〜10years Episode10〜

構想・打鍵 Zeke

 この作品はフィクションです。登場する人物、名称、土地、出来事等は実在するものではありません。
 本作は(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を設定として使用しております。 

 1991年12月24日
 早朝

 冬の朝は遅い。
 特に冬至前後は、それこそ午前7時頃にやっと陽が昇り始めるほどに遅い。 
 当然それ以前の時間……午前5時前では太陽など昇る気配もなく、外界は漆黒の闇 
に包まれていた。
 もっともいくら空が暗く、また寒くても、動き始める人達は大勢いる。 
 新聞の配達員や、始発電車の運転手とその関係者。朝7時に始まるテレビ番組の関 
係者等も入るかもしれない。また、こんな年末の時期ともなると、海外旅行の国外脱 
出組が、朝イチの航空機に乗る為に起き出すのもこんな時間かもしれない。

 八十八駅から徒歩15分のマンションに住む叶愛衣もそんな国外脱出組の一人だっ 
た。
 と、言っても、彼女は一般の旅行客とは違う。
 事情により海外に住んでいる家族の元へ、休みの間だけ帰るという目的のためだ。 
 本来なら今日は2学期の終業式なのだが、そんなモノに出ていたら飛行機に乗り遅 
れてしまう。どちらを優先させるかは明白だった。
 しかし……

「あ゛ー、ノド痛い」 
 扁桃腺(へんとうせん)が腫れ、鼻が詰まった時の見本の様な声で、彼女は取り出 
したノド飴を口の中に放り込んだ。風邪をひいた事にして学校を休んだことは年に何 
回もあるが、本当に風邪をひいたのは随分と久しぶりの事だ。
「ま、昨日は早く寝たし、少しは良くなっているでしょう」 
 飴の包まれていたセロファンをゴミ箱に放り、1分前に脇に挟んだ体温計を取り出 
す。液晶画面に表示されたデジタルの数字は……、
『37度8分』
 平熱より1度以上上回っていた。それでも、 
「昨日より1度5分下がったか……」
 見つめていた体温計をケースに仕舞って、厚手のコートを羽織る。

 昨日も朝から調子が悪く、夜、バイトから帰って熱を計ってみたら39度以上の熱 
があった。そのまま解熱剤を飲んで早々にベッドに潜り込んだのが幸いしたのか、あ 
る程度熱は下がっていた。
 もちろん下がったと言っても、相対的に下がっただけである。それでも下がった事 
には変わりなく、何となく回復した気になってしまう。
 しかしこれはとんでも無い誤解だ。そもそも人間の体温は朝が一番低い。特に風邪 
などひいているとそれが顕著に現れる。朝と昼間で1度以上違うなどというのはザラ 
だ。つまり、今の彼女には実質39度近い熱がある事になる。
 にも関わらず無理して出掛けようとするのは、今日を逃せば向こうに行けなくなっ 
てしまうからだ。
 年末のこの時期に航空機のチケットを取るのは至難の業で、事実今日の航空券を取 
るのにも随分と苦労したらしい…… 母親が。
 それにしても「学校にはしっかり出なさい」と言っておきながら、午前9時の航空 
券を取るあたりは笑えた。
 それに何と言っても、今日は12月24日。今夜のクリスマスイブを一人で、しか 
も風邪をひいてベッドの中で過ごすなんてまっぴら御免だった。
「なんてこと無いわよ。電車や飛行機の中では座れるんだし……」 
 空港に着くまでの間に3回乗り換えがある事はこの際考えないことにした。

 およそ海外に行くとは思えない程度の荷物(デイバック1ヶ)を肩に掛け、玄関を 
出て静かにドアを閉める。さすがにこれだけ朝が早いと、ドアを閉める音一つにも気 
を使う。普段なら階段を使って1階まで降りる所なのだが、足音を気にしてエレベー 
ターを使う事にした。
 もっとも、それは建前で、少しでも体力を温存したいと言うのが本音なのかもしれ 
ない。

