【もうひとつの噂】
屋上へ出る扉の前で、友美は龍之介の方に向き直り切り出した。
「察しは付いてると思うけど‥‥」
続けて何かを言おうとした友美だが、
「何処のバカだ。」
低い‥‥龍之介が本気で怒っている声に、言葉を飲み込んだ。噂の元は誰だと言い
たいらしい。
「知ってるんだろ? 言えよ。」
「ちゃんと聞いて。まだ噂の‥‥」
(段階だから。)
そう言おうとしたのだが、
「誰なんだよっ!」
友美の腕を『ガッ』と掴み、詰め寄る。
「E組の‥‥西島くん。」
そのあまりの迫力に友美の口が滑る。瞬間、掴まれた腕から力が抜けた。
「そうか。」
それだけ言うと龍之介は友美に背を向け、ゆっくりと階段を降りて始める。その背
には先程までの感情の高ぶりは見て取れなかった、端から見れば‥‥。
友美ですら一瞬、龍之介の怒りが治まったのではないかと思った程だ。
「待って、龍くん待って。」
慌ててその背を追い、前に回り込む。
「噂よ。あくまで噂なの。だから‥‥」
「なに泡食ってんだよ。大丈夫、ちょっと注意してくるだけだ。」
その表情は、さっきまでの厳しいモノではなく、僅かな笑みさえ浮かべていた。
「じゃあ、私も一緒に‥‥」
そう言いかけるが、
「何言ってんだ、2人で行ったらそれこそ疑われるじゃないか。大体、俺だって噂に
振り回されるほどバカじゃないつもりだ。」
確かに2人揃って注意しに行ったら噂に拍車を駆けに行くようなモノだろう。
「本当? 本当にわかってる?」
念を押す友美に、龍之介は笑いながら、
「大丈夫だって。少しは信用しろ。」
そこまで言われては友美も引き下がるしかなかった。
「大丈夫よね?」
3階のフロアで別れ際にもう一度声を掛ける。
「へいへい。友美には心配かけさせんよ。」
後ろ手に手を降り龍之介は2階へ、友美はその場に留まりその背を見送った。
不安気に誰もいなくなった階段を見つめる彼女の背後から
「よぉ、水野。」
突然、掛けられた声に振り返ると、去年唯と共に同じクラスだった男子生徒の姿が
あった。
「ごめん、ちょっと今‥‥」
言いかけるが、
「なあ、龍之介の奴が鳴沢を孕(はら)ませたって本当なのか?」
噂とは恐ろしいモノで、僅かな時間の間にここまで変貌を遂げる。更に、隣にいた
その男子生徒の友人らしき生徒が、
「え? 俺が聞いた話では、連休中に堕(中絶)ろしたから問題ないって聞いたけど」
それを聞いて友美はゾッとした。もしこれが龍之介の耳に入ったら‥‥。それでも
冷静さを保ち、目の前の2人に向き合う。
「誰に聞いたのか知らないけど、あんまり変な噂を流さないで。龍くんを宥める私の
身にもなってよ。」
ちょっとした笑みを浮かべ、さも噂には関心が無いかのように振る舞う。
「それに、そんな話を龍くんが聞いたら、2人ともタダじゃ済まないわよ。」
さりげなく警告を入れておく。だが、
「平気だろ、さっきあいつに会ったとき、全然反応が無かったから。」
「逆に拍子抜けしたよな。」
2人が頷き合うのだが、それを聞いて今度こそ友美の背中に悪寒が走った。
こうなると、逆にさっき龍之介が見せていた冷静さが恐い。最悪の考えが頭の中を
駆けめぐる。
次の瞬間、友美は弾かれたように階段を駆け下りていた。
(龍くん、信じてるからね。)
胸の中でそう呟きながら。
だが、友美の願いは通じなかった。
龍之介が暴れ回った結果、噂は留まるどころか、更に勢いを増し、放課後を迎える
頃には全校で知らない者はいないと云うくらいにまで拡がっていた。
もうひとつの噂を産んで‥‥。
※
放課後のホームルームが終わると、友美はその噂から逃げ出すように教室を飛び出
