〜10years Episode20〜
構想・打鍵 Zeke

 この作品はフィクションです。登場する人物、名称、土地、出来事等は実在するものではありません。 
 本作は(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を設定として使用しております。

1993年   

 2月も下旬に入ろうかというある夜。
 空は冬が天体観測に最も適した季節であることを証明するかのように晴れ渡り、無
数の瞬きが夜空を埋め尽くしている。  
 惜しむらくは、天体観測をするにはこの身を切るような寒さは少しばかり辛い。天
気予報によれば、外気温は零度近くまで下がると言うことだった。  
 ただそれは屋外のみの話である。屋内では様々な暖房器具がその能力を遺憾なく  
発揮し、人間にとって快適な環境を整えていた。  
 そして、それは閉店時間を間近にした某ピザハウスも例外ではない。   

「まったく、ここはいつ来ても暇そうだな」  
 龍之介が出されたばかりのコーヒーを口に運びながら、独り言のように呟いた。  
 確かに彼の言う通り店には龍之介の他に誰もいない。いや、正確にはカウンターの
中にアルバイトの店員がいるのだが、それはこの際問題にならないだろう。  
 ただ…、  
「良く言うわね。閉店間際に押し掛けてきて」  
 カウンターの中から、怒ったように愛衣が睨み付ける。もっとも龍之介にはどこ吹
く風で全く通じていない。お客様は神様ですと言わんばかりに悠然とコーヒーをすすっ
ている。
 これでは、愛衣が怒るのも無理はない。それよりなにより、龍之介は最後のお客が
店を出ようとした時、計ったように入ってきたのだ。  
 まさか他のお客がいる前で「出て行け」とは言えず、黙って受け入れた。もっとも
、愛衣にしてもさほど怒っているわけではない。なにしろ会うのは三週間ぶりくらい
なのだ。
 愛美などは、  
「あんまりいじめるから……」  
 などと言っていたが、それにはちゃんとした理由がある。   

 受験……だ。  
 大人しくそれ相応の高校に進学すればいいものを、龍之介は無謀にも2ランク上の
八十八学園を受験しようとしていた。その理由はともかく、合格を手中に収めるべく、
死にものぐるいで勉強した……らしい。  
 それが夏休み直後の話。  
 で、3週間前には、龍之介と一緒に店に来た彼の幼なじみ、兼家庭教師の友美が、
「奇跡が起こるかもしれない」  
 と言う程までに学力が向上した……らしい。  
『……らしい』というのは直接龍之介の学力が向上している証を見ている訳では無い
からだ。   

「それにしても随分と余裕ね。確か試験は明日じゃなかった?」  
 実は龍之介が受験する八十八学園は、現在愛衣が通っている高校だった(彼女はこ
の春で卒業してしまうのだが……)。故に受験日も自ずと耳に入ってくる。もっとも
彼女の耳に入れたのは愛美だったが…  
 それはともかく、試験を明日に控えた受験生が、こんな所で油を売っていれば余裕
があると思うのも当然かもしれない……のだが、  
「余裕、あるように見えるか?」  
 応える龍之介は、その顔に自嘲気味な笑みを湛えていた。そしてポケットをまさぐ
り、取り出した紙片を愛衣へ手渡す。  
 頭書きには『志望校確定試験の結果』とあった。  
 これは、受験する学校を最終的に見極めるための試験で、これにより志望校を最終
的に決める為の目安となる。不安ならば滑り止めを受験したり、ランクを下げるといっ
たようにだ。  
 その妙に細長い紙片を見て、愛衣は眉を顰め怪訝な声をあげた。  
「ランクC?」  
 それも当然で、ランク分けはAを最高にEまでの5ランクに分かれていいる。ラン
クCは『志望校変更の要ありと認む』に相当するのだ。  
「なるほど、諦めたわけだ」  
 紙片を返しながら不敵な笑みを浮かべる。  
「まあ、ランクEにならない位には頑張ったんだからいいんじゃない? もちろん賭
 は私の勝ちだけど……」  
 賭とは、龍之介が八十八学園を受験する間接的な原因となった要因である。  
『受からなかったら、何でも言うことを聞く、受かったら逆に聞いてもらう』  
 という些か子供じみた賭だった。  
「誰が諦めるって言った? 逃げ出すのは俺の主義に反する」  
 ちょっとムッとしたような顔つきで、愛衣をねめつける。  
「ふーん、受けるんだ? まあ、受けるのは自由だからいいけどね。……他は何処の
 高校を受験するわけ?」  
 至極当然な疑問だ。合格が難しい八十八学園だけを受験するよりも、ランクが低い
学校と併願で受験するのは誰でもやることである。  
 ただ、龍之介は普通ではない。彼はカップの底の方に残ったコーヒーを一息に飲み
干し、
「八十八学園一本」  
 きっぱりと言い切った。続けて、  
「私立は併願すると厳しくなるって話だからな。背水の陣だ」  
 確かに併願すると評価が落ちるという話はあるようだが、それは合格率が5割を切っ
た受験生が口にするセリフではない。  
「背水の陣……ね、心意気は立派だけど、万一落ちたらどうする気? 二次募集があ
 るからなんて気でいると……」  
(ズルズル行くよ)という忠告を与えようとした愛衣を、  
「受かるさ」  
 龍之介の静かな一言が遮った。  
「受かるよ。でなきゃ付き合ってもらっている友美に悪いもんな」  
 滅多に見せない真剣な顔つきは、愛衣の考えが杞憂であることを告げていた。自棄
になっているわけでも、気負っているわけでもない……自分ではなく、他の誰かの為
なら不可能も可能にするような決意の表情。  
 そんな龍之介を見、愛衣は少し茶化したような声で言葉を継いだ。  
「それに、唯にも格好がつかないし……でしょ?」  
 全てお見通しと言うわけだ。   

