【遺された願い】
唇を重ねるだけのキス。
それすらもほんの5、6秒に過ぎなかった。
その手を愛衣の肩に置きながらも、ゆっくりと龍之介が離れ、‥‥ふと目が合う。
困った様な、それでいてどこか嬉しそうな目でじっと龍之介を見つめる愛衣。対す
る龍之介は真剣な目で‥‥
スッ、と肩に置かれた手が腕に沿って降ろされる。その手は愛衣の胸の前で止まり、
軽くそこにのせられた。
柔らかな双丘に手をのせたまま、了解を得るように眼差しを向ける龍之介。
もちろん愛衣の答えはノーだった。唇を許したからと言って、早々身体を許す訳に
はいかない。
(調子にのるな!)
そんな意味を持った視線を龍之介に返す。だがそれは、どこか(しょうがないなぁ)
という意味を含んだ笑みも伴っていた。ここに誤解が生じた。
龍之介が前者の視線ではなく、後者の笑みを元に行動を起こしたのだ。
胸においた手に僅かに力が加わる。ゆっくりと‥‥円を描くように‥‥。
慌てたのは愛衣だ。
「ちょ‥‥」
先程の言葉を、今度ははっきり声にして出そうとした。だが、またも彼女の言葉は
声にならなかった。今度は奪われたという形容がぴったりのキスによって‥‥。
「あ」っと思う間もなかった。それこそ「あ」っと言う間に唇が割られ、まるで別の
生き物の様に龍之介の舌が口内を蹂躙する。瞬く間にそれが逃げ場を失った愛衣の舌
に絡みついた。
「んんっ‥‥」
驚いたことに彼女の意志とは関係無しに、まるで自らの意志を持っているかのよう
に自分の舌までもが龍之介を求めるように絡みついていく。
それがまた龍之介の行動に拍車をかけた。キスをしたまま右手をトレーナーの裾か
ら滑り込ませる。トレーナー越しとでは比べモノにならない感触。その感触に龍之介
は溺れた。
だが、愛衣の方はそれどころではなかった。龍之介の手は彼女の胸を揉むというよ
り握るといった形容の方が正しく、愛衣にとってそれは痛みを感じさせるだけのもの
に過ぎない。
もちろんその手を排除しようと抵抗もしてみたが、それは全くの無駄だった。
ついこの間まで力は自分の方が上だと思っていた。ふざけて龍之介が組み掛かって
きても軽くあしらう事が出来た。
龍之介の力が強くなったのか、それともふざけているときは手加減していたのか、
‥‥多分その両方だろう。
年下の「男の子」という認識は改めなければならなかった。
そう考えるとゾッとした。
(もしかしてこのまま‥‥)
そんな思いが頭を過ぎる。
刹那‥‥身体に震えが来た。緊張の為などではない。有り体に言えば恐怖‥‥それ
が一番近いだろう。
自分でも分かるくらいに足が、手が、止めようもなく震え出したのだ。
当然、その震えは龍之介にも伝わった。そして理解した。自分が何をしているかと
いうことに‥‥。
それに気付いた彼の行動は、ほとんど反射的だった。
ばっ!
音がするかと思えるほどの勢いで、愛衣から離れる。とは言ってもほんの50cm
ばかりだが。
その50cmの距離で目と目が合った。
愛衣の怒りとも哀しみともつかない目。
「あ‥‥」
何かを言おうとしたが、言うべき言葉が見つからない。
(ごめん。)
そう言おうとして口を開きかける。
あるいは龍之介の瞳からその言葉を読みとったのだろうか?
瞬間、愛衣の‥‥彼女の瞳が『ゆらっ』と揺れた。
ばしっ!
焼けるような痛みが頬に走った。それだけだった。
愛衣はやや俯き加減で、龍之介を押しのけ、ドアを開ける。そして、
「おやすみ。」
何の感情も感じられない言葉を残し、薄暗い通りに消えて行った。
一人残された龍之介は‥‥
どかっ!