した。が、廊下に出た所で男子生徒の二人組に進路を塞がれてしまう。
「なあ、水野なら知ってるんだろ? あの二人が何処までの仲なのか。連休中に鳴沢
が子供を堕ろしたってのは本当なのか?」
いやらしい笑いを友美に向けながら訊く。
こうなってしまっては否定しても肯定に採られることは明白だ。友美にはそれが良
くわかっていた。わかっていたから無言で二人の脇をすり抜ける。
「ちっ」
背後で一人が舌打ちするのが聞こえた。そしてもう一人が、
「優等生、水野友美は男を取られた腹いせに、幼なじみを売り飛ばした。」
さらに追い打ちをかけるように二人の嘲笑が聞こえる。
龍之介と唯の関係が明るみになると、次に出てきたのはその2人と友美との事だっ
た。なにしろ、否定していたとは言え、友美と龍之介はなかば公認のカップルのよう
なモノだったのだ。
『血の繋がりのない妹に、彼氏を寝取られた優等生』
どこからともなくそんな噂が流れ出した。更にそこから、
『腹いせに、友美が龍之介を焚き付けた。』
などという話まで出てきてしまった。
確かに状況だけ見ればそう取られても仕方がない。教室に入ってきた龍之介をわざ
わざ教室外に連れ出したのは友美だし、その直後に騒ぎが起きたのも事実だ。
更に、騒ぎが起こる前に龍之介に会った男子生徒達からは、
『唯との事をからかっても、気にも止めていないようだった。』
という証言もある。
面白がった連中が、そんな噂を流したのもある意味頷けるだろう。
友美は耳を塞ぎたくなる衝動を必死に押さえ、学校を飛び出した。
校門を出てからは、もうどうしていいかわからなかった。
『幼なじみを売り飛ばした』
先の男子生徒の声が頭の中で響く。
(そんな事はない!)
その声を否定してみるが、
《嘘だ! 本当は龍之介と唯が近づくのを快く思っていないだろう?》
悪魔の囁き。いや、もしかしたら自分の声かもしれない。
(ちがうちがうちがう)
頭を振り、今の言葉を払うかのように友美は駆け出した。
「注意しに行く」と言った龍之介をもっと強引に引き留めるべきだった。自分が噂を
流した張本人を諫めに行くべきだった。‥‥いやそれ以前に、自分が『2人は従兄妹』
などという『嘘』をつかなければ‥‥
胸の中で後悔の念が沸き起こる。だが、それらは全て向き合わなければならない現
実だった。
☆ ☆
『Mute』
よほど評判の良い店でなければ、午後4時と云う時間は飲食店にとって暇な時間だ。
幸か不幸か白蛇ヶ池公園の北側に位置する『Mute』もこの時間はお客の姿がな
く、平穏な時を過ごしていた。もっとも、暇とは言ってもやることはあるわけで、こ
の店でアルバイトをしている叶 愛衣も、グラス磨きに精を出していた。
「♪〜。」
どうやら今日は機嫌が良いらしく、その作業も鼻歌混じりだ。
「ご機嫌だね叶君。テストの出来、そんなに良かったの?」
愛衣の隣で、やはり同じようにグラスを磨いていたマスターが声を掛ける。
「出来の問題じゃ無いです。明日からテスト休みだから単純にそれが嬉しいだけです
よ。」
磨いたグラスを仕舞いながら応える。
とは言っても、悪い出来‥‥という訳では無い。50位前後の位置を常にキープす
るだけの実力はあったし、特に今回はそれなりの手応えもあった。
「そうか、俺も嬉しいよ。明日から3日間、ランチタイムの目の回るような忙しさか
ら解放される。」
暗に『3日間毎日出て来てくれ』と言っているようだ。
「いいですよ。その分きっちり出すモノは出して貰いますから。」
こちらも暗に『そのかわり、バイト代を弾んでくれ』と要求するのだからどっちも
どっちと言ったところだろうか?
