Summer Time Blues

構想・打鍵:Zeke

 この作品はフィクションであり(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を使用しております。
 尚、ここに登場する、人物、名称、土地、出来事、名称等は実際に存在するものではありません。



 単調な直線が前方で大きく右に弧を描いている。
 その先に見えるのは蒼く輝く海。
 道なりに車が弧を描くと、それは左手の車窓いっぱいに広がった。

「うわぁ…」
 夏という季節に相応しい陽射しが徹底的に降り注ぐ海面を見、唯は歓喜の声を上げ
た。もちろん生まれて初めて海を見た訳ではないが、高架を走る車から見通す風景は
別の趣がある。座席位置が高いミニバンとなれば尚更だ。
「愛美さん、ほら、海っ」
 その感動をハンドルを握る愛美にも味わって貰おうと声を掛けたのだが、
「唯。今、愛美さんに話しかけるな」
 助手席に座った洋子に窘められる結果になった。なんとなれば料金所が近い。徐々
に詰まる車間距離に神経を集中しているのだから仕方がないだろう。
「綺麗ねぇ」
 代わりといってはなんだが、隣りに座っていた友美が腰を浮かせて左の車窓を見つ
め、やはり感嘆の言葉を漏らした。3列目に座るあきらと樹も同じような行動を起こ
したので、後ろを走る車からは車体が左に傾いでいるように見えたかも知れない。

「おいおい、左に傾いてないか?」
 というか、実際に傾いて見えたらしい。「大丈夫かよ」という意味で言う龍之介に、
「ああ。もう海が見えるからじゃないかな」
 こちらは余裕でハンドルを握るマスターが答えた。
「本当!?」
「どっちです?」
 と同時に声を上げたのはバックシートに座ったいずみと綾子。しかし悲しいかな、
天井の低いクーペボディでは身動きするのもままならない。それ以前に防護壁がある
せいで、着座位置が低い彼らに、海はその上からチラッと見える程度に過ぎなかった。
「よく見えないな」
 思ったことをそのまま口にするいずみ。
「ははは。大丈夫だよ。これからずっと海を見ながら走る事になるから。それより狭
くない?」
 後部座席に座る2人を気遣うが、言わずもがなだ。いくら4ドアセダンを元にして
いる車とは言え、2ドアクーペの後部座席が狭くない訳がない。
「気にしなくていーよ。どうせ背が低いから」
「……それは誰の事だ?」
 龍之介の言葉にいずみが敏感に反応した。出発してから終始こんな感じだ。という
か、旅行に来ても普段とあまり変わらない。いい加減そんな漫才じみた会話にも飽き
が来たのか、
「まあまあ、2人とも。……ほら、海よ」
 綾子が止めに入る。実際左手には海が広がっていた。

※
 当初の不安を余所に愛美の運転は安定したものだった。ルートが高速主体だった事
もあるだろうが、全く危なげない運転だったと言える。それでも料金所や合流ではそ
れなりに神経を使っていたようだが、逆にその程度の事だ。

