雲ひとつない空……
その言葉がそのまま当てはまりそうなくらい見事に空は晴れ渡っていた。陽の光も
妨げるモノが無いため、まぶしいほどの照度を提供してくれている。
しかしそんな文句の付けようがない蒼空下のごく一部に於いて、思い切りドス黒い
暗雲が立ちこめている場所があった。
ゴォ―――――ン……
爆音を伴い哨戒機と思しきプロペラ機が、その雲ひとつない空を飛び抜けていく。
龍之介がその機体を見上げ、
「なんだ? 朝っぱらから騒がしいな。何かあったのか?」
隣を歩く人物の機嫌を伺うように尋ねる。
「ニュースぐらい見たら? 自衛隊の飛行機が訓練中に行方不明になったのよ」
この晴天下にも係わらず、心の内に暗雲が立ちこめている少女…… 水野友美は彼
女の幼なじみに向かって、突き放すような口調で答えた。
「なんで飛行機が行方不明になって哨戒機なんだ? アレって確か潜水艦を探すため
のモノじゃなかったっけ?」
普段なら『哨戒』について、事細かな説明がある所なのだが、
「知らないわよ、そんなの」
いよいよもって不機嫌らしい。龍之介もそれに気付き、
「なあ、なに怒ってるんだよ」
と声を掛けるが、
「怒ってない」
ほとんど拗ねた子供だ。龍之介も友美が不機嫌なのはわかったのだが、その原因が
わからない。
「声が怒ってるぞ」
よせばいいのに、けしかけるような事を言う。
と、不意に友美が龍之介の方に向き直り、
「まさかとは思うけど、毎朝唯ちゃんにあんな事して貰っている訳じゃないでしょう
ね?」
「……あんな事って?」
「だ、だからほっぺに……」
「ばっ、ばか、んな訳ないだろっ、今日はたまたまだよ。それにあれは唯のヤツが勝
手にやった事だからな」
言い訳のように聞こえるが、実際言い訳である。だがこれは友美に対する言い訳で
はなく、友美を経由して『誰か』の耳に入るのを防ぐためだ。
「……なんだよそれで怒ってたのか?」
つまんないことで一々怒るなよと言いたげな龍之介に、
「だから怒ってないって言ってるでしょ。ただ、余りにも緊張感が無いから……」
説教じみたことを言う友美。だが、龍之介は聞いちゃいない。それどころか、一転
してからかうような口調になり、
「それならそうと言ってくれ、なんだったらいいぞ、こっち側……」
そう言って左の頬(ちなみに唯は右頬)を指差す。
ばっちん!
当然だが、ここでは唇の代わりに右手が飛んでくる。
まあ、ここで本当にキスが来たら、龍之介も大いに慌てただろうが、友美はそこま
で卓越はしていなかった。
しかしまあ彼女が怒るのも無理のないことだろう。今日は受験日なのだ。例え合格
する確率が9割と出ていようと、残り1割の不安がつきまとうというのが受験生の心
理だ。
もちろん友美もそういう覚悟… というか気構えを持っている。
ところが龍之介ときたら、最終局面の一歩手前でコケたにも係わらず、全然気にし
ている様子がない。それが彼の長所だと言うことは友美も承知しているのだが、余り
にも脳天気な龍之介を見ていると、腹が立ってくる……
と、いうのは友美の内的考察で、結局なんのかんの言っても唯と龍之介が『必要以
上』に仲が良いことが面白くないのだ。
この『必要以上』がどこを境にするのか? …という基準は非常に難しい。
友美にとって唯も龍之介も兄妹のように付き合ってきた間柄である。まして2人は
一緒に住んでいるのだから、仲が良いのは当たり前といえば当たり前だ。逆に2人が
ケンカなどしていたら、友美自身が間に立ってそれを解消しようとするだろう。
しかし……だ、
『ほっぺにチュ』は明らかに許容範囲を超えている。
いや、唯がああいう行動に出たのはまだいい(面白くはないが)。肝心なのは龍之
介がその事についてほとんど何も感じていない点だ。
つまり、友美と唯の想いに全然気付いてないと言うことになる。それがなんとも腹
立たしい。
知らないというのはそれだけ罪な事なのだ。
「ててて…… 相変わらずシャレがわからないな、友美は」
キスマークの代わりに手形のついた左頬を撫でながら苦笑する龍之介に友美は冷や
やかな口調で、
「龍之介くんはシャレで女の子にキスしてもらうのね」
言われてしまう。しかしこの手の言い合いでは龍之介の方に一日の長があった。
「よく言うよ、人の頬に断りもなくチュッチュやってたくせに……」
その瞬間、かぁっと友美の顔に赤味が増す。
「いっ、いつ私がそんな事したのよっ!」
「そうさなぁ… もう今から10年も前になるか……」
からかうように昔話風の口調で語る龍之介。10年前と言ったら幼稚園の頃だ。
「そ… そんな昔のこと……」
覚えていないと言おうとしたらしいが、思いとどまる。第一、顔を真っ赤にしたま
ま反論しても大して説得力は無いだろう。
代わりに極力平静を装うようにして、
「龍之介くんの精神は10年前から成長していないのね」
そう反撃をする。
「えらい言われようだな… せめて『いつまでも少年の様な澄んだ心の持ち主なのね』
くらい言えんのか?」
減らず口だけは年相応… いや、それ以上だろうか?
