Summer Time Blues

構想・打鍵:Zeke

 この作品はフィクションであり(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を使用しております。
 尚、ここに登場する、人物、名称、土地、出来事、名称等は実際に存在するものではありません。



 そんなこんなで、引田天功ばりの脱出劇を見せた龍之介。意気揚々とミニバンに乗
り込もうとしたのだが……、
「なんでだよ、7人乗りで6人しか乗ってないんだろ? なら、1人分の空きがある
 はずじゃないか」
 既に車のドアにはロックが施され、助手席の窓越しに洋子とやり合っていた。
「だから無理だって。見りゃわかるよ ……それに元々お前は向こうの車だろうが」
「いいじゃないか細かい事は」
 あれだけ凄絶な争奪戦を繰り広げて置きながら、それを『細かい事』で済ましてし
まう辺りで既に反感を買いそうだった。車内に『断固阻止』の空気が充満する。
 しかしそんな空気を龍之介は感じられなかったのか、
「見りゃわかるってんなら、見せてみろよ」
 あくまでも引く気を見せない。どの道スペース的に空きは無いので、洋子は折れる
ことにした。
「しょうがねぇなぁ。唯、開けてやれよ」
 後ろの唯にドアを開けるよう伝える。
 
 車内には確かに7人分の座席があった。運転席、助手席、2列目のキャプテンシー
ト2席、そして3列目の3人掛けベンチシート。それぞれに、マスター、洋子、唯、
友美、そして樹とあきら。龍之介の言った通り7人分の座席に6人が腰掛けていた。
 だが、これまた洋子の言った通り、龍之介の座れるスペースは何処にも存在しなかっ
た。簡単な話、3列目に座る約一名が1.3人分程の存在があったからだ。更に余っ
た0.7人分のスペースにも、収まりきらなかった荷物が唸っている。
「と言う事で、諦めな。ほれ、あっちの3人が待ちくたびれてるぞ」
 何処かからかうような口調で洋子が原隊復帰を命じる。
「むう…、なら誰か俺の代わりにあっちの車へ行ってくれ」
 何処までも自己中心的な龍之介。だが、当然誰も動こうとはしない。
「そうか。悪いな、唯。俺の代わりに行ってくれるか」
 今度は勝手に指名するが、唯はそっぽを向いて知らんぷり。判っていた事とはいえ、
こうもあからさまに拒否されるとは……
「唯……、何の為に今日という日までお前を生かして置いたと思っているんだ?」
 優しく語りかけるように言うのだが、言っている事はこの上なく酷いことだった。
「それって、お兄ちゃんの身代わりになるために生かされてたって事?」
 心なしか声が震えている。ついでに肩も。もちろん怒りの為だ。
「おう、大正解。判ったらさっさと向こうの車に、いっ…!」
 言い終わらない内に向こう脛が蹴っ飛ばされた。更に、怒りに任せてひるんだ龍之
介を車外へ突き落とす。当然の仕打ちだろう。
「いてっ… バカ、ちっとは手加減しろ」
 無様に転がり落ちた龍之介が抗議の声を上げるのだが、聞き入れて貰える訳が無く、
「べ〜っだ!」
 あっかんべのおまけ付きで、スライドドアは閉じられた。

「くそ〜。なんて冷たい連中だ」
 その場にへたり込んだまま悪態を吐く龍之介。そして恐る恐る今まで自分が乗って
いたスポーツクーペの方へ目を向ける。
 3人分。計6つの視線が突き刺さった。龍之介に向かって、全員が不敵な笑みを浮
かべている。例えるなら得物を見るような笑みを…
(今戻ったら、食い殺される)
 それは正に野生の勘だった。それとは別に、
(女の子3人に襲われるのもちょっといいかな?)
 という男の本能もあったりしたのだが……

 ヒュオン!