                  ☆ 

 実を言うと、八十八学園は学力レベルも高いが、入学金と授業料もそれに負けない
くらい高額なのだ。
 付近の住民や周辺の高校などから、  
『お坊ちゃん学校』  
 などと呼ばれているのもそれ故だった。  
 龍之介も当初はそんな風に八十八学園を揶揄していたのだが、進路を決める段になっ
て、唯が執拗に自分の志望校を聞いてくることで、ある決意を固める。  
 同じ高校に入学するとなったら…、いや同じ高校を受験するだけで下らない噂が再
燃する事を龍之介は恐れたのだ。そこで彼は八十八学園に白羽の矢を立てた。  
 いくら美佐子が自分の父の仕事を手伝ったり喫茶店を経営していても、所詮唯は居
候だ。バカみたいに高い入学金や毎月の授業料を支払うのは厳しいだろうし、唯もま
たそこまでの無理を美佐子に強いる事は無いだろう。  
 そういう卑怯なまでの計算を元に、龍之介は八十八学園を志望校とした。そして美
佐子も龍之介の意を汲んだ。  
 実を言うと唯の入学金や授業料の心配はそれほど無かった。事故死した夫の慰謝料
は手つかずのまま残っていたし、僅かとは言え龍之介の父親からも給料と呼べるもの
は貰っていた。これとは別に毎月の生活費が入ってくるので、それらには手をつける
必要がほとんど無いのだ。  
 だが、それでも美佐子は龍之介の稚拙なまでの考えに乗った。それが娘の… 唯の
為にも良いと判断したからだ。  
 母親想いの唯がどうしてそれを覆せよう。いや、あるいは唯もまた龍之介の気持ち
を察したのかも知れない。   

