1992年12月23日
「明後日はもうクリスマスなんだな。」
「そうね。」
正面に座る幼なじみに私は気のない返事を返した。
「……って事は明日はクリスマスイブな訳だ。」
「受験生にクリスマスもクリスマスイブも無いでしょう?」
解き終わった問題集から顔を上げ言ってあげる。
今年中学三年生の私達は必然的に来年早々に高校受験を控えている。つまり立派な
受験生なのだ。
「一日くらい息抜きしても罰は当たらないと思うぞ。」
もうさっきから同じような会話を三度は繰り返している。確かに今日は23日で明
日は24日、クリスマスイブだ。
ただ、それも受験というものが無ければの話で……と、私も最初の内は思っていた。
受験生なのに遊ぶなんて……。
でも……今は……ちょっとだけ……『一日くらい息抜きしてもいいかな』なんて思
い始めていた。どうやら、彼の話術に巧く乗せられてしまったみたいだ。
「去年取り壊された如月遊園地、リニューアルされてオープンしたらしいんだ。」
「取り壊されたのは一昨年の十月でしょ。」
「……相変わらず細かいな。ま、いいや。俺まだ行ってないんだ。」
(誘ってくれてるのかしら?)
もう15年以上の付き合いなのに、彼のこういう所が未だに解らない。
「それはいいけど、問題集終わった?」
「はっはっは、とっくに終わってるぞ。」
「じゃ、今やった所が全問正解だったら24日に息抜きしてもいいわよ。」
彼のテキストに素早く手を伸ばし、言ってあげる。
「ま、待て。だったらもう一度見直しを……。」
慌てる彼が私からテキストを奪い返そうとするが、そうはいかない。大体腕組みを
して高笑いしている状態から、既に私の手に掛かっているテキストを奪い返せるわけ
がない。自慢じゃないけど運動神経は良い方なのだ。
「受験にやり直しは無いのよ。龍之介君は私が見ている間に英単語を覚えてね。今日
はここから問題を出すから。」
拝むような目で私を見ている彼を無視して、自分の解答と照らし合わせてみる。3
問目で早くも躓いていた。
(これは……駄目ね。)
そう思ったけど、結局間違いはその一問だけで、後は文句無しの正解だった。
(……さて、どうしよう)
確かにこの中で一番難しいのは3問目だ。それはこの問題の正答率の低さからも伺
える。
(90点か……)
チラリと目だけを龍之介君の方に向けると、真剣な目で英単語帳とにらめっこして
いる。
「ねえ、この3問目だけど……」
「おっ、それか。それは自信があるぞ。常人では考えてしまうかもしれないが、俺に
掛かれば……」
「間違ってるわよ。」
「……嘘だろ? だってこの公式をこう当てはめて、この数値を……」
うんうん、あれ? 考え方はあってる。どうして間違ってるのかしら?
「……そんで、最後に全部を足しあわせると……あれ? ……なあ、もしかして答っ
て……これか?」
「大変良くできました。」
またいつものケアレスミスだ。龍之介君っていつも最後の詰めが甘いのよ。
「ともみぃ〜」
猫なで声ってきっとこういうのを言うのね。
「なにかしら?」
「今日は一段とかわいいな。」
いつもと同じよ。どうせお世辞でしょ。でも一応、
「ありがとう」
と言っておく。
「いや、ホント。友美に勉強を教えて貰えるなんて、俺はなんて幸運なんだ。」
都合が悪くなると人をおだてるところはちっとも変わってない。
「約束は約束。」
「約束たって、友美が一方的に……」
ほら、本性が出た。
「なに、落ちてもいいの? 叶先輩に大口叩いてなかったっけ?」
そうなのだ。恐らく龍之介君が八十八学園に進学すると言い出した原因の8割は彼
女にある。
叶 愛衣……私達より3つ年上で八十八学園の3年生、そして私達にとって付き合
いは短いけど、お姉さんみたいな女性(ひと)。
二学期の始業式の日だったと思う。進学先の学校が決まっていない龍之介君に一言
言って貰うつもりで『Mute』に行ったんだけど、
☆
「んじゃ、愛衣と同じ学校に受けるかな。」
「ま、受けるだけなら龍之介でも出来るわね。」
「愛衣が受かったんだから、無理って事は無いだろう。」
「……まあ、死ぬ気で頑張れば受からない事もないと思うけど。受かっても私卒業し
ちゃってるよ。」
「留年すれば?」
「……そっか、留年すれば一緒に通えるわね。」
「へっ?」
「ちょっ… 叶さんっ!」
なんて事言ってくれるんだこの人わっ。
ヒソヒソ
(なに? 激励するんじゃ無かったの?)
(止めて欲しかったんですっ。龍之介君の成績じゃ八十八学園はちょっと……)
(ちょっとなの?)
(いえ、かなり……)
「お前ら……、密談するなら本人に聞こえないようにしろよ」
き、聞こえてた?
