【少年】
「痛ててて」
「我慢なさい、男の子でしょ。」
ピザハウス『Mute』にはこの時間にしては珍しくお客が2組いたが、彼らの事
をさして気にしてはいないようだった。
「はい、終わり。」
特大のバンソーコーを張り付け、
「腫れてる処はこれで冷やして。」
そう言って氷嚢を手渡す。
「叶さん、針と糸ある?」
ロッカールームのドアが開き、唯が顔を出す。破れた制服の代わりに若草色の地に
オレンジのロゴ入り『Mute』のスタッフトレーナーを着込んでいる。
「ほぉ、よく似合うね。そのままうちで働かない?」
その唯に向かって、厨房から顔を出したマスターが妙なお世辞を言う。
「ふう、よりによって商売敵のトレーナーに袖を通すなんて‥‥お母さんに会わせる
顔がないよ。」
口ではそう言ってはいるが、どこか嬉しそうだ。
「そっか。鳴沢さん家は喫茶店だったっけ。」
まぶたの上を冷やしながら樹が口を挟むと、途端に唯の顔から笑いが消えた。そし
てその彼に向かって深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。唯のせいでひどい目に会わせちゃって‥‥それからありがとう、助
けてくれて。‥‥あの、ごめんなさい。名前、わかんないや。」
一瞬愛衣が『えっ?』というような顔をする。てっきり顔見知りだと思っていたか
らだ。
「別に謝る事無いよ。知らないの当たり前だから、G組の都築(つづき)樹(いつき)。
龍之介君と同じクラスなんだ。」
「お兄ちゃんの‥‥。」
「それからこの傷も僕が勝手にやった事なんだから気にする必要ないよ。」
「でも‥‥。」
「いいんだよ。こう言っちゃなんだけど、鳴沢さんの為にやった訳じゃないんだから。」
「え?」
今度は唯が目を丸くする。
「僕‥‥3年になって同じクラスの奴等にいじめを受けるようになったんだ。」
ポツポツと樹が喋り出す。
「悔しかったけどそれに立ち向かう勇気も度胸もなくて‥‥あの時も意味無く殴られ
たり蹴られたりしてた。――あ、だから殴られるのは慣れてるんだ――で、偶々そ
の時教室に入ってきた人に助けを求めて‥‥。」
「それが龍之介だった‥‥と。」
愛衣が後を引き継ぐと樹が首を縦に振った。
「お兄ちゃんが?」
この時唯の頭の中では、助けを求められた龍之介が颯爽といじめっ子達の前に立ち
はだかり、相手をけちょんけちょんに叩きのめす映像が浮かんだ。その樹が今度は自
分を助けてくれた、そう思うと唯は嬉しくなった。だが‥‥
「無謀な事するわね。」
愛衣の意見は違うようだ。
「助けてくれなかったでしょう?」
「うん。反対にボッコボッコにやられちゃって‥‥」
それを聞いた瞬間、唯の頭の中で先程の映像が1000ピースのパズルより細かく
なって崩れていった。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
またも深々と頭を下げる唯に、樹は「いーよいーよ」と手を振り続ける。
「他人に助けを求める前に自分の力で当たってみろ、何もしないで助けを求める奴は
大嫌いだ‥‥って。何発殴られたかわからないくらい殴られた。終いにはそれまで
僕の事をいじめてた連中が止めに入ったくらいで‥‥。」
「あはは。龍之介らしいね。」
「それ以来、ぱったりといじめが無くなったんだ。それに僕も自信がついた。あんな
に殴られたのを我慢できたじゃないかって‥‥だから今日だって飛び込んで行けた。
あの連中の蹴りなんて龍之介君の蹴りに比べれば大したこと無かったよ。」
「ごめんなさい。」
三度頭を下げる唯。樹の言葉を『あの時の龍之介の蹴りの方が痛かった』と解釈し
たらしい。
「あ、別にそういう意味じゃないんだ。」
唯の謝罪に樹が慌てて否定する。
「そ、そう言えば龍之介君の様子はどう?」
このままでは永久に謝られ続けるのではないかと思った樹が話題を変える。しかし