 エレベーターを降り、エントランスホールを抜け外へ向かう。比較的造りが良いの 
と、マンションの管理会社がしっかりしているため、築10年以上経つというのに古 
さを感じさせない。
 ドアの前に立つと、センサーが彼女を感知し、オートでロックを外す。もちろんこ 
れは中から外へ出るときのみ有効で、外へ出た後はこれまたオートで施錠する仕組み 
だ。俗に言うオートロックである。
 施錠するモーターの音を背に、彼女はゆっくりと、未だ闇が支配する外界へと足を 
踏み出した。

                  ☆

 駅へ続く通りは住宅密集地であるが故に、夜、女性が一人歩きしても不安にならな 
い間隔で街灯が設置してある。ボーっとした頭にはありがたい道標だ。
 ちょっと洒落た家の庭では、クリスマスツリーと思しきイルミネーションが、チカ 
チカと明滅を繰り返しているのが見えた。
 便の大幅な遅れが無ければ、今日のディナーは妹や両親と一緒に七面鳥を囲んでい 
る筈だ。
「向こうは夏ってのがムードに欠けるんだけどね」
 赤道挟んで反対側の大陸は、当然のようにこの時期が夏なのだ。 
『こっちでは、サンタクロースはトナカイが引く橇にではなく、サーフボードに乗っ 
 てやってくる』
 と妹の舞衣が真面目な顔をして教えてくれたのを思い出してしまった。 
「行って確かめてやる……」
 熱で意識が朦朧としているためか、それとも絶対に行ってやるという決意の現れな 
のかあまり現実的でないことを口走っている。

 最初の角を曲がるとすぐに大通りに出る。さすがに朝が早いだけあって、全くと言っ
ていいほど車が走っていない。
 それでも信号機はきっちりと稼働しており、赤い色が彼女の行く手を阻んでいた。 
 いつまで経っても変わらない信号が『夜間押しボタン式』である事に気付いたのは、
立ち止まって暫く経ってからだった。
「おいおい、しっかりしてよ」
 自分に言い聞かせ、ボタンの方へ…… 
「こんな朝早くに散歩? 健康的で結構だけど、風邪をひいている人にはあまり勧め 
 られないよ」
 歩み掛ける彼女の背後から声。次の瞬間、愛衣は本能的にその声から距離を空け振 
り返った。その行動はとても病人のものでは無かったが、
「愛美…… 脅かさないでよ……」 
 声の主が知り合いだと言う事がわかるや、脱力して電柱にもたれ掛かった。余計な 
気力と体力を使ってしまったようだ。
「ごめんね。別に脅かすつもりは無かったんだけど…… ねぇ、帰ろ? そんな身体 
 じゃ向こうに着く前に倒れちゃうよ」
 恐らく昨日の具合を見て、様子を見に来たのだろう。いつもなら『余計なお世話』 
で済ます所だが、
「そう……みたいね」
 やはり相当辛いのか、いつものように突っぱねる事は出来なかったらしい。

                  ☆

※
「じゃあ、学校終わったらまた来てあげるから、大人しく寝ててね」 
 普段からは考えられない素直さに満足したのか、上機嫌で部屋を出て行く愛美。 
 しかし彼女が出ていって5分後、愛衣はベッドから抜け出すと、素早く身支度を整 
え再び部屋を出た。
 あそこで無駄な問答をするより、大人しく聞くフリをした方が手っ取り早いと考え、
一旦引いたのだろう。
 日中戦争で帝国海軍飛行隊が駆使した戦術を真似た格好だ。もっとも本人はそんな 
戦術は知らなかったろうが……
「……ったく、冗談じゃないわよ」
 1階から上がってきたエレベーターに乗り込み呟く。前々からお節介だとは思って 
いたが、ここまでやられると恐いモノがある。
 しかしそれが不快かと言われればそうでもなかった。 
「波長は合うのかもね」
 それは彼女にとって他人との付き合いに必要な一番の要因だった。合わない人間と 
無理に合わせる必要は無いと思っている。          ・・・
 もっとも波長が合うとか云う以前に、彼女には他人を拒絶するきらいがあった。故 
に、洋子や『Mute』のマスターに言わせると、愛衣にそこまで言わせた愛美は 
『たいした者』ということになるらしい。

