〜10years Prologue〜

構想・打鍵 Zeke

 この作品はフィクションです。登場する人物、名称、土地、出来事等は実在するものではありません。
 本作は(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を設定として使用しております。 

「そんなに引っ張らないでよ、私が疲れちゃう。」
 日に一度の散歩が大のお気に入りである愛犬は彼女が中学に入学したとき、両親に
無理を言って飼ったものだった。
 体型自体は中型犬だが、その力は散歩させていると言うより「散歩させられてい
る」という形容の方が当てはまっているように見える。
 八月も半ばに入っているが昼間はまだまだ残暑がきびしい。それでも夕方5時を過
ぎるとやや涼しく感じる。特にこの川沿いの土手では。 

 昨日彼女、片桐 美鈴が所属する剣道部の最後の大会が終わった。後は高校受験に
向けて残りの中学生活を送ることになる。少し寂しいが高校に入ったらまたがんばれ
ばいい。
 そんな思いにふけっていた美鈴を現実に引き戻したのは自分に向かって吠えている
愛犬だった。
「はいはい、ホント食い意地がはってるんだから。」
 いつもこの場所でおやつをあげているので早くよこせとせがんでいるのだ。一通り
の芸(と言っても「お手」、「お座り」程度だが)をさせてエサを与える。がっつく
愛犬を横目に空を見上げると遠くの方で飛行機の飛ぶ音が聞こえてきた。別に珍しく
は無い、この時間に散歩に出れば一機や二機は見かける。
 だがその飛行機のシルエットが見えたとき、美鈴は何かが変だと感じた。
(何だろういつもと違う気がする。)
 ふと考え込むが、
「ああ、そうか。」
 いつもなら東から西へ、若しくは西から東へと飛んでいる飛行機が、南から北に向
かって飛んでいるからだ。
 更にそのシルエットが近づくに連れ、その高度がかなり低いように思えた。と言っ
ても色や、マークが分かるといった訳でもないのだが。
 しばらく美鈴はそれを目で追っていたが、
「お盆で帰省客が増えて臨時便でも出したのかしら。」
 ぐらいに考えて家路についた。勿論愛犬に引っ張られてだが・・・。
 
 
  

 その上空を飛ぶ羽田発、大阪行き『B−747』の旅客室には霧が立ちこめてい
た。
 先ほどの機内放送を信じるならば後部ドアの損傷で機内の与圧が効かなくなり、現
在機の高度を下げて気圧の変化を少なくしているとのことだった。
 だが最後部の窓際に座る 鳴沢 圭一朗 には高度を下げる理由がそれだけじゃな
い事がわかっていた。
 彼の窓から見える2機のエンジンの内1機からはドス黒いオイルが漏れていたから
だ。勿論それに気付いているのは鳴沢だけでは無かろう。
 ただ、気付いてもいたずらに事実を公表しパニックを引き起こすようなことをする
間抜けがいなかっただけだ。
「大丈夫かね?」
 隣の席に座る老人もその一人だった様で、鳴沢に小声で訪ねてきた。
 隣には小さな女の子が静かに寝息を立てている。
「ええ、」
 鳴沢はたいした事でもないという表情で続けた。
「ジャンボというのは1基や2基エンジンが止まったからと言って、営業運行に支障
は無いそうです。仮に今あのエンジンが止まってもまだ反対側に2機のエンジンがあ
りますからね。」
 老人は鳴沢の言葉を聞くと、ホッとしたように隣に座る女の子の頭を撫でた。
「お孫さんですか?」
「ああ、息子のでな。なんとかというテレビのコマーシャルに出ている。わしは反対
 だったのだがこの子自身も楽しんでいる様なのであまりきつく言えんのだ……」
 そう言う老人の顔は少し寂しそうに見えた。
 そういえば何度かそのコマーシャルを見た事がある。なかなか可愛いとは思ったが
我が娘程ではないと思えるのは親バカだろうか。
「君には子供がいるのかね?」
 訊ねる老人に鳴沢は待ってましたとばかりに内ポケットから写真を取り出し老人に
渡した。
「唯って言います。今年小学校三年だったかな。」
「ほう、7、8才という事じゃな。かわいい盛りじゃろう。」
「ええ。でもあと2、3年もすれば一緒に風呂なんか入ってくれなく・・・。」
 なるでしょうね。という言葉は前に座る乗客の
「おい、あのエンジン変だぞ。」
 という声に消された。
(やれやれ、大きな騒ぎにならなければいいけど)
 そう思った矢先だった。
「こっちもだ! オイルが漏れている。」
 反対側からの座席の声にさすがの鳴沢も背筋が凍った。
 片翼だけのエンジンの損傷なら何か別の事が考えられるが、両翼となるとオイル循
環系統に何らかの損傷があったと見るべきだろう。つまり残りのエンジンもそう遅く
ない時期に止まってしまうという事だ。 

 機内は騒然としていた。パーサーやスチュワーデスが必死になって
「落ちついて下さい。席を立たないで下さい。」
 などと言っているが、治まるはずもない。
 不意に機体が横に滑り高度がガクンと落ちた。ベルトをしていなかった客や、身体
を保持し損なったスチュワーデスがほんの一瞬宙に浮いた。そして悲鳴。
 
