今まで生きてきた中で、今日ほど自分を誇らしく思ったことはない!!
「やったじゃない、新! まさかあんたが就職できるなんて、母さん夢にも思ってなかったわよ!!」
俺宛てに親展で届いた封書を(まるで妖怪のように)気配を消して俺の背後から一緒に見ていたおふくろは、そこに書かれていた『採用』の文字に嬌声を発し、突如電話に飛びついた。
俺が「誰に電話すんの?」と聞く前に相手は出たらしく、おふくろは息急き切って話し出す。
「あっ、パパ? 新やったわよ!! そうなの、採用ですって!! 信じらんないわよね、新のどこが良かったのかしら!! 唯一まともな顔かしら!?」
だって他はからっきしじゃない? と、身も蓋もないことを嬉しそうに話し続ける。……まったくいつものことながら、息子のことをよくもそんなにこきおろせるな。
ま、確かに今回のことは、俺にとっても【予想外の出来事】だったけどさ。
「パパ、今日はまっすぐ帰ってきてね! お赤飯炊いて待ってるから!!」
それじゃあと弾んだ声で電話を切ると、「お財布、お財布」と慌ただしく部屋を出ていく。自分のことは『父さん』『母さん』と言うくせに、お互いのことは『パパ』『ママ』と呼び合う万年新婚夫婦は、俺の就職にかこつけてただ「お祝い」がしたかっただけに違いない。
「……ふぅ」
騒がしいのがいなくなり、ようやく静かになった部屋で、改めて持っていた通知に目を通した。何度見直してもちゃんと採用と書いてある。──だけど実感も感慨も湧かないのは、先におふくろに騒がれてしまったからかもしれない。
「俺が社会人かー」
就職難と言われている昨今、俺の就職活動もかなり苦しいものだった。一年前から何十社と受けてきていまだに決まってない奴もざらだし、俺も目に付いた所はほとんど手当たり次第にトライしていたようなもんだった。
今回採用通知が来た会社は大手企業に入る所で、ダメもとで受けたようなもんだったから、まさか受かるとは思ってなかった。……実は、試験受けたことも半分忘れてたんだけど。
(……もしかして、本当に顔で選ばれた……とか?)
俺の親父は若い頃男性誌のモデルをしていたことがあるらしく、年をとった今でもそれなりに整った顔をしている。「男は見た目重視」のおふくろも『若いときはモテたのよー』と本人が自慢する程度にはかわいかったらしいし(過去型で言うと怒鳴られそうだな)、その可能性はないとは言い切れない、のかもしれない。
でも、そんなことってあるんだろうか……。もしそうだとしたら、俺は会社に何を求められてるんだろうか……。
この採用通知にどこが採用ポイントだったのか書いてあったらなーなんて考えてると、小走りの足音が近づいてきて、エプロンを外したおふくろがひょっこり顔を出した。
「新、あんたスーツ買ってきなさい!! リクルートスーツ!!」
「……スーツ?」
「ちゃんとしたの持ってなかったでしょ? 就職活動もパパの昔のスーツ使ってたし、これからはちゃんと自分のスーツも持っておかなくちゃ」
「そりゃそうだけど──」
「身だしなみは大切よ! 顔で採用されたなら格好もそれなりにしておかなくちゃ!」
おふくろは、俺は見た目で採用されたのだと断定したらしい。持ってたカバンの中から財布を取り出し、クレジットカードを俺に手渡すと、
「店員さんに、ばっちり男前に見えるスーツ選んでもらいなさいよ!」
そう言い残し、さっさと夕飯の買い出しに行ってしまった。……今おふくろの頭の中は、今夜のお祝いパーティーのことでいっぱいなんだろう。
「昼飯も食ってねーのに、もう夕飯の買い物かよ……」
時計はまだ午前十時を回ったところだ。俺はさっき起きたばっかで(おふくろに『郵便だ』と叩き起こされた)着替えもしてないし、頭もぼさぼさのまま。もちろん何も食ってない。
今日は講義も補習もないから、家でごろごろしてようと思ったのに……。
めんどくさいなー行きたくないなーと、なんとか簡単に用事を済ませられないかと考える。行動力のないこの性格は、いったい誰に似たんだろう……。
「店員に見立ててもらえば、そんなに時間かかんないか?」