「あったま来た。絶対八十八学園に入ってやる。」
まあ、いいか。八十八学園がどの程度のレベルか知れば考え直すも知れない。
「実際の所どうなの?」
「そうですねぇ、龍之介君がやる気になればひょっとしたら……ってとこですか。そ
のやる気が半年間保つ事が前提になりますけど。」
「やる気なら俺の身体に漲(みなぎ)っているぞ。」
そりゃ、今はね……三日保てば御の字だわ。はぁ……
「友美、全然俺を信用してないだろ。……よーし、んじゃもし受からなかったら、二
人の言うことを何でも聞いてやる。」
また下らない事を……
「面白いわね、『Mute』で1ヶ月タダ働して貰おうかしら。」
この人はこの人で独断専行だし……
「ただし! 受かったらこっちの言うことを何でも聞いて貰うぞ。」
な、何よそれは……私を抜いて話を進めないでよ。
「いいわよ。」
ちょっとぉ……。
私は叶さんをカウンターの端まで引っ張って行き、
「いいんですか? あんな約束して……」
「要はやる気でしょ? あれでやる気が出るなら安い物よ。」
「でも、何でも言うこと聞くって言うのは………身体とか要求されたらどうするんで
すか?」
「……すっごい事言うのね。」
目を見開いて私の顔を覗き込んでくる。だって……ねぇ。
「大丈夫、ちゃんと考えてるから。それより、あとよろしくね。」
そう言って新しく入ってきたお客さんの所にオーダーを取りに行ってしまった。
あと? 後ってなに?
それからお店が忙しくなったのか、私達は追い出されるように『Mute』を後に
した。で……
「とゆー訳で友美、受験勉強に付き合ってくれ。」
……って、どこがどーなって『とゆー訳』になるのかさっぱり分からない。いや、
責任の一端があるのは認めるけれども……。
さっき叶先輩が言ってた「後」って、このことかしら? もしかして、私って都合
のいい女? などと思いつつも、結局、
「しょうがないわね。」
と引き受けてしまったのは、私の志望校が八十八学園だったからとか、一緒に勉強
が出来るからとか、そんな不純な動機ではなく……えーと。ほら、やっぱり幼なじみ
が勉強できないと自分の責任みたいで、なにかと……ね。
そりゃ、小さい頃は
『龍くんのお嫁さんになる。』
なんて言っていたけど、今はそんな事思ってないし、思ってたって口に出せるわけ
ないし……でも、一緒の高校に行ければもしかして……、
ちがうわよっ! そういう理由じゃなくて……そ、そう。昔いじめられていた私を
助けてくれた恩があるから、その義理が果たせると思って引き受けたのっ。
……それだけなんだから。でも、反対にいじめられた事もあったけど。
☆
「……もみ? 友美!」
はっ! いけない。
「ご、ごめんなさい。ちょっとボーッとしてたわ。」
「大丈夫か? 毎日付き合って貰ってるからな。」
そう言って私の顔を心配そうにのぞき込んでくれる。こういう優しい所も変わって
ないのね。ちょっと嬉しいかな。
「無理は良くないぞ……やっぱり明日は息抜きの為に休憩を。」
前言撤回っ!!
「単語帳仕舞って! 英単語テスト30問。」
「へっ!? い、いつもは20問じゃ……」
うるさいっ!
睨みつけると珍しく何も言わずに引き下がった。これ以上私の機嫌を損ねると、本
当に明日休めなくなると思ったのだろう。そう考えるとちょっとかわいそうに思えた
りして……。
まあ、年に一度のクリスマスだし、龍之介君もよく頑張ってるし、この調子で行け
ば、八十八学園の合格ラインまで届きそうだし、別にいいわよね、一日くらい。あま
り根詰めると逆効果だって話だし……。
そう言えば龍之介君と出掛けるなんて何ヶ月ぶりかな。
なんて事を考えていると、自然と易しい単語ばかり出してしまう。
「どうだ?」
「うん、全問正解。」
「そうだろう、そうだろう。これで明日は休みだな。」
もう、そんなこと誰が言ったのよ。でも……
「そうね、年に一度のクリスマスだし……いいわよ。」
その代わり、明日お昼ご飯をご馳走して貰おう。
「ぃやたっ! 実は樹や誠達と行こうって話があったんだ。早速電話して……」
バンバンバンッ!!
↑【作者註:友美が、持っていた参考書やノートをテーブルにたたきつけた音】
なんでそうなるのよっ! だって話の流れから行けば、当然私を誘ってるものと思
うじゃない。
「どうした? 友美。」
どうした? どうしたですって? どうもしないわよ、ふんっ!
「私、帰る!」
止めても無駄よ、帰るんだから。でも、止めるなら今の内よ。
「あ、ああ。じゃ、また明後日頼むな。」
鈍感鈍感鈍感! どうして引き留めてくれないのよ。これじゃ本当に帰るしかない
じゃない。
キッ と睨み付けてあげるが、龍之介君は後かたづけの真っ最中で、私の方を見よ
うともしない。もう〜。
「友美ちゃんごめんなさい。龍之介君、頭に『超』の字がつく程鈍感だから……」
えっ、あっ美佐子さん。ち、違うんです、別にそう言う意味じゃなくて……
やだ、なんか顔が火照って来た。
「さ、さよなら」
どうせ龍之介君は気付きもしないだろうけど、いや、気付いたところで、
『熱でもあるのか?』
とか言われそうだ。それを聞くのも悲しいので、私は派手にカウベルを鳴らして
『憩』を後にした。
☆
☆
「えーと、太平洋戦争初期に日本軍が先制攻撃を行ったアメリカの根拠地を答えよ?