「いやー、一時はどうなる事かと思ったけど、心配するほどの事は無かったなぁ」
 一般道への合流も無難に済ませると同時に助手席の洋子が言った。愛衣のタンデム
に跨る筈だった彼女は、だがあっさりと高速道路の手前で下ろされてしまう。高速道
路での2人乗りは禁止だからだ。
 結果、前評判の悪い愛美の車に乗り込む事になった彼女が、不安を感じたのは仕方
のない事だろう。とは言え、
「洋子ちゃん。そこはかとなく失礼なこと言ってる」
 ハンドルを握る愛美にしてみれば、ちょっと傷つく発言だ。そして、
「そうだよ。失礼だよ」
 背後のキャプテンシートからも洋子を窘める唯の声。いっけん愛美を庇うような発
言に聞こえるのだが、
「ほぉ。出発前に初心者マークを追加添付していたのは何処の誰だったっけかなぁ」
「う……」
 自分のやった事を紛らわせる為の発言らしかった。
「それと、先週如月神社に安全祈願に行ってた奴とか……」
 肩越しに、唯の隣りのキャプテンシートを見やる。
「あ、あれは今回の旅行が無事に済みますようにってお願いしただけよ。別に愛美さ
んの運転が不安だからなんて言ってないわ」
 言っていた。
「……みんな。今からUターンして八十八町に戻ろうか?」
 もちろん冗談なのだが、今回の旅行は愛美の協力無しには実現しなったのだからこ
れ位の意地悪は良いだろう。
「だ、だからそれは唯達の間違いで、今はそんな事欠片も思ってないよ」
 慌ててフォローする唯。
「でしょ? あれから毎日この車に乗って秘密特訓してたんだから」
 その代わり、車の保有者である愛美の父親の寿命が月単位で縮んでいたかも知れな
い。それが娘の身を案じたものなのか、車の身を案じたものなのかは定かではないが。
「それにほら、人より長く教習所に居たって事は、人より多く練習したって事なんだ
から」
「全く以てその通りだと思います」
 自爆気味の発言にあきらがしゃちほこ張ってフォローを入れる。体育会系の性なの
か、どういう形であれ先輩は先輩という考え方らしい。
「何事も人より多く練習しなければ上を目指せるものではありません」
「都築、その暑苦しい奴を黙らせろ」
 辟易したような声で洋子がその演説を断ち切った。自分が誘ったようなものなのに、
エライ言い様ではある。
「なに! これからが良いところなんだぞ。いいか、俺の中学時代の先輩がだな……」
 そんなエライ言い様にも屈せずあきらが話を続けようとしたとき、先頭を走るバイ
クのウィンカーが光った。最初の休憩地点に着いたのだ。

「わぁ。潮の香りがする」
 車を降りた友美が開口一番そう漏らした。目と鼻の先がもう海なのだ。ただ、海面
まで10メートルくらいはある絶壁で、ここでの海水浴は不可能に近い。
「でも、ここじゃ泳げそうに無いね」
 その海面を見下ろし、見たままの感想を述べる唯。
「もう少し行けば、ちゃんと砂浜になるらしいわ。それに、愛美さんのおばさまがやっ
てる旅館はもっとずっと先らしいし」
 ちなみに現在位置は伊豆半島の根本にあたる場所。地図上では行程の半分を走破し
た事になっているのだが、時間に換算するとまだ3分の1程度だった。
「でも、こーゆー車だったらゆったりしてて、長い時間乗ってても苦にならないから
良いよね」
 特に唯と友美の座っているシートはキャプテンシートなので、快適度はピカイチだ。
そこへ、
「いいわねぇ。あんた達、ゆったり出来て」
 微妙に腰を折り曲げて、綾子がやって来た。
「こっちは狭いわ、同乗者はやかましいわで大変よ」
 どことなく憔悴しているように見えるのは気のせいでは無かったらしい。とは言え、
前回の座席争奪戦で勝ち残った際に小躍りして喜んでいたのは綾子自身なので、
「ふーん。大変だね」
 唯の返事に同情は込められていなかった。それどころか、微妙に笑顔まで見せてい
たりする。
「そんな意地悪な言い方しないでよ。 ……ね、洋子はこの先叶さんの後ろに乗るん
でしょ? 私、こっち来てもいいかな?」
 哀願するように友美と唯、2人の顔を覗き込む綾子だが、請われた方の2人は、ま
たもやその顔に不敵な笑みを浮かべ、
「どうかしら? さっき『冷房が効いてて快適だ』とか言ってたから、判らないわよ」
「それに愛美さんがなんて言うかなぁ?」
 2人も相当失礼な行動を取っていた筈なのだが、そんな事は棚の上に放り投げた模
様。
「う…… やっぱり気にしてる?」
 後ろめたさも手伝って、伺うような口調だ。
「気にしてるって言うより、勝ち誇ってる感じかしら?」
「うん。『私の実力を見たかー』って感じ」
 要は天狗になっているわけだ。
「じゃ、その辺を巧く突いて持ち上げれば……」
 顎に手を当て策を練り始める綾子。だが、それは無駄なことだった。
「でも洋子ちゃん、叶さんの後ろに乗らないみたいだよ」
 その唯の言葉に、綾子の視線が少し離れた所に停めてあるバイクに向けられる。そ
こでは洋子と愛衣が立ち話をしているのだが、洋子の方は手に何も持っていない。
 バイクに乗るならば、例えタンデムでもヘルメットは必需品だ。それを持っていな
いと言うことは……、
「だめかぁ……」
 綾子の気苦労がもう少し続くという事を意味していた。

