「おかーさん、次あれ。」
「はいはい、ちょっと待ちなさい券を買うから。」
一同の心配をよそに鳴沢母娘は如月遊園地で遊びに来ていた。
唯はご機嫌だった、朝どこかに行きたいかと聞かれ、そのまま遊園地に連れて来て
貰えて乗りたい物すべてに乗せてもらえている。アイスだってジュースだって望みの
ままだった。
だが、この観覧車に乗ってしまったら身長制限がある唯に乗れる物は無かった。
乗り込んだゴンドラがゆっくりと上りはじめる。
唯が観覧車を最後にしたのは訳があった。最高点に達したとき唯が呟く
「もっともっと高く上れればお父さん天国からつれてきちゃうのになぁ。」
だが、頂点に達したゴンドラは唯の言葉を嘲笑うかのように下りていく。
地上についたゴンドラから降りるとき唯は今にも泣きそうな顔をしていた。
美佐子は途方に暮れた。元気づける為に連れてきたのに最後の最後でつまづいてし
まったのである。これでは何をしに来たかわからない。
幸いなことにまだ2時過ぎである。気を取り直した美佐子は元気に
「それじゃあ、次はどこへ行こうか。」
と娘に訊ねる。
しかし唯の次の言葉は『デパートのおもちゃ売場か、喫茶店でパフェか』などと考
えていた美佐子の予想を超えていた。
唯は先ほどの泣きそうな顔を満面の笑みに変え、一言
「唯、龍之介くんに会いたいな。」
龍之介という名前に美佐子は瞬時に反応できなかった。
(誰だったかな。唯の友達にそんな子いたっけ?)
「龍之介くん、唯のお兄ちゃんになってくれたんだよ。」
「おにいちゃん?」
(そういえば綾瀬先輩の息子さんが龍之介くんって言ったっけ。確か唯もその子のこ
とお兄ちゃんって呼んでいた。)
「そうだよ、指切りしたもん。」
いかにも子供的な発想だなとは思ったが、何にしても唯の機嫌が戻ったのはありが
たい事だった。
「そうね、お母さんも綾瀬のおじさんに話があるから会いに行きましょう。でもその
前に電話してみるね。」
手近な電話ボックスに入り番号をプッシュする。
呼出音が1回鳴り終わる前に相手が出た。そして、
『美佐子クンか?』
こちらが名乗りを上げる前に言い当てられてしまった。
「えっ! ええ、そうですけど。綾瀬先輩?」
『そうだ。今何処にいるんだ? いや、そんな事より涼子ちゃんに電話してくれ。君
が書き置きを残して帰って来ないと思っているんだから。』
「あの・・・。」
『涼子ちゃんも良かれと思って言った事なんだから許してあげなさい。』
「許すもなにも・・・。」
『だいたい、あの2人が君を進んでつらい目に会わせるわけが・・・。』
「せんぱい!」
『な、なんだ。』
「わたしの話も聞いて下さい。」
※
1時間後喫茶『憩』のまえに立つ母娘。
「ここ・・・よね。」
喫茶店を経営してることは知っていたが中は真っ暗だ。扉を開けようとしたが開く
わけもない。
「何処から入ればいいのかしら?」
うろうろしていると後ろから
「あの、ここの宅に何かご用でしょうか。」
と声をかけられた。品のいい女性で美佐子よりやや、年上のだろうか。
「ええ、ここ綾瀬さんのお宅ですよね。」
「そうですけど・・・あの、あなたは。」
「あ、わたし先輩の後輩で・・・。」
我ながら間抜けな自己紹介だと思い言葉を切った。なんとも気まずい空気が漂う。
「何やってんの美佐子くん。あ、水野さんどうかしましたか?」
喫茶店の扉から綾瀬が顔を出すと目の前の女性が申し訳なさそうに謝る。
「ごめんなさい変なこと聞いて。」
「いえ、私の挙動も不審でしたし・・・それじゃ。」
美佐子も頭を下げる。
「あ、水野さん、龍之介の奴が伺っていたら戻ってくる様に言ってくれませんか。」
「あら、さっき友美と2人で図書館へ行くって言って出てっちゃったわ。」
「そうですか、もしそちらにまたお邪魔するようだったら戻るように言ってくれませ
んか。」
「ええ、おやすい御用ですわ。」
そう言って水野夫人は唯に向かって小さく手を振ってくれる。
相変わらず美佐子の後ろに隠れていた唯だがこのときは小さく手を振り返した。
※
水野友美(8)は怒っていた。隣に住む幼なじみと一緒に図書館へ行ったのだが、
その幼なじみは、たまたまそこに居合わせた同級生達とどこかへ行ってしまったの
だ。
「別にいいわよ、静かに本が読めたんだし。」
いつもは隣でうるさくあれこれ聞いてくるので読書どころではないのだが…。
「なによ、龍くんのばか!」
要するにほったらかしにされたのがつまらないのである。
今度会ったらなんて言ってやろうか、そんなことを考えながら家までの近道になる
空地を歩いていると、同じクラスの女の子が他のクラスの男子3人に囲まれているの
が目に入った。
「ちょっとあなた達!」