自らを戒めるように、拳をカウンターに叩き付ける。
「‥‥何を‥‥やってるんだ俺は‥‥」
殴られる瞬間、愛衣の目から流れ落ちる光を見た‥‥ような気がした。
頬の痛みと同調するかのように、拳がじんじんと痺れていた。
※
結局、龍之介が家に帰り着いた時には、日付が変わってしまっていた。
「はあ‥‥もうどーでもいいや。」
疲れ切った身体をベッドに投げ出す。たった2日で7年間の全てが否定されてしまっ
たような感じがした。
今回ばかりは自分を放って海外を飛び回っている父親を恨んだ。己の都合で自分を
犠牲にした父親を‥‥。
「くそ親父‥‥。」
呟きが漏れる。と‥‥
ドンッ!
何かが床に落ちる音が部屋に響いた。壁際に積まれた段ボール箱が落ちたらしい。
わずかに差し込む光で箱の中味が床に散乱しているのが見て取れた。
(どうでもいいや‥‥)
顔を枕に押しつける。そんな龍之介の気をひくように、
カタン‥‥
同じ場所の辺りから今度は微かな音‥‥
「‥‥‥なんだよ。」
その音に背けた顔を起こすと天窓から差し込む光が床で反射していた。いや、床で
はない。箱から床に落ちた何かに反射しているのだ。
ゆっくりとベッドから身を起こし、反射している物の源へ近づく。
「‥‥写真?」
床に落ちているそれはガラス板で出来たフォトスタンド‥‥中には一葉の写真。4
人の男女が笑顔で写っていた。皆若い、大体20代前半くらいだろうか?
四人の内、二人はすぐにわかった。一人は今とあまり変わらぬ雰囲気の美佐子、も
う一人は、今さっき『くそ親父』と罵った自分の父親‥‥その父に寄り添うように立っ
ている女性は‥‥
「‥‥母さん?」
呟きが漏れた。幼い頃の記憶の糸を手繰り寄せ、写真の女性と重ね合わせる。だが
思い出の中の母はあまりにも朧気(おぼろげ)で写真の女性と上手く合致しない。
「7年も前だからな‥‥」
自嘲気味に呟く。
「‥‥7年?」
龍之介はその自らの言葉に呆然となった。7年‥‥たった7年で忘れてしまうもの
なのかと。
龍之介は慌てて視界を巡らした。記憶を手繰り寄せる何かが欲しかった。
そんな龍之介の目が落ちていた段ボール箱で止まる。分厚いアルバムが顔を覗かせ
ていた。それを手に取り、捲る。
遊園地‥‥
自分の写った写真、隣には泣いている女の子。その娘の涙をハンカチで拭いている
女性‥‥違う、友美の母親だ。
次の写真、同じく遊園地。パラソルの下、おにぎりを頬張る自分の横で、紙コップ
にお茶を注いでいる‥‥間違いない、母さんだ!
記憶が蘇る。小学2年から3年に進級した春休み。場所は如月遊園地、最初の写真
はジェットコースターに乗ったあと、あまりの怖さに泣き出した友美を彼女の母親が
宥めている処だ。あの時の友美の言い分は‥‥
「龍くんの嘘つき! 絶対恐くないって言ったじゃない。」
だったか‥‥2枚目は、あの直後に自分はノドを詰まらせ、
「だから慌てて食べるなって言ったでしょう?」
と笑いながら母がお茶を手渡してくれた筈だ。
その他にもメリーゴーランドに並んで乗る母と自分。帰りの電車の中だろうか?
母に寄り添うように眠りこける自分‥‥5〜6ページを費やしたそこには、記憶の底
から呼び起こせる思い出があった。
更にページを捲る。満開の桜‥‥
ビニールシートを敷き、その上でピースサインを出している母と自分。同じ年、如
月町にある高台で花見をした時の写真。長い階段、さらには如月神社から通ずるその
階段への導きが悪く、見事な桜があるにも係わらず空いていた記憶がある。
写真の中にはピントが合っていない父と母のツーショットがあった。これは自分が
撮ったものだ。現像が出来たその写真を見、
「今度撮るときはカメラの事、教えてあげるね。」
と言ってくれた。
海‥‥8月初旬
水着の女性をデレッとした顔で見上げる自分と父親が並んで写っていた。カメラを
持ったまま「親子だわ」と呟く母の声が蘇る。この後父は母に足を踏みつけられ、自
分はと言うと、一緒に行っていた友美にけたぐりをくらわされた。
「女のやきもちも度が過ぎると可愛くないよな。」
というのが父と自分の一致した意見だった。
次のページ‥‥
だがそこは空白だった。その次も、その次も‥‥。分厚いアルバムはその3分の1
程しか本来の意味で使われていなかった。
そう、7年前のあの事故は海に行ってから1週間も経たぬ内に起きたのだ。
(これだけの筈が無い!)