 そんな龍之介の本能を感じ取ったのかどうか判らないが、彼の背後で400ccクラ
スのエキゾーストが轟いた。やはりへたり込んだまま背後を窺う龍之介。
 が、その持ち主は別に龍之介の気を引く為にエンジンを吹かしたわけでは無さそう
だった。バイクの傍らに立ってメーター類を覗き込み、填めたグローブを確かめるよ
うに開いたり閉じたりしている。そんな端から見れば何気ない仕草。少なくとも龍之
介以外の目にはそんな風に写っていた。
 つまり、龍之介にはその愛衣の態度が何を示しているのかが判った訳だ。
「おい、洋子」
 すぐさま立ち上がり、助手席のドアを軽く叩く。
「なんだよ、往生際が悪いな。お前の所為で出発が遅れてんだぞ。早く戻れ」
 既に2台の車に運転手が収まってから5分が経過していた。
「わかったからメット貸せ。それと唯、俺のバッグからジャケット出してくれ。持っ
 て来てる筈だ」
「おいおい、そこまで愛美さんを邪険にする事も無いだろう」
 苦笑つつ足元に置いてあるヘルメットに手を伸ばす。どういう形であれ、他人がバ
イクに興味を持ってくれる事が嬉しいらしい。もっとも龍之介がそこまで計算してい
たかどうかはわからないが。
「お前、見てなかったのかよ。さっきのアレ」
 先ほど体験した事を思い出し身震いしながら答えるのだが、
「何かあったのか?」
 どうやらこの位置からでは何が起こったのかわからなかったらしい。
「俺の口からは言えん。後で向こうの2人から恐怖体験をたっぷり聞け。……唯、あっ
 たか?」
「あったけど、これ長袖だよ」
 時間は午前9時だが、もう既に太陽は夏の陽射しをたっぷりと地上に降り注いでい
る。長袖が必要な気候にはとても思えなかった。
「いいんだよ。長袖じゃないと意味がない… じゃあな」
 ジャケットを受け取り、それに袖を通しながら駆け出す龍之介。
「あんまり愛衣姉に負担かけんなよ」
 その背中に向かって洋子が声を掛ける。もっとも、その辺の事は口にした洋子も心
配してはいなかった。少なくとも龍之介はバイクの怖さを知っているからだ。

「でも、なんで長袖なんだろ? 走ってると寒くなるのかな」
「そうね。叶さんも上から下まで完全に覆っているし…」
 自分たちは冷房が効いた車内でさえ半袖なので、理解に苦しむと言った感じの会話
を交わす友美と唯の間に
「違うよ、多分」
 樹が口を挟む。
「万が一転倒(ころ)んだ時、少しでも怪我を防げるからじゃないかな」
「へー、良く知ってるじゃないか」
 ちょっと感心したように洋子が鼻を鳴らした。
「ま、愛衣姉だって自分が転倒(ころ)ぶなんて思ってはいないだろうけど、事故な
 んて自分だけが注意してもどうしようも無い時があるしさ。その時肌を晒している
 のと晒していないのとじゃ大きな差があるからな。本当にバイクの怖さを知ってい
 る人間なら絶対肌を晒して運転しないよ」
 いつになく真剣に語る洋子。
「洋子ちゃんって、本当にバイクが好きなんだね」
 そんな洋子を見、唯が何処か羨ましげに言った。本当に好きな物、好きな事を既に
持っている洋子に対する羨望なのかもしれない。
「まあ…、小さい頃から私にはこれぐらいしか無かったからな」
 照れ臭いのか、ちょっと戯(おど)けた口調で言い返し、窓の外へ目を向ける。
「これだけは愛衣姉にだって負けないさ」
 後ろには聞こえないほどの小声で呟いた。

