「ふわぁ〜」
龍之介はベッドの上で大きく伸びをした。昨日はあれから色々とプランを練ってい
た為、寝るのが午前一時過ぎになってしまった。
時計を見ると十時を回っている。普通の日曜なら、とっくの昔(八時)に唯が起こ
しに来るのだが、それが無い。
「って事は、やっぱり直接謝らなきゃ駄目か。はぁ、まあしょうがないか。」
のろのろと着替え、のろのろと階段を途中まで降りてリビングの様子を窺う。そし
て人影がないと見るや、すばやく洗面所に潜り込んだ。そしてまた、のろのろと顔を
洗い、歯を磨き、髪を整える。
再びリビングに戻ると、時計は十時半を回っていた。セコイ時間稼ぎだと言われれ
ばそれまでだが、やらずにいられない。
今度は喫茶店に顔を出す。日曜は唯が手伝っている事が多いのだが、今日はいなかっ
た。
「あら、おはよう。」
龍之介に気付いた美佐子が挨拶をしてきた。
「あ、おはよう美佐子さん‥‥。えっと、唯はまだ起きてないの?」
「ええ、起こしてきてくれる?昨日、誰かさんが心配掛けたせいで遅くまで起きてた
みたいだから‥‥。」
クスッと笑い、龍之介の反応を見る。
「そっ、そんな事より、昨日唯に言ってくれた?」
「え?ああ、起きてたみたいだから、『龍之介君が謝ってたよ』って言っておいたわ。」
「なんか言ってた?」
「わかったって。でもちゃんと龍之介君からも謝っておいてね。」
「う、うん。それから今日、出かけるから。如月遊園地が今月一杯で閉園するって言
うから、その‥‥唯と一緒に。」
「そう、それがいいわ。きっと唯も喜ぶと思う。」
それを聞くと美佐子は本当に嬉しそうに、にっこり笑った。
一旦リビングに戻った龍之介は、もう一度頭の中で条件を整理した。
「テレビのチャンネル権は向こう半年、おやつは三ヶ月、小遣いは一ヶ月。おやつは
半年まで妥協できるが、小遣い一ヶ月は絶対譲れないぞ。これで許してくれなかっ
たら、土下座でもなんでもして許して貰おう。」
意を決して龍之介は唯(と美佐子)の部屋のドアをノックした。
「唯、起きてるか?」
返事はない。
「入るぞ。」
ドアを開け放ち、中へと入り本棚に掛けられた『Yui's SPACE』と書かれたボード
を横目に、ベッドへ近づく。
ベッドがこんもりと盛り上がっている為、龍之介には頭から布団を被っている様
に見えた。
「唯、起きてるんだろ。」
相変わらず無言
「昨日の事は全面的に俺が悪かった、この通り謝る。もう忘れろなんて言わないし、
俺だって‥‥だから、その‥‥許して下さい。」
ここまで誠心誠意に(龍之介にしては)謝っているのに、唯の反応は無い。
「‥‥ゆいちゃ〜ん」
業を煮やした龍之介が、猫なで声を出しながら、布団をほんのちょっとめくってみ
る。そして目を見張った。
「ゆい!」
今度は一気に布団をめくり取る。ベッドには唯ではなく、巨大なペンギンのぬいぐ
るみが横たわっていた。呆然とする龍之介の目の前をヒラヒラと紙が舞い降りて、ペ
ンギンの顔を覆うようにして落ちた。
『お兄ちゃんのバカッ!』
紙にはでかでかと、そう書いてあった。
部屋を見回し、本棚の下にある物入れを開ける。そこには、ある筈の唯専用の旅行
鞄が無い。頭の隅で「まずいかな」とは思ったが、ドレッサーを開けてみる。二、三
着を残して、後は消えていた。
「あの馬鹿。」
転げるように部屋を出て、リビングから喫茶店で開店準備をしている筈の美佐子に
呼びかける。
「美佐子さん!」
喫茶店の勝手口から美佐子が顔を出す。
「どうしたの? ちゃんと唯に謝った?」
「それどころじゃない! 唯が‥‥唯がいないんだ!」
「あら、変ねぇ。どこ行ったのかしら?一言声を掛けてから出掛けてくれればいいの