※
 その少し離れた場所。ちょうど自販機の前辺り。
「で、どうすんの? こっから先はずっと一般道だから乗せられるわよ」
 買ったばかりのスポーツドリンクを傾けつつ、愛衣がTシャツ姿の洋子に質した。
もっともその格好で返答には想像がついていたのだが。
「んー… いいや。愛美さん安定してたし、冷房効いてるから快適だし……」
 読み通りだった。
「堕ちたもんねー。親父さんが聞いたら泣くわよ」
 茶化すように言ってやる。
「私だって免許があればバイクだよ。愛衣姉だって後ろに荷物が乗ってない方が気が
楽だろ?」
「ま、楽って言えば楽ね。この先は信号が多そうだし」
 四輪と違い、止まっている時のバイクは倒れないように支持する必要がある。後ろ
に荷物が乗っているのといないのとでは、大きな差があった。
「それとも、私に運転させてくれるか?」
 実際、体格の良い洋子は、ただ運転するだけならその辺のライダー並に走らせる事
が出来た。メカに関する知識に関しては、さすがにバイク屋の娘だけあって、その辺
のライダーなど足下にも及ばない。ただ、法的な資格が無いだけなのだ。
 つまり単純な話、
「免許も無い奴には、おっかなくて運転させられないよ」
 と、こうなる。それが年齢的な制限であろうと、無免許は無免許なので、愛衣はニ
ベもなかった。
「じゃあ、やっぱり愛美さんの世話になるよ」
 別段気分を害した風もなく、洋子は笑って答えた。仮に愛衣がOKを出したとして
も洋子は乗らなかっただろう。もし乗って、それが何らかの形で彼女の父親に知れた
ら、一生バイクに乗せて貰えないことを知っているからだ。

※
 で、その洋子が世話になろうとしている愛美はというと、シートに身体を預け呆け
ていた。
 運転中は気が張っている為そうでもないが、緊張が解けると疲れを覚える。操って
いる車が巨体なのがそれに拍車を掛けていた。
 全長4750mm、全幅1800mm。
 教習所の教習車より全長で一回り、全幅で二回りは大きい。更にこの先は一般道だ。
信号もあれば歩行者や自転車もいる。となると、尚更この巨体が恨めしかった。

「おつかれさん」
「わひゃあっ」
 頬に触れた冷たい感触に、素っ頓狂な声を上げる愛美。
「あ、ごめん。脅かしたかい?」
 冷えた缶コーヒーを当てられたらしい。
「あ、いえ… ぼーっとしてたからびっくりしちゃって…… ありがとうございます」
 差し出された缶コーヒーを受け取りながら礼を言う。
「なかなか安定した走りだったじゃない。後ろから見てても判るよ。合流ん時なんか
の見切りも良いし」
「そうですか?」
 そのマスターが下した評価に、愛美の顔がほころぶ。
「でも、まだ半分だし、この先は一般道だから気を抜かないようにね」
「……ですよねぇ」
 ちょっと恨めしげにその巨体を顧みる愛美だった。

※
 15分程度の休憩を取った後出発…… という事になっていたのだが、その時間に
なっても何故か双方の車に運転手は戻っていなかった。
 見れば愛衣を含めた3人で何やら話し合っている。

