【そのままの君でいて】
3人分の朝食が並べられたテーブルで唯と美佐子だけが黙々と朝食を採っていた。
龍之介がこの席にいないのは今に始まったことではない。昔から夜更かしの過ぎる
龍之介は基本的に朝が苦手で、この7年間で朝食時に3人が揃って朝食を採るなどと
いうことはあまりなかった。
いつもと変わらぬ朝食の席。
いや、敢えて相違点を探すなら、何点かの違いはある。その最たるものは唯の髪型
であろう。
3人で一緒に暮らし始めてからずっと、唯の頭にはリボンが結わえられていた。
単に髪に結わえられているだけだったり、髪をまとめる為に結わえられていたりと
用途や色、大きさ等の違いはあったものの、リボンが唯の頭から無くなることは無かっ
た。
二人がケンカした時でも、そう‥‥一昨年、唯が家を飛び出した時でさえ、リボン
が解かれることは無かったのだ。
そのリボンが‥‥唯の頭から消えていた。
美佐子自身はリボンの由来を直接唯に聞いたことは無かったのだが、どんな意味を
持っているのかは大体察しがついていた。もちろんリボンが解かれた理由にも‥‥
「‥‥龍之介君に会った?」
静かに聞く。
「ごはん‥‥食べてから。」
いつもより食べるのが遅い気がしたのは気のせいではなかったようだ。
「そう‥‥」
その言葉を最後に、二人の無言の食事が再開された。
☆
一方、唯にとってリボンは美佐子が思っているよりも特別な意味を持っていた。
一緒に暮らすと決まったとき、龍之介が結わえてくれたリボン。
以来、唯にとってリボンは自分の存在を『龍之介に』アピールするモノになった。
(そのリボンを解いた意味に、お兄ちゃんは気付いてくれるだろうか?)
龍之介の部屋の前に立つ唯。自分から言葉で聞くのは恐かった。
たった一言、
『どうしたんだ?』
と聞いてくれるだけでも今の自分には励みになる、そう考えた末の行動だった。
だが、もし何も言ってくれなかったら‥‥今の自分を見て、何の反応も示してくれ
なかったら、その時は‥‥
チャッ‥‥
突如、何の前触れもなく目の前のドアが開いた。
「あ‥‥。」
会いたかった人がそこにいた。
実際、この2日間ろくに顔を合わせていなかったのだ。いや、合わせられなかった
と言うべきだろう。直接龍之介から『もう一緒に暮らすのはやめよう』という言葉を
聞くのが怖かったのだ。
もちろん今だって背を向けて逃げ出したくなるくらい怖い。目の前にいる龍之介か
ら、いつその言葉が出るとも限らないのだ。
その開いたドアの向こう、目が一瞬龍之介と合う‥‥が、一瞬合っただけで視線を
落としてしまう。まともに顔を見ることなど出来なかった。
他方、龍之介も言葉を失ってしまっていた。
目の前に立つ女の子が唯だと言うことにはすぐに気付いたのだが、そのギャップの
大きさにしばし絶句してしまったようだ。
「髪型‥‥かえたのか?」
数秒の後、やっとそれだけを言う。それに対し、俯いたまま顔も上げずに、
「うん‥‥似合わない‥‥かな?」
長めの髪を指で弄ぶようにして答える。
社会的通念からいえば女の子の髪型が変わった場合、『似合ってるね』とか『いい
感じじゃない』といったような褒め言葉を掛ける(多少の例外は除くにしても)。
しかし、今の状態が前記の『社会的通念』には当てはまらない事ぐらい龍之介にも
わかっていた。いや、昨日までだったらわからなかったかも知れない。
だから‥‥
「やめとけ、全っ然似合ってねーぞ。」
「!?」
思わぬ答えに唯が顔を上げる。実際の所、唯も半ば諦めていたのだ。そんな唯に気
付かぬフリで龍之介が続ける。
「大体童顔のお前にロングが似合うわきゃねーだろ。大人しくリボン結んで、可愛い
路線で行っとけ。」
一歩間違えれば、最低男のレッテルが貼られる発言であるが、今の唯にとってはこ
れ以上はないと言うくらい答えだった。しかも‥‥
「リボン‥‥結んでた方のが、可愛いの?」
最近失言が多い龍之介。
「え、あ‥‥い、今よりマシって意味だぞ。」
「なんだ、つまんない‥‥」
やや不満そうに呟く。
「そ、そんな事より早く行かないと遅刻するぞ。」
「まだ平気だよ。‥‥あ、ちょっと待ってて。」
そう言って自分の部屋に駆け込んで行く唯。その後ろ姿を見ながら、
「女って髪型ひとつであんなに変わるのか‥‥でも考えてみりゃ美佐子さんの娘だも
んなぁ。」
ぶつぶつと独りごちる龍之介。かなり複雑な心境なのだろう。