結果としてその話題は逆に唯を落ち込ませることになった。
「お兄ちゃんとはあの日から一言も話してないよ。お母さんの作ったご飯も食べない
でカップ麺ばかり食べてるし‥‥昨日お母さんから言われたんだ。これ以上一緒に
暮らしてるとお互いに辛いことばかりだから別々に暮らそうかって‥‥でも、唯は
辛い事なんか少しも無いって思ってる。唯が一番辛いのは‥‥。」
言葉を切る唯。が、愛衣にも樹にもそれに続く言葉が容易に想像出来た。
「駄目なのかな? 血が繋がって無くちゃ一緒に住んじゃいけないのかな?」
声が掠れ小さくなってゆく。
「そ‥‥」
(そんな事無いよ)と言いかけた樹を愛衣が手で制す。少なくとも部外者である自分
たちが無責任に発してよい言葉ではなかった。
唯にとってその言葉を言って欲しい人間は、ただの一人しかいないのだ。
☆ ☆
この季節、午後6時を過ぎると、西の空が朱に染まり始める。と、同時に地表にあ
る全てのものもまた朱に染まり始める。それは此処、八十八公園も例外ではなかった。
ブランコ、すべり台、鉄棒、砂場、それらはどれも自分の身体に比してひどく小さ
くなっていた。まだ明るいせいか、小学生くらいの子供達が走り回っている。
「‥‥まってよ、お兄ちゃん。」
「トロいんだよ、お前は‥‥早く来い。」
「だって‥‥。」
そんな会話がブランコに腰掛けた龍之介の耳に入ってくる。
「兄妹‥‥か。」
最後にここで一緒に遊んだのは何年前だったろう? 3年‥いや4年前だったか‥‥
キィ‥‥
そんな思いに耽る龍之介の隣にあるブランコが小さく軋む、そして人の座る気配。
「入口から見るとこのブランコ、目立つんだよね。」
聞き馴染みのある声では無かった。顔を上げずに目だけを動かし声の主を確認する。
「‥‥‥‥」
顔に見覚えはある。同級生だという事もわかった。だが名前が出てこない。
「都築だよ。」
そんな龍之介に苦笑しながらも樹が答える。
「お前か‥‥」
さすがに思い出したようだ。
「またいじめか。言っておくけど俺は助けないからな。」
腫れたまぶたと顔のバンソーコーが龍之介にそう言わせたのだろう。
「あ、これ? これは‥‥名誉の負傷ってトコかな?」
『お兄ちゃんには黙ってて。これ以上迷惑かけられないから。』
帰り際、唯に言われた言葉が頭に蘇る。
龍之介の方は樹の言葉を気に止めた様子もなく、再び走り回っている小学生の方に
目を向ける。
妹と思しき女の子が転んで泣いていた。その娘の兄が慌てて走り寄り、助け起こす。
「妹ってさ、可愛いよね。」
同じようにその様子を見ていた樹がポツリと言う。
「二つ違いの妹がいるんだ。時々生意気で腹立つことあるけど‥‥でもやっぱりかわ
いいよ。」
聞いているのかいないのか、龍之介は無言だ。
「小学校に上がる前かな。家族で遊園地に行ってさ‥‥二人して迷子になった事があ
るんだ。でさ、やっぱり泣くんだよね、僕の手握って。笑っちゃうけどあの時子供
心に思ったよ。こいつは一生僕が守ってやるんだって‥‥。」
「何が言いたいんだ。」
ようやく答えた龍之介の声は、怒気を含んでいた。
「この間のこと‥‥僕でも、同じ事をしたよ‥‥きっと。血なんか繋がっていようが
いまいが‥‥。」
ガシャッ
突然立ち上がった龍之介の煽りをくってブランコが派手に揺れた。
「きいた風なことを言うなよ、血の繋がりなんて関係無いだと? ‥‥それが一番重
要な事じゃ無いか!」
立ち上がった龍之介はブランコに座った樹の前に立つと、吐き捨てるように言った。
「同じ事だよ。7年間一緒に暮らしてきたんだろう?」
諭すように樹が応える。
「違う! あいつは‥‥唯は、一緒に住んでるだけの女の子だ。」
「同じじゃないか、妹だって一緒に住んでる女の子だよ。」
表情ひとつ変えずに樹は言い切り、そして続けた。
「守るべき大事な娘なんだよ。」
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