「ぷはあっ!」
停車したバイクから飛び降りるや、龍之介は着込んだジャケットとヘルメットを脱
ぎ捨て、近くにあったベンチにへたり込んだ。
たった1時間強でこの有様。八十八町からずっと運転してきた愛衣にしてみれば、
「なによ、情けないわね」
と言いたくなるのも当然だった。
「情けなくて結構。しかしこりゃヘタなサウナより効くわ。ダイエットに最適だな」
Tシャツの首の部分を引っ張り、手でパタパタと風を入れているがあまり効果があ
るようには見えない。
「別にダイエットを兼ねてる訳じゃないわよ」
呆れたように言い、バンドを外してヘルメットを脱ぎ去る愛衣。と同時に中に収まっ
ていた黒髪が流れ落ちる。
「………」
ただそれだけなのに、無茶苦茶色っぽかった。思わず見取れる龍之介。
「……どしたの?」
まさかそんな風に見られているとは思わなかったのだろう。愛衣が、急に呆けてし
まった龍之介の顔を覗き込んだ。
「わっ… な、なんだよ」
今度は急にアップになった愛衣の顔に、龍之介が狼狽える。
「“なんだよ”じゃないわよ。急に呆けちゃうんだから…」
ちょっと眉根を寄せ、龍之介の隣りに腰を下ろす。木陰になっている上に風が出て
来たお陰で思いの外涼しい。
「どのくらい稼いだと思う?」
汗が引く暫くの間を置いて、愛衣が切り出す。
「俺達が渋滞抜けるのに掛かった時間が15分程度だろ? で、此処まで1時間弱。
連中が渋滞抜けるのに掛かる時間をそのまま稼いだ事になるんじゃないか?」
例えバイクでも、渋滞を抜けるのは容易では無い。終始全開でとばせる訳では無い
し、心ないドライバーなどが変に車を寄せていたりするので、平均20〜30kmが精
々だ。つまり渋滞は5〜6km続いていた事になる。
「1時間くらいかな。……はふっ ……あ、ゴメン」
「あの様子だとそのくらいか …なんだよ、眠いのか?」
「ん。昨日ちょっと遅くて、今日も朝が早かったから…… 悪いけど30分くらい肩
貸してくれる」
「あ? ……ああ。別に構わないけど」
その返事が終わらない内に、ぽてっという具合に龍之介の肩に頭を乗せ、1分もし
ない内にすーっと寝息を立て始める愛衣。
その寝顔を見て、何となく龍之介は理解した。先ほどの妙なアプローチと言い、睡
眠不足でハイ(High)になっていたのかもしれない。
※
それから約1時間が経過し、ほぼ読み通りに見覚えのある車が2台、駐車場に入っ
て来た。
「すーー……」
良い勘だが、自分の睡眠時間に関してはアテにならないようだ。
起こすべきかどうか迷ったが、取り敢えず寝かせて置くことにした。せっかく気持
ちよさそうに寝ているのに、わざわざ起こす事も無いだろう。それに、頼られている
ような気がして、悪い気はしない。
「なんだ、寝ちゃったのかよ」
不意に声を掛けられ、顔を上げる。目の前に洋子が立っていた。愛衣に気を遣って
いるのだろうか、その声は囁くような小声だ。
「あの炎天下の中をずっと走り詰めだったからな、疲れたんだろ」
「だろうな。昨日も遅かったし… 朝早いからって家に泊まってったんだけど、親父
が整備してるのじっと見てたらしくてさ。寝たの1時か2時ぐらいだって」
「…そんなに遅くまで整備する必要があったのかよ、アレ」
目の前に佇んでいるパールレッドの車体を顎で指し示す。
「いや、家の親父凝り性だからな。それに一度自分でオーバーホールしてるから気に
なるんじゃないか?」
「オーバーオール?」
また知らない単語が出てきた。
「そりゃ吊りズボンだろ。オーバーホールだよ。一度エンジンをバラして消耗品とか
交換してるのさ」
「ふーん…… しかしお前と言い愛衣と言い、メカに詳しいよな。俺にはさっぱりわ
からん」
「まあ、私は将来あの店を継ぐつもりだからな、少しはわかるさ。愛衣姉はそれほど
でも無いけどな」
「はあ?」
「オイル交換ぐらいだな。後は車体を磨くとか。だから昨日も親父の作業をじっと見
てただけだよ」
「それで睡眠不足かよ。世話無ぇな」
てっきり頑固親父に付き合わされて、睡眠時間を削られたのかと思っていたのだ。
「自慢じゃないけど、私はタイヤとブレーキパッドの交換が出来る」
恐らく相当に自慢なのだろう。少し胸を張って言い切る洋子。
「死んでも願い下げだな。お前が手を入れたバイクなんかに乗るのは」
素直な意見だった。…が、洋子は何かのイタズラが成功したようにニヤリと笑って、
「へぇ、そんな事言って良いのか?」