しかしその言葉通りあの頃の精神のままならどんなに気が楽だろう。10年という
月日は2人の距離を離しこそすれ、近づけるような事はなかった。
現実は恋愛小説や恋愛マンガの世界にはほど遠いと言う事だ。そういう世界では、
お隣同士で同い年は格好のカップルだというのに……
友美はそんな考えを振り払うように…… と言うより、分の悪い話題から逃げるよ
うに、
「そんな事より、この間の模試だけど…… あれ、わざとでしょう?」
唐突に話題を変える。模試とは3週間前に行われた「志望校確定試験」のことだ。
「なんの事だ?」
とぼける龍之介を無視して友美は続ける
「知ってた? 模試が終わった後にやった問題、全部あの模試の類似問題だったのよ。
9割以上出来てたわね」
半年前からずっと午後のお勉強会が日課になっていたのだが、その日も御多分に漏
れず、そのお勉強会が開かれたらしい。その時、問題集から模試の類似問題を抜き出
し、片っ端か
ら龍之介にやらせたのだが、その結果が想像以上によかったのだ。
これが無ければさしもの友美も、強硬に志望校変更を迫っただろう。
「そうか? 回答欄でも間違えたかな」
またもとぼける。最初は彼女もそう思ったのだが、15年以上の付き合いは伊達で
はない。
「慰めてもらえた? 叶さんに……」
王手……。
龍之介が愛衣に気があるのは何となくわかっていた。それでも友美があまり気にし
なかったのは、愛衣の方が相手にしてないように見えるからだ。
ただ、龍之介の弱点であることは認めていた。これも少々癪なのだが……
「な、なんで俺が愛衣に慰めて貰わなくちゃいけないんだよ」
案の定というか、動揺を見せる龍之介。確かに慰めて貰ったというよりは激励され
たという感じだ。とびきり甘い激励だったが……。
「そ、それにだな、ここ半月ぐらい言ってないぞ『Mute』に……」
「そう? 昨日9時過ぎに出掛けるのが見えたんだけど?」
「……ちょっと小腹が空いたんでコンビニに……」
「一時間近くも出掛けてたわけ? 余裕ね試験前日にだっていうのに……」
全てお見通しだ。こうなったら龍之介も開き直るしかない。
「なんだよぅ、試験前だろうがなんだろうが、俺がどこで何をしようと俺の勝手だろ」
「別にあなたが何処をほっつき歩こうが一向に構わないけど、少しは叶さんの迷惑も
考えたら? 閉店間際に押し掛けるなんて非常識よ」
「ふふん、俺を常識で計ろうなんて、友美もまだまだ甘いな」
全然威張れる事じゃないのだが、何故か胸を反らして「大いばりポーズ」をとる龍
之介に友美は怒るのを通り過ぎて呆れてしまった。
「人の迷惑も考えなさいって言ってるの。あなたが思っているほど叶さんも暇じゃな
いだろうし…」
気にしていないとは言っても、そこはそれ… 何となく友美は愛衣に劣等感を抱い
ていた。しかし鈍感な龍之介が、そんな彼女の心の内に気付かぬ訳もなく、それどこ
ろか……
「なんだよ、またやきもちか?」
平手打ちを警戒しながら、冗談めかした口調の龍之介だったが、今度は平手打ちな
どという生やさしいものではなかった。唸りを上げて飛んできたのは、カ……
バンッ!
学校指定の女生徒用鞄は合成皮でそれなりの強度があったりする。しかも彼女の鞄
は主要5科目の参考書がギッシリと詰められていた為、破壊力が倍加していた。
「くぅ〜っ」
鼻の辺りを押さえてその場にうずくまる龍之介。情けないことに涙が出てきた。実
際、この辺りを強打されると涙が止まらないのだ。
もっとも、この場合、自業自得なので同情の余地はない。
「ふんっ」
ずんずんと怒りの足音も高らかに、歩き出す友美。
「いてて… ひでえな、そんなに怒ることも無いだろうに……」
友美の本心を知っていれば、口が裂けても言えないだろうが、知らないと言うこと
は幸せでもあるということだろうか?
グォ―――――ン…
また哨戒機が先程とは反対方向に飛んでいく。先程の機と交代する形で引き上げて
きたモノだろうか?