「ねえねえ、どれがいいと思う?」
1分ほどして部屋から出て来た唯は、両手一杯にリボンを抱えていた。そしてそれ
を龍之介の前に差し出してみせ、
「お兄ちゃんのゆー通り、リボンして行くから、どれがいいか決めて。」
「はあ?」
どこがどーなってそーゆー結果になったのかわからないといった感じの龍之介。
「今日はお兄ちゃんが選んでくれたリボンを着けて行くから。」
満面の笑みを携えて龍之介に迫る。
「あのな‥‥んーなのは自分で決めろ。」
「リボンをした方のが可愛いって言ったのお兄ちゃんだよ。」
「今の髪型よりマシなだけだ。」
「でも言ったでしょ?」
最近、唯も龍之介の扱い方が慣れてきたようだ。
「ちぇ‥‥じゃあ、これ。」
一番てっぺんにあったリボンを無造作に取り上げる龍之介。もちろんそんな選び方
で唯が納得するわけがなく、
「ちゃんと選んでよ。」
ずいっ、とリボンの山を龍之介に突き出す。
「選んだじゃないかよ。」
龍之介も反論する。
「うそだよ。一番上にあったのを取っただけじゃない。」
さすがに良く見ている。
渋々と龍之介がリボンの山を検索しはじめる。もちろん『フリ』なのだが‥‥
「ほれ、これでいいだろ?」
たっぷり(?)10秒掛けて選んだリボンを唯に掲げてみせる。
「その‥‥リボンがいいの?」
意表を突かれた風な唯の表情。
「これが嫌なら自分で決めろ、これ以上は付き合いきれん。」
突き放すように言い放つ龍之介。
それに対し唯は首を振り、そして微笑み、
「ううん、それにする。‥‥ね、あの時と同じだね。」
龍之介の目をじっと見つめる。
「なんの話だ?」
龍之介も唯の目を見つめ返すが、ほんの数秒でそれは龍之介の方から外された。つ
まり惚(とぼけ)けていたのだ。
もちろん唯にもそれはバレてしまっていたようで、
「うそつき。」
尚も笑みを絶やさず龍之介を見つめていたが、不意にくるりと龍之介に背を向ける
と、
「ねぇ、結って。」
髪を結わえて欲しいらしい。
「なにぃ!?」
「だって唯、両手がふさがっちゃってるんだもん。結えないよ。」
甘えたような声で要求するのだが、さすがにそれは出来ない相談だったらしく、
「甘えるな。両手を空けりゃいいだけの話じゃないか。」
そう言って唯の頭の上に選んだリボンをのせると、
「さぁて、せっかくの休みだし、もう一眠りすっかぁ。」
そう言い残すと大きく伸びをして部屋の中に戻ってしまった。
バタン
「ケチ〜」
閉められたドアに向かって小さく舌を出してみせる唯。振り返った拍子に、頭の上
にのったリボンが、持っていたリボンの山に落ちる。
それは何の模様も無い、チェックでもストライプでも無い無地の‥‥
「あの時と同じだね。」
その『真っ白』なリボンに語りかけるかのように唯が呟いた。
白いリボン。
それは唯が初めてこの家に来たとき‥‥
一緒に暮らす事が決まったとき‥‥
初めて龍之介が髪にリボンを結わえくれたとき‥‥
『こうしておけば目立つから俺がすぐに見つけてやるよ。』
そう言って龍之介が手ずから結んでくれたリボンの色、
あの時のリボンの色も白だった。
何より、それを龍之介が覚えていてくれた事、そしてそれを選んでくれた事が、唯
にはたまらなく嬉しかった。
☆
「お母さん、いってきまーす。」
先程とは打って変わった我が娘の明るい声に、普段ならキッチンから「行ってらっ
しゃい」と返すだけの美佐子が玄関先まで送り出しに来た。
唯の姿を見た美佐子はほんの一瞬驚いた顔をし、次の瞬間なんとも優しげな表情を
娘に返した。
「いいでしょ? お兄ちゃんが選んでくれたんだよ。」
これ以上は無いといった風な笑顔に、美佐子も笑顔で
「ええ、とっても似合ってるわよ。‥‥そう、龍之介君が選んでくれたの‥‥。」
「うん。‥‥唯ね、ずっとこの家で暮らすよ。今まで此処で暮らしてきたから今の唯
がいるんだもん。だからお母さんも‥‥」
美佐子にも異論は無かった。反対したところで今度は2対1‥‥いや、3対1だろ
うか‥‥。
「わかったわ、この間の話は忘れて頂戴。‥‥それから、もう8時過ぎたわよ。」
「あ、いけない遅刻しちゃう。じゃ、行って来ます。」
「はい、行ってらっしゃい。車に気を付けてね。」
美佐子の声を背に受け、唯は思い切りよく玄関のドアーを開け放し、駆け出した。
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