 
※
「4番エンジン停止。2番、3番出力上げます。」
 機関士が無味乾燥な声で報告する。
 航空機を飛ばす者、とりわけ操縦室に陣取る機長・副操縦士・機関士と言った人々
はどんな状況にあっても冷静に対処するように訓練されている。例えそれが墜落寸前
だとしてもだ。
「何が原因だと思う。」
 暴れる操縦桿を力で押さえつけながら機長が他の二人に訊ねる。
「R5(リア5番)ドアの警告灯が点いてますからね。客室内の気圧低下は説明でき
 ます。」
「ただそのドアが何処に行ったかですね。機体から外れて循環系統に何らかの損傷を
 与えたというならエンジンの不調も説明がつきます。」
「更にそのドアが尾翼にも致命的な損害を与えた・・・か、とても考えられないな、
 そんな偶然は……スマンちょっと変わってくれ。」
「アイ・ハブ・コントロール」
 副操縦士が目の前の操縦桿を握り宣言する。
「ユー・ハブ・コントロール」
 副操縦士に操縦桿を預けると機長は機関士の席を覗き込んだ。
「どうです?」
 ベテランの機関士に訪ねる。
「ご覧の通りだよ。」
 機関士は計器が見やすいように身体を横にずらした。
 油圧計の1番と4番の針は既に0になっていた。(だからエンジンを切ったのだが)
 残る2番と3番の針も赤く塗られたゾーンに入りつつあった。
「どうすればいい?」
 という言葉を機長はすんでの所で飲み込んだ。この操縦席いや、この機に乗ってい
る全ての人にとって自分は全知全能の神でなけれならない。「どうすればいい?」と
聞かれる事はあっても自分がその言葉を発してはならなかった。
 だが今の彼に出来る事といったら・・・。
 偏向気流に乗ったのか機体がわずかに振動する。
「き、機長!」
 彼が振り向き「どうした。」と声を掛けようとした時、機体が横に滑りはじめた。
「アイ・ハブ!」
 機長が操縦桿に取り付いたとき、機体がガクンと高度を落とした。懸命に姿勢を制
御するが機体の落下は止まらない。操縦室に失速警報が鳴響く。
「機関士、パワーだ。」
 だがその声はまだ冷静だった。
 両翼の残ったエンジンが回転数を上げる(恐らく油温計も上がり、油圧計は下がっ
ているだろう)。
 機長はゆっくりと操縦桿を引き機体の引き起こしにかかる。
 機体が水平に戻り始め、失速警報が鳴止んだ。機体の落下も止まってどうにかそれ
以上高度の損失を防ぐ事が出来た。今の彼らにとってエンジン内の油圧より高度の維
持の方が遥かに大事だった。  


※
 頭の上から救命胴衣やら酸素マスクがバラバラ降ってきたときは、一瞬もうダメか
と思ったが、機体が水平に戻ったならば、まだ猶予があると言う事だ。
 鳴沢は危険を承知で立ち上がり、出発ロビーで出会った人物が座っている辺りに目
を向けた。
 探すまでもなかった。向こうも立ち上がりこちらを見ていたのだ。
 従姉妹の結婚式で大阪に向かうと言っていた、高校以来の友人であり、同僚であ
り、そして親友の妻である彼女は、鳴沢に何かを訴えるような目を向けていた。
 それだけで彼は彼女が言わんとしている事がわかってしまった。彼もまた彼女と同
じ事を訴えようとしていたからだった。
 鳴沢がゆっくりと頷くと、彼女も微笑みながら頷いた、そして座席の向こうへ姿を
消した。 

「おじさん、立っていると危ないよ。」
 先ほどまで眠っていた女の子が袖を引張っている。
「ああ、そうだね。」
 笑いながら座席に腰をおろしベルトを締める。
「でも、おじさんは酷いな。これでも自分では若いつもりなんだから。せめておにー
 さんって呼んでくれないかな。」
 バックの中からノートとペンを出しながら反論する。
「うそ、だってパパと同じくらいに見えるもの。」
「これ可憐、失礼ですよ。」
 先ほどの老人が窘めると女の子は素直(?)に
「ゴメンね、おじさん」
 と謝ってくれた。
 苦笑しながらノートにペンを走らす。


  鳴沢 美佐子 様 

   すまない、恐らく僕は駄目だろう。
   その時は、お義父さんの許しを得て家に帰りなさい。
   もし、唯を拒絶されたら涼子と哲也君に預けなさい。
   涼子にもそう言っておく。
  

 涼子は妹、哲也と言うのは涼子の夫の事だ。2人の間にまだ子供はいないので何と
かしてくれるはずだった。 

  木原 哲也・涼子 様 

   兄である僕の最後の頼みだ。
   多少強引でもいいから、美佐子を実家に帰してくれ。
   恐らく娘は、唯は拒絶されるだろう。
   その時は二人であいつが自立出来るまで見守ってやってくれ。
   僕の最後の頼みだ。
  