見ると友美はもう10mくらい先を歩いている。その先は道が十字に交差していて
基本的にはこちらの道の方が優先道だ。備え付けのミラーもあるが、こちら側を通る
人や車両はまず見ていない。
たまたまそのミラーに龍之介の視線が向いた。何かがこちらに向かって走ってくる。
自動車が通れる道幅でもないので、自転車かバイクのセンが濃厚だ。
「おーい友美、なんか来てるぞ」
その背に注意を促すのだが、
グォ―――――ン……
声は上空にある飛行機の爆音に掻き消されたのか、友美は気付かなかったようだ。
「おいおい…」
ミラーに映る二輪車もスピードを緩める気配がない。何となくタイミングがばっち
り合いそうだ。そう考えた瞬間、龍之介は荷物をその場に置いて走り出していた。
上空の音は益々大きくなってくる。これでは例えバイクが騒音を撒き散らしていて
もその存在には気付け無いだろう。
「おい、友美っ! 危ないって……」
今度はその声が届いたのか、振り返る友美…… 声が届いて一瞬ホッとした龍之介
だったが、あろう事か友美は『あっかんべ』をしながら後ろ向きに歩き続けたのだ。
どうやら声は届いたが、言葉は正確に伝わらなかったらしい。
平時であれば友美の仕草の可愛らしさに、ドキッとしたかもしれないが、現状はそ
んな悠長なモノではなかった。
ビッビ―――!
後ろ向きに交差点に入り込んだ友美に、邪魔だと言わんばかりに警笛が鳴らされる。
音からするに、原付自転車だろうか? しかし原付だとて当たればタダじゃ済まない。
「友美っ!」
龍之介は叫ぶと同時に、咄嗟に手を伸ばし友美の腕を掴むと、あらん限りの力で自
分の方へ引き寄せた。
直後、カン高い騒音を撒き散らしながら原付が走り過ぎていく。
取り敢えず当面の危機は過ぎ去った訳だが、息をつく間もなく次の危機が差し迫っ
ていた。なんとなれば……
「おっ……」
余りにも勢いよく友美を引っ張り過ぎた為、龍之介の重心移動が追いつかなかった
らしい。結果……
「きゃっ……」
「うわっ…」
で〜〜〜ん!
2月の冷えたアスファルトの上に折り重なるようにして倒れる2人。端から見れば
友美が龍之介を押し倒したように見える。
「ご、ごめんなさい」
やはり自分に非があると思ったのか、口元に手をやりながら素直に謝る友美。しか
し何故かその顔は良く熟れたトマトのように真っ赤だ。
「い、いや…、怪我とか無いか?」
そしてどういう訳だか、龍之介の顔も若干赤く見え、さらに落ち着き無く周囲を見
回している。朝の通勤時間ゆえ、パラパラと人通りはあったが、彼らの事を気にして
いる人間はいないようだった。
ここで何が起こったのか解説する必要があるだろう。
簡単に言えば、倒れた拍子に龍之介の頬に友美の唇が触れてしまったのだ。
「………」
暫く無言で2人は制服に付いた埃をパタパタと叩(はた)いていたのだが、顔を上
げた瞬間、ハタと目があってしまった。
「あ、あのさ…」「あのっ…」
ほぼ同時に口を開くが、余りにもピッタリハモってしまった為、お互い口を噤む結
果になってしまう。
「は、ははは…… ま、まあ、事故だ事故。気にするな、俗に言う不可抗力ってヤツ
だな」
努めて事も無げに笑う龍之介だが、友美の方はそれどころでは無い。不可抗力にし
ろ何にしろ、龍之介にキスしてしまったのだ。気にするなと言う方が無理だろう。
しかもご丁寧に龍之介がリクエストした左頬にだ。
「………」
「…………」
何となく気まずい雰囲気が漂う。
しかし雰囲気とは裏腹に、2人の心の内は結構明るめだったりする。
龍之介にしてみれば、事故とは言え女の子にキスして貰えたのだ。しかも昨日から
数えて都合3人目である。これで嬉しくないなどと言ったら、天罰が下るだろう。
一方の友美もこれまた事故とは言え、リードを許したと思った唯にあっさりと並ぶ
ことが出来たのだ。さっきまでのモヤモヤとした気分は、どこかに吹き飛んでしまっ
た。
しかし、いつまでもここで『嬉し恥ずかし』の空間を形成している訳にも行かない。
家を出るのが少し遅めだったので、
「あ……、そろそろ行かないと……」
こういった時、先に現実に立ち戻るのは大抵女の子の方である。龍之介も友美の言
葉で現実に引き戻さたのか、左腕の時計に目をやり、
「ありゃ、本当だ。ギリギリじゃねぇか」
慌てて、置き去りにした弁当と鞄を取りに戻る。その顔は緩む表情を必死に押さえ
ているかの様だ。友美からは見えなかったが……
「よっしゃ、行くか」
「うん」
こうして2人は、何となく足取りも軽やかに、試験会場である八十八学園に向かっ
たわけだが……
しかし大丈夫だろうか?
この2人、試験会場に向かう途中で転んでいるのである。
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