ハワイ……っと。」
日本史よ。悪い?
「問一の攻撃に参加した6隻の航空母艦すべてを記せ? 赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、
それと……蒼龍、飛…龍……りゅう、龍之介君のばかっ!」
はっ、何書いてるのよ私。
コンコン
言って置くけど、別に龍之介君に誘って欲しかった訳じゃないわよ。
コンコンコン
そう、遊園地に行きたかったのよ。久しぶりだし……。
ガンガン
わかってるわよ。気付いてるけどそんな簡単に出ていける訳ないでしょ。
ガンガンガン
ちょっと……ガラスが割れるじゃない。
……ガラスが割れると困るわね。
……断って置くけど、窓が割れたら困るから会うのよ。許した訳じゃないんだから。
許さないと言う意志表示の為に傍らに置いてあった広辞林を手に取り、カーテンを
開ける。
「なによ、龍之介君。」
「いるんなら早く出ろよ。寒いんだから。」
私の心の寒さに比べれば大したこと無いでしょっ。
「何? わからない問題でもあった?」
どうせその程度のことなんだから。
「いや、そうじゃなくてだな……お前、明日暇か?」
え?
「暇なら俺と遊びに行かないか?」
え? え?
「だって、龍之介君明日は……。」
「ああ、樹に電話したら、他に予定入れちまったらしいんだ。」
「い、いいの?」
「なにが?」
「なにがって、せっかく休めるのに私と一緒で……。」
「ん。まあ世話になってるしな。お礼の意味も込めてって事で。行かないか?」
「……えーと、唯ちゃんも一緒なの?」
「まだ言ってないけど……やっぱり唯が一緒の方がいいか?」
言ってないの……?
「む、無理に誘う事無いわ。唯ちゃんも受験勉強があるだろうし……。いいわよ、私
でよければつきあわせて貰う。」
唯ちゃんごめん。
「よしよし。じゃ、明日の9時に迎えに行くからな。」
「あ、あのっ……!」
「なんだよ。」
「どうせなら駅で待ち合わせしない?」
一度やってみたかったの。
「は? 別にいいけど。どうしてだ?」
「ふ、深い意味はないけど……何となくね。」
「ふーん。ま、いいけど。じゃ、八十八駅前に9時半でいいか?」
「うん。遅刻しないでね。」
「まかせろ。遊びに行く時だけは遅刻しないんだ。じゃ、明日。」
「うん。お休みなさい。」
私は窓とカーテンを閉めると速攻でクローゼットを開け、中にある洋服の物色を始
めた。
いいじゃない別に……女の子だもの。出掛ける時、洋服に気を使うのは当然でしょ。
そうだ! この前買ったあれもつけて行こう。龍之介君、気付いてくれるかな?
……無理ね。そんな事に気が回る人じゃないもの。でも気付いてくれたら嬉しいな。
☆ ☆
……翌日。
九時半ぴったりに私は八十八駅前にたどり着いた。期待はしてなかったけど、やっ
ぱり龍之介君はいない。
ふぅ、『ごめんなさい。待った?』なんて台詞を言ってみたかったんだけどな。
「友美……」
「え? あ、龍之介君。」
「お前、ハナから俺が来てないものだと思ってただろ。少しは探せよ。」
「き、来てたの?」
「ああ、友美が来る少し前にな。」
思わず空を見上げてしまう。見上げた空には雲ひとつ無く……とまでは行かないけ
れど、雨や雪が降り出してきそうな気配はなかった。
「ご、ごめんなさい。待った?」
「だから少しな。切符買ってたんだ、行こうぜ。」
私に一枚の切符を差し出す。
「あ、お金……。」
「いいよ。今日は俺に付き合ってもら……ん?」
不意に言葉を切って龍之介君は私の顔をじっと見つめる。
も、もしかして気付いてくれたのかしら?
「へー、ルージュひいたんだ。その色、友美に似合ってるよ。」
かぁっ……
や、やだ。ちょっと、なんで顔が熱くなるのよ。
そりゃ、気付いてくれればいいなとは思っていたけど、ちょっと見ただけで気付い
てくれるなんて……
あ、鏡なんて見なくてもわかる。私、今耳まで真っ赤だ。
「どした? 友美。」
「な、なんでもない。」
って、俯いたまま言ってもあんまり説得力が無いわね。
「照れること無いじゃん。」
ばか。そんなこと言われたら余計に……
結局、私はホームに上がって涼しい風に当たるまで龍之介君の足下を見て歩く羽目
になった。……だって顔、上げられないんだもの。
冷たい風が頬を冷やし、顔の火照りがひいた頃に、ようやく電車がホームに滑り込
んできた。
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