                  ☆ 

「ちぇ…」  
 龍之介も愛衣の言葉を否定しても無駄だと悟ったのか、小さく舌打ちしただけで何
も言い返さない。と…、  
「で?」  
 いつの間にか、カウンターから龍之介の隣にあるスツールに腰を下ろした愛衣が、
彼の眼を覗き込んでいる。  
「なんだよ」  
 何故か引き気味に聞き返す龍之介。  
「それを言いに『Mute』(ここ)へ来たわけ?」  
「別にぃ… ただ、ここのコーヒーを飲めば気合いが入るかなと思ったんだよ」  
 確かにカフェインは脳の働きを活性する効果があると言うが、コーヒーだけなら自
販機でも売っている。愛衣にもそれが分かっているのか、  
「ふーん… で、気合いは入った? その顔じゃ入っているようには見えないけど…」
 頬杖をついて例の小悪魔的な笑みを龍之介に向ける。  
「な、何が言いたいんだよ」  
 戦(おのの)く龍之介。ほとんどパブロフの犬だ。  
「よくあるじゃない。気合いを入れる為にほっぺた叩くとか… やってあげようか?」
 空いた左手をそっと龍之介に近づける。  
「なんでそーゆー発想になるんだよ。もっと他に考えようがあるだろ、優しい言葉を
 掛けるとか、激励するとか…」  
 その手から逃れるようにして、断固拒否の姿勢をとる。  
 もっともな意見だ。そんな気合いの入れ方をされたら、明日頬に手形を着けたまま
受験するハメになるとも限らない。  
「なんだ、そーゆーのを期待してたんだ…」  
 愛衣はさも残念そうに左手を下ろすと、   

「じゃあ……」  
 それは一瞬の出来事だった。  
 彼女はまるで舞うように座っていたスツールを離れると、そのまま自分の唇を龍之
介の同じ場所に軽く触れさせる。   

「!」  
 あまりにもとっさの出来事に、龍之介はただ黙ってそれを受け入れる格好になった。
 香水なのだろうか、柑橘系の香りが龍之介鼻をくすぐる。  
 ……ほんの数秒、それこそ1秒か2秒の逢瀬。  
 スッと先程とは対照的に、ゆっくりと龍之介から離れる愛衣が、  
「気合い… 入った?」  
 自分のスツールに身体を預けるようにして、何事も無かったように龍之介を見つめ
る。
「え… あ… う、うん」  
 混乱する頭でなんとか返答するが、とても気合いが入ったような声ではない。
「…そぅ」  
 こちらはこちらで、それを追求するようなこともせず、
「じゃあ、さっさと帰って明日に備えた方がいいんじゃない? 寝不足は辛いよ。
 ……さてと、私は後片付けをするとしますか」  
 いつもと変わらぬ足取りで、掃除用具のあるロッカールームに消えていく。ただ、
いつもと変わらなかったのはそこまでで、  
「ふぅ…」  
 溜息をついて、閉めたばかりのドアにトンと寄りかかり、そっと唇に手を当てる。
「私の方が寝不足になるかもね」  
 そう呟いた刹那…  
「あのさ……」
 ドア越しではあったが、突然背後から声を掛けられ、飛び上がりそうになった。
「な、なに?」
 動揺を悟られないように言葉を返す。いま呟いた言葉が聞かれてしまったかもし
れないと頭の片隅でチラッと思ったが、それならそれでいいかなと思う自分に苦笑
する。
「俺……」
 何かを言いかけて言葉を失ったような雰囲気がドアの向こうから伝わってくるが、
愛衣は黙って次の言葉を待った。 

「……俺、受かるから……」
 暫くの間を置いて、今度ははっきりとした言葉が伝わってくる。そしてそれに対
し、
「うん……」
 これ以上優しい声は出ないんじゃないか? という位の声を返す愛衣。
「で…… えーと… まあ、なんだ…」
 一転して又も言い淀む様な口調になる。
「その…… 受かったら…… 俺、ちゃんと言うから……」
 ここで『なにを?』と聞き返すほど愛衣も無粋では無い。ただ一言、
「ん、待ってる」
 これで十分伝わった筈だ。
  

「じゃ、帰るから……」
 スッとドアから離れる気配。そして出口のドアに手を掛けたのか、『カラン』とい
うカウベルの音……
 ガチャッ
 愛衣は衝動的に目の前のドアを開け放っていた。今まさに店の外へ出ようとした龍
之介の動きがピタリと止まる。
「あ……」
 その背に何か言葉を掛けたかったが、気の利いた言葉が出てこない。ほんの少しの
間をおいた後、 

「…がんばれ」
 結局それだけしか言えなかった。
  しかし龍之介は背を向けたまま、軽く右手を上げ、小さくガッツポーズを作って応
えてくれた。そしてそのまま振り向かずに、ドアの向こうの闇に消えて行く。 

 ララァン……
 カウベルの音が一人だけになった店内にこだましていた。
 その音が消える間際、
「……がんばれ」
 もう一度だけ、愛衣は小さく呟いた。


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