「何話してんだろ?」
 5分経っても戻ってこないマスターにいずみが首を傾げた。
「ルートの確認じゃねぇの? この先は一般道だからはぐれる恐れもあるしな」
 一応事前に打ち合わせはしたのだが、何しろ実際にその場所へ行った事があるのは
愛美だけなのだ。
「そっか」
 と納得した後、
「それよか、さっきから言おうと思ってたんだけど、もうちょっと座席を前にスライ
ドさせてくれないか? やっぱり少し狭い」
 やはりマスターの前で「狭い」と言うのは気が引けていたのだろう。本人がいない
内に動かして貰おうという考えらしい。
「お、そりゃ済まなかったな。俺様の長い足が……」
 と言いつつも、スライドレバーに手を掛ける龍之介に、
「良く言うよ。大体、なんでマスターより背が低いのに、座席がマスターより後ろに
下がってるんだよ」
 確かにその通りで、綾子の方は足下にそれなりのスペースがある。にも係わらず、
(加えて綾子よりいずみの方が背が低いにも係わらず)彼女の足下のスペースは綾子
のそれよりも狭い。
 とは言え、暗に「足が短い」と言われた龍之介が、そのまま大人しくシートを前へ
スライドさせる訳もなく、
「篠原…… 言葉には気を付けた方が良いぞ」
 そう言うや、シートをスライドさせた ……後ろに。
「………お前こそ、態度に気を付けろよ」
 そんな龍之介の行動を読んでいたのか、彼のこめかみにぐーを押しあて、
 ぐりぐりぐりっ
「痛っ。ばか、中指を突き出すな。マジで痛いって!」

(やっぱり無理してでもあっちに乗せて貰えば良かった……)
 仲が良いんだか悪いんだか判らない2人を見、深く溜息を吐く綾子。少なくともマ
スターが戻ってくれば少しは大人しくなるので、祈るような気持ちで待っていると、
「お待たせ。すぐ出発するから」
 ドアが開いて、待ちわびた声が…… しなかった。
「あれ? 愛美さん。どうしたの?」
 龍之介が当然の疑問を口にすると、
「うん。あっちの車じゃ大きくて持て余し気味だから、マスターに代わってもらった
の」
 その愛美の言葉が終わらぬ内に、龍之介の手がドアノブに掛かるが、ドアが開く前
に愛美の手が“むんず”と龍之介の後ろ襟に掛かった。
「何処に行くの、龍之介君?」
 まるでその行動を読んでいたが如き笑顔で訊ねる。
「え… いや… ちょっとトイレ……」
 もちろん嘘だ。愛美がこちらの車を運転するならば、此処にいるメリットが無い。
それに比べて、あっちの車は快適性に安全性を兼ね備えた最強兵器(?)へと変貌を
遂げたのだ。
 となれば、龍之介でなくとも鞍替えしたくなるだろう。現に綾子は快適性だけで鞍
替えしようとしていたのだから。
 だが、愛美はそれを許さなかった。
「残念。次の休憩まで我慢してね」
 にっこりと迫力のある笑みで言ってくれる。同時にドアをロックし、「逃がさない」
という意志を明確にした。