 鳴沢の母は6年前、父は3年前に他界していた。それでも二人とも孫の顔を見る事
が出来たし、父は娘の花嫁姿まで見る事が出来た。
 自分は孫はおろか娘の花嫁姿すら見る事が出来ない。それが妙に悲しかった。 

 今の2枚をノートから引きちぎり、四つ折りにして表に読ませる相手の名を、裏に
は自分の名を書き入れ、背広のポケットに仕舞う。
 再びノートを開き 

  綾瀬 浩史 様 

 と彼の無二の親友である男の名前を書き込み、そして10分以上を費やして他の2
通とは比べものにならない程多くの事を書き込んだ。 

 それを書き終えると残された時間はもう無い様だった。機体は絶えず振動してお
り、窓からは地表が見える。くるべき時が来たようだ。
 隣の席にいる自分の娘と年齢的にたいして違わない女の子が、祖父の手を握り震え
ていた。それを見てこの娘を何とか助けたいと思った。
 娘の幸せを見ずに旅立つ自分に出来る罪滅ぼしのように感じていた。
 先ほど頭の上から降ってきた救命胴衣を拾い上げ胸の辺りに付いているヒモを引張
る。
「バシュッ!」という音と共に救命胴衣が膨らむ。何とかクッションになりそうだっ
た。
 それを女の子とシートの間に詰込む。彼女の祖父もそれを見て自分の救命胴衣を同
じ要領で反対側の隙間に詰込む。
 海の上に落ちるならともかく、今の状況ではこれぐらいしか使い途がない。
 最後の救命胴衣を彼女の頭の上からかぶせるといよいよ最期の時が来た。それと分
かるくらい高度が落ちる。
 鳴沢は可憐を護る様に覆いかぶさる。老人はそんな彼の心情を察したのか何も言わ
なかった。
 自分の力ではどうにもならない運命
(だが生きる望みだけはすてまい。)四肢に力を込めて最期の瞬間を待つ。
「唯。」呟いた鳴沢に「お父さん。」と聞こえたのは幻聴なのか可憐の声なのかわか
らなかった。
 前方から何かが迫ってくる。・・・そして烈しい衝撃。


※
「プルアップ・・プルアップ・・。」
 電子の声が警告する。
「機首を上げて下さい!」
 副操縦士の要求は、悲鳴に近かった。
「機関士!」
 機長の声にも最早冷静さは無い。
「3番アウト。機長、諦めるな!」
 ベテランで最年長でもある機関士の声だけが平静を保っていた。
「クソ、500人からの乗客が乗っているんだぞ、せめてあの尾根を越えられんか?
 斜面に沿って胴着出来るかもしれん。」
 それが不可能な事は操縦室にいた他の二人は勿論、言った本人も解りきっていた。
 ただ言わずにはいられない状況がすぐそこまで迫っていた。もうその山が操縦席の
窓いっぱいに広がっていた。
「機関士! もっとパワーをくれ、パワー! パワ――――――!」 

 機長のその絶叫が羽田発大阪行き『B−747』のボイスレコーダーに残された最
後の言葉だった。
 524人の乗員乗客のうち、生存者はわずか4名。日本航空史最悪の事故だった。


※
 空港ロビーは、ごった返していた。ダイヤが大幅に乱れた為足止めをくった通常の
乗客、被害者の家族、そしてその家族に何の遠慮もなくカメラやマイクを突きつける
無礼な報道陣。
 お盆の時期だったため空港ロビーはパンク寸前の様だった。 

「美佐子くん。」
 不意に傍らの親父が声を上げた。雑踏の中でもその声は当人に届いたようで「美佐
子」と呼ばれたその女性はこちらを振り向き、ほんの一瞬顔をくもらせたがすぐにホッ
としたような表情になりこちらに歩いてきた。
 手には俺と同い年くらいの女の子をひいていた。
 彼女の顔は憔悴しきっており何故ここにいるか一目で解った。
「綾瀬先輩、何でここに・・・。」
「それは俺のせりふ。誰なんだ? まさか!」
 親父の顔色が瞬時に変わった。
「あ、あたしがチケット取ったんです。こんな事になるなんて。」
「君のせいじゃない! それにまだそうと決まった訳じゃない!」
 子供の俺にしてもそれが単なる気休めでしかない事がわかった。
「先輩は。」
「ああ、女房がね。あ、こいつ俺の子。龍之介ごあいさつなさい。」
 俺の事をこづくので
「こんばんは、綾瀬 龍之介です!」
 とあいさつすると、彼女は俺に向かって
「こんにちは、鳴沢 美佐子よ。」
 微笑み掛けてきた。
 鳴沢、鳴沢のおじさん。月に一度は家にきて親父と一晩飲み明かし、俺を抱え上げ
ては「俺も男の子が欲しかった。」と言う親父の無二の親友。
 親父の顔色が変わるわけだ。
「この子はねぇ」
 と自分の影にかくれていた女の子を俺の目の前に出し、
「唯、ごあいさつは」
 と肩をたたく。女の子はおずおずといった風に
「鳴沢唯です。」
 そう言って、彼女は右手を差し出してきた。

 それが、俺と唯の初めての出会いだった。

 


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