まだダメ、まだまだ、となかなか鉋を置かないんだと思うんです。 それに引き換え私は、詰めが甘めですぐ「完成!」と鉋を置いてしまうんです(笑)。この助言には結構堪えていて、いつも制作の最終段階で呪文のように、まだ、まだまだと唱えてしまいます。
 ピィーンとするために、石膏で原形を作って手起しで棗を作ってみました。こうなると棗は、どこにでも生やすことができます。
 ピンクのちょっとエロチックな、土でやる必要があるのかなっ、という作品を作っていながらも、いつも“やきのもでやる意味”ということが心にひっかかっていたのですが、ちょうどこの頃、私達の周りにも理論的にそのあたりに対する問題提議がなされていて、そんな空気にも影響を受けて、私なりに考えてみたわけです。
 やきものは、たとえ口が塞がっていても中が空ろである。走泥社の作家達が轆轤成形の器の口を塞いでオフジェにしたという、私たちにとっては伝説的な出来事があるんですが、では私はそのオブジェの口を開けてみよう、すこし器にもたれてみようと思ったのです。迷いながらも土に拘ってきた理由が、確認できるかもしれないと思ったからです。
 先ほども話したように、棘を石膏型で作ると、口を開けた造形物の内側にも棘を生やすことができるのです。そんな訳で少し理屈っぽくなりましたが、まず器物の内側に棘の生えた作品を制作しました。次に、その頃たまたまヘミングウェイの『日はまた昇る』という小説を読んでいて、この小説のイメージから、棘の器に取っ手をつけて『風吹くままにそれぞれの旅立ち』(→図)という鞄の作品を発表しました。 この『鞄シリーズ』は、私にしては珍しく面白いという声もあったりしたのですが、これは5点作って止めにしました。今まで何度も繰り返してきた迷い道に、また入り込むのじゃないかと思えたからです。
 具体的な鞄のようなモチーフで制作を進めていくと、次は長くして、次はひっくり返して・・・・と進んでいきます。 信楽の上田健次さん(陶芸家)が「作品を切り刻みだしたら、そろそろ、そのシリーズも終わりやで」と忠告してくれましたが、最後は切り刻みそうなので、きっぱりと止めました。土でやる必然がないように思えたからです。
 『今、私は自己の内側にあるロマンティックなものへの執着に区切りをつけ、土そのものに自分を見い出し、人間の苦闘する内面を表現したい。そしてそれを私自身の存在証明としたい』と青っぽい宣言を私自身にしたのですが、つまりそれは、私はやきもののフィールドで制作したいと思ったということです。
 今までの私の制作方法は、まずエスキースを作って、それを基に作り出すことが多かったし、また、そのエスキースに囚われて、それにはめ込もうとする意識が強かったように思います。土は生きていて、制作の過程でいろんな表情を見せるし、乾燥の過程では形が変化します。焼成すれば縮むし、へたりもします。 自分の意図する形へと抑え込もうとすること、土を征服しようとすることばかりを考えていたような気がするのです。たまには土に身を任せ、土の生理に沿って制作したいと思っているわけです。今までのように、コンパスで計れる線、定規で計算できる形、そうゆうものは、何やオモロウないと思えるのです。解明できないというか言葉で説明できないような形態はないものかと思っているのです。
 今、『苦闘する形態』(→図)というシリーズを制作していますが、そんな訳でエスキースの代わりに、イメージを言葉に置き換えて制作しています。例えば「悶えるようにウニウニとねじれながら登っていく感じ」とか、「地をヌタヌタと這いつくばっていく感じ」、「ポヨンポヨンと揺れながら闇に向かってゆく感じ」というように。
 さて、どうなることか。ただこれからは、土ともう少し素直に付き合っていきたいと思っております。


(本稿は1993年10月、大阪芸術大学AVホールで行われた後援を抜粋、再構成し掲載されたものです。)