「はい。じゃ、助手席の人はシートベルトをして下さい。出発しまーす」
 文字通りシートに縛り付けられる龍之介。ちなみにバックシートの2人は逃げよう
がないので素直に従う他無かった。
 もっとも、先ほどまでの運転で、愛美の腕前が想像していたよりも安定していた事
が判っていたからなのかもしれない。『取り敢えず大丈夫』というのが、綾子といず
みが下した評価だった。
「さて、行きますか」
 車内に“了承”の空気に満たされた事を感じ取った愛美がエンジンキーを捻り、左
手をハンドル脇のセレクターレバーへもって行きかける。先ほどまで乗っていた車が
コラムシフト(ハンドル脇にセレクターレバーがある)だったからだ。そんな自分に
苦笑しつつ、改めて左横にあるセレクターレバーへ手を伸ばす。
(あれ?)
 そこで愛美は違和感を覚えた。
(なんでこのセレクター、ボタンが無いんだろう?」
 セレクターレバーのロックを解除するボタンが見あたらない。というか、そもそも
手にすっぽり収まる形状だ。最近日本車でも採用され初めたゲート式のセレクターな
らばあり得る話だが、93年当時はメルツェデスがそのパテントを有していたので、
それ以外の車には採用されていない。そして、マスターの車は紛れもない日本車。
 だが、不思議な事に左右へは割と簡単に動く。そして極めつけ、
(この…左足に触れるペダルは…… 何?)
 以上の事より導き出される結論。
(ひ、ひょっとして…… まにゅある・とらんす・みっしょん?)
 心の中でムンクの叫びを実演する愛美。
 大正解だった。それはAT比率が9割を超えようかという昨今、希少価値とも言え
るMT車だったのだ。
「どしたの、愛美さん」
 そのショッキングな出来事に暫し硬直していたらしい愛美に、龍之介が不安そうに
声を掛ける。
(はっ! いけない、同乗者に不安を与えては)
 咄嗟に浮かんだのはその事だった。ドライバーの鏡である。尤も、龍之介の方は既
に不安いっぱいだったのだが。
「あ、うん。家の車とちょっと違うなぁって思ってたの。でも大丈夫。免許は持って
るから」
 確かに車全体で見ればペダルの数とシフトレバーの形状にしか(外観的には)差は
ない。愛美の言う『ちょっと』に嘘は無いだろう。そして幸か不幸か、愛美の免許は
AT限定ではなかった。
(大丈夫。出来るわ。教習ではずっとMTだったんだから)
 純粋に運転時間だけを考えれば、現時点ではMT車の方が圧倒的に長い。そして何
より、『愛美ちゃんなら大丈夫だよ』と太鼓判を押してくれたマスターの言葉。それ
を拠り所に愛美は覚悟を決めた。
(隆史さん、私を守って…)
 心の中で呟いて、クラッチを踏みつけギアをロー(1速)へ入れる。サイドブレー
キを外し、そろそろとクラッチを弛めていくと、そろそろと車が動き出した。が、そ
れで気を抜いたのがいけなかった。気が抜けたと同時に、左足からも力が抜けてしまっ
たのだ。
 結果……

 がくん! がくんがくんがくん……←ノッキング
「うわわっ!」
「きゃあぁっ!!」×2
 車内に悲鳴の三重奏が起こる。そして……
 ぷすん←エンスト

 突発的にクラッチが繋がり起こる現象だった。
「………」
「……………」×2
 しかし同乗者には何が起こったのかさっぱり判らない。恐怖で一言も発することが
出来ないようだ。助手席では龍之介が意味もなくシートベルトを握りしめ、バックシー
トではいずみと綾子が抱き合って震えていた。
 一体、何をどうやったら車があんな動きをするんだ? という疑問というか疑念が
漂う気まずい雰囲気。そんな空気を払拭するように、
「あ、あはははは… 教習所の車よりクラッチが重かったみたい」
 笑って誤魔化そうとする愛美。確かに教習車のペカペカのクラッチに比べるとこの
車のクラッチは異常に重い上、繋がる場所が小さすぎた。愛美の言い訳も的を外れて
いるわけでは無いのだ。しかし3人の同乗者にしてみれば、それは正に言い訳でしか
無かった。
「さ、気を取り直して行くわよ」
 とキーに手を掛ける愛美。その一瞬の隙を龍之介が突いた。
 右手でシートベルトを外すと同時に左手をドアノブに掛け、ノブと一体になってい
るロックを小指で外す。同時に残りの指でノブを引きドアを開け放ち、文字通り外へ
転がり出る。
 それこそアッという間の行動だった。時間にして1〜2秒。もう一度やってみろと
言われても恐らく出来ないだろう。
 まるで柔道の受け身のように、転がり出た反動を使ってサッと立ち上がると、
「それじゃ、綾ちゃんも篠原も達者でな」
 しゅたっ、と右手を挙げてミニバンの方へ走り出した。

「あ…、ああっ! ずるいぞ、綾瀬っ!」
 そのあまりの素早さに、呆けていたいずみが一瞬にして我に返り、その背中に罵声
を浴びせかける。そして自らもその後を追うべくシートを倒し外へ出ようとするのだ
が、
「あれ? あれ? …っかしいな?」
 何故か前に倒れない。当たり前だった。
「もぉ… いずみちゃんまでトイレ?」
 あくまでも自分のミスで龍之介が逃げ出したとは思いたくない愛美が、シートが前
に倒れないよう、しっかりと押さえつけていたのだから。

 


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