「あんた、ホントに良く食べるわねぇ」
真鍮の皿に盛られたカレーライスをがっつく(まさに“がっつく”という表現がぴっ
たりだった)洋子の姿に、愛衣は小豆金時をつついていた手を止めた。少なくとも特大
おにぎり1個を食べた後の勢いではない。それ以前に、花も恥じらう15歳の乙女(?)
の姿でも無かった。もっとも、洋子が対象では花の方も『恥じらう』前に『竦み上がる』
だろうが。
しかしながら、弱々しくもブツブツと『腹減った』の呪文を繰り返す洋子に根負けし
て、2人が海水浴客でごった返す海の家に果敢に挑んだのが30分前だった事を考えれ
ば、無理からぬ事かもしれない。
「ほらりらがらは」
「全部飲み込んでから喋りなさいよ」
先程龍之介に“躾が悪い”と言われたが、この食べっぷりは断じて自分の影響ではな
い。
「育ち盛…」
「育ち過ぎよ」
みなまで言わせず洋子のセリフを遮る。実際身長が170cm以上あるのだ。あれよ
あれよと言う間に(背丈を)追い越されてしまった愛衣としてはその辺が面白くない。
「マスターを除けば、洋子より背高いの…あきら君だっけ? 柔道やってる――彼ぐら
いでしょ」
「いや、この前綾瀬のヤツに抜かれた。171.8cmだってさ。5ミリ差で負けた」
「はん」
興味が無さそうに鼻を鳴らすが、内心は違った。並んで歩くたびに逞しくなっている
様な気がしたのは気のせいじゃ無かったらしい。何とはなしに嬉しさが込み上げてくる
が、
「男の子の方が成長が遅いって言うからね。まだ伸びるんじゃない?」
その嬉しさを押し隠すように、愛衣はプラスティック製のスプーンを崩れ掛けている
かき氷の山に突き刺した。その仕草をどう取ったのか、
「愛衣姉が怒んのも分かるけどさ、綾瀬だって色々考えてるんだから、押さえてやれよ」
洋子にはまだ愛衣の怒りが解けていない様に見えたようだ。
「色々って?」
そう思われても別段不都合は無いので先を促す。それに洋子の言った事にも少し興味
があった。何も知らない第三者からは、龍之介の『あの行動』をどんな風に取ったのか、
と言うことに。
「いや、友美が言うには、昔は相当唯に甘かったらしいんだ。でもほら、去年のアレで
兄離れが必要だと思ったんじゃないかって」
「………」
じゃあ私は妹離れの為に利用されているだけか、とはもちろん言えない。思っただけ
だ。だが、少しくらいは良いだろう。
「それは兄離れと言うより、妹離れね。……で?」
「で? …とは?」
「今のは友美の考えでしょ。洋子自身は?」
この手の噂話に近い無責任な憶測は両名の好むところでは無い。にも係わらずこの手
の話をわざわざすると言う事は、自身にそれなりの考えがあるからだ。
「綾なんかは、唯を甘やかしておくと、自分の周りに女の子が寄り付かなくなるからだ、
とか言っててさ、それって納得できそうじゃないか?」
「で?」
たった一文字で話題をはぐらかそうとした洋子の努力は無駄になった。実際の所、洋
子にも愛衣に提示する考えはある。あるのだが……
「んーー…。まあ、ちょっと突飛な考えなんだけど…」
「別に笑やしないわよ」
さすが姉代わりと言うべきか、洋子にとって第一の心配は自分の考えが愛衣に一笑さ
れる事だった。第二の問題は、
「んでもって、他の連中には私がこんな事を言ってたなんて事は黙ってて欲しいんだけ
ど…」
「黙っててほしいんだけど?」
了解の印にその部分を繰り返す。“黙っててあげるよ”という意味だ。
「まあ、私の戯れ言だと思って思ってくれて良いんだけどさ」
「思ってくれて良いんだけど?」
“思っててあげるよ”の意。それでようやく決心がついたのか、
「んと、綾瀬って私らの知らない誰かと付き合ってんじゃないかなー…なんて」
語尾を濁らせる事で断定はしなかったが、その発言は愛衣を動揺させるには十分だっ
た。どのくらい動揺したかというと、洋子が言い淀んでいる間、暇に任せてスプーンに
盛れるだけ盛った氷が半分以上崩れ落ちるという動揺ぶりだった。
一方の洋子はと言うと、一番言い難いことを言ってしまったことでタガが外れたのか、
そんな愛衣の動揺には気付かず、
