【幼なじみ】
「唯ちゃん。」
北棟2階にある3年B組の教室に、同棟3階にあるG組の水野友美が訪ねてきたの
は、龍之介の掃除当番が決定してから3分ほど経ってからだった。
「ん?」
その声に、窓際の方で一塊りになって、きゃあきゃあ騒いでいる集団の中にいた唯
が振り返る。
「龍くんは?」
この4月のクラス替えで、此処3年B組には唯と洋子が、G組には龍之介と友美が
それぞれ同じクラスになっていた。学校側は過去2年の経験から、問題児二人を如何
に押さえ込むかに腐心し、その結果、龍之介を押さえるために友美を、洋子を押さえ
る為に唯をそれぞれ同じクラスに配した。
新しい学年になってひと月ほど経つが、まだ問題らしい問題が起きていない処をみ
ると、この方針は間違いではなかったようだ。
しかし、唯はともかくとして、友美の負担は飛躍的に増大した。なにしろ、あの糸
が切れた凧より始末の悪い龍之介の面倒を見なければならないのだ、これが負担でな
くてなんであろう。
とは言っても、別に友美が龍之介の面倒を見る義務は何処にもないので、放って置
いてもいいのだが、気の弱い担任の女性教諭に、
「水野さん、お願いね。」
と涙目でお願いされては、
「はあ‥‥。」
と答えるしかなかった。
今も友美は予鈴が鳴り終わっても教室に来ない龍之介を捜すために奔走しているの
だ。そして此処B組は、龍之介に関する最も確実な情報が得られる場所だった。
「今日、龍くんは? 休み?」
あまり考えられないが一応聞いてみる。何しろ15年もの付き合いで、龍之介が病
気で休んだ事など、それこそ数える程しか無い。しかし友美の問いに対する唯の答え
は、素っ気ないものだった。
「知らない。」
ちょっと不機嫌そうな声の唯。
「知らないって、一緒に住んでるんでしょ?」
唯の隣にいた女の子が言うのだが、唯の顔は相変わらず不機嫌そうだ。
(ははあ、ケンカしたな。)
友美がその表情から推測する。と‥‥
「ケンカしたんでしょ?」
女生徒達の輪の中央にいた綾子が何処か茶化したように唯を見た。
宮城 綾子――龍之介と友美を除けば、唯と最も親しい女の子。その付き合いは唯
が転校してきた7年前まで遡る。以来、同じクラスにならなかったのは去年だけと云
う、事によると友美より近い存在かも知れなかった。
その付き合いの長さ故なのか、唯の顔から何かを読みとったらしい。
「だって‥‥」
反駁しかける唯だが、ケンカの原因が自分の体重にあるので口を噤む。
「どーせ大した事じゃ無いんでしょ? 二人のケンカの原因なんてイイトコ綾瀬君が
唯のおかずのメインディッシュを取ったとか、食べかけのおやつ取られたとか、見
てたテレビのチャンネル変えられたとか‥‥」
綾子のその言葉はぐっさぐっさと唯の胸に突き刺さった。当たっているだけに何も
言えない‥‥更にそのケンカが小学生レベルなので情けない。
「仲いいのねぇ。」
別の女の子が感心したように呟く。
「そりゃ従兄だモン。」
「でも普通従兄妹だって事隠さない?」
「えー、なんで?」
「恥ずかしくない? 知ってた? E組の西島君とC組の村松さん、あの二人も従兄
妹同士だったんだって。」
「うっそ、初耳。」
「だからぁ、隠してたんだって。ほら、F組の滝本さんっているでしょ?」
「ああ、あの寺屋(寺屋?)の娘。」
「そう。先週の日曜に、その滝本寺(?)で法事があったんだって。」
「そっか、それでバレたんだ。別に隠すこと無いのにねぇ‥‥どしたの? 二人とも」
その場にいた全員の視線が、先程から押し黙ったままの唯と友美に注がれる。二人
にとって、このテの会話は冷や汗ものだった。なぜなら唯と龍之介、この二人の本当
の関係を知っているのは、校内では一部教師と当事者二人、そして友美だけなのだ。
「え? あ、龍くん、どうしたのかなぁ‥‥って。」
友美が心の内を悟られないように言葉を返す。すると綾子を初めとする女の子達が
ちょっとした苦笑を浮かべ、
「『龍くん』だって‥‥。」
「な、なによ。」
訝しがる友美。
「幼なじみでお隣さんで同い年‥‥いいなぁ、私もそーゆー男の子が欲しかった!」