※
「乗るの?」
 ジャケットを羽織り、ヘルメット片手に目の前に立った龍之介への第一声がこれだっ
た。
「悪いか。ここで愛衣に断られると俺の命が危険に晒されるんだぞ」
 かなり大袈裟だが、半分近くは本音だった。
「あーあ、愛美が可哀想」
 友人を憂いちょっと溜息を吐くが、まあ判らないでもない。あんな瘧(おこり)に
掛かったような運転をされたら自分だって逃げ出すだろう。
 ……それはそれとして、
「別に乗せるのは構わないけど、言い方ってもんがあるんじゃない?」
 頼み方が悪い、とでも言いたいのだろうか? 龍之介もそう受け取ったらしく、
「あー、判ったよ。お願いします。後ろに乗せて下さい」
 お世辞にも丁寧とは言えない頼み方だが、龍之介にしては譲歩した方だろう。
にも係わらず、愛衣はそれに応えずじっと龍之介を見つめていた。
「なんだよぅ、これ以上丁寧に頼めってのか?」 不満そうに口を尖らせる龍之介。だがそうではなかった。意外とあっさり、
「別に後ろに乗せるのは構わないわよ」
 お許しが出る。しかしそうなると判らないのは、
「じゃ何を……」
(言えばいいんだ?)と言い掛けて口を噤んだ。何かを期待するように、愛衣がじっ
と見つめていたからだ。そんな龍之介の的外れな問い掛けに、
「私って龍之介の何だっけ?」
 わざと視線を逸らして独り言のように、
「い、一応…… 恋人…、のつもりだよ。俺は」
 距離がある上に、窓が閉められているので聞こえる筈は無いのだが、一応衆人の目
があるので自然と小声になる。ちょっと自信がないのか、『一応』とか『俺は』とか
入れているところが悲しい。
「そう思ってくれてるんなら、それなりの言い方があっても良いんじゃない?」
 目が笑っていた。ただ、からかうような笑みでは無く、照れを隠すような笑み。
 もちろん真っ昼間から、こんな恥ずかしい問いにマジになって答える龍之介ではな
い。
「そりゃもう。愛衣の側に居たいからに決まってるだろ?」
 戯けた口調で愛衣の問いに答える ……が、
「ん。乗って」
 そんな屈折した態度をものともせず、というより屈折した部分を丸々排除して受け
取ったようだ。つとタンデムを指し示す。
「………」
 敗北。言った台詞が台詞なだけに、ヘタに反論すると納涼花火大会が催される事に
なる。
「……どうかしたのか?」
 器用に髪をまとめヘルメットの中に収める愛衣の耳元で囁く。
「なにが?」
「いや… 急にあんな事言わせるから……」
 夜の『Mute』でだってあんな恥ずかしい台詞は滅多に言わないし、言わせられ
ない。…希に強要されているらしい。
「別に。言って欲しかったから」
 まるで答えになって無い。龍之介はその『言って欲しかった』理由を聞いているの
だ。そんな空気を察したのか、
「ま、一応龍之介の命を預かる訳だしね。後ろの人が自分の事をどう思ってるのかっ
 て言うのは、結構重要な事なのよ」
 運命共同体という訳だ。
「ふーん…」
 今度はそれっぽい答えが返ってきたので、納得したように鼻を鳴らす龍之介。そし
てふと思い当たったように、
「…じゃあ、愛衣は『俺に側に居て欲しかった』って訳だ」
 鬼の首を獲ったかのように勢い込んで聞く。だが、当の愛衣は少し考えた後、
「……どうなんだろ? 試しに愛美の車に戻ってみたら? ひょっとしたらすがって
 止めるかも」
 2つの点でそれは遠慮したかった。
 第一に愛美の車に戻ったが最後、シートベルトとは別のもので拘束される恐れがあ
る。第二に、愛衣にすがって止める気が更々無いという事が判っていたからだ。
「どうする?」
 決断を迫る声。2人がバイクに跨ったのを見て、ミニバンの方がソロソロと動き出
した。こうなったら“毒を食らわば皿まで”だ。
「さっき言っただろ? 俺は愛衣の側に居たいんだよ」
 今度は大まじめに、ちょっと渋めの声音で。
「ありがと……」
 その後、何か言い掛けたようだが、吹かしたエンジン音が語尾をかき消した。
 それがわざとなのか、それとも愛美の車が休憩所の出口に向かい始めたからなのか
定かではないが。


※
 グゥーン… ガクン グゥーン… ガクン グゥー… ガクガク

 休憩所を出て暫くの間、いずみと綾子は生きた心地がしなかった。何しろギアチェ
ンジの度に妙なショックが襲って来るのだから堪らない。車の知識の無い彼女達には
『いつ空中分解してもおかしくない』とさえ感じていた。
 義務化されていない後部座席のシートベルトをきっちりと締め、互いにすがりつく
ように手を握りあう2人。そのままもう暫く放って置いたら愛が芽生えてもおかしく
ないほどしっかりと…
 一方、運転している愛美は、後ろの2人がそんな状態でいる事にまで気が回らなかっ
た。詰まるところ、エンジンの回転数と車速が噛み合わない所為で、ショックが伝わっ
て来ているのだ。通常はクラッチワークでこの辺を調節するのだが、車によっては回
転数を車速に合わせる方が楽な場合がある。具体的にはギアチェンジでニュートラル
に戻した際、軽くアクセルを吹かして現在の車速とエンジンの回転数を無理矢理合わ
せてやる方法だ。専門用語で『等速シフト』という。
 こうする事でスムースなシフトチェンジが出来るわけだ。