に‥‥。」
ボケたセリフを吐いた美佐子だが、龍之介の狼狽した顔を見て、ただ事では無い気
配を感じ取った。
龍之介が先程の紙を差し出す。
「どういうことなの?」
最早「いつか話す」では済まなくなってしまった。龍之介は意を決して、美佐子に
全てを話そうと口を開いたその時、
TRRR‥‥ TRRR‥‥
一瞬顔を見合わせる美佐子と龍之介。電話機に近い龍之介が三コール目が鳴り終わ
る前に受話器を上げた。
「もしもし‥‥」
が、受話器の向こうからは何も聞こえない。
「もしもし!‥‥唯か!? どこにいるんだ? ‥‥もしもし?」
「もしもし、その声は龍之介?涼子だけど‥‥」
声の主は美佐子の義理の妹、もっと簡単に行ってしまえば、亡き唯の父親の妹であ
る木原 涼子からだった。
「なんだ、涼子さんか。」
龍之介の声のトーンが一段落ちる。
「何の用だよ。」
「美佐子お義姉さんは? 元気?」
「ああ、元気だよ。今かわる。」
「あ、元気ならいいのよ。それじゃ。」
プツリ、と回線が切れる音。
「どうしたの? 唯から?」
パタパタとスリッパの音をさせながら、美佐子が近づいてくる。
「いや、涼子さんからだったんだけど、訳が分からないんだよ。美佐子さんが元気か
どうかだけ聴いて切れちゃって‥‥。」
受話器を置きながら答える龍之介。
「涼子ちゃん? 何かしら?」
「全く、いったい何の用で‥‥そうか!」
「あ、龍之介君‥‥」
美佐子が止めるよりも早く、龍之介は家を飛び出していた。
☆ ☆
外部音声に切り替えた電話機から呼び出し音が響いている。
一回‥‥、二回‥‥、三回目‥‥の呼び出し音は鳴らなかった。相手が受話器を上
げたからだ。
『もしもし』
外部音声にしているせいか、ややくぐもって聞こえるが、間違えようもない。
『もしもし! 唯か!?』
一瞬、身体が震える。受話器を取って叫びだしたい衝動に駆られる。が、頭の中で
「ごめん、忘れてくれ。」の声が響き、思いとどまる。
『もしもし、唯だろ? どこにいるんだ。』
それでも身動きしない唯。その横から手が伸び、受話器が持ち上げられる。
「もしもし、その声は龍之介? 涼子だけど‥‥美佐子お義姉さんは? 元気?
あ、元気ならいいのよ。」
それで会話は終わりだった。
「心配はしているみたいね。」
受話器を置いた涼子が、彼女にとって唯一血の繋がった姪へと目を向ける。
「心配してるのは、妹としてだよ‥‥きっと。」
「そうかなぁ。でも、唯は妹として心配されているだけじゃ、不満なんだ。」
「関係ないよ、唯はもうお兄ちゃんの事、何とも思っていないから。」
(何とも思っていない娘は、家出なんかしないでしょうに‥‥。)
やれやれと、涼子は心の中でため息をついた。
「じゃあ、龍之介が迎えに来ても帰らないの?」
涼子も、我ながら意地悪な質問かな、と思った。
唯は暫く黙り込み、そして
「関係‥‥ないもん。」
そう答えて、俯いた唯を見た涼子が苦笑する。さっきから、唯の態度が誰かに似て
いると思っていたのだが、ようやくわかったからだ。
美佐子ではない、そしてもちろん唯の父親である死んだ兄でも無かった。
自分自身、涼子も今の唯のように、亡き両親や兄を困らせた様な記憶があった。
「帰らないの? じゃあ、お母さんもこっちに呼んで、四人で一緒に暮らそうか?」
(え?)と顔を上げる唯。
「でも、そうすると龍之介は独りぼっちになっちゃうわね。」
そう言って、唯の目を覗き込む。唯はその涼子の視線から目を逸らし、
「お、お兄ちゃんは、女の子にモテるから唯がいなくなっても、全然寂しくなんか
ならないよ。」