拳を握りしめる女生徒を見て、友美が溜息をつく。
「またその話? 言っておくけど私達付き合ってなんか無いわよ。」
今まで何度もこのテの話題が浮上しては消えていった。こう何度も噂になれば、い
い加減慣れる。
「でも、たまーに映画とか一緒に見に行くんでしょ? それってデートじゃない。」
それは事実だったが、
「デートじゃないよ、唯も一緒に行くんだから。」
唯が口を挟む。こーゆー話題は、唯にとってあまり面白く無いようだ。が、そんな
唯に対し、
「わかってないわね唯、あんたはダシよっ。」
びししっ、と指差され唯が思わず後ずさる。
と、そこで突然教室内の空気が変わった。ざわざわと波打っていた声の波長高が低
くなったような変化だった。なぜそのような変化が起こったのかというと、一人の女
生徒が無言の圧力を振りまきながら教室内に入って来たからだ。
「洋子ちゃん、おはよ。」「おっはよ、洋子。」
唯と綾子がほぼ同時に声を掛け、友美も軽く手を挙げて「おはよ」と口を動かす程
度のあいさつをする。
「おす。いやぁ、危なかった。危うく応接室を一人で掃除しなきゃならん処だったよ」
どっかと自分の席に腰を下ろすと、唯と友美そして綾子だけが洋子の回りに集まる。
今まで一緒だった女の子達は、既に別の輪に加わりおしゃべりを始めていた。
「危なかった割には息が切れてないわね。」
友美が鋭く指摘すると、洋子はあっさりと、
「はは、バレたか‥‥ちょーど愛衣姉が家に来ててさ、乗せて貰ったんだ。あ、そう
いえば綾瀬の奴が走っているのを追い越したな。あいつは遅刻確実だ。」
「へえ。じゃあ、もう来る頃ね。」
綾子が窓の方に目をやるが、洋子は否定するように、
「いや、あいつの事だから、私を送り届けた愛衣姉のバイクを無理矢理にでも止めて
後ろに乗るだろ。」
「あ、そか。じゃ、もう来てるかもよ。」
今度は友美に向かって綾子が言う。しかしそれをも否定する洋子。
「あまい。愛衣姉は中間テストの最終日で遅刻する訳には行かないと言っていた。も
し綾瀬が強引に乗り込んだら‥‥」
そこで言葉を切り、効果的な間(ま)を入れる。
「乗り込んだら?」
その短い間さえ待ちきれないのか、唯が洋子を促す。
「‥‥今頃奴は、白蛇ヶ池公園にいるぞ。」
洋子のその推測は当たっていた。
☆ ☆
白蛇ヶ池公園‥‥その昔、封印した『七頭の大蛇』が千年の時を経て復活したとき、
この世は地獄と化した。復活を阻止せんと立ち上がった勇者達は一人の少女を残して、
次々と息絶えていく。
兄を失い、仲間を失い、そして愛する人を失った少女は、『伝説の白蛇』を復活さ
せるべくその身を池へと投げる。
そして‥‥復活した白蛇は大蛇と一緒に七日七晩暴れ回り、世界は滅びた。
そんな【笑い話】がこの池にはあった。
――閑話休題――
池の『伝説』の真偽はともかくとして、池のほかには森と呼ぶにはおこがましい程
度の樹木があるだけの公園‥‥その白蛇ヶ池公園にフェンス一枚隔てて、愛衣の通う
八十八学園があった。
ドウドウドウドウ‥‥ヒューン
林のちょっと開けた場所でようやく愛衣はバイクのエンジンを切った。ヘルメット
を脱ぎ、振り返って《荷物》の様子を伺う。
案の定、恨めしそーな目で自分をねめつけている龍之介と目があった。
「私は『遅刻したくないから送っては行けないよ』って意味で言ったんだけど龍之介っ
たらさっさと後ろに乗っちゃうんだもん。」
弁解するつもりはさらさら無かった。
「素直に『叶(かのう)先輩遅刻しそうなんです、乗せてって下さい。』って頼まれ
れば送って行ってあげることを考えてあげても良かったんだけど‥‥。」
「‥‥‥‥。」
相変わらず無言の龍之介。
「『運転手さん北中まで』じゃねぇ‥‥」
「わかったよ‥‥愛衣に期待した俺がバカだった‥‥。」
もうすっかり呼び捨てにされてしまっている。もっとも、この辺は愛衣も既に諦め
ていた。
「ひでぇよなぁ、純朴な少年を欺いて‥‥」
「はいはい、愚痴なら後で聞くよ。私だって学校あるんだからしょうがないでしょ。
今なら走っていけば授業には遅刻しないわよ。行った行った。」