龍之介は落ちてきた段ボールを些か乱暴に自分の方へ引き寄せた。母との思い出が
これだけの筈が無かった。8年間の思い出がアルバム3分の1程度の訳が無い。
祈るような気持ちで箱を覗き込んだ龍之介に応えるかのように、箱の中にはまだ3
冊のアルバムが収まっていた。
ホッと胸をなで下ろす。改めて箱の中を見回すとアルバムに追いやられるようにし
て鞄が収められていた。鞄と言ってもセカンドバッグ位の大きさだろうか‥‥。
龍之介は何の気無しにそれを取り出した。月明かりに照らされたそのバッグは見覚
えがあった。最後に母を見た、「お土産買ってくるね」と家を出ていく時に抱えられ
ていたバッグだ。
龍之介の背中に戦慄が疾った。
所々焼け焦げたバッグ‥‥持ち主はほぼ完全に炭化していたにも係わらず、奇跡的
にそのバッグは焦げる程度で済んでいたらしい。
龍之介は暫くそのバッグを見つめていたが、やがて意を決し鞄を開けた。
最初に出てきたのは筆入れ。中には万年筆、ボールペン、赤ペン、シャープ‥‥
どれもこれも母が生前愛用していた物だ。
続いて出てきたのは、ケースに収められた指輪だった(もちろんケースは後から父
が入れた物だろうが‥‥)。プラチナのマリッジリングは僅かなくすみもなく、差し
込む月光を見事なまでに反射していた。裏側に彫られたイニシャルM.Aが母の物だ
という証だ。
後はたわいの無いものだった。航空機のチケット、結婚式に向かった為だろうか?
祝儀袋まで律儀に収められていた。財布、カード入、手帳‥‥そこで手が止まった。
事故後の報道で多くの被害者が、遺した家族に宛てたメッセージを書いたような事
を言っていた。
あるいは‥‥いや、父親からはそんな物があるとは聞かされていない。
期待とそれが無かったときの不安。だから最初はパラパラとただ捲る事しか出来な
かった。だが‥‥
『龍之介へ‥‥』
で始まるページがいきなり目に飛び込んできた。
『龍之介、お母さんを許してね
できればカッコ良く成長した君と2人で如月町の高台を腕組んで歩きたかったけ
ど、ムリみたい。』
(あった。)
たったこれだけなのに何か救われたような感じがした。次の一文を見るまでは‥‥
『願わくば君には他人(ひと)の痛みがわかる優しい人になって欲しい。』
愕然とした。
死を目前にした母が、自分に願ったこと‥‥『他人の痛み』が理解できること。
いや、理解し尚かつ優しく接する事‥‥。
唯の痛み‥‥美佐子の痛み、友美の、洋子の、綾子の、そして‥‥愛衣の痛み。
「俺は‥‥」
冷たい視線に曝される事がわかっていながら、それでも学校を休まなかった唯。
7年間愛娘と分け隔て無く自分を見つめていてくれた美佐子。
恐らく誰より自分を理解し、どんなときも味方になってくれた友美。
唯を信じ、転じて自分を信じ、それ故傷ついてしまった洋子と綾子。
そして、美佐子が持ち得なかった母なる厳しさをもって接してくれた愛衣。
何度も‥‥何度も皆が教えてくれたのに‥‥
「俺は‥‥他人の痛みがわからない奴だったのか‥‥」
頬を熱い物が伝い、口から嗚咽が漏れる。
「母さん‥‥」
母が遺したメッセージは、七年の時刻(とき)を経て、直接我が子の胸へと届いた。
そう‥‥間違いなく届いたのだ。
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