「だからその相手に気を遣ってるんじゃ無いかって思ったんだけど……って笑わないっ
て言ったじゃないかよ」
後半部分の文句は、愛衣がその顔に笑みを浮かべて彼女の顔を見つめていたからだ。
「笑ってなんかいないよ」
「そうかぁ? なんか如何にも“そんな事を考えるようになったんだ”って言ってる様
に見えたぞ」
しかし洋子は唇を尖らせ不満顔だ。全く、100%そう思わなかった訳じゃないが、
「違うわよ。そんな風に考える事も出来るんだって感心したの。本気で」
というのが本心だった。そしてもう一つ。先の龍之介の行動が、(たった1人とは言
え)そんな風に見えたのであれば、自分を想っての行動と言う風にも取れる事になる。
多少は頬も弛むと言うモノだろう。
「んー…、なら良いんだけどさ」
そう言うと、洋子は皿に残ったカレーを一気にかっ込んだ。大人びた意見を述べた照
れを隠したかったのかも知れないが、それは100年の恋も醒めんばかり艶姿だ。
そんな洋子を見、
「私はさ……」
しゃくしゃくと溶けかけのかき氷に何度かスプーンを突き刺しつつ、
「龍之介は唯の事が好きだから…」
「愛衣姉…」
今度は洋子が愛衣に最後まで言わせずその言葉を遮る。愛衣が言おうとした事は、彼
女達の間である種のタブー(禁忌)だった。思っても口に出してはいけない事になって
いる暗黙の了解のようなものだ。
当然逆もまた然りだし、唯が友美でも同じ事だった。友情が恋愛より劣るとは思いた
くは無かったが、彼女たちにも自分達の関係が、絶妙に取れたバランスの上に成り立っ
ていると言う事を自覚しているのだろう。
特に綾子と洋子は……
当然そんな事は愛衣にも判っているはずだ、と洋子は思っていたのだ。
「それ言ったら、散々あの2人を侮辱した下衆な連中と同じじゃないかよ」
やはり家族に近い愛衣に、「友情」とか「恋愛」とかの単語を使うのは気恥ずかしい
のか、ややぼかした言い方で洋子は愛衣を窘めた。
「そう…だよね。……ごめん。なんかさっきから洋子に叱られてばっかだね、私…」
「いや、別に叱ってるつもりは無いんだけど…。どうしちゃったんだよ?」
普段は鋼鉄の冷静さを誇る愛衣だが、洋子はそこまで完璧なものとして彼女を見てい
ない。付き合いの長さと深さに因る経験から、結構脆いところがあるのを知っていた。
ただそれは主に妹の舞衣に絡んだ事柄なので、今の愛衣の状態は洋子にも少々不可解
なのだった。
「ね、あそこ…」
そんな洋子の思考を遮るように、不意に愛衣が海の方を指さす。その方向へ目を向け
ると、ウィンドサーフィンがその帆にいっぱいの風を受けて海面を疾駆しているのが見
えた。
「ああ。こっちは海水浴客が多くてダメみたいだけど、あっちの方は出来るんじゃない
かってマスターが言ってた」
ウィンドサーフィンにさして興味は無かったが、地上であれ海上であれ風を切る快感
は洋子にも納得出来るものだ。が、愛衣の考えは違ったようだ。
「違うわよ。もっと右」
言われたように視線を右へスライドさせる。と、ウィンドサーフィンの群からやや離
れた場所に、ちょこんと島…と言うより、岩場が顔を出していた。
「あの岩場がどうかしたのか?」
他にめぼしいモノは無いので、目に付いた岩場を話の舞台に上げると愛衣は何処か挑
発的な笑みをその顔に浮かべ、言った。
「行ってみない?」
※
その愛衣が指さした方向よりやや右方向。つまり最初に洋子が勘違いした方向では…
「ったく、ツイてないぜ」
ウィンドサーフィンのセイルを操りながら、ぼやいている男が居た。年の頃は二十歳
前後…というかまあ、普通に大学生くらいに見える。それなりに基本は理解しているよ
うなセイル捌きなのだが、そんな彼がたった1人で寂しくウィンドサーフィンに興じて
いるのには、それなりの(彼にとっては面白くない)理由があった。
飲み込みの早い人間と言うのはどこにでも居るものだが、彼もそういった類の人間で、
スキーでもスケートでも、周りの友人達が何度も何度も転びながらようやく滑る事が出
来るようになるというのに、彼は1度、多くても2度転んだだけで普通に滑る事が出来