 グゥーン オォウ グゥーン オン グゥー……
 こんな具合に……
「ねぇ! 見た見た? 今のっ!」
 何処もつかえる事無く加速を終えた愛美が、後ろで震えている2人を顧みて、嬉々
とした声で訊ねた。しかし「見た?」と聞かれても目に見える様なものでは無いし、
仮に目に見える物だったとしても、恐らく2人の目には映らなかっただろう。
 それでも綾子は、
「はあ、凄いですね。でも前見て運転して下さい」
 強張った顔でそう答えた。とてもじゃないが「何が凄いんですか?」とは聞けない。
 だが幸いな事に、愛美は綾子の言葉を1%の疑いもなく受け入れてくれたようで、
「でしょう? ほらほら、シフトダウンもばっちり」
 と言う間に、見事と言う他ない手捌きでスコスコとギアを落として信号停止。確か
に先ほどと比べれば妙なショックは格段に減った。しかし、
「はあ、凄いですね」
 その問いに、先ほどと全く変わらない調子でこれまた綾子が答える。実際は何が凄
いのか良く判らなかった。
「コロンブスの卵よねぇ。これなら無理にクラッチで合わせる必要ないもの」
 どちらかというと、クラッチで合わせた方が遙かに楽なのだが……。
 で、信号青。
 グワーッ
「きゃあー、すごーい。滑らかに加速してくー」
 自分の運転に酔っているらしい。愛美絶好調。

「あの馬鹿……」
 信号が変わった途端、猛烈な加速をして行く愛美の車を見、愛衣は偏頭痛を覚えた。
調子に乗り過ぎた愛美はすっかり後ろに着いている車の事を忘れているらしい。
 恐らく車重及び人と荷物で総重量2トン近くになっているであろうミニバンは、魚
雷を抱えた97式艦上攻撃機並に鈍重でとても付いて行けない。悪い事に2車線なの
で右車線からバンバン抜かれていく有様だ。
 はぐれるとやっかいな事になりそうだった。もちろんやっかいな事になるのは愛美
の方だが、少なくともあの暴走は止めさせた方が良いだろう。
 そして止めさせる事が出来るのは彼女達しかいない。背後からも身構える気配が伝
わって来た。
(なんか… いい感じよね)
 ヘルメットの中でちょっとほくそ笑むと、愛衣は右へのウィンカーを出し、加速を
始めた。

 ……のだが、
 そう心配する事もなく愛美の快進撃は終わった。それも呆気ないほどに…
 いくらウィークデーとは言え、この時期に伊豆の海へ来ると言うことは、絶対コレ
は避けられない。
 ……渋滞、である。

※
「はぁー… 10分で1kmしか進んでないよ」
 さすがのマスターも人の歩く速度並に落ちた進行速度に溜息を隠さなかった。これ
はもう渋滞と言うより停滞だ。渋滞情報を聞くと、これが6kmほど続いているらしい。
つまり抜けるのに1時間近くを要すると言うことだ。それを思うと暗澹たる気持ちに
なる。
 しかし彼はまだ楽な方だった。
 肘掛けのあるシート、それこそ渋滞時の為にあるようなAT車特有のクリープ現象
は普段MT車に乗っているからこそわかる有り難みだ。
 一方、その有り難みが無い愛美は受難の時を迎えていた。先ほどの勢いは何処へや
ら、なんとかエンストせずに進んではいるが、坂道なんかで止まったりするともう大
変である。1度ズルズルと下がってから前進するという有様で、いずみや綾子、それ
に後ろを走っている車にはスリルたっぷりとという感じだった。