取り付く島も無いとはこの事だ。諦めた龍之介は、愛衣に背を向け歩き出‥‥した
処でハタと気が付いた。
「八十八学園って私服だったっけか?」
もちろん龍之介にだって八十八学園に制服がある事ぐらいは知っていた。現に制服
姿の愛衣だって何度も見ている。しかし今、龍之介の目の前にいる彼女はジーンズに
ウィンドブレーカーという出で立ちだった。このテのバイクにスカートで乗る人間は
いないであろうから、それはそれでいいのだが‥‥するとこの後、彼女は何処かで着
替えなければならないと言うわけで‥‥
「本当は洋子の家で着替えるつもりだったんだけどね。しょーがないからここで着替
えるわ。‥‥早く行きなさいってば。」
最後の言葉は、いつまで経ってもこの場から離れない龍之介に言ったのだが、
「こんな場所で着替えるのか? 誰かに見られたらどうするんだ。俺が見張っててや
るよ。」
へっへっへ。とわざといやらしい笑い顔を浮かべる龍之介。別に彼女の着替えを見
られるのを期待している訳ではない。こうやって足止めしておいて遅刻の道連れにす
るつもりらしい。
「いーわよ、見られても。だから早く行きなさい!」
(アセってるアセってる。)
内心龍之介はほくそ笑んだ。そしてトドメとばかりに、
「ほぉ、見られても良いんだったら、見せて貰おう。」
(勝った!)
心の中で凱歌をあげる。久しぶりに、本当に久しぶりに愛衣から一本取った。いっ
つもいいように丸め込まれていたのだから喜びも一塩だ。
(『Mute』のスペシャルミックスピザで勘弁してやろう)
などと皮算用まで始める龍之介。だが‥‥
「そぉ? 見ててもあんまり面白いもんじゃないと思うけど‥‥。」
龍之介のいやらしい笑いを愛衣は大して気に止めず、デイバックの中からチェック
のスカートと八十八学園のトレードマークとも言えるチェックのリボンを取り出す。
そして、あろう事か龍之介の前で着替え始めた。
‥‥と言っても、ジーンズはスカートを穿いてから脱ぐわ、シャツはウィンドブレー
カーの下に着込んでいるわでとても龍之介の目の保養にはならなかった。
「‥‥詐欺だ。」
襟にリボンを通し、結ぶ愛衣の姿を見て龍之介が呟く。
「だから言ったでしょ、面白くないって。」
ミラーを覗き込み、リボンと前髪を確認すると、
「じゃね。遅刻したからって学校サボるなよ。」
軽くウィンクして龍之介に背を向けると、愛衣はちょうど人ひとりが通れるくらい
に開けられたフェンスをくぐり、学園の敷地内に消えていった。
「‥‥誰が開けたんだ、この穴? 人の事言う割に、愛衣も結構無茶やるんだよなぁ」
愛衣がくぐり抜けていった穴を見つめ、龍之介が呟く。もっとも、この穴の発見は、
彼の後の学園生活で大いに役立つことになるのだが‥‥。
☆
こうしてひとり公園に取り残された格好になった龍之介だが、これで素直に学校に
向かう彼でないことは皆様御存知の通り。
確かに愛衣に言われたとおり、今から走っていけば授業には間に合うのだが、既に
罰当番が決定しているのに加え、
「1時限目は‥‥げっ! 谷川かよ。」
学年主任にして数学担当の谷川教諭は龍之介にとってあまり好ましい相手ではなかっ
た。良くいえば『熱血教師』なのだが、生徒達の間では『暴力教師』言われているの
だ。まあそれだけの事を龍之介がやっているからだと言えばそれまでなのだが‥‥。
「よし! 決めた。一時限目はサボリだ。 そうと決まれば‥‥」
自分で決めておいて『そうと決まれば』も何も無いのだが、ひとりで納得した龍之
介はそのまますたすたと池の方へ歩き始める。
伝説の池と銘打ってはいるが、そこはそれ‥‥ボートぐらいはあった。慣れた調子
でフェンスを乗り越え、一艘のボートを拝借する。管理人が出てくる10時までたっ
ぷりと時間はある。
「ふわぁ〜。春眠暁をおぼえずってね。」
ボートを池の中央まで移動させると、そこでゴロリと横になる。
『寝る子は起きる』という『寝る子は育つ』を茶化した諺があるが、そんな諺を根底
から覆すように、龍之介はみたび眠りについた。
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