「あははは。龍之介がそんなにモテるわけないじゃない。」
「もてるもん!」
外した視線を戻し、涼子の瞳(め)を正面から見据える。
「凄いんだから、陸上記録会でのリレーで、上級生まで抜いちゃって、陸上部からも
お誘いが掛かって、女の子にも沢山ラブレター貰ったんだから。」
一部誇張はあるが、女の子から手紙を(しかも複数)貰ったのは事実だった。
「それに小学生の頃だって‥‥」
この後唯は涼子に、龍之介が如何に女の子に人気があったかを熱弁することになる。
どんどん過去に遡って行く話を、涼子は黙って聴いていたが、その視線に気付いた
唯がハタと話すのをやめた。
「ねぇ、帰ってあげれば?」
涼子がくすくす笑いながら聴いてやる。だが唯は、フイと横を向き、
「関係ないもん‥‥」
(ほーんと、そっくりね。)
またも苦笑する涼子。過去の自分に対する気恥ずかしさもあったのだろう。彼女は
それを隠すかの様に
「あ、もうお昼だね。何が食べたい? 買ってくるよ。」
実際、昼に近いこともあったが、電話をしてから一時間半が経っていた。早ければ
そろそろ着く頃だろう。
「何でもいいよ。」
「じゃ、留守番お願いね。哲(涼子の夫)から電話があったら、今日遅くなるかどう
かだけ聴いておいて。」
「そう言えば、今日哲也おじさんは?」
「休日出勤。サラリーマンはつらいわよね。じゃ、行って来るね。」
「行ってらっしゃい。」
☆ ☆
唯に送り出された涼子は、繁華街の中心、つまり駅前に立っていた。ちょうど電車
が入ってきたのか、人がパラパラ改札から出てくる。
「さすがにまだ無理か‥‥。」
呟いて時刻表わ見上げる。次は十五分後だった。
「うーん、中途半端な時間ね。十五分で買い物終わるかしら?」
呟いて何気なく改札口に目をやると、階段を転がるように降りてくる人影があった。
「へぇー。あの様子だと家から走り通しね。」
改札から出てくる人影を迎えるべく、涼子が一歩踏み出したところで、その人影は
駅員になにやら呼び止められている。どうやら区間料金の不足らしい。
「なにやってんだか‥‥」
涼子はその人物、龍之介と駅員に近づき
「いくら?」
声を掛けられた龍之介は驚いたようで声が出ない様子だ。代わりに駅員が無味乾燥
な声で「百二十円です」と応じた。
涼子が百円玉と十円玉二枚を駅員に手渡す。
「さ、さんきゅ。」
珍しく祝勝な龍之介。
「何やってんのよ、お金無いの?」
「いや、乗り換えの切符買うときに急いでて、五百円玉の分しか買わなかったか
ら‥‥。それよりこの駅、改札の位置変わったのか? 前は反対側に有ったような
気がしたんだけど?」
「そういや、唯もそんな事言ってたわね。」
「やっぱりこっちにいるのか。で? どこにいるんだ。」
周辺を控えめに見回しながら、涼子に尋ねる。
「ここにはいないわよ。帰りたくないって。」
「ったく、しょーがねーなー。」
「なにが、しょうーがねーなーよ、誰のせいかわかってんの?」
そう言って、龍之介の耳を思い切り引っ張る。
「いてててっ! だ、だからこうやって謝りに来たんじゃないか。」
「そりゃ感心だけどね、唯に許しを請う前に私を説得して貰うよ。」
「な、なんで涼子さんにそんなこと‥‥いててててっ!」
耳を引っ張る手に力が加わったようだ。
「あのね、唯は私にとって、たった一人の血の繋がった人間よ。泣かせるような人間
と一緒に住まわしたくないの。」
そう言って、涼子は龍之介を手近な喫茶店に引きずり込んだ。
☆ ☆
「お姉ちゃん、遅い‥‥。」
そのころ唯は飢えていた。朝何も食べずに出てきてしまったのだから当然と言えば
当然だろう。
ちなみに唯は、叔母である涼子のことを『お姉ちゃん』と呼ぶ。