やり場の無い怒りは必然的にその男子生徒達に向けられる。だが、友美だって女の
子である。しかも「泣き虫友美」などというありがたくない愛称まで戴いてしまって
いる。たちまち男子生徒3人の矛先は友美に向けられた。
「なんだ、1組の泣き虫委員長じゃないか。」
「委員長さんに声を掛けられたたってことは俺達怒られちゃうのかな。」
あきらかにバカにされている。
「あなたたち、その子から取ったものを返しなさい。」
「取ったもの? なんだいそりゃ。」
「あなたが手に持っているそれよ。」
女の子の洋服に付いていたものだろうか、1人が2本のリボンをひらひらさせてい
る。
「取りたきゃ取れば。取れればの話だけど。」
そう言って仲間に放り投げる。それを追う友美。
「おっと、危ない。」
運動神経が悪くない友美でも3人の男子が交互に投げるリボンを捕まえることは出
来なかった。
あげくの果てに足を引っかけられ転ばされる始末である。
転んだ友美にリボンを持った男子が目の前でそれをひらひらさせる。伸ばした手に
リボンが触れるが、掴む前にリボンは友美の手をすり抜けていった。
「なんだ、泣き虫友美のくせに泣いてないじゃないか。」
(なんであなた達の前で泣かなくちゃいけないのよ。)
そう言おうとしたが息が切れて言葉が出てこない。
「ほら、もうちょっとがんばらないと、これが取れれな・・・。」
不意にその言葉が途切れる
「何をがんばるんだよ。」
友美の目に自然と涙が溢れてくる、悲しいとか悔しいとかの涙ではなく頼れる者が
現れたときの安心感からでる涙だった。自分にこれだけの安心感を与えてくれる人間
は父親の他には1人しかいない。
「りゅ、龍之介。」
上にあげた手を後ろから掴まれた男子生徒は助けを求めるように周りを見るが、他
の2人の姿は見えなかった。
「ほら、返せよ。」
龍之介の迫力に負けたのか、その男子生徒はあっさりとリボンを離すと一目散にそ
の場から走り去って行った。
「なんだよ、また泣いてるのかよ。」
ぐすぐす言っている友美を助け起こす龍之介。
「ぐすっ、龍くんが悪いんだよ。わたしをおいてっちゃうから。」
この場合龍之介は全然悪くない、友美にもそれはわかっていた。それでも
「悪かったよ。だからもう泣くなって。」
と、言ってくれる優しさが嬉しかった。
「で、このリボンどうするんだ?」
そういえば先ほどまで近くにいた女の子が今はもういない。
「龍くんが来たから逃げちゃったんだよきっと。」
「ちぇ、助けにきてやったのに何で逃げられなきゃいけないんだ。」
「普段の態度が悪いからよ。」
さっきまで泣いていたのにもうお説教を始めている。
「はぁ。もういいや帰ろうぜ。」
空き地を出て二人で並んで歩く。今は友美の方が少し背が高く、並んで歩く姿は姉
弟のようである。真後ろから西日が当たっているため正面の道路には丁度大人の背丈
ぐらいの影が出来ている。
友美は龍之介の少し後ろを歩くようにして龍之介の影よりも自分の影の背を低くし
てみせた。そしてちょっと龍之介の歩く方向へ寄ってみる。
するとその影がまるで恋人同士が寄り添って歩いているように見えた。その影に未
来の自分と龍之介を重ね合わせる。
ところが急に自分の背が大きくなり、何かが肩に当たった。
なんの事はない、龍之介が立ち止まったのだ。
「何やってんだ友美。」
「な、なんでもないわよ。」
西日だったのが幸いした。そうでなければ友美の顔が真赤になっているのがわかっ
てしまっただろう。
「そうか? また泣いているんじゃないかと思ってさ。」
「わたしそんなに泣き虫じゃないよ。」
「どーだか。さっきだって泣いてたじゃないか。」
「もう泣かないわよ。」
「絶対だな。」
「絶対よ。」
前を向き歩き出す龍之介。慌てて友美が後につづく。
「よーし、じゃ大丈夫だな。」
「何がよ。」
「もう友美が泣いてても俺は助けられないから・・・さ。」
「えっ!?」
振り返る龍之介から出た言葉が友美には信じられなかった。
「おれ、夏休みが終わったら引っ越しちゃうかも知れないんだ。」
※
美佐子と唯を喫茶室に招き入れた綾瀬は自らカウンターの中に入りコーヒーを入れ
はじめた。
「へぇー、手慣れたもんですね。」
その様子を見ていた美佐子が感心したように言う。
「まあね。休みの日にはちょくちょく手伝ってたし・・・。はいお待ちどぉ、『憩』
オリジナルブレンド。」
「いこいブレンド?」
「あれ、この店の名前知らなかったっけ。」
店の名入りのマッチを美佐子の前に出してやる。
「これ、恵さんが?」
「そう。住宅街で『憩』は変じゃないかとは言ったんだけどね。」
「そんな事ないですよ。」
コーヒーを一口飲みしばらく考え込む。