普段着みたいにたくさん種類があるわけじゃないし、俺に合ったものを探すのもその道のプロにまかせておけば問題ないだろう。
「ってわけで、でかけるのは午後からでいいよな」
ソファに横になったとたん眠気が襲ってきて、俺はそのまま誘惑に負けてしまったんだった。
だけど、プロにまかせっきりにした結果あんなことになるなんて……そのときの俺は予想もしてなかったんだ(あんなこと、予想できるわけがない!!)。
二度寝の真っ最中に買い物から帰ってきたおふくろは、「こんなところでなにしてるの!?」とまたしても俺を叩き起こし、マッハで外出の支度をさせると有無を言わせず外へ放り出した。
「夕飯まで帰ってこなくていいから、ゆっくり選んでらっしゃい!!」
そんな非情な言葉と共に家から締め出されて、仕方なく紳士服専門店へ向かうことにする。おいおい、まだ十二時半だぞ!? 今から夕飯までって……時間ありすぎ。
ジーンズのポケットに手を突っ込んでぶらぶら歩きながら、どこの店に行こうか考える。
スーツといえば、成人式用のものをおふくろと一緒に買いに行ったことしかない。そのときも俺はほとんどどうでもよくて、おふくろの選んだ店に行きスーツもおふくろに選ばせたんだった。
「あのときと同じ店でいいか……」
確か家からも近かったし、店員の対応も良かった気がする。
気に入らなかったら他の店に行けばいいんだし、とりあえずはその店へと向かった。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
一歩足を踏み入れた瞬間、異空間に来てしまったような感じがした。
平日の、しかも昼時に来たのがまずかったのか、広いフロアに人はまばらにしかいない。そのほとんどは店員で、品物を選んでいる客は数人だけ。
(ど……どこから見ればいいんだっっ?)
フロアの大半を占めている灰色の山にくらくらしつつ、とりあえず『祝・新社会人』のボードが天井から下げられている場所に移動する。店員は俺の動きを見てるようだったが、しばらくは様子を見守ることになってるのか、誰も動こうとしない。とっとと声をかけてきてくれていいのに!
俺はきょろきょろとあたりを見回しながらボードの真下にくると、そこに並んでいたスーツに目を走らせた。
(これが、そうなのか……?)
店内の中央にあった若者向けリクルートスーツは、俺には他のものと何がどう違うのかさっぱりわからなかった。手にとって身体に当てるのもはばかられ、肩口あたりを撫でるくらいしかできない。
やっぱり自分で選ぶなんてできないと思い、ここは手っ取り早く店員を呼んでしまおうと、スーツに落としていた視線を上げる。すると、ちょうど俺の視線の正面にいた一人の店員とばっちり目が合ってしまった。
まだ若そうな……でも、落ち着いた雰囲気の男の人。身体格はけっこうがっちりめで、黒に近いグレーのスーツがすごくよく似合っている。
一瞬客かと思ったけど、胸ポケットにネームプレートがついていて、店員なんだと確認した。こんなところで働いてるのがもったいないくらいのいい男だ。
彼はしばらくじっと俺のほうを見ていたが、俺が助けを求めていることに気づいてくれたのか、素早くこっちに向かって歩いて来た。かつかつと鳴る靴の音が近づいてくるにつれ、俺の心臓はなぜかどきんどきんと高鳴る。──彼の目が、まだ俺の目を見ているせいかもしれない。
やがて俺の横に立ったその人は、
「何かお捜しですか?」
顔にふわっと笑みを浮かべて俺を見下ろした。ずいぶん背が高い人だ。身長一七二の俺と、二十センチくらいは差がありそうだ。うらやましい……。
「あの、スーツが欲しいんですけど……」
その人の笑顔になんだかこっちが恥ずかしくなってきて、思わず俯いてしまった俺。この人にまともに口説かれたら、落ちない女はいないだろうな(って、なに考えてんだよ、俺!?)。
「リクルートスーツですか?」
「あ、はい。就職が決まったんで……」
「そうですか、それはおめでとうございます。何かご希望の商品はありますか?」
「いや、スーツのことって全然わかんなくて……できたら一緒に選んでもらいたいんですけど」
言って、はっとした。『一緒に選んでくれ』なんて、なれなれしかったか!?