目の前の車体を見やった。それはつまり……
「おいおいマジかよ……」
「安心しろよ。親父の了承も得てる。愛衣姉には今の所内緒だけどな」
「なるほどな。オッサンが熱心に整備するわけだ」
娘の取り付けた部品に不備があったら、ひどく拙い事になると言いたいのだろう。
「ちぇ、口の減らない奴だな」
苦笑して、何気に時計へ目をやる。
「……さて、そろそろ姫様を起こさないと」
つ、と洋子の手が愛衣へと伸びかけるのを、
「寝不足なんだろ? 寝かせといてやろうぜ」
龍之介が制止(と)めた。
「愛美さんに詳しい地図を描いて貰ってくれ。コレが起きたら追いかけるから。寝不
足で事故を起こされたら敵わん」
一瞬意外そうな顔を見せる洋子。
「……お前がそれで良いって言うんなら、その方が確かに安全だけど…… でも、良
いのか?」
「ああ。その代わり、あそこで俺の事を睨んでいる2人はお前が押さえてくれ」
チラッと赤いクーペの傍らでこちらを睨んでいるいずみと綾子に目を向けた。向こ
うも龍之介が自分達の方に気付いたのがわかったのだろう。良い機会と見たのか、つ
かつかとこちらへ歩み寄ってくる。
「そういう事かよ」
納得したように苦笑し、
「わかった。ただし、この場だけな。海に着いてからの事までは保証できないぞ」
と言い残し、洋子は妙な笑みを浮かべながらこちらへやって来る2人の方へ向かっ
て行った。
※
「ま、そういう事なんで、此処では矛を収めてくれ」
最初は不満そうな顔を見せていた2人も、寝ている虎を起こす事の愚を唱えられ、
「わかった。『此処』では黙っててやるよ」
取り敢えず見逃す事にしたようだ。
「悪いな。向こうに着いてからなら何したって構わないからさ。煮るなり焼くなりし
てくれ。私は関知しない」
という龍之介が聞いたら怒り出しそうな形で交渉は成立した。我が身可愛さに女の
子2人を見捨てた罪はそれだけ重いと言うことだ。
「でも、そんなにぐっすり寝てるの?」
ボンネットを机代わりに地図を書きながら訊ねたのは愛美だ。彼女的には2人きり
になりたいが為の芝居だと言われた方が納得出来るのだろうが、
「多分ね。あの愛衣姉が男の肩借りて寝こけてるぐらいだから、よっぽど疲れてるん
だよ」
恋愛経験が皆無に等しい洋子にはそうとしか思えなかった。
「ふーん…。と、これで多分わかると思うけど、万が一迷ったらこの番号にTELす
るように伝えて置いてくれる?」
愛美から手渡されたメモ用紙には、この場所から目的地までの地図が相当デフォル
メされて描かれていた。尤も、デフォルメとは言っても“航空写真から起こした明細
地図と比較して”という前置きがされるので、地図としての役割は十分に果たせそう
だ。道が分岐する箇所ではちゃんと目印になるような物が書き込まれ、信号機には名
前まで付いていた。
これで道に迷ったら国宝級の方向音痴だろう。
「ありがとう。手間掛けるね」
「どーいたしまして。…ね、ついでに写真撮って上げたら? あの2人の」
と言って木陰を指さす愛美。正と負、どちらの意味で言ったのかは定かでは無かっ
たが、
「愛美さん、それナイス」
洋子は負の意味に解釈したらしい。パチンと指を鳴らし、愛美の提案に同意を示す
と、
「綾、カメラ持ってないか?」
いずみを相手に占い講釈をしていた綾子を顧みる。
「カメラ? 都築君が持ってたんじゃない?」
そう言えば、出発前から此処へ来るまで、外と言わず車内と言わずパシャパシャ取
り巻くっていた。恐らく既にフィルム1本分位は撮っている筈だ。ただ、それらの殆
どは被写体側が『撮れ』と要求したからなのだが。
同じ要求を洋子も出していたので、樹がカメラを持っている事自体は洋子も知って
いる。問題は、
「あんな骨董品じゃなくて、小さくてピント合わせのいらないヤツ。なんなら使い捨
てでもいい」
そのカメラは父親からのお下がりらしく、オートフォーカスなどの機能は皆無。ピ
ント合わせから絞り、果てはフィルムの巻き上げまで全て手動なのだ。
タイヤとブレーキパッドの交換が出来る洋子でも、これはお手上げだった。
「使い捨てカメラならあそこに売っているみたいだけど…」
ちょっと離れた所にある売店を指さす綾子。その横から、
「これで良いなら貸すけど?」
いずみがポーチから手の平サイズより一回りほど大きいカメラを取り出した。
「なに、持ってたのぉ?」
ちょと非難めいた口調をいずみに向ける綾子。『持っているのにどうして撮ってく