『Mute』はどちらかと言えばランチタイムより夕方以降の方が客の入りが多い。
昼間は800m近く離れた『憩』と客を分け合っているのだが、その『憩』が5時
で閉店になる為、それ以降は『Mute』へ客が流れてくる。
それでも昼時になると、何処からお客が湧き出て来るのかと思えるほど込み合い、
待って貰うこともある。
特に今日の混み具合は凄まじく、もし愛衣がテストで半ドンでなければ一体どうなっ
ていたろう? と思うくらいだった。
もちろんそれは『憩』が臨時休業したからに他ならない。
「そう言えば今日のお昼は混んでましたね。『憩』が休みだったのかな?」
「きっと『Mute』(うち)の味がわかるお客さんが増えてきたんだよ。」
愛衣はそれに応えず、溜息をついて次のグラスを手に取る。
無視されたマスターが何かを言おうと口を開くのだが、
からんからん
その声はカウベルの音に消された。
慌てて二人が入り口に目を向けて新たなお客を迎える。
「いらっしゃいま‥‥あら、一人なの? 珍しいわね。」
ドアを開けたままで立ち尽くす友美に向かって、愛衣が軽く微笑んで見せた。
☆ ☆
同じ頃、洋子と綾子も『Mute』へと続く道を歩いていた。
2人の落ち込み様はひどく、特に綾子は先の事でからかいに来た男子生徒が、その
様に、一言も言わずに去ってしまうほどの落ち込みようだった。
クラスメート達が色々と言葉を掛けてきてくれたが、そんなモノは何の慰めにもな
らなかった。
(どうして?)
その言葉だけが頭の中を回っていた。
(どうして本当の事を言ってくれなかったのか?
どうして友美の知っている事を自分達が知らないのか?
どうして‥‥)
前を歩く洋子が立ち止まった気配がしたので顔を上げると、目の前に見慣れた
『Mute』のドアがあった。
☆
10分後‥‥
店内は険悪な空気に包まれていた。
店に入った2人は、友美の座るカウンターには座らず、テーブル席に腰掛け、それ
きり一言も発しないまま、時刻が経過していた。
洋子と綾子にしてみれば、友美の方から何らかの説明があって当然だと考えていた
し、友美の方は自責の念に駆られ、それを切り出せずにいた。
愛衣はそんな3人の様子に気付いてはいたが、口を出すつもりは毛頭無かった。ひ
とりで悩んでいるなら兎も角、真っ向からぶつかり合おうとしている彼女達を止める
権利など自分には無いと思っていた。
更に沈黙の数分が過ぎる。
カタン‥‥
遂にその沈黙に耐えきれなくなったのか、洋子が席を立ち友美の方に歩み寄った。
そして‥‥
「私らには関係の無い事だってのか?」
わかる者にしかわからない会話。だが彼女達にはそれで十分だった。
「そりゃ、私は高々1年半の付き合いだけどな‥‥綾は、お前と大して変わらない付
き合いの長さなんだぞ。」
諭すような口調で友美に詰め寄る。だが、友美は俯いたままカウンターの上で組ん
だ自分の手をじっと見ているだけだ。
もちろん非は認めていた。もっと早くに打ち明けて然るべき問題と理解はしていた。
それでもあと1年、卒業してしてから‥‥高校に進学してから‥‥という甘い考えが
友美にはあった。なにしろ7年間隠し通せてきたのだから‥‥。
一向に口を開こうとしない友美に、
「どうなんだよっ!」
バンッ!