 数秒後、ぐぅっと全身に減速Gが掛かり、エレベーターが着床する事を告げる。 
「?」
 1階に着くにしては随分と早い。不審に思って、表示板を見るとまだ3階ではない 
か。きっちりと『1』のボタンは点灯しているので、誰かが3階で止めたとしか考え 
られない。
 時計を見ると、まだ5時半前だ。
「(へぇ、こんな朝早くに出勤する人が住んでるんだ)」 
 一応不測の事態に備え、側面に移動し体勢を整える。オートロックを謳ってはいる 
が、それを破る手段も無くはない。
 ガコンという軽い音を立てドアが開く。それを待って乗り込んで来たのは、愛衣が 
当初心配したような輩ではなかった。
 だが、彼女にとってはそれ以上にやっかいな人物…… 
「……(波長が)合い過ぎよ」
 嘆息気味にそう呟き、項垂(うなだ)れる愛衣。そこには、一片の容赦も無しに彼 
女を睨み付ける愛美の姿があった。

            ☆            ☆

同日午前11時『Mute』
「あれ、愛美さんは?」
 スツールに腰掛けた龍之介が、一通り首を巡らし、最後に冷やを目の前に置いてく 
れたマスターに尋ねたのにはそれなりの訳があった。
 普段ここでバイトしている人物が今日からいないのも、その代打として愛美が起用 
されたのも知っていたから聞いたわけだが……
「ああ、彼女、なんか急用が出来たって……」 
 それを聞いた龍之介がさっと立ち上がる。
[愛美がいない=バイトがいない=人手が足りない=手伝わされる] 
 こんな図式が成り立つことを瞬時に悟った結果だ。しかし、彼が次の行動を起こす 
より早く、
「帰るんだったら今月分のツケを払ってからな」
 無情な声が襲い掛かった。どうでもいいが、これじゃまるで毎月溜め込んでいるみ 
たいな言われようだ。
#龍之介の名誉のために書いておくと、彼はちゃんと月初めに精算している。 
「お、俺、これから女の子とデートなんだ」
「嘘ばっか」
 立ち上がった龍之介に向かって、隣のスツール座ったままの唯が鋭いツッコミを入 
れた。
 実はこの2人、今年はクリスマス孤児になってしまったのだ。
 何故かというと、まず友美は親御さん主催のパーティ、次に洋子は今日から家族で 
スキー旅行、そして綾子は海外旅行と次々に討ち死に……、
 トドメが今朝掛かってきた電話で、それを受けた美佐子は1時間としない内に慌た 
だしく家を出て行ってしまった。
「陣痛が始まったらしいの。生まれるまで帰れないかもしれないわ」 
 という言葉をまだ頭が寝ている2人に残して……
 当たり前だが、美佐子の陣痛が始まったわけではない。唯の伯母にあたる涼子の初 
産だった。しかし寝起きの龍之介には話がよく見えなかったらしく、
「じんつう? 5500t級の軽巡洋艦がどうかしたのか?」 
 ボケた彼が唯に質すが、もちろんわかるはずもない。

 それはさて置き…… 龍之介にしてみれば、別に友美がパーティーに行こうが、洋 
子がスキーで骨折しようが、綾子がベガスで大負けしようが、ついでに愛衣が豪州で 
大津波に襲われようが全然関係なかった。クラスの連中と一緒に盛り上がれば良いだ 
けの話だからだ。
 しかし美佐子がいないとなると話が違ってくる。彼には廊下で一人「ぽつねん」と 
自分を待っていた唯を放って遊びに行くことは出来なかった。
 結局、あと一緒にクリスマスを祝ってくれそうな愛美を尋ねてきたのだが、彼女も 
いないという。