れなかったの?』という事だろう。いずみにもそれが伝わったのか、
「いや、だって… 持っているなんて知られたら、無意味な写真を何枚も撮らされる
と思ってさ」
そう言ってベンチに腰掛けている悪友の方へ目を向ける。
「……なるほど。それはあるわね」
腕組みをして同意を示すように唸る綾子。
そう言えば昔からそうだった。小中学校時代の遠足や野外授業等で綾子自身が撮っ
た写真でも、龍之介が写っていない写真の方が少ない位なのだ。違うクラスなのに……。
「それに、あいつが出てった後は恐怖でそれどころじゃなかったし」
「ああ、それも納得」
これはもう考える必要もない。愛美の手前、小声で言う必要はあったが…
「んじゃ、ちょっと借りてくぞ。ここを押せば良いのか?」
差し出されたカメラを受け取り、簡単な扱い方の説明を受ける。面白い事に、洋子
が持つと確かに手の平サイズだった。
「でも何撮んの? 特に変わった物とか見当たらないけど……」
不思議そうに綾子が辺りを見回す。確かに先ほどの休憩所と違い、風光明媚な景色
が広がっているとは言い難い。また、洋子自身に風景写真を撮るという高尚な趣味が
無い事も先刻承知だ。
だが洋子はニヤリと笑って、
「いや、あの光景を写真に収めておこうと思ってさ」
木陰のベンチへ目をやる。
「あ」
「なるほど」
確かに2人から見ても、それは写真に撮って額縁に飾って置きたくなる光景だった。
「これを撮って、愛衣姉に突き付けたらどうなると思う?」
くくく… と笑いをかみ殺しながら洋子。同時にいずみも、
(友美に見せても面白いかも……。表面上は無関心を装うんだけど、態度でボロが出
るんだよなぁ…)
とか、綾子が
(唯なんかすぐ顔に出るから、もろ不機嫌になるわねー)
とか思ったようだが、もちろん対象者には伝わる筈もない。
「確かに…」
「それは面白いかもしれない」
3人とも良い友人&幼馴染みを持ったものだった。
※
「んで、もし迷ったらこの番号にTELしてくれってさ」
愛美から預かったメモを手渡し、言われた事をそのまま伝える洋子。セミの声等が
結構喧しいのにも係わらず、相変わらず愛衣に起きる気配は無い。
「大丈夫だろ。これだけ目印が書き込んであれば。もし辿り着けなかったら、ブレー
キかタイヤのトラブルで立ち往生していると思ってくれ」
敢えて洋子が手掛けた箇所を引き合いに出す龍之介。
「お前、本当に人の神経を逆撫でするのが上手いな……」
とは言え、洋子もそれほど怒っているわけでは無い。何しろ愛美の腕が不安で車を
降りた龍之介が、大した文句も言わずに『乗る』と言っているのだ。
「じゃ、私らは先に行ってるぞ。愛衣姉には『急がなくて良い』って言ってくれ」
「ああ。どうせこの先が渋滞になって無いなんて保証は無いし……」
パシャ!
メモから顔を上げかけた龍之介の視界を、一瞬青白い光が支配した。
「なにやってんだよ」
とは言っても、目の前の洋子はカメラを持っているので、写真を撮られた事ぐらい
分かる。問題は撮った写真をどうするのか、と言うことだ。
そんな龍之介の疑問は洋子に通じなかったようで、
「うむ。微妙に恋人っぽくて良かったぞ。これなら愛衣姉をからかうネタに十分なる」
1人で納得していた。
「こら、なんだその『微妙に』ってのは」
正真正銘の恋人同士に向かって失礼な発言ではあるかもしれないが、洋子はその事
実を知らないので、
「上等だろ。本来はあり得ない組み合わせなんだから」
龍之介の主張も“ヌカにクギ”だ。
「んで? そんなモン撮ってどうすんだ? 事と次第によったら肖像権の侵害で訴え
るぞ」
相変わらず小憎らしい知恵に関してだけは脳内に充実しているようだ。もっともそ
んな屁理屈も洋子には通じない。
「じゃあお前の顔だけ塗りつぶしといてやるよ。“愛衣姉が男の肩借りて寝こけてい
る”ってのが重要なんだから」
つまり男だったら誰でも良いと言うことか。受け取り方によっては誤解を受けそう
な言い様だ。
「まあ、確かにこんな隙は滅多に見せないからな。写真を撮っておこうって気にもな
るか」
「なんだ。判ってるじゃないか。とゆー事で、この事は写真が出来上がるまで伏せと
いてくれよな」
「そりゃ構わんが…… 条件があるぞ」
「なんだよ」
「その写真、焼き増しして俺にも寄越せ」
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