手をカウンターに叩き付ける洋子。それでも友美は微動だにしない。
「そうかよ。じゃ、もう一つの噂だけどな‥‥」
このままじゃ何も進まないと思ったのか、洋子は質問を変える事にした。
「お前が綾瀬の奴を焚き付けたって話‥‥ありゃ、なんだ?」
しかし、洋子も綾子もこの噂に就いてはハナから信じていなかった。
『そんなことは天地がひっくり返っても絶対にあり得ない』
それがふたりの共通した意見だった。とにかく一言でも喋って貰い、きっかけを作
りたかったのだ。だが‥‥
洋子の言葉を聞いた瞬間、友美の顔がそれと分かるほど強張る。そして相も変わら
ず、口からは何の言葉も出てこない。今度は洋子の顔が強張る番だった。
「な、なんだよ‥‥否定しろよ。」
だが、友美は否定できなかった‥‥その事を完全に否定出来る自信が無いから答え
られなかったのだ。
そんな友美を見て、洋子の強ばっていた表情が一瞬悲しげに、そして険しく‥‥
バシッ!
「見損なったぞ! 何が幼なじみだよ、友達だよっ!」
頬を押さえ俯く友美を見下ろし、吐き出すように言う。信じていた事、人にことご
とく裏切られた。それ故‥‥
「そんなに悔しかったのかよ。唯に綾瀬を取られて‥‥」
あまりにも迂闊な言葉が口をつく。
その言葉に今度は友美の目が険しくなった。
洋子の言葉が的を射ていたからではない。洋子が‥‥洋子すらも龍之介と唯の事を
そんな風に思っていた事がその理由だった。
洋子の方に振り返り様、友美の掌が風を切る。
パンッ!
今度は友美が洋子の頬を張っていた。尚も怒りを込めた瞳を洋子に向け、
「だから‥‥だから黙っていたんじゃない。あなたみたいに変な誤解をする人がいる
から従兄妹なんて偽っていたのよ! ‥‥あのふたりに血の繋がりが無いのは事実
だけど、そんな事は関係ないじゃない。少なくとも私は、ふたりが本当の兄妹の様
に仲が良い事を知っているわ。」
堰を切ったように喋りだす。
「それが気に入らないってんだよ! なんでお前が知っていて私達が知らないんだ!」
「あの2人の仲を、そんな風に疚しい関係だとしか思えない人には、教えなくて正解
だったわ。」
「‥‥んだとぉ。」
再び洋子が手を振り上げるが、友美は臆した風もなく、
「そうよ。大体あなたは‥‥」
(まずい!)
2人様子を見て、綾子は思った。
(このまま放っておくと、単なる個人的な罵り合いになる。)
「や‥‥」
(やめて!)
叫ぼうとした刹那‥‥
バシッ! パシン!
乾いた音が2度、店内に響く。
「2人とも、いい加減にしな。」
愛衣の声は冷静と言うよりは、冷徹だった。
口は出すまいと思っていたのだが、ここで止めなければ事態は悪化すると判断して
の行動だ。
「あんた達がここで言い争って事態が良い方に行くのか?」
頬を押さえ俯く友美。確かにあそこで止めてもらわなければ、言ってはならない言
葉を口にしていただろう。
対して洋子は、気丈にも殴られた頬を押さえもせずに、愛衣の目を正面から見据え
ていた。ある確信をもって‥‥
「‥‥愛衣姉は知ってたんだ。唯と綾瀬のこと‥‥」
(まずったかな?)
一抹の不安を感じつつも、それを全く表に出さずに、
「どうして‥‥そう思うの?」
逆に問いかける。
「別に‥‥。ただ、何となくそう思ったんだよ。‥‥そうか、知ってたんだ。」
洋子の視線が床へと落ちる。
「知ってたんなら冷静でいられるよな。」
怒りの為なのか、肩が小刻みに震えはじめる。
「知らなかったのは‥‥私と綾だけかよっ!」
半ば叫ぶように言い放つと、そのままドアへ向かって駆け出す。
ダン! カラカラカラ‥‥
乱暴に開け放たれたドアは、チェッカーが付いている為その勢いの大半は減殺され
たが、取り付けられたカウベルは、存分にその役目を果たすことになった。
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