【うわさ】
ところ変わって、北中北棟3年E組の教室。
「よっ、タッちゃん。」
ある程度覚悟はしていたが、まさかこんなに広まっているとは思わなかった。
西島達也。彼は普段友人達から『タッちゃん』などとは呼ばれていない。同学年で
彼をそう呼ぶのは従兄妹である香織だけだ。
しかしそれは昨日までの事で、今朝教室に入ってからは男女を問わず『タッちゃん』
と呼ばれるようになってしまった。
「やかまし。従兄妹なんだから仕方ないだろ。」
彼は今話し掛けてきた友人へ向かって、煩そうに手を振った。心情的には噂を広め
た張本人をぶっ飛ばしたかったが、相手が女の子ではそうも行かない。仮にぶっ飛ば
せる相手だったとしても、妙な噂に拍車を駆けるだけだ。
彼と従兄妹の香織がデキているという噂に‥‥。
「うんうん、わかるぞ。いくら法律で結婚が許されるからと云っても、なにかと世間
の目もあるしなぁ。」
悪いことについ先日、公民の授業で、『4等親(従姉妹)以降は婚姻できる。』と
いうのを習ったばかりだった。
「だからそんなんじゃ無いって言ってるだろ。」
さっきからそんなやり取りばかりをしている。もちろんふたりはそんな関係ではな
い。大体、互いの家を行き来するのだって年始ぐらいのものなのだ。
「じゃあ、なんで隠してたんだよ。」
「お前らみたいのがいるからだよ。」
間髪入れずに言ってやった。現に従兄妹だということがバレてからこの騒ぎだ。
「でもよ、綾瀬と鳴沢は従兄妹同士なのに平気で触れ回っているぜ。」
龍之介と唯、こちらは全校公認の従兄妹同士だった。
「はん、俺に言わせりゃ、あいつらの方が異常だよ。」
彼は以前からそう思っていた。自分達がひた隠しにしていることを平気で公言して
いるふたりの方がおかしいと。
「まあ、あいつらは一緒に住んでるしな。黙っていてもすぐばれる。」
それは確かにそうなのだが‥‥。
「従兄妹同士だから一緒に住んでいるか‥‥うん?」
頭の片隅で何かが引っかかった。
従兄妹と言うことはふたりの親のどちらかが兄妹(姉弟)同士ということになる。
彼は龍之介の母親と唯の父親は飛行機事故で死んだらしいと聞いていた。しかも
同じ飛行機のだ。
普通に考えればこのふたりが兄妹(姉弟)関係にあったと考えるだろう。
では、いま健在している龍之介の父親と唯の母親は?
血の繋がらない赤の他人ではないか。仮にこちらの方が血の繋がった兄妹だとして
も、何故名字が違うのだ?
(おもしろいな。)
彼は胸の中で立てた仮説にもう少しセンセーショナルな味付けを施した。
『これで少しは自分達の噂が薄れるかも知れない。』
その程度の考えで、彼は友人に向かってこう言った。
「従兄妹同士だから一緒に住んでいるんじゃなくて、一緒に住んでいるから従兄妹同
士だってカムフラージュしているんじゃないか?」
☆ ☆
密閉された室内で火災が起きた場合、火はある程度まで燃えたところで勢いが衰え
るという。
燃焼‥‥すなわち酸化する訳だから、その室内の酸素をある程度消費すると、勢い
が衰えるのも当然なのだが、
『もし、その状態で密室のドアが開いたら』
どうなるだろう?
くすぶっていた火は新たな酸素の供給により勢いを取り戻し、更に悪いときには加
熱された内装材から可燃性のガスが発生、火は爆発的な燃焼を起こす事になる。
俗にフラッシュオーバーと言われる現象は『バックドラフト』として消火作業に当
たる消防隊員にも恐れられている。
北八十八中学北棟2階の東端にある3年E組の教室が、今ちょうどそんな状態だっ
た。西島達也が立てた仮説は、その直後に始まった1時限目の授業の間中、火がくす
ぶるかの様に静かに、だが加熱させられた内装材が可燃ガスを発生させるように確実
に広まって行った。
そして授業終了。
担当教師が開けた教室のドアは、バックドラフトを引き起こした。
噂という名の炎が奔流となって廊下を駆け抜け、階段を昇って行く。
炎や煙が水平移動より垂直移動の方が早いのに関係しているかどうかわからないが、
噂は同一階にある唯のクラス――B組よりも、直上階にある友美のクラス――G組の
方に早く行き着いた。
もっとも、それはほんの数秒の差でしかなかったが‥‥。
☆
「きりーつ。きょーつけー。れいー。」
1時限目の授業が終わり、当直の生徒がおざなりの号令を掛けるが、本気で謝意を
表す生徒など1人もいなように見えた。ただ単に、授業が終わった儀式のような感覚
で頭を下げているようなものなのかもしれない。
それはこのクラスの委員長である水野友美も同じようなものだった。もっとも、彼
女の場合は他のことに気が回っていたからに他ならない。
後ろを振り返り、『ふう』と溜息をつく。心配の種はまだ来ていなかった。
「あれ? 綾瀬君は?」
そんな友美の背後から声を掛けてきたのは、歩くスポーツ新聞芸能欄、校内ワイド
ショーレポーターの異名をとる、長岡志保(仮名)。