あせって言い直そうとした俺に、頭の上からくすっと笑う声がした。おそるおそる顔を上げると、そこにあったのはどきっとするほど優しい笑顔で。
「私の見立てでよろしければ」
囁くような低い声に、俺の顔はなぜかどんどん赤くなっていったのだった。
「スーツを選ぶ時に大切なことは、生地と縫製といわれているんです」
「ほうせい?」
聞き慣れない言葉に思わず聞き返してしまう俺。二十七歳にして店の副店長だというその人(滝澤さんというらしい)は、俺の素朴な疑問にも丁寧に答えてくれた。
「縫製というのは生地と生地を縫い合わせることですね。ここが綺麗にできていないと、仕上がったときの見た目が悪くなるんです」
「そうなんですかー」
「それから肌触りも重要です。生地に使っている糸が細ければ細いほど滑らかな仕上がりになりますから、皺にもなりにくいんです。リクルートスーツは毎日着るものですし、皺になりにくいものを選んだほうがいいでしょう。お値段のほうは少々高めになってしまいますけれど」
いつもだったらそう言われても安いものを選んだだろうけど、今日の俺は滝澤さんの勧めてくれたものを買うつもりだった。スーツ代は就職祝いってことでおやじとおふくろが払ってくれるだろう。
「若い人に人気のデザインは、こういったものですね」
そういって滝澤さんが見せてくれたのは、三つボタンの少しウエストが締まった感じのスーツだった(シングルって言われてるやつだ)。形は俺が成人式で着たのに似てる。
「こちらは当店オリジナルのリクルートスーツなんですが、お客様の意見を参考に作成させていただきましたので、実用的だと喜んでくださる方が多いです」
近くに置いてあった鏡を俺の前に移動させてきて、持っていたスーツを俺の身体に当ててくれる。背後に回りこんだ滝澤さんの気配に、また胸が高鳴ってしまった。
香水かなにかをつけているのか、甘い匂いが鼻をくすぐる。大人の男って、こんな人のことを言うのかな……。
「スーツに慣れない方にも違和感なく着ていただけるように、普段着に近い仕上がりを目指して作られているんです。生地も柔らかいですし、着ていて窮屈になることはほとんどないと思います。
一之瀬様にもきっとお似合いですよ」
そう言って、滝澤さんは空いている方の手で突然俺の手を掴んできた。俺の手の上に自分の手を置いたまま、スーツの胸のあたりにゆっくりと手を動かす。
でもそれって、スーツを当てた俺の胸を撫でてるってことで……直接胸を触ってるのはもちろん自分の手なのに、なんだかすごく妙な気分になってしまった。
「柔らかいでしょう? ほら、ね」
「あ、あああ、そうですねっ」
暖かい手が、ゆっくり力を込めて俺の手を握ってくる。思わず滝澤さんの方を見ると、彼は口元に意味深な笑みを浮かべていた。
(こっ、これは、なんだっ!?)
「たっ、滝澤さん……?」
うわずった声を出してしまった俺に、滝澤さんはすっと手を離し、
「よろしかったら試着してみませんか? 実際に着たほうがわかりやすいですから」
一之瀬様に合ったものをお出しますね、とスーツを選びにかかった。
何事もなかったかのようなその様子に、さっきの行動に他意はなかったんだと、必死に自分を落ち着かせた。
大人の男は奥が深すぎて、何を考えてるのかわからない!!
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