るようになってしまうのだ。
端から見れば羨ましい能力なのだが、それで得をしたのかと言えばそうでもない。
今回も友人達とウィンドサーフィンの講習を受けに来たのだが、初めてだから当然
『初心者レッスン』を申し込む。ところが彼はたった1度教えただけで粗方のコツを掴
んでしまうので、教える側の人間(魅力的な女性だった)が『友人達に合わせて初級者
コースに紛れ込んだ経験者(初級者クラス?)ではないか?』と考えてしまったのだ。
その結果、
「適当に遊んでてて良いわよ」
という彼にとってはつれない判断が下されてしまった。
「こういう扱いは無いよなー」
面倒見切れないから干された、とは違うが結局は同じ扱いのような気がする。もう少
し要領が良ければこのような扱いを受けずに済んだかもしれないが、不幸な事にこの方
面での器用さを、彼は全くと言っていい程持ち合わせていなかった。
※
場所は戻って浜辺の一行。
午後2時。気温も陽射しもピークを示すこの時間。更に言えば朝から泳いでいると疲
れのピークもこの辺りの時間に来る。それ故、浜に上がって甲羅干しをする者や、渋滞
を嫌ってか、早々に引き上げ始める者が出始める時間帯でもある。
それを見越して、昼食時間を含めたっぷりと2時間の休憩を取った龍之介は元気いっ
ぱいだった。
「よし、あきら。ボートだ。ゴムボートを借りに行くぞ」
海水浴場での人気アイテム上位に挙げられるゴムボート。その人気に比例するように
レンタル料もバカ高い。龍之介がこの時間に目を付けたのは、2時間のレンタル時間を
逆手に取るためだった。今借りれば2時間後は4時。しかし4時から2時間借りる人間
はそう居ないだろう。多少レンタル料を弾んで超過レンタルしようという腹づもりらし
かった。
「と言うわけで、借りてきたぞ。割り増し料金無しで帰り際に返してくれれば良いそう
だ」
10分も経ずに、7〜8人は乗れそうな巨大なゴムボートを掲げて2人が帰ってきた。
ちなみに最近のゴムボートは合成繊維に劣化しにくいゴムを組み合わせた頑丈な素材で
できているそうな。
で、お約束のように貸し主のおっちゃんと壮絶な遣り取りがあったのだが、これまた
お約束で枚挙に暇(いとま)がないので割愛する。
「ずいぶんとまた巨大なボートを借りてきたわね」
その巨大さを目の当たりにして感心半分呆れ半分で呟く綾子に、何を勘違いしたのか
やや胸を張って自慢げに、
「大は小を兼ねるって言うだろ? 1人じゃ漕げないのが難点だがな」
詰まるところ、借り手が少なく持て余し気味の物だからこそ低料金で借りられたのだ
ろう。実際横幅が広すぎて推進器(漕ぎ手)が2名必要だった。俗に言う複座型(嘘)。
横に並んで座るところから、A6攻撃機『イントルーダー』を彷彿させる(意味不明)。
「というワケで頼むぞ、あきら、樹。俺は指揮を執る」
龍之介的には3座式だったようだ。例えれば『97式艦上攻撃機』か『天山』或いは
『彩雲』か(もっと意味不明)。そんな龍之介の身勝手な意見に、当然ながら異論が出
た。
「だから、俺は足が付かない所は駄目だと言っているではないか」
訴える所が微妙に違うような気がしないでもないが、推進器の1名が不調を訴える。
「ゴムボートでもダメなのかよ…」
「何とでも言え。ダメな物はダメなんだ。それより良いのか?」
とあきらが指し示す方へ龍之介が目を向けると、唯と綾子が樹を伴ってボートを海に
浮かべ、今にも漕ぎ出そうとしている所だった。
「あ、こら待てお前等。功労者たる俺を置いて行く気か!」
安く借り叩いたのが功労らしい。バタバタと砂浜を走って3人を追いかける龍之介を
見送り、あきらはやれやれと溜息を吐いた。
「来たわよ、ほら漕いで漕いで!」
自ら号令を掛け、綾子が樹と共に猛然とオールで海水を掻き始める。しかし質量があ
るので出足が鈍い。アッという間に追いついた龍之介がボートの縁に取り付かれてしま
った。
「はっはっは。この俺から逃げられるとでも思ったか」
高らかに勝利を宣言し、唯に向かって手を伸ばす。引き上げてくれという意味らしい。