彼女は龍之介がいないのを知るや、すぐに矛先を『該当者を古くから知る』友美に
向けた。
「まあ、いないんならしょうがないか。じゃあ、水野さんでもいいや。ねぇ、本当の
処どうなの?」
「なにが?」
いくら友美が頭の回転が速い女の子だからといって、今の志保(仮名)の言葉から
全てを察するという訳にはいかなかった。
「だからぁ、鳴沢唯と綾瀬龍之介の関係。」
いらだつような志保(仮名)の声。
「関係って‥‥父母の兄弟姉妹の子供同士、つまり従兄妹。‥‥っていうより兄妹に
近いわね、あのふたりは‥‥で、それがどうかしたの?。」
そもそも唯と龍之介が従兄妹同士であると言い出したのは友美だった。
7年前、ふたりが一緒に暮らし始めた頃、唯はその事でよく男の子達にからかわれ
ていた。見かねた友美が咄嗟に、
『ふたりは従兄妹同士なんだから。』
そう言ってしまっていた。それは8歳の子供にとって、魔力を帯びたかのような言
葉だった。なぜならそれまで唯をからかっていた男の子達は波が引くように去っていっ
たのだから‥‥。
だが、無垢で無知な子供も年を経ると次第に知恵が付き、疑り深くなる。それに伴
い、新たな嘘で元の嘘を塗り固めていくという事が起こっていた。
自分や唯はともかく、龍之介が塗り固めた設定を何処まで把握しているか怪しいも
のだ。
「ふっふ〜ん」
友美の返答に志保(仮名)はさも楽しげに鼻を鳴らした。
「でも、少なくとも鳴沢唯の母親と、綾瀬龍之介の父親は兄妹じゃ無いわよね。」
断定するように言い切ると、
「どうして?」
大して驚いた風もなく友美が聞き返す。
「だってそうじゃなきゃ、飛行機に乗っていた方の親同士が兄妹じゃないって事にな
るわよね? 赤の他人が同じ飛行機に乗って事故に遭う。偶然で片付けるられる問
題じゃないわ。」
特ダネじょーほーっ! と絶叫せんばかりの志保(仮名)。ここに来て友美は彼女
が何を言いたいのか理解した。
つまり、龍之介の父親と唯の母親には血の繋がりが無く、にも係わらずひとつ屋根
の下に暮らしている。それでは不自然なので、実際は互いの親同士が再婚しており、
その子供である龍之介と唯は血の繋がりなど無いのではないか?
「‥‥と言いたい訳でしょ?」
簡単に纏めてみせて逆に訊ねる。志保(仮名)はうんうんと首を縦に振ると、目を
爛々と輝かせながら、
「で? で? どうなの?」
「さあ? 私もあんまり細かいことまでは知らないわ。それから、確認が取れていな
い事を触れ回るのはどうかと思う‥‥だけど何処からそんな話が出てきたの?」
それとなく情報元を探り出そうとする。
「E組の西島って子。その子もC組の村松さんと従兄妹同士の仲なんだって。
でねでね、聞いて! その子が言うには、自分達は従兄妹同士って事をひた隠しに
しているのに、件のふたりがそれを公表しているのは‥‥」
志保(仮名)もまた、ここで効果的な間を入れる。
「公表しているのは?」
話を円滑に進めるため、友美は敢えて志保(仮名)に調子を合わせた。志保(仮名)
も優等生、水野友美が自分の話に興味を持ったことに満足し、
「公表してるのは、実はふたりには血の繋がりが無くて、カムフラージュする為に従
兄妹と偽ってるんじゃないか‥‥って。」
(なるほど、それでか。)
志保(仮名)の話で、噂の立った原因が大体掴めた。
「言われてみれば確かにそうなのよ。私にも同い年の従弟がいるけど、同じ学校には
通いたくないもの。」
(さて、どうしたものかな?)
既に友美は志保(仮名)の言葉に5%程の意識しか向けていなかった。頭の中で今
まで積み上げてきた『嘘』を整理し始める。
「あ、綾瀬君。」
友美が頭の中で急速に対応策を練り始めた時、志保(仮名)がちょうど教室内に入っ
てきた龍之介を捕まえた。
「ねえねえ、鳴沢唯が実の従妹じゃないって本当?」
いきなり確信を突く。そんな志保(仮名)に友美は頭を抱えたくなった。彼女が考
えていた対応策は、事の収拾を図る為のモノはもちろん、龍之介に上手く(暴走しな
いように)説明する事も含まれていたからだ。
「ちょっとごめんね。」
志保(仮名)の言葉に、怪訝そうな顔をした龍之介だが、彼が何かを言い出す前に
友美がそこに割って入って行き、龍之介の腕を取ると、教室の外へと連れ出した。
そのまま廊下を進み、屋上へ続く階段を上がる。屋上には扉に鍵が掛かっている為
外には出られないが、それ故人気はない。
ただ、そこへ行く間にも龍之介の顔を見るや、ひそひそ話を始める生徒や、指差す
生徒と擦れ違う事になり、屋上に出る扉の前まで来た時には、既に何が起こったのか
を察したのか、龍之介の表情は厳しいものになっていた。
そんな龍之介に向かって、
「察しはついてると思うけど‥‥」
そう彼女は切り出した。
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