 とまあ、これは精神的な苦行だが、これに肉体的な苦行を加えられているのが熱射
をほぼ直接浴びている外の2人だった。
 バイクというと、風を切って走るイメージがある為、さほど暑くはないように思え
るが、実はそうではない。確かに走っているときはそれで良いが、止まるともう地獄。
 頭上からは容赦なく太陽が照りつけ、足元のアスファルトからはその輻射熱とエン
ジンの熱気が襲ってくるのだ。この辺は何かマグロを彷彿とさせる。
(あちぃ〜)
 実際、龍之介は後悔していた。シャレにならないくらい暑い。これなら愛美のデン
ジャラスドライブに付き合っていた方がマシだと思える程だ。
 しかしもちろん口に出しては言えない。第一、
『そばに居たい』
 という台詞まで言った(言わされた)のだ。ここで『暑いから』という理由で降り
たらそれこそ何が起こるか判らない。
(よく平気だよなぁ)
 目の前の華奢な背中を見てそう思った。400ccとは言え、車重に人間を加えれば
軽く200kgを超える筈だ。それをこの炎天下の中支え……
 平気なわけが無いだろう。ただ後ろに乗っているだけの自分でさえバテ気味なのだ。
「愛衣、大丈夫か?」 
 声を掛けると、ヘルメットがわずかに縦に動く。『大丈夫』という事なのだろうが、
とてもそうは見えなかった。
 大体、渋滞と言ってもそれは車だけの話で、先ほどから彼らの左右を何台ものバイ
クが抜き去っている。先に行って次の休憩所なりなんなりで待っていればよい。
「すぐ戻る」
 もう一度前の背中に声を掛け、今度は返事を待たずに飛び降りた。幸いと言うべき
か、車の流れはほとんど滞っている。動いても人の歩く並の速度なので問題ないだろ
う。

 愛衣の後ろを降りた龍之介はすぐ後ろで止まっていた愛美の運転する車に向かった。
「どうしたの?」
 その龍之介が何か言うよりも早く、一部始終を見ていた愛美が窓から顔を出す。そ
して茶化したように、
「やっぱり愛衣ちゃんより、私の方が良かった?」
 言ってくれる。それには答えず、
「悪いんだけどさ、先に行かせて貰えるかな? こう暑くちゃ適わない」
 がるるるる…
 と唸り声を上げるバックシートの2人はいないものとして話を進める。
「助手席空いてるけど?」
 敢えてそこへ座らないと知りつつ聞いておき、
「ひょっとして此処に座るより、炎天下に晒されるバイクの方が良いとか?」
(そりゃそうだろう)
 愛美の台詞に裏があるとは思わない後部座席の2人が心の中でツッコミを入れるが、
龍之介には伝わったらしく、
「愛美さんになら判るんじゃない?」
 ちょっと苦笑気味に答える。
(巧い逃げ口上だ)
 敢えて自分の口から言わない龍之介に、やはり事情の判らない2人は、心の中でそ
う思うのだった。

「よしっ、行こうぜ」
 交渉に1分ほど要したが、進んだ距離が20mそこそこなのだから堪らない。先ほ
どより酷くなっているようだ。
「何か言ってた?」
 話の内容は大体察していたらしい。主語は無かったが愛美のことだろう。
「別に。ただ気を付けてってさ」
 本当は戻り際に、
「貸しとくね」
 と言われたのだが、別に言う必要も無いだろう。もっとも、愛衣が気にしたのは正
にこの事だった。またからかうネタを提供してしまったと言うわけだ。
「で、何処で待ち合わせ? 旅館の場所は大まかな位置しか聞いてないんだけど?」
「いや、次に休憩をとる場所にした。脱水症状で倒れちまったらマズイしな」
 なんのかんの言っても、気遣ってくれているらしい。
「誰が倒れるのよ」
「決まってるだろ。俺が身体を気遣うのはこの世で“唯1人”だ」
 どうでも良いが、読み方を間違えると大惨事になりかねない変換である。もちろん
此処では『タダヒトリ』と読むのが正しい。
「へぇ。その唯1人って、誰のこと?」
 こういう状況でそれを聞くと言うことは、半ば以上その答えが判っていると言うこ
とだ。誰だって自分以外の名前が出てくるとは思うまい。
 しかし龍之介という人間は、愛衣の想像を超えていた。いや、想像を遙かに下回っ
ていたと言うべきか。
「俺自身」
 胸を張ってキッパリ言い切る龍之介。
「………」
 間。
 本気だろうか? 世間一般ではこういった場合、普通恋人の身体を気遣うものだろ
う。…違うというなら、彼女をからかっている事になる。どちらにしても良い度胸だ。
「いや、マジで水分補給しないと死んじまうって。そういう訳だからとっとと発進
 …って、おわっ!」
 言い終わらない内に、愛衣は荒々しくスロットルを開けた。その拍子に危うく振り
落とされそうになる龍之介。
「ば、ばかやろぉ。落ちたらどうすんだ!」
 爆音に負けじと声を張り上げる。
「さっさと出せって言ったのは龍之介でしょっ!」
 さらに負けじと愛衣も声を張り上げる。無理もなかった。

 


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