「さっきは“愛美さん一人じゃ大変だから手伝いにでも行くか”って言ってたじゃな 
 い」
「肝心の『愛美さんが大変』になっていないではないか」
 言い難いことをきっぱりと言う処はさすがだ。 
「唯はいいよ、どうせ暇だし…… マスター、私手伝います」
 唯が協力を宣言する ……が、 
「じゃ、俺はお役御免だな。どっか遊びに……」
 背を向けて出口に向かい掛ける龍之介に唯は慌てた。 
「『愛美さんが大変』は手伝えて、どうして『唯が大変』は手伝ってくれないの!?」
 帰り掛ける龍之介の後ろ襟に両手をかけて引き留める。
「わ、わかった、わかったから首を絞めるな。…ったくもう、ほんの冗談じゃないか」
 制服のボタンを外し、襟で擦れた首筋をさすりながら抗議する。
「つまんない冗談言うからだよ」 
 唯は唯で“ぷぅ”と頬をふくらませ、龍之介を睨みつける。しかし龍之介にそんな 
視線が通じるわけが無く、
「ま、手伝うは良いとして、当然の見返りを期待していいんでしょうね?」 
 バイト代を出せと言っているらしい。
「今月分のツケをチャラにするっていうのは?」

「……唯、帰るぞ」
「そだね」
 今日び、どんなに低く見積もっても時給700円は固い。今11時だから、フルに 
働くとして閉店まで10時間は拘束される事になり、7000円になる計算だ。 
 一方でひと月の小遣いが5000円の2人は『Mute』にそれ以上貢げる訳もな 
い。せいぜい2000〜3000円しかツケていない彼らにとって、それは酷い条件 
だった。唯が龍之介の意見に同調したのも頷ける。
「わぁ、うそうそ…… 今の条件に2人でこれだけでどう?」 
 そう言って、指を一本立てる仕草。常識的に考えれば1万を表すサインだろう。1 
人頭5000円にはなるから、先の条件と合わせれば悪くない。
「よし、交渉成立。そうと決まればまずは腹ごしらえだな。俺、スペシャルミックス 
 にオニオンスライスをトッピングね」
「唯はシーフードでイカエビ増量! 今月分ですよね、マスター?」 
 しっかりしているというか、ちゃっかりしているというか……
 しかし後に彼らは思い知るのである、こんなものでは割に合わないと…… 
「ああ、いいよ。その代わり、うんっと扱き使ってやるからな」
 マスターのその言葉に偽りはなく、唯と龍之介はこの後閉店まで休み無く扱き使わ 
れた。2人は以下にあげる3つの事を過小評価し過ぎていたのだ。
 一つは今日『憩』が休みであること、もう一つは学生以外はいつもの様に仕事があ 
ること、そして今夜がクリスマスイブであることを……

            ☆            ☆

 同じ頃……
「………ん」
 目を開けると見慣れた天井があった。まだ熱が引かないせいか、瞬時に状況が理解 
できない。
 確かエレベーターの中で愛美とはち合わせた後……

                  ☆

「まあ、素直に言う事を聞くとは思わなかったけど……、そんな身体でどうするつも 
 り?」
 さすがに今度ばかりは黙って聞いている訳には行かない。次の電車に乗り遅れたら 
間に合わない…… 事もないが、全くと言っていいほど余裕が無くなってしまう。 
「ただの風邪だよ。大したこと無い」
「ただの風邪から肺炎になって死に至るケースもあるよ。それにどうしてただの風邪っ
 て言い切れるの?」
 少しカチンときた。自分の領域が無断で侵されているような感じだ。 
「大きなお世話だよ。自分の身体は、自分が一番良くわかってる」
「……っ」 
 愛衣の鋭い声に、優勢を保っていたように見えた愛美が言葉を失った。同時にエレ 
ベーターが今度こそ1階に着床し、扉が開く。
「じゃーね。良いお年を」
 年末恒例のあいさつを掛け、エレベーターを出る愛衣。 
 その背後から、
「ウィルス性の風邪だったらどうするつもり?」
 掠れて消え入りそうな声だったが、効果は覿面(てきめん)だった。愛衣にもそれ 
がどんな意味を持つのか察しがついたからだ。
 そんな彼女の心の内を代弁するかのように、愛美は言葉を続け、 
「こんな言い方したくないけど、身体弱いんでしょ? 妹さん……。向こうで風邪を 
 伝染(うつ)したいの?」