「うーん、キリマンジャロ5、ブルマン4、モカ1ですか。」
いとも簡単にブレンド率を言い当てた美佐子に綾瀬は驚いた。
「す、すごいね。」
「あら、こう見えても私コーヒーにはうるさいんですよ。」
ちょっと自慢げに胸を反らす。
「へー、うるさいのはお酒だけかと思ってた。」
茶化す綾瀬に美佐子はとぼけたように店内を見回す。
「唯ちゃんは何がいいかな。」
「いちごぱふぇ。」
ぶすっとした様に答える。龍之介に会いに来たのに当の龍之介がいないからであ
る。
「唯、あなたお腹こわすわよ。朝から冷たい物ばかり食べたり飲んだり、しかも全部
甘い物じゃない。」
「だっておにいちゃんいないんだもん、やけぐいだよ。」
そのとき、『憩』の外を球体に手足が付いたような物体が歩いているのが美佐子の
目に入った。それを指さし、
「唯、あんなになっちゃうわよ。」
と脅すとさすがにショックだったようで
「みるくてぃーにして下さい。」
と頼みなおした。
「このお店、どうするんです?」
「恵が趣味でやってただけだから閉めるのは簡単なんだけど・・・。」
カウンター内で自分のコーヒーをすすりながら答える綾瀬。
「美佐子君やらない?」
「やだ、わたしがやったらバーになっちゃいますよ。」
言った綾瀬も冗談のつもりで言い、聞かれた美佐子も冗談のつもりで聞いた。この
後2人で笑い声をあげればこの話しは終わったのだろうが、綾瀬の頭の中でこの冗談
は急激に現実味をおびてきた。
そう、昨日頭に浮かんだ考えを思いだしたのだ。
「これだっ!」
「ど、どうしたんですか?」
突然大声をあげた綾瀬に美佐子が訝しげに訊ねる。
「い、いやごめん。ところでどう? 働き口は見つかった。」
「昨日の今日ですからまだ何も・・・。今日伺ったのはそのこともあったんですけど
先輩だって昨日の今日ですものね。」
「いや、ちょうど良かったよ。実は有能な助手を探している人間がいるんだ。」
「わたしそんなに有能じゃないですよ。」
「黙って聞きなさい。その人は来月1日から南米に3ヶ月間調査に向かう。で、1度
戻っては来るがその後最低2、3年は現地にとどまる事になりそうなんだ。もちろ
ん向こうに行きっぱなしというわけではないんだけどね。で、こっちに1人助手を
置いて向こうで集めた資料をまとめてもらいたいんだそうだ。」
「そんな事・・・私に出来るかしら。」
「なに、そんな大した事じゃない。FAXなんかで送られてきた文章をワープロで清
書して項目別にファイリングする程度の事だよ。」
「そのくらいだったら何とかなりますね。」
(よしよし)綾瀬は内心ほくそ笑んだ。
「それと・・・その人つい最近事故で奥さんを亡くしてね・・・。」
「まあ!」
「で、息子が1人いるんだけど…、その子の面倒も見て欲しいと言う事なんだ。」
「先輩、それって住み込みですか? 私には唯がいるんですよ。この子すごい人見知
りで・・・。」
綾瀬はその先を言おうとする美佐子を手で制して唯に訊ねる。
「唯ちゃん、龍之介がお兄ちゃんになるって言ったんだって?」
「そうだよ、指切りもしたの。」
「そうか。龍之介も妹が出来たって喜んでたよ。」
「ほんと!」
「唯ちゃんは龍之介の事好きか?」
「うん!」
力いっぱい頷く唯。再び綾瀬は美佐子の方に向き直り、
「と、言う事なんだけど。」
ところが、美佐子の方は何故か綾瀬を睨みつけている。そして低い声で
「・・・加えて喫茶店も経営して欲しい・・・と。」
「いや、そこまでは言ってないんだけど・・・ね。」
たじろぐ綾瀬。
「1つ確認しておきたいんですけど。」
相変わらずの低い声。
「な、なにかな?」
「私に龍之介くんを預けて自分は好き勝手出来るとか思ってませんか?」
「そ、そんな事あるわけないじゃないか。」
多少そういう気持ちがあったのかどもっている。
「どうしてどもるんです?」
「どもってなんかいないよ。それよりどうなの、俺としては是非お願いしたいんだけ
ど。」
「条件があります。」
「条件?」
「半年に1回は龍之介くんに会いに戻ってくる事、それとは別に恵さんの命日と年末
年始ぐらいには帰って来て欲しいですね。」
「それだけ? 大丈夫そのくらいなら何とかなるよ・・・多分。」
後になってそれが大きな間違いだった事がわかるのだが、それはまた後の話にな
る。
「あの・・・ちなみにそれ守れなかったらどうなるの。」
美佐子の目がキラッと光る
「聞きたいんですか?」
と更に低い声で返されてしまった。
「いや、いいです。・・・それじゃ引き受けてくれるの。」
「あ、もう1つだけあります。」
「ま、まだあるの。」
「ええ。この喫茶店も私に任せてもらえませんか。」
|