偉そうなセリフを吐いた割には情け無い姿と言えよう。
「………」
だが、伸ばされた龍之介の腕に、唯は警戒感を顕わにした。普段なかなか取って貰え
ないコミュニケーションを、今ここで龍之介が取って来たのにはそれなりの理由がある
と踏んだのだろう。
「こら唯、早く手を貸さんか」
他の誰でもなく、自分を指名するあたりが益々怪しい。
「……手を貸したらそのまま海に引きずり込もう、なんて考えてないよね?」
「……」(龍)
「……」(唯)
この間(ま)が全てを物語っていた。
「お前… そんな目で俺を見ていたのか? 俺が唯にそんな非道い事をするわけ無いじ
ゃないか。くっ… 情け無くて涙が出てくるぜ」
そう言って悔しそうに顔を背け、涙を拭う仕草。嘘を誤魔化す為に派手な演出をして、
かえって嘘っぽくなるという典型だ。というか、昔この手で何度か騙された記憶が唯に
はあった。
「わかった、もうお前には頼まん。綾ちゃ〜ん」
疑心暗鬼の唯に見切りをつけ、次に助けを求めたのは綾子だった。
まさか自分にそんな事(唯が警戒したような事)はしないだろう、と思ったのだろう。
綾子はすがる龍之介に手をさしのべつつ皮肉を口にした。
「部活入ったら? この程度の距離を泳いだだけで女の子の手を借りるようじゃ情け無
いよ」
確かに十数メートルしか泳いでいないのにこの体たらくではそう言われても仕方がな
い。だが、
「いや、だってほら、女の子が同乗してると、ナンパ出来ないっしょ?」
差し伸べられた手を掴みつつ、意味不明な事を宣(のたま)う龍之介。その直後…
ぐいっ
「え…?」
という声が綾子の口から漏れたのは、彼女の視界が反転してから海へ落ちるまでの間
だった。
ざぶーん!
派手な水飛沫を上げ、綾子は水と龍之介の策に落ちた。
「ぷはっ… し、信じらんなーい!」
海面に顔を出すと同時に抗議の声を上げるが、龍之介はそれを嘲笑うかのように、
「嬉しいなぁ。綾ちゃん、今まで俺の事を信じてくれてたんだ?」
「酷すぎ…」「外道…」
ボート上で呟く前者は樹、後者は唯。そんな2人に向かって再び龍之介が手を伸ばす。
「樹、早く引き上げろ!」
ここで引き上げておかないと後々面倒だ、と樹が思ったかどうかは定かではないが、
唯の方は龍之介の乗船を何としても阻止しなければならなかった。そうしないと次に海
は叩き込まれるのは自分になる。
そう判断した彼女がとった行動は、いささか過激だった。樹の背後に回り込み、
「樹くん、ごめんね」
耳元でそう囁くと、
「えい!」
樹の背中を思いっ切り押した。全く無警戒だった樹が、その外因的ベクトルにどうし
て耐えられよう。なにしろ、同方向に働く龍之介ベクトルがあった。
「あわっ…!」
そして、一度崩れたバランスは容易には戻らず、むしろ加速する。こうなると最早な
り振り構っては居られない。彼は先ず、不要物(龍之介)を投棄した。
ばっしゃーん!「がばげべごぶ…」
誰かに悪態を吐いているようだが、聞き取れないので放置しておく。
これでバランスが回復すれば、龍之介の尊い犠牲も報われただろうが、
「はわわわ〜」
某メイドロボの様に両手を振り回して、尚もボート上に踏み止まろうとした樹の努力
も虚しく、
「ばんじー」
そんな唯の無邪気な声に送られて無様にダイブした。
こうして抵抗勢力は一掃され、ボート上に静寂が訪れた。唯の天下である。しかし彼
女の傍らには誰も居らず、その勝利は虚しいものだった。
とゆーか、最後の樹が落ちてから30秒以上も経ったのに、誰も浮かんで来ないのは
どういう事か?
「?」
少々不安になった唯が、ボートの縁に手を付いて海を覗き込むという行動に出るのは
不自然ではないだろう。
だが、その情が仇となった。
不意に海の中から伸び出た手が、彼女の左右の腕を“がっし”と掴み、と同時にボー
トの反対舷が持ち上げられる。
「きゃっ…」
戦時同盟を締結した3人の見事と言うほか無い策に嵌った唯は、足掻く間すら与えら
れず海へと引きずり込まれたのだった。
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