 そうなのだ。今季のインフルエンザは特に強力で、高齢者や乳幼児、そして“心臓 
に負担のある人間”が感染した場合、死に至るケースが多いという。
 もし自分がインフルエンザで、そしてもしそれが妹に伝染ったら…… 
「そっか…… それは拙い……よ…ね」 
「愛衣ちゃんっ!?」
 瞬間、愛衣の視界が大きく揺らいだ。張りつめていた何かがふっつりと切れてしまっ
たのかもしれない。

                  ☆

「あ、起きた? ……どう? 気分は」 
 ベッドの隣にある炬燵で本を読んでいた愛美が、その気配に気付いて顔を上げる。 
「最悪……」
 どうせ『だいぶ良くなった』と言ったところで、大人しく愛美が帰るわけが無いし、
乗る筈だった便はとうの昔に出発してしまっているのだ。
 それに事実、身体は相変わらず怠くて、頭がぼぉっとしている。おまけに寝汗で寝 
間着が肌にまとわり着き気持ち悪い。

 エントランスから愛衣を支えて部屋に戻ってきた愛美がまず最初にやったことは、 
浴槽に膝下あたりまでのお湯を張ることだった。
 お湯と言っても45〜6度はある熱湯だ。 
 悲鳴を上げる愛衣に愛美は容赦せず、きっちり5分ほど足を入れさせ、それが冷め 
る間もなくベッドへ追い立て、そこに縛り付けた。
 もちろん本当に縛り付けたわけではなかったが、 
「今日は休んで見張っている」
 と言われたら、縛り付けられたのと同じ事だろう。 
 これだけの仕打ち(?)を受けるとどうなるか? 当然大量の汗が出るわけで、こ 
うする事によって熱を下げることが出来るのだという。しかしそれを放って置くと、 
どんどん体温が奪われ風邪は悪化する。
「汗をかいたらマメに着替えることが大事」 
 とは愛美の弁である。正確には愛美の祖母らしいが……

 そんな愛衣の気持ちが伝わったのか、 
「はい、着替え。今度はちゃんと自分で着替えてね。あ、今脱衣室で乾燥機回してる 
 から暖かいよ。そっち使えば?」
「そうする」
 着替えを受け取りながら答える。女同士とは言え、やはり目の前で着替えるのは気 
恥ずかし……い?
「(……今度は?)」
 愛美の妙な言い回しにハッとなって、自分の身につけているパジャマに目を落とす。
 着替えた覚えがないのに、先程着ていたモノとは明らかに違う、別のパジャマになっ
ているではないか。
 とゆーことは……
「み、見たわねっ」
 今更覆ってみても全然意味がないのに、胸を腕で隠すようにして愛美に喰い掛かる。
熱のせいでもないのに顔が真っ赤だ。
 だが、愛美の方はきょんとして、
「なにかまずかった? 女の子同士だから別に構わないかと思って…… あ、下着だ 
 けは代えてないからね」
 何事もないように答える。
「まずかった? …って、あんた……」 
 下着といっても着けていたのは下だけで、上は無防備状態なのだ。それに恐らく着 
替えだけでなく、汗も拭いたに違いない。
「だって、起こしても起きなかったし、汗は凄いかいてたし、しょうがないでしょ?」
 そう言われては返す言葉がない。呆然と立ち尽くす愛衣に、
「もぉ、ほら、早く着替えないと必要な体温まで奪われちゃう。さっさと着替えてっ」
 追い立てられるようにして脱衣室に入ってみると、確かに乾燥機が回っていて、今 
までいた部屋より暖かいくらいだ。そして……
 なるほど、乾燥機の中では先程まで自分が身につけていたパジャマが、ぐるぐると
渦を描いて回っている。
「はぁっ……」 
 溜息などをついて、のたのたと着替え始める。確かにショーツまでは代えられてい 
なかったが、とんでも無い弱味を握られたような気がした。別に自分のスタイルに自 
信が無いわけではないが(愛美には羨ましがられる)、ただ何となくそんな感じがし 
た。