涼子は現在28歳で、唯が生まれたときは、15歳だった。中学3年で、実質
『おばさん』になってしまった涼子は、かなりショックだったらしく、事あるごとに
兄の住んでいたアパートに通い、目も空かない唯に向かって
「唯ちゃ〜ん、涼子お姉ちゃんですよ〜。」
と刷り込みを繰り返していた。
その涙ぐましい努力が実ったのか、唯は未だに涼子のことを、お姉ちゃんと呼んで
いた。
「お姉ちゃん、遅いなぁ」
唯はもう一度呟くと、時計を見上げた。
時計の長針が一回りしようとしていた。
☆
「お待たせいたしました。」
そう言ってウェイトレスが二つのアイスコーヒーを置いていってから10分が経っ
ていた。その間二人は一っ言も声を発していない。
グラスの中の氷が、自己の融解によりカラッと音を立て、黒い液体の中で踊った。
それが合図だったかの様に、龍之介が口を開く。
「俺に何か話があるんじゃなかったのか?」
その一言で、ようやく涼子が動いた。と言っても、アイスコーヒーに手を伸ばした
だけだが‥‥。
「聞きたいことがあるなら、早くしてくれ。」
「私が聞くんじゃなくて、龍之介が話すの! 私から聴くことは、何もないよ。」
(ぐっ!)
言葉に詰まる龍之介。
そしてまた訪れる沈黙。
「‥‥ちょっとした‥‥行き違いだよ。」
「ちょっとした行き違いなら、この五年間で何度もあったでしょ、唯が私の所に来る
なんて尋常じゃないわ。」
「だから、尋常じゃない行き違いなんだってば。‥‥内容は言えないけど‥‥。」
「そうゆうのは【ちょっとした】とは言わないの。自信は?」
「は?」
「だから、唯を連れ戻す自信はあるの?」
「解らないけど‥‥俺は一緒に帰るまで引き下がるつもりはないよ。」
「ふーん。まいっか‥‥」
伝票を取り、立ち上がりかける涼子を見て、龍之介はホッとした。説得に成功した
と思ったからだ。
口をつけていなかったアイスコーヒーを手に取り、ストローに口をつける。と、
立ち上がりかけた涼子が、
「あっそうだ、これだけは聞いて置きたかったんだ。」
再び席に腰をおろす。
「なんだよ、さっきは聞く事は何も無いって言っといて‥‥。」
「一つだけよ‥‥龍之介はどうして唯にキスしたの?」
思わず息を飲む。いや、飲んだのは息だけでなく、ストローにつけていた口からは、
アイスコーヒーが流れ込み、通常そういったものは流れ込まない筈の気管へと導いた。
結果として‥‥
ブフォ! ゴホッゴホッ!
「ムセたふりしても駄目よ。」
容赦なく龍之介に詰めよる涼子、どうやら最初からこのことが聞きたかったらしい。
「なっなっなっ‥‥」
何か言いたいらしいが、言葉が出てこない。
「なんで私が知っているかって? 唯から聞いたのよ。」
それでもしっかりと涼子には伝わっているようだ。
「そっそっそっ‥‥」
「そんな事あるわけない? 自慢じゃないけど、私は美佐子義姉さんの次に唯の事を
理解してあげてるつもりよ。だから、美佐子さんに話せない事でも、私には話して
くれたんじゃない?」
どうやら龍之介はこの手の女性が弱いらしい。性格的にみると、愛衣は涼子と同じ
タイプの女性だった。
「言って置くけど、私は真面目に聞いているんだからね。それなりの答を期待するよ」
(逃げられない‥‥) ゴクリ、と唾を飲み込み、手に持ったグラスの中味を、ス
トローを使わずに一気に飲み干した。
「唯には‥‥言うなよ。」
「それは内容によるわね。」
「頼むよ、涼子さん‥‥」
「いいから言いなさい。」
「(渋々)だから‥‥」
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