 脱ぎ捨てたパジャマと下着を洗濯機の中に放り込み、部屋に戻ると、愛美がシーツ 
から布団カバー、枕カバーまで全て新しくして、取り替えたそれらを拾い集めている 
所だった。
「手伝おうか?」
 何となく気が引けて、そう尋ねてみるのだが、 
「ん……、もう終わったから。んしょっ」
 ふた抱えもありそうな寝具を持ち上げながら愛美が答える。まあ、シーツとか枕カ 
バーじゃそう重くないので手伝う必要も無いだろう。
 愛美はそれを脱衣室まで持って行ったかと思うと、今度はキッチンに向かい、 
「ちょっと待っててね、今お粥作ってるから」
 まるで自分の家かと思うほどテキパキと準備を始める。

「(なんかすっかり愛美のペース……)」
 炬燵で“ぼけっ”と面白くも無いテレビを眺めていた目線をチラッとキッチンに移 
す。愛美がキッチンの中でせわしなく動いているのが見えた。
「(お粥ぐらいで何やってんのかしら?)」 
 お粥なんてものはそんなにキッチンの中を動き回って作るようなモノではない。変 
に凝った作りをしなければ…… の話だが。

「ごめんね、台所、ちょっと触らせてもらったよ」 
 小ぶりの土鍋、小皿、湯飲み茶碗が順に目の前に置かれていく。土鍋の蓋は閉まっ 
たままだ。小皿には梅干しが2ヶ、湯飲みには白く濁った液体が……
「何これ?」 
 一番得体の知れない湯飲み茶碗に目を向け尋ねる。
「卵酒。ウチのお婆ちゃん直伝よ。梅干しも本場紀州の梅をウチで漬けたのを拝借し 
 て来ちゃった」
 土鍋の蓋を開け、お粥をお椀に移しながら愛美が説明してくれた。先程キッチンの 
中で動き回っていたのは、この卵酒の為だったらしい。
「ふーん……」
 渡されたお椀を受け取りながら、曖昧に鼻を鳴らす愛衣に、 
「ふーふーしてあげようか?」
 愛美が悪戯っぽく笑ったりしている。よっぽどこの気難しい友人が素直なのが嬉し 
いのだろう。
「いらない」
 こちらはにこりともせずに、熱そうに湯気を立てるお粥を慎重に口へ…… 
「……あっ!」
 運ぼうとして、ある事に気付いた。
「愛美! あんた、お店は!?」 
 お店とは当然『Mute』の事を指す。確か先週、年末に自分がいない旨を伝えた 
とき、手伝うような事を言っていた筈だ。
「あ、大丈夫。さっき電話したら『そっちで見張っててくれ』だって」 
「だって今日イヴよ? 今大丈夫でも夜どうなるか……」
 去年のイヴはどうだったか知らないが、今年のバレンタインは結構な盛況だった。 
それを考えると、クリスマスの方がイベント性は高いだろうから、客足はそれ以上に 
なるのではないか? そんな風に考えたわけだが、
「平気じゃない? 昨日から代わりを探していたみたいだし、アテはあるみたいよ」 
 そう言ってから、わざとらしく『おっと』というように愛美が口を押さえる。つま 
りはそういう事だった。
「なるほど、マスターの差し金か……」
 忌々しげに年の近い叔父の顔を思い浮かべ、梅干しを1個丸ごと放り込む。顔をし 
かめたのは